櫛橋伊定
凡例 櫛橋伊定 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 大永2年(1522年) |
死没 | 天正元年7月3日(1573年8月10日) |
別名 | 則伊、通称:左京亮、豊後守 |
戒名 | 橋翁性渓大居士 |
墓所 | 観音寺(兵庫県加古川市) |
氏族 | 櫛橋氏 |
父母 | 父:櫛橋伊家 |
子 | 政伊、妙寿尼(上月景貞室)、光(黒田孝高室)、左内、右馬助、正俊、井上之房室 |
櫛橋 伊定(くしはし これさだ)は、戦国時代の武将。播磨国志方城主。
目次
1 生涯
2 子孫
3 脚注
4 関連作品
生涯
名は『寛政重修諸家譜』に、黒田孝高室の父「櫛橋豊後守伊定」と記載されており、また櫛橋家[1]に伝わる諸資料でも同様の記載がある。一方で『黒田家譜』などの他史料では名を則伊[2]とするものも多く、この時期の櫛橋氏当主の事績には混乱が見られる。
天文10年(1541年)、父・櫛橋伊家が死去したのを受けて櫛橋家の家督を継ぐ。しかし、伊定はまだ若年であったため、初めは家臣の好田大炊助が執権となったという[3]。
同時代史料に「櫛橋伊定」という武将の活動は見られず、代わりに櫛橋政朝(まさとも)の名が登場する。政朝は「豊後守」「豊後入道喜伴」[4]を名乗っており、播磨守護赤松氏の家臣であった事はわかっているが、この政朝と伊定の関係性は不明。また赤松氏の系図に櫛橋伊則という人物もいるが、これは義理の縁戚に当たる人物であり[3]、伊定とは別人である[5]。
居城の志方城は当時東播磨に勢力を持った別所氏の勢力圏内にあって、1万石余りを領していた[6]が、一方で西播磨の有力者・小寺氏とも縁戚関係を結んでおり、娘の一人・光は、同国姫路城主でかつ同国御着城主・小寺政職の重臣だった小寺孝隆(のちの黒田孝高)の妻となっている。観音寺の墓碑によると伊定は天正元年(1573年)に没したとされる。
なお志方城は天正6年(1578年)に侵攻してきた織田軍と交戦して落城しているが、落城時の城主が誰であったかについては諸説あり、伊定とも伊定の子・政伊であったともいう。またその末路にも複数説が存在し、降伏して助命された、密かに遁走した、戦死・自害した、子と袂を分かって織田方についていたと文献によって一定しない。
子孫
いずれも櫛橋家に伝わる「櫛橋家系図」による。
- 櫛橋政伊
- 長男。詳細は当該項目を参照。
上月景高室- 長女。詳細は妙寿尼を参照。
黒田孝高室- 次女。詳細は櫛橋光を参照。
- 櫛橋左内(くしはし さない)
- 次男。初名は三郎四郎。志方落城後は時期不明ながら黒田長政に仕官する。文禄・慶長の役に従軍し、朝鮮で戦死した。子孫は岡本氏を名乗ったとされる。
- 櫛橋右馬助(くしはし うまのすけ)
- 三男。初名は三十郎。兄と同じく黒田氏に仕える。黒田氏の豊前国人一揆鎮圧に従軍するも、城井谷の戦いで討死した。
- 櫛橋中務(くしはし なかつかさ)
- 四男。幼名は徳松。「櫛橋之記」によると法名を宗雪。姉・光の招聘で筑前国の黒田長政に仕えた。子は嫡子・政次ほか2名がいたがいずれも福岡藩士になった。寛永2年3月3日(1625年4月9日)に65歳で没。
脚注
^ 伊定の孫である櫛橋定重の子孫によるもの。家系図と肖像画賛がある。
^ 伊定の祖父も名を櫛橋則伊といい、錯綜の可能性もある。
- ^ ab山下道雄「播磨の豪族 櫛橋氏」(『神戸と歴史』第23巻第3号)
^ 「豊後守」の受領名は伊定も称したとされるが、政朝との関係は不明。
^ ただし『印南郡誌』では伊則と、伊定の別名である則伊が同一人物ではないかとしている。
^ 『印南郡誌』による。
関連作品
軍師官兵衛(2014年、演:益岡徹)