靖難の変










靖難の変の地図


靖難の変(せいなんのへん)は、明王朝初期の政変、内乱。1399年7月にはじまり、華北を舞台に1402年まで続く。「靖難」とは、「君難を靖んじる」という意味で、乱を起こした燕王朱棣(永楽帝)が挙兵する際に掲げた主張に基づく。



経過


明では、初代皇帝洪武帝の晩年に王朝創建の功労者に対する粛清が行われ、自らの男子を各地の王(諸侯王)に封じ、「皇明祖訓」を制定して統制する。初期の明は長江以南の南京を都とした政権で、北方のモンゴルに対する備えとして燕王朱棣(のちの永楽帝)らが封じられ、科挙においても北方出身者を多く登用した。


1392年、皇太子の朱標が病死し、朱標の次男である朱允炆(建文帝)が皇太孫に指名される。1398年5月に洪武帝が死去すると、朱允炆は16歳で即位する。建文帝にとって、叔父に当たる朱棣ら諸王は警戒の対象であった。即位後の建文帝は、権力強化のために側近の斉泰や黄子澄の進言を容れて、大々的な削藩政策を強行し、5人の王を廃絶した。朱棣に対しては燕王府の軍の解体を命じるなどの挑発を行い、朱棣は服従の意思を示すが、建文帝は王位を剥奪するための罪状作りの情報を集め、朱棣は包囲される。


1399年7月、朱棣は軍師の姚広孝の進言を容れ、北平(現在の北京)において挙兵した。朱棣は「皇明祖訓」に基づき、建文帝の側近である斉泰と黄子澄の両名を「君側の奸」として討伐することを大義名分にしている。皇帝側は50万の大軍を擁し、はじめは優勢であったが敗退を重ね、斉秦は敗戦の咎により司令官を解任される。李景隆は燕軍に降伏、方孝孺が指揮する軍も大敗を喫し、1402年6月には南京が陥落した。建文帝は宮殿に火を放って自害したとされるが、遺体は発見されなかった。その後、建文帝は南京落城の混乱の中で僧侶に変装し、雲南に逃亡した、とする生存説が流れることになった。


朱棣は南京において皇帝に即位した。簒奪者として即位した永楽帝は、斉泰や黄子澄、服従を拒否した方孝孺らとその一族を処刑し、「建文」の年号は廃して洪武に編入(これは後世になって撤回される)し、洪武帝を継ぐ二世皇帝と称した。1421年には北平へ遷都し、対外遠征や朝貢体制の確立に努めた。


永楽帝の死後にも北京が首都として保たれたが、首都を南京へ戻すべきであるとする議論もあり、南北の関係には後にも影響した。



評価


兵力、物量のいずれにおいても燕王軍を凌いでいた明軍が燕軍に敗れ、永楽帝のクーデターが成功した理由として、皇帝側には洪武帝時代のたび重なる粛清で有能な将軍が少なかったためと言われる。燕王側は北方のモンゴルに対する防備に従事していた精鋭軍で、軍師の姚広孝、丘福・朱能・張玉や、永楽帝の次男の朱高煦といった有能な武将や参謀と評価される人材が揃っていた。これに対し、建文帝には側近の斉泰や黄子澄のほか、李景隆(李文忠の子)や方孝孺といった文官しかいなかった。また、建文帝の温和な性格や永楽帝の軍事的資質も指摘される。







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