奥山融
奥山 融(おくやま とおる、1924年1月21日 - 2009年11月7日)は、日本の実業家、映画プロデューサー。元松竹社長。創業家である白井家、大谷家以外からは永山武臣以来2人目の社長であった。その際、奥山は映画、永山は演劇と、完全に役割分担され、社内は事実上の分社のような状態であったと言われる。父は元松竹専務の奥山市三、次男は元松竹専務、チームオクヤマ代表の奥山和由[1]。
目次
1 経歴
2 主な作品
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
経歴
京都市出身。京都府立京都第一中学校、第五高等学校を経て、1947年京都帝国大学法学部政治学科卒業。同年大和証券入社。1951年松竹入社。主に映画興行部門、国際部門を歩き、1955年プロデューサー、国際部長を経て1968年取締役、1971年常務、1974年専務、1978年副社長。1986年、松竹大船撮影所50周年を期して「ニュー大船調」を打ち出す。1991年社長に就任。黒澤明監督『八月の狂詩曲』などを手掛けたほか、創業100周年記念として「鎌倉シネマワールド」をオープンさせた。また、シネマコンプレックスの展開、映画ファンドの設立、CS放送への参入など映像部門で積極的な事業拡大を図った。
1998年1月、業績不振を理由に社長を解任され、専務で次男の和由ともども松竹から“追放”される[2]。
「奥山和由#解任騒動」を参照
その後、CS放送の新チャンネルを開局する準備を始め、健康・医療専門の「ヘルスネットチャンネル」として認可も受けたが断念。インターネットに転じて、中高年向け情報サイト「ベストライフ」を運営する。最晩年は心筋梗塞で倒れ、その病床で半生記を執筆し、映画業界への提言をまとめていたという。遺書によってその死はしばらく伏せられていた。
主な作品
- 『抱いて頂戴』(1961年)製作
- 『上海バンスキング』(1984年)製作総指揮
- 『キネマの天地』(1986年)製作総指揮
- 『ヴイナス戦記』(1989年)製作
- 『利休』(1989年)製作総指揮
- 『死の棘』(1990年)製作総指揮
- 『八月の狂詩曲』(1991年)ゼネラルプロデューサー
- 『小津と語る Talking With Ozu』(1993年)製作総指揮
脚注
^ 萩原和也 (2009年11月30日). “奥山元松竹社長の“遺言”息子・和由氏が思い代弁”. zakzak by 夕刊フジ (産経新聞社): 映画・音楽. http://www.zakzak.co.jp/entertainment/movie_music/news/20091130/mov0911301614003-n2.htm 2014年9月18日閲覧。
^ “奥山融氏死去 元松竹社長”. 共同通信. (2009年11月27日). http://www.47news.jp/CN/200911/CN2009112701000281.html 2014年11月7日閲覧。
参考文献
- 『松竹百年史』(1996年)
関連項目
- 松竹
- 奥山和由
- 城戸四郎
外部リンク
奥山融 - 文化庁日本映画情報システム