李景隆
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李 景隆(り けいりゅう、生没年不詳)は、明初の官僚・将軍。
洪武帝に仕えた李文忠の長男として生まれる。李文忠は洪武帝の甥であったが、多くの武功を挙げたため洪武帝に危険視され、1384年(洪武17年)の粛清に際し自殺させられた。李景隆は父の死後、その爵位を相続して洪武帝に仕官している。
1398年(洪武31年)に洪武帝が崩御、皇太孫の朱允炆が建文帝として即位する。しかし各地に藩王として封じられていた一族の粛清に着手した建文帝に対して、朱棣が靖難の変と称される反乱を起した。このとき名将との評価が高かった父を持つ李景隆が黄子澄や斉泰らの推挙を受けて大将軍に任命され、建文帝軍の総司令官として朱棣軍に対抗することとなった。
皇帝軍は物量と兵力でこそ朱棣軍を上回っていたが、李景隆の軍事的才能は凡庸なものであり、北元との戦闘経験が豊かな朱棣軍に対抗できずしばしば敗戦し、兵器の使用方法が分からないため兵器を遺棄したために敗戦したという記録が残されている。このため李景隆を推挙した黄子澄や斉泰からも大将軍罷免の要求が出され、建文帝によって罷免された。しかし皇帝の近親であったため、建文帝の命を受けて朱棣との講和交渉を担当している。この講和交渉は失敗して、1402年(建文4年)に南京は陥落した。
朱棣が即位して永楽帝となると、皇帝の近親であったことより死一等は減じられた。しかし政治舞台からは失脚し、死後には全ての官位と爵位が剥奪された。