譲位
譲位(じょうい)は、君主が存命中の間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。
本項では、主に日本の天皇における「譲位」について記述する。
目次
1 概説
2 天皇の譲位
3 譲位した天皇の一覧
4 譲位の主な理由
5 天皇の譲位についての議論 (平成)
5.1 譲位容認側の意見
5.2 譲位反対(慎重)側の意見
6 譲位を容認する場合の制度についての議論
6.1 皇室典範改正側の意見
6.2 特例法(特別措置法)制定側の意見
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
概説
譲位は通常、バチカン市国におけるローマ教皇やマレーシアにおける国王等のいわゆる選挙君主制の事例を除き、終身制が慣例ともされる君主制において、世襲を原則とした地位の継承を指し、地位の継承先に関わらず君主がその地位を手放すことを退位(たいい)、地位継承の規定や慣例に沿わない者に対して地位を譲ることを禅譲(ぜんじょう)、譲位によって地位を譲り受けて即位することを受禅(じゅぜん)という。
2016年7月13日以降の今上天皇(第125代天皇)の意向を示す報道で、NHKを筆頭に、ほぼ全てのメディアで『生前退位』(せいぜんたいい)との表現が用いられたが、同年10月20日の誕生日の談話で皇后は「新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。」と述べ、表現に違和感があったことを明らかにした。それ以降、天皇陛下が意向を関係者に示されるときに実際に使った言葉は「譲位」であることが明らかになっている。その後、譲位や「譲位・退位」という表現での報道がみられるようになった[1][2]。
譲位は、後継者を明確にしてその当事者への教育・管理ができるという利点を含んだシステムであり、このシステムは「隠居」という形で日本社会全体に定着している[3]。
天皇の譲位
日本において最初の譲位は645年に行われた皇極天皇から孝徳天皇への譲位とされており、過去の皇位継承のうち57代の皇位継承が譲位によって行われている[3]。
過去、譲位した天皇は太上天皇(上皇)の尊号を受けており、太上天皇(上皇)の尊号を授けられた最初の事例は持統天皇となる[4]。また、上皇となった天皇が再即位(重祚)した例もある。
譲位は皇位継承の争いを封じ込めるだけではなく、仏教伝来以降、死を汚れとする考え方が強まり、天皇が在位中に崩御することはタブー視されるようになったためでもある[3]。
江戸時代の後水尾天皇は、紫衣事件など、天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行いに耐えかね、幼少の興子内親王(後の明正天皇)へ譲位を行った。この譲位は、幕府に対する天皇の抗議、という意味でとらえられている。
ただし、譲位がたとえ君主の意思表示であったとしても、それだけでは不可能である。譲位の儀式および譲位後の上皇の御所造営には莫大な費用がかかり、朝廷がそれを負担できなければ譲位は行えなかった。実際、室町幕府の支援で儀式を行った後花園天皇と豊臣政権の支援で儀式を行った正親町天皇の間の戦国時代に在位した3代の天皇(後土御門・後柏原・後奈良天皇)は全て在位したまま崩御した[5]。
1889年(明治22年)に制定された大日本帝国憲法及び旧皇室典範第10条にて、天皇の崩御によって皇位の継承が行われることが規定され、天皇の譲位を認めないことが明文化された[6][7][8][9][10] 。当初、宮内省図書頭の井上毅が策定した旧皇室典範原案では譲位に関する規定を盛り込まれていたが、高輪会議と呼ばれる会議にて当時内閣総理大臣であった伊藤博文が異を唱え典範から削除された[11]。
1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法及び皇室典範においても、皇位の継承は天皇の崩御によってのみ行われること[12]を定めており、天皇の譲位は認められていない[13][14][15][10]。これらの法律について、今上天皇(明仁)が2016年(平成28年)8月8日に「おことば」として意向を表明した[16]。
譲位した天皇の一覧
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譲位の主な理由
- 病気
- (持統・光仁・平城・嵯峨・淳和・清和・醍醐・冷泉・円融・一条・後朱雀・後三条・後醍醐・桜町)
- 高齢(元明・光仁・正親町)
後継者の成長(元正・光格)
仏教に帰依(聖武・宇多)
政務の負担(孝謙・陽成)
院政(後鳥羽・後嵯峨)- 災害(清和)
天地地異(土御門)- 地震・火災(亀山)
彗星出現(後堀河)
飢饉(後堀河)
皇太子の薨去(白河)- 時勢への嘆き(後花園)
母の内意(朱雀)
藤原兼家の意向(花山)
藤原道長の要請(三条)
鳥羽法皇の意向(崇徳)
後白河上皇の意向(六条)
平清盛の要請(高倉)
後嵯峨上皇の命(後深草)
北条氏の要請(後宇多・後伏見・花園)
後鳥羽上皇の諭し(土御門)
大化の改新(皇極)
藤原仲麻呂の乱、孝謙上皇による(淳仁)
討幕(順徳)
承久の乱(仲恭)
南北朝合一(後亀山)
幕府との不和(後水尾)
「帝室制度史 第3巻」より[19]
天皇の譲位についての議論 (平成)
譲位は現皇室典範においては規定がなく、今上天皇の譲位についての想定がされていなかった。これに対し、2016年(平成28年)5月半ばから風岡典之宮内庁長官や河相周夫侍従長らの会合で検討はされていたが[20]、今上天皇(明仁)は、2016年(平成28年)8月8日に「おことば」として意向を表明[16]し、内閣では、2016年(平成28年)10月17日より「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」を開催している[21][22]。
2017年6月9日の参議院本会議で、天皇の退位等に関する皇室典範特例法が可決・成立。退位時期は法案成立から3年以内に政令で定めることになった[23]。その後、2019年5月1日に今上天皇が退位することが決定し、退位特例法の施行日を定めた政令が公布された。
譲位容認側の意見
- 摂政は天皇の形式化を招きかねず、「象徴」としての役割を果たせない[24]。
- 天皇は皇居の奥に引き下がり、高齢化に伴う限界は摂政を置いて切り抜けようというのは、陛下が積み上げ、国民が支持する象徴像を否定することにつながりかねない[24]。
- 摂政制度はあくまで緊急時に起動するシステムである[24]。
- 摂政は天皇の政務を奪ったという自責の念を感じてしまう[25]。
- 摂政を置くと、国民から見て、天皇とどちらが象徴かという危惧が起きる[26]。
宇佐美毅宮内庁長官(当時)は、昭和39年の国会答弁で「摂政の場合は、天皇の意思能力がむしろほとんどおありにならないような場合を想定している」と説明している[25]。- 「象徴的行為」は、天皇に一身専属するもので、摂政には代行できない[27]。
- 公的行為の範囲が法的に定義されておらず、委任という考え方になじまない。
譲位反対(慎重)側の意見
- 次代の即位拒否と短時間での退位を容認することになり、皇位の安定性を揺るがす[要出典]。
- 皇位継承は法的義務。
- 歴史上、皇位継承をめぐる争いなど弊害が見られた[要出典]。
- 論理的に退位を認めるならば相対的に不就位の自由も認めなければ首尾一貫しない[28]。
- 譲位は国家の制度の問題であり、天皇の意向に左右されるものではない[要出典]。
- 公的行為も象徴の務めになれば、それができない天皇は地位にとどまれないという能力主義が持ち込まれる[要出典]。
- 天皇の意向により政府が新しい退位の制度を作ることは、憲法4条が禁止する天皇の政治的行為を容認することになる[要出典]。
- 天皇に自分がやめたい時にやめるという権限を与えることや、天皇の意向と関係なく退位させる制度を作ることは憲法上問題がある[要出典]。
譲位を容認する場合の制度についての議論
譲位を容認する場合の制度に対する議論も行われている。譲位を容認する上で、退位した天皇の称号、居所、生活費などの法整備を行う必要がある。
皇室典範改正側の意見
- 恒久的な制度にすべき[要出典]。
- 年齢制限を儲ける改正[要出典]。
- 特例法は憲法違反に近く、良くない先例となる[要出典]。
- 特別法(特例法)設置は皇室典範の権威を損なう[要出典]。
- 高齢を理由とした執務不能の自体は今後も十分に起こり得るためその都度特例を儲けるのは妥当ではない[要出典]。
憲法第2条は、皇位継承について「皇室典範」で定めよと指定している[29]。- 皇位継承が政治利用される危険を防ぐために、そのルールは一般法の形で明確に定めておくべきであり、特定の皇位継承にしか適用されない特別法の制定は好ましくない[29]。
特例法(特別措置法)制定側の意見
- 退位を認める要件や恣意的な退位を防ぐ規定などを議論する必要があり、時間がかかる[要出典]。
- 現天皇の事を考え迅速な対応が必要[要出典]。
- 皇室典範改正を前提とした法律にする[要出典]。
- 皇室典範の一条項や附則として制定する[要出典]。
脚注
^ 「退位」と「譲位」の使い分けは? 天皇陛下めぐる報道
^ 産経「譲位」に用語変更 朝日も「生前退位」不使用 他社は表記の混乱も
- ^ abc『週刊ダイヤモンド 2016 9/17 第104巻36号』ダイヤモンド社 61ページ
^ 最初の譲位が行われた皇極天皇は、譲位後に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という特別な尊号が定められている
^ ただし、この時代には天皇の在位中の崩御は禁忌とされていたため、新天皇への譲位・践祚の儀式が終わった後に、旧主(上皇)としての葬儀が行われている(井原今朝男『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、p.168)。
^ 伊藤博文 著 『皇室典範義解』 第十条
^ 坂本一登 著 『伊藤博文と明治国家形成―「宮中」の制度化と立憲制の導入』:180頁(文庫版:248頁) 「しかし、伊藤は井上毅の意見を無視し、君位を君主の個人的な意思に委ねないという見地から、天皇の譲位それ自体を明白に否定したのである。」 (大久保啓次郎. “明治国家形成期における井上毅の事績~福澤諭吉の時代から井上毅の時代へ~ (PDF)”. 2014年7月16日閲覧。)
^ 「高輪会議」における『皇室典範再稿(柳原前光内案)』逐条審議、伊藤決裁[第十二条(譲位)、第十五条(太上天皇)] : 皇室典範、皇族令、草案談話要録 (秘書官伊東巳代治、明治20年3月20日) は、小林宏・島善高編著『明治皇室典範〔明治22年〕上 : 日本立法資料全集本巻 16』(1996年5月26日発行、信山社出版)、梧印文庫研究会編著『梧陰文庫影印−明治皇室典範制定本史-』(1986年8月1日発行、國學院大學)、国立国会図書館憲政資料室所蔵「憲政史編纂会収集文書」に所収。
^ 島善高 「五味均平旧蔵「日本帝国皇室典範」について〔含 翻刻〕」、 『早稲田社會科學研究』(早稲田大学社会科学部学会) (合併号 早稲田人文自然科学研究40号)、 1991年10月 pp.383-405 。 NAID 120000792979(早稲田大学リポジトリ内) 2016年(平成28年)7月16日閲覧
- ^ ab自発的退位(譲位)の問題については、 [ 兵藤守男 「皇位の継承」 (2.3. 継承の放棄)、 『法政理論』(新潟大学法学会) (第40巻第2号)、 2007年12月25日 pp.142-148 。 NAID 110009004834(新潟大学学術リポジトリ内) 2016年(平成28年)7月18日閲覧 ] が詳しい。日本国憲法下において、自発的退位(譲位)を認めるべきであるという意見は、皇室典範制定当初から現在に至るまで、様々な観点や理由から出されている。制定審議の代表例としては、第91回帝国議会貴族院本会議(昭和21年12月16日)での南原繁による質問演説(2016年7月18日閲覧)が挙げられる。
^ 明治の元勲・伊藤博文はなぜ譲位容認案を一蹴したのか? 「本条削除すべし!」 明治天皇に燻る不満「朕は辞表は出されず」 産経ニュース
^ 皇室典範 第四條
^ 幣原復員庁総裁・国務大臣答弁[貴族院]、金森国務大臣(憲法担当)答弁[衆議院、貴族院]、田中文部大臣答弁[貴族院]。皇室典範案会議録一覧 - 国立国会図書館、日本法令索引。
^ 皇室典範に規定する事項に関する試案(金森国務大臣) - 国立公文書館 デジタルアーカイブ
^ 林(修) 法制局長官答弁 「これは一言で申しまして、天皇には私なく、すべて公事であるという考え方も一部にあるわけであります。やはり公けの御地位でございますので、それを自発的な御意思でどうこうするということは、やはり非常に考うべきことである。そういうような結論から、皇室典範のときに、退位制は認めなかったのであるということを、当時の金森国務大臣(註.第91回帝国議会衆議院本会議/昭和21年12月5日)はるるとして述べておられます。この問題は、実は皇室典範の審議されたときの帝国議会においては、皇室典範の論議の半分ぐらいを占めております。」 “衆議院会議録情報 第31回国会 内閣委員会 第5号 昭和34年2月6日”. 国立国会図書館「国会会議録検索システム」. 2016年7月16日閲覧。
- ^ ab象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)
^ 重祚して斉明天皇として再即位した際は崩御まで在位した。
^ 重祚して称徳天皇として再即位した際は崩御まで在位した。
^ 読売新聞2016年8月9日特別面p12
^ 「5月から検討加速 宮内庁幹部ら5人」毎日新聞2016年7月14日 15時00分
^ 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議
^ 読売新聞 2016年12月1日
^ 天皇退位の特例法が成立 200年ぶりの生前退位へ - BBC 2017年6月9日
- ^ abc「天皇」有識者会議 摂政論には無理がある 毎日新聞2016年11月21日 東京朝刊
- ^ ab陛下はなぜ「摂政」を望まれないのか 過去64例、設置理由「幼少」が最多
^ 天皇陛下退位ヒアリング 2回目の議事録公表
^ 石川健治「人間七十年」『法学教室』2016年10月号巻頭言参照
^ 天皇の生前退位 反対論者に共通するのは政治混乱への危惧
- ^ ab皇室典範どこまで変えるべきか - 木村草太(首都大学東京教授)
関連項目
- 太上天皇
- 太上皇
- 大御所
- 即位
- 重祚
- 退位
- 象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば
外部リンク
- 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議