選子内親王
選子内親王(せんし(のぶこ)ないしんのう、応和4年4月24日(964年6月6日) - 長元8年6月22日(1035年7月29日))は、第62代村上天皇の第10皇女。母は中宮・藤原安子(藤原師輔の娘)。号大斎院(おおさいいん、またはだいさいいん)。同母兄弟に冷泉天皇・円融天皇・為平親王。
生後僅か5日で、母后・安子が産褥死。天延2年11月11日、清涼殿にて着裳。天延3年(975年)6月25日、斎院・尊子内親王(冷泉天皇皇女)の退下により、12歳で賀茂斎院に卜定される。以来、円融、花山、一条、三条、後一条天皇の5代57年の長きにわたって斎院の任にあり続け、「大斎院」と称された。万寿元年(1024年)一品に叙せられた後、長元4年(1031年)9月22日に老病により退下、同28日に出家。長元8年(1035年)6月22日薨去、享年72。
人物
生まれて間もなく母后が没したため、安子の兄である藤原兼通・昭子女王夫妻が引き取って堀河殿で育てられた。天延2年の着裳の儀の際に裳の腰を結ぶ結腰役に昭子女王、理髪役は典侍であるとともに兼通の側室でもあった大江皎子であった[1]。その前年に兼通と昭子の娘である媓子が入内する際には皇女である選子の輦車に媓子が同乗する形で内裏に入っている(后に立てられる前の臣下の女性に過ぎない媓子は本来車で内裏に乗り入れることが出来なかったが、天皇の妹である選子は輦車宣旨を受けていたために彼女の車に同乗する形を取ったのである)[2][3]。
『大鏡』で「賀茂の明神のうけ給へればかく動きなくおはしますなり」と評されたように、歴代でも類を見ない長期の斎院として尊崇を集めた一生は、そのまま母方である九条流摂関家との歩みであった。確かに冷泉天皇以降歴代の天皇は内親王に恵まれること少なく、斎院の候補者となるべき皇女が存在しなかった時期もあったが、歴代摂関と濃い血縁関係にあったことが幼くして両親に死別した内親王の生涯の安定を支えたことは疑いない。内親王自身も摂関家との交流には常に気を配ったらしく、『枕草子』で中宮定子との季節の交流が描かれる一方、『大鏡』や『栄花物語』には藤原道長との当意即妙なやり取りが記されている。なお後者は、その様子を見た定子の弟隆家が「追従深き老狐かな」と罵ったというが、この逸話は内親王の機転の利く聡明な人柄を伝えると同時に、いかに世に重きをなす大斎院といえども有力な後見のない内親王としては、時の摂関との結びつきを無視できなかったことが伺える。
ところで、清少納言は『枕草子』で理想的な宮仕え先として「宮仕所は、内裏、后宮、その御腹の一品の宮など申したる。斎院、罪深かんなれどおかし」と挙げているが、まさに后腹の一品宮(当時は違ったが)にして斎院であった選子内親王の御所は、してみると彼女にとっては中宮定子の御所にも劣らぬ素晴らしい所であったらしい。紫式部も『紫式部日記』で斎院に仕える女房を非難しつつ、内親王その人の人柄のゆかしさや斎院御所の風雅で神さびた趣深さは認めており、平安女流文学の最高峰であるこの二人の証言から見ても、内親王の時代の斎院が宮中に次ぐ文化サロンであったことは疑いないであろう。
歌集
- 『大斎院前御集』
- 『発心和歌集』
- 『大斎院御集』
脚注
^ 『親信卿記』天延2年11月11日条
^ 『親信卿記』天延元年2月20日条
^ 栗山圭子「兼通政権の前提-外戚と後見」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年) ISBN 978-4-7503-4481-2 P128-131
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