立花貞則
凡例 立花 貞則 | |
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立花貞則像(福厳寺蔵) | |
時代 | 江戸時代 |
生誕 | 享保12年5月12日(1727年6月30日) 公式:享保10年5月12日(1725年6月22日) |
死没 | 延享3年7月17日(1746年9月2日) |
改名 | 幼名:虎之進、虎吉→貞則 |
戒名 | 等覚院殿廊融性営大居士 |
官位 | 従五位下、丹後守、伯耆守、飛騨守、 従四位下 |
藩 | 筑後国柳河藩主 |
氏族 | 立花氏 |
父母 | 父:立花貞俶、母:涼体院(柴田喜右衛門の娘) |
兄弟 | 貞則、鑑通、致博、 致真、戸次通孝、山名義徳、 矢島通経、通堅 伝姫 |
妻 | 婚約者:黒田継高の娘 |
子 | 養子:鑑通 |
立花 貞則(たちばな さだのり)は、筑後国柳河藩の第6代藩主。第5代藩主・立花貞俶の次男。母は側室・涼体院(柴田喜右衛門の娘[1])。福岡藩主黒田継高の娘と婚約。幼名は虎之進、虎吉。
生涯
享保12年5月12日(1727年6月30日)、柳河にて生まれた。なお、幕府には2年早い享保10年5月12日(1725年6月22日)で届けている。既に長兄孫次郎が享保8年(1723年)に早世し、また、享保18年(1733年)に父の正室である松子が死去したこともあってか、享保19年(1734年)に父から後継者として選ばれた。
元文4年(1739年)に江戸藩邸に入り、将軍徳川吉宗に初御目見をして、元文5年(1740年)に従五位下丹後守に任官した。元文年中に黒田継高の娘と婚約する。寛保2年(1742年)に伯耆守に改める。
延享元年(1744年)、父の死により跡を継ぎ、飛騨守に改める。延享2年(1745年)には従四位下に昇る。しかし延享3年7月17日(1746年9月2日)、謎の暴漢集団に豊前国大里浜にて襲撃され、死去した。藩はその死去を秘密とし、遺体を生存のごとく柳河城に入城させた上で、その6日後にその死去を公表の上で喪に服する。享年20(公式では22)。嗣子が無く、跡を弟の鑑通が継いだ。
脚注
^ 時代的には遡るが、「柳河藩立花家分限帳」掲載の『延宝九酉年(1681年)知行取無足扶持方共』で無足組外・合力米七石二斗・大坂詰の藩士に『柴田喜右衛門』が見られる。
参考文献
- 「三百藩藩主人名事典4」(新人物往来社)
- 橋本博「大武鑑・中巻」(名著刊行会)
柳川市史編集委員会編集「柳川歴史資料集成第三集・柳河藩立花家分限帳」(柳川市・1998年)- 「柳川市別冊・図説立花家記」(柳川市・柳川市史編集委員会編集・平成22年(2010年))
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