立花通厚
凡例 立花 通厚 | |
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 宝暦11年8月23日(1761年9月21日) |
死没 | 天保9年2月13日(1838年3月8日) |
別名 | 幼名:友寿、通称:摂津(十時氏時代)→能登→大学 |
墓所 | 福厳寺 |
官位 | なし |
藩 | 筑後国柳河藩 |
氏族 | 立花氏→十時氏→立花氏 |
父母 | 父:立花鑑通、母:柳川商家中村弥左衛門の娘・伊弥子、養父(一時的):十時惟邑(下総) |
兄弟 | 立花鑑門、立花通玄、立花通厚、 立花鑑一、立花鑑寿 |
妻 | 十時惟邑の娘・奴以子 |
子 | 娘(立花寿俶室)、立花為清、立花賀正 |
立花 通厚(たちばな なおあつ)は江戸時代の筑後国柳河藩藩主家立花氏一門。7代目藩主立花鑑通の三男。初め十時惟邑(下総)の婿養子で夫人は十時惟邑の娘。諱は通厚。立花一門家の一つである立花大学家の祖。立花鑑寛の母方祖父でもある。
経歴
宝暦11年8月23日(1761年9月21日)に柳川御花畠亭(現在の「御花」)にて出生[1]。家老の十時惟邑の養子となり、立花家を出る。明和8年(1771年)から安永4年(1775年)の間の内容とされる資料とされる「分限帳」に『高弐千石 十時摂津』と『御合力米百俵 同(十時)友壽』と見える。
寛政元年(1789年)に長兄で柳河藩嗣子になっていた立花鑑門が死去すると、父の鑑通は十時家から呼び戻して嗣子に擁立しようとしたが、これを固辞して弟で、当時、立花茂雅(伊豆)の養子であった立花通弘(後の立花鑑一)を推挙した。
寛政3年7月23日(1791年)、通厚は十時家より貰い返されて立花姓に復すのを許可され、通称を大学と改称。
寛政5年(1793年)に今度は鑑一までも死去したので、再度父は通厚を藩主嗣子に立てようとするが、再度放棄し、弟の鑑寿にその権利を譲った。このために鑑寿は嗣子となり、そのまま鑑寿が寛政9年(1797年)に柳河藩主を相続した。
藩主となった鑑寿は通厚に合米700石を与えて分家させたが、これが立花一門家第二位の立花大学家の初めとなる。後に300石加増され、1000石となる。
天保9年2月13日(1838年3月8日)に死去。墓所は福厳寺 (柳川市)。
脚注
^ 元文3年(1738年)以降、柳川藩の奥(江戸幕府大奥に相当)機能は柳川城二の丸から御花畠に移転した
参考文献
- 『三百藩家臣人名事典7』(新人物往来社)
柳川市史編集委員会『柳川歴史資料集成第三集 柳河藩立花家分限帳』(福岡県柳川市、平成10年3月)- 福岡県柳川市、柳川市史編集委員会編集『柳川市史別冊 図説立花家記』(2010年)
- 『寛政重修諸家譜』
- 『旧柳川藩誌』