リージョン (駆逐艦・2代)
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艦歴 | |
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発注 |
1938年3月31日 |
起工 |
1938年11月1日 |
進水 |
1939年11月26日 |
就役 |
1940年12月19日 |
退役 |
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その後 |
1942年3月26日に戦没 |
除籍 |
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性能諸元 | |
排水量 |
1,920トン |
全長 |
362.5 ft (110.5 m) |
全幅 |
36.7 ft (11.2 m) |
吃水 |
10 ft (3.0 m) |
機関 |
ギアード・タービン、ボイラー2基、2軸推進、48000 shp (35.8 MW) |
最大速 |
36ノット(66.7 km/h) |
乗員 |
221名 |
兵装 |
リージョン (HMS Legion, G74) はイギリス海軍の駆逐艦。L級。
目次
1 艦歴
2 関連項目
3 脚注
4 参考文献
艦歴
1938年3月31日発注。1938年11月1日起工[1]。1939年11月26日進水[1]。1940年12月19日竣工[1]。試験中多くの欠陥が明らかとなり、1941年1月まで修理に費やされた。
修理完了後、リージョンはグリーノックでウエスタンアプローチ管区に配属され第11護衛グループ (11th Escort Group) に加わり、船団護衛などに従事した。2月、リージョンはノースウェスタンアプローチを通過する軍用船団を護衛。3月1日、リージョンはロフォーテン諸島に対するコマンド部隊による襲撃(クレイモア作戦)の支援で出撃。それらの任務を無事完了した後、リージョンは第14護衛グループ (14th Escort Group) に加わった。4月13日、リージョンと駆逐艦ピオルンは、アイスランド南方沖でドイツ潜水艦U-108に撃沈された武装商船ラージプタナの生存者177名を救助した[2]。4月の残りの期間は船団護衛で費やされた。
5月、リージョンはドイツ戦艦ビスマルク捜索に当たる本国艦隊の主力艦を護衛した。だが、給油のためアイスランドへ向かったためビスマルク沈没に場には立ち会わなかった。このあと、リージョンはまた船団護衛任務に戻った。
6月22日、リージョンと同型艦のランスの二隻がマルタへの航空機輸送作戦に参加する空母フューリアスをジブラルタルまで護衛した。6月26日、ジブラルタルからマルタへの航空機輸送作戦で空母アーク・ロイヤルや巡洋戦艦レナウン、軽巡洋艦ハーマイオニーの護衛を務める。7月、リージョンはグリーノックに戻りウェスタンアプローチでの船団護衛任務を再開した。8月27日、リージョンはOG71船団の護衛部隊への造援として派遣された。イギリスへ向かう途中であった船団はドイツ潜水艦U-559、U-201、U-564の攻撃を受けていたが、護衛部隊は襲撃者を追い払うことに成功し、船団は8月25日にリヴァプールに到着した。
9月になるとジブラルタルへ移動し、マルタへの航空機輸送に従事する艦艇の護衛を務めた。9月24日、リージョンはハルバード作戦で船団の護衛を行った。作戦を終えジブラルタルへの帰投途中でリージョンと駆逐艦グルカはイタリアの潜水艦アデュア (Adua) を沈めた。10月もマルタへの船団の護衛を行った。10月23日、リージョンなどがHG75船団護衛中に護衛の駆逐艦の1隻コサックがドイツ潜水艦の雷撃を受け損傷した。リージョンなどが救援に向かったがその際リージョンは自由フランスのスループCommandant Dubocを潜水艦と誤認して攻撃した[3]。だが、幸いにもCommandant Dubocに被害は無かった[4]。
11月、リージョンは第4駆逐群に配属されマルタへの船団を護衛した。11月13日にリージョンはドイツ潜水艦U-205の攻撃を受け、反撃を行ったが不成功に終わった。一方で空母アーク・ロイヤルが被雷し、リージョンと駆逐艦ライトニングがその乗員1560人を救助した。アーク・ロイヤルが沈没すると、11月24日にリージョンはジブラルタルに戻った。
1941年12月11日、リージョンは地中海艦隊に加わるため駆逐艦シーク、マオリ、イサーク・スウェールズとともにジブラルタルを出港した[5]。この4隻は12月13日に、北アフリカへの物資輸送中であったイタリアの軽巡洋艦アルベルコ・ダ・バルビアーノとアルベルト・ディ・ジュッサーノを攻撃し撃沈した(ボン岬沖海戦)。この海戦でリージョンはアルベルコ・ダ・バルビアーノとアルベルト・ディ・ジュッサーノに1本ずつ魚雷を命中させた[6]。海戦後、4隻の駆逐艦はマルタへ向かった[7]。
ボン岬海戦後、リージョンはK部隊とともに地中海中央部で枢軸国船団の攻撃にあたり、第1次シルテ湾海戦に発展することになる12月17日の戦闘では空襲を受けた。12月19日にはリージョンはC部隊とともにアレクサンドリアへ移った。それらがアレクサンドリアに入港する為防潜網が開けられた際にイタリアの人間魚雷が港内に侵入し、戦艦ヴァリアントとクイーン・エリザベスを撃破した(アレクサンドリア港攻撃)。12月28日、リージョンと駆逐艦キプリングはメルサ・マトルーフ (Mersa Matruh) 沖でドイツの潜水艦U-75を沈めた。
リージョンは1942年1月中も船団護衛を続け、1月17日にはバルディア北方でドイツの潜水艦U-133の魚雷攻撃を受けた。リージョンは攻撃を回避したが、駆逐艦グルカが沈没した。1月27日から2月中旬までマルタでアスディックの修理を受け、それから第22駆逐群に転属となった。引き続き船団護衛に従事し、第2次シルテ湾海戦にも参加した。
3月23日、リージョンは駆逐艦エリッジと合流しクラン・キャンベルSS Clan Campbellを護衛した。この作戦中に空襲を受けて至近弾により損傷したが、マルタにたどり着きそこに座礁した。3月25日にリージョンはドックへ曳航された。だが、修理中に爆撃を受け沈没した。
関連項目
- 不沈のサム
- イギリス海軍艦艇一覧
- 第二次世界大戦中のイギリス海軍の喪失艦一覧
脚注
- ^ abcFighting Flotilla, p.222
^ Fighting Flotilla, p.110
^ Friend or Foe, p.28
^ Friend or Foe, p.29
^ The Royal Navy and the Mediterranean, Volume II:November 1940-December 1941, p.216
^ Struggle for the Middle Sea, p.153
^ The Royal Navy and the Mediterranean, Volume II:November 1940-December 1941, p.218
参考文献
- Peter C. Smith, Fighting Flotilla: RN Laforey Class Destroyers in WW2, Pen & Sword, 2010, ISBN 978-1-84884-273-1
The Royal Navy and the Mediterranean, Volume II:November 1940-December 1941, Frank Cass Publishers, 2002, ISBN 0-7146-5205-9
- Vincent P. O'Hara, Struggle for the Middle Sea, Naval Institute Press, 2009, ISBN 978-1-59114-648-3
- Paul Kemp, Friend or Foe: Friendly Fire at Sea 1939-1945, Leo Cooper, 1995, ISBN 0-85052-385-0
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