柳田國男
柳田 國男 (やなぎた くにお) | |
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![]() 昭和初期 | |
誕生 | (1875-07-31) 1875年7月31日 ![]() (現・兵庫県神崎郡福崎町) |
死没 | (1962-08-08) 1962年8月8日(87歳没) ![]() |
墓地 | 春秋苑墓地(神奈川県川崎市) |
職業 | 民俗学者、著作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | ![]() |
教育 | 法学士 |
最終学歴 | 東京帝国大学法科大学政治科 |
ジャンル | 民俗学 |
主題 | 民俗学、日本思想、歴史、口承文学 |
代表作 | 『遠野物語』(1910年) 『蝸牛考』 『桃太郎の誕生』 『海上の道』 |
主な受賞歴 | 文化勲章受勲(1951年) 正三位勲一等旭日大綬章受勲 |
親族 | 本項の「家族・親族」及び「系譜」の節を参照 |
影響を受けたもの
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柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚。明治憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた[1]。
「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者で、多数の著作は今日まで重版され続けている。
目次
1 生涯
1.1 生い立ち
1.2 詩人・松岡國男
1.3 民俗学の夜明け
1.4 日本民俗学の確立
2 略年譜
3 栄典・授章・授賞
4 記念館
5 柳田民俗学の特徴
5.1 現地調査主義
5.2 柳田國男と歴史学
6 柳田についての評価
7 作品紹介
7.1 全集・文庫
7.2 書誌
8 家族・親族
9 友人
10 系譜
11 参考文献
11.1 基本文献
11.2 研究文献
11.3 映像資料
12 柳田國男が登場する作品
13 脚注
13.1 注釈
13.2 出典
14 参考文献
15 関連項目
16 外部リンク
生涯

柳田國男の生家(兵庫県福崎町)

布川での居宅(茨城県利根町)

柳田國男(1951年)
生い立ち
1875年(明治8年)7月31日、飾磨県(兵庫県)神東郡田原村辻川(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)生まれで、最晩年に名誉町民第1号となった。父は儒者で医者の松岡操、母たけの六男(男ばかりの8人兄弟)として出生。辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が山間部から播州平野へ抜けて間もなく因幡街道と交わるあたりに位置し、古くから農村として開けていた。字の辻川は京から鳥取に至る街道と姫路から北上し生野へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家があった。生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかった。生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっている。家が小さかったことに起因する悲劇が幼き日の國男に強い影響を与え、将来的にも大きな影響を与えた[1]。
父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や、好古堂という学校で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として1863年(文久3年)に赴任した。明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥ったという[2]。
幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に住んだ。生地とは異なった利根川の風物や貧困にあえぐ人たちに強い印象を受ける[注釈 1]。徳満寺という寺では、間引き絵馬(母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)を見て、終生忘れることの出来ない衝撃を受ける。また、隣家の小川家の蔵書を乱読した。16歳のときに東京に住んでいた三兄井上通泰(帝国大学医科大学に在学中)と同居、図書館に通い読書を続ける。三兄の紹介で森鴎外の門をたたく。17歳の時、尋常中学共立学校(のちの開成高等学校)に編入学する。この年、田山花袋を知る。翌年、郁文館中学校に転校し進級する[3]。19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎える。東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)卒業後、明治33年(1900年)に農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになる。
詩人・松岡國男
井上通泰の紹介により森鴎外と親交を持ち、『しがらみ草紙』に作品を投稿、また通泰の世話で桂園派の歌人・松浦辰男に入門する。第一高等中学校在学中には『文學界』『國民之友』『帝國文学』などに投稿する。1897年(明治30年)には田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版する。ロマン的で純情な作風であった。しかしこの当時、悲恋に悩んでおり、花袋にだけこれを打ち明け、花袋はそれを小説にしていた[4]。飯田藩出身の柳田家に養子に入り、恋と文学を諦め、官界に進んだ後も、田山花袋・国木田独歩・島崎藤村・蒲原有明など文学者との交流は続いたが、大正時代に入ったあたりから当時の文学(特に自然主義や私小説)のありようを次第に嫌悪し決別していった。
民俗学の夜明け
東京帝国大学では農政学を学び、農商務省の高等官僚となった後、講演旅行などで東北を中心に地方の実情に触れるうちに次第に民俗的なものへの関心を深めてゆく。また、当時欧米で流行していたスピリチュアリズムの影響を受け、日本でも起こっていた「怪談ブーム」のさなか[5]で当時新進作家だった佐々木喜善と知り合い、岩手県遠野の佐々木を訪問して『遠野物語』を執筆する[6]。他に宮崎県椎葉などへの旅の後、郷土会をはじめ、雑誌『郷土研究』を創刊する。民俗学が独自の領域と主張を持つための下準備を着々と進めていった。
日本民俗学の確立
『蝸牛考』での「方言周圏論」、『郷土生活研究法』における「重出立証法」などで日本民俗学の理論や方法論が提示されるなど、昭和初期は日本民俗学の確立の時代であった。一方で山村調査、海村調査をはじめとする全国各地の調査が進み、民俗採集の重要性と方法が示された。以降、日本人は何であるかを見極め将来へ伝えるという大きな問題意識を根底に「内省の学」として位置づけられてきた。
略年譜
1875年(明治8年)7月31日 - 兵庫県神東郡田原村辻川(現・神崎郡福崎町)に儒者・松岡操、たけの六男として生まれる。松岡家は代々の医家。
1884年(明治17年) - 一家で兵庫県加西郡北条町(現・加西市北条町)に転居。
1885年(明治18年) - 高等小学校卒業。1年間、辻川の旧家三木家に預けられ、和漢の書籍を乱読する。
1887年(明治20年) - 兄・鼎(かなえ)が、医院を開いていた茨城県北相馬郡布川村(現・利根町)に移住する。
1893年(明治26年) - 兄・鼎の転居に伴い千葉県南相馬郡布佐町(現・我孫子市)に移住する。
1897年(明治30年) - 第一高等学校(第一高等中学校改称)卒業。東京帝国大学法科大学入学。
1900年(明治33年)7月 - 東京帝国大学法科大学政治科卒業(法学士)。卒業論文は三倉の研究、これにより民衆史を知る契機となる。農商務省農務局農政課に勤務。以後、全国の農山村を歩く。早稲田大学で「農政学」を講義する。
1901年(明治34年)5月 - 柳田家の養嗣子として入籍する。養父直平(1849-1932)(旧・飯田藩士)は大審院判事を務め、義理の叔父たる安東貞美(直平の同母弟)は、陸軍軍人で台湾総督などを務めた[注釈 2]。
1902年(明治35年)2月 - 法制局参事官に任官。
1904年(明治37年)4月 - 柳田直平の四女・孝(17歳)と結婚。
1907年(明治40年)2月 - 島崎藤村、田山花袋、小山内薫らとイプセン会を始める。
1908年(明治41年)1月 - 兼任宮内書記官。この頃、自宅で「郷土研究会」を始める。
1908年(明治41年)10月 - 宮崎県の北西部椎葉村に住む中瀬淳(「後狩詞記」の共著者)へ書簡を送る[8] 。
1909年(明治42年) - 東北を旅行し、初めて遠野を訪れた。
1910年(明治43年)6月 - 兼任内閣書記官記録課長。「郷土研究会」を発展させて、新渡戸稲造を世話人、柳田が幹事役で「郷土会」を開始[9]。
1911年(明治44年)3月 - 南方熊楠との文通[10]始まる。
1913年(大正2年)3月 - 高木敏雄と共に雑誌『郷土研究』を刊行。
1914年(大正3年)4月 - 貴族院書記官長。
1915年(大正4年)11月 - 京都における大正天皇の即位式に奉仕、提言を残す(当時は未公開)、この年に折口信夫と出会う。
1919年(大正8年)12月 - 貴族院書記官長を辞任[注釈 3]。新渡戸稲造が国際連盟事務次長として訪欧したため、「郷土会」の活動休止[9]。
1920年(大正9年)8月 - 東京朝日新聞社客員となり、論説を執筆した。全国各地を調査旅行。
1921年(大正10年) - 渡欧し、ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任。国際連盟において、英語とフランス語のみが公用語となっていることによる小国代表の苦労を目の当たりにする。
1922年(大正11年) - 新渡戸稲造と共に、エスペラントを世界の公立学校で教育するよう決議を求め、フランスの反対を押し切って可決される。エスペランティストのエドモン・プリヴァ(Edmond Privat)と交流し、自身もエスペラントを学習。
1923年(大正12年) - 国際連盟委任統治委員を突如辞任して帰国(これを契機に新渡戸との交流が途絶える[11])。フィンランド公使グスターフ・ラムステッドと交流。
1924年(大正13年)4月 - 慶應義塾大学文学部講師となり民間伝承を講義。
1926年(大正15年)7月 - 財団法人日本エスペラント学会設立時の理事に就任。(日本エスペラント学会年鑑(Jarlibro) 1926年版参照)。
1930年(昭和5年) - 宮本常一との文通始まる。1934年に宮本と直接会い、これを期に宮本は民俗学の道へ進んでいくことになる[12]。
1939年(昭和14年 - 民間学術団体の国民学術協会設立会員となる。
1940年(昭和15年) - 朝日文化賞受賞。
1946年(昭和21年)7月 - 枢密顧問官就任。日本国憲法審議に立ち会う(翌年に憲法施行に伴い廃止)。
1947年(昭和22年)3月 - 自宅書斎隣に民俗学研究所を設立(晩年に解散)。この年、帝国芸術院会員(同年末日本芸術院に改称)。
1949年(昭和24年)
- 3月 - 日本学士院会員に選任。
- 4月 - 民間伝承の会を日本民俗学会に発展解消させ、初代会長に就任。
1951年(昭和26年)
- 國學院大學に招かれ、教授に就き神道に関する講座を担当[13]。
- 11月 - 文化勲章受章。
1962年(昭和37年)8月8日 - 午後1時頃、東京都世田谷区成城にある自宅にて心臓衰弱のため死去、87歳没。没後に正三位勲一等。当時首相だった池田勇人が「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し旭日大綬章が供えられた。。葬儀は12日に東京・青山葬儀所にて日本民俗学会葬として営まれる。各界から300人が参列。戒名は永隆院殿顕誉常正明国大居士[1]。墓所は神奈川県川崎市の春秋苑。
栄典・授章・授賞
1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[14]
- 1916年(大正5年)1月19日 - 勲四等旭日小綬章[15]
1920年(大正9年)9月7日 - 旭日中綬章[16]
- 1962年(昭和37年)8月8日 - 勲一等旭日大綬章(没時陞叙)
記念館

柳田國男・松岡家顕彰会記念館(兵庫県福崎町)

柳田國男館(長野県飯田市)
- 「自らの民俗学の原点」と評した生家は、兵庫県福崎町に建設された柳田國男・松岡家顕彰会記念館の西隣に、移築・保存されている。福崎町立神崎郡歴史民俗資料館が隣接している。
東京都世田谷区成城の自宅書斎[柳田國男の書屋]は、1989年に長野県飯田市の飯田市美術博物館内へ移築されている(柳田家は旧飯田藩士)。- 蔵書は成城大学に寄贈され、同大学の民俗学研究所「柳田文庫」として活用されている。2003年に、成城大学民俗学研究所編『増補改訂版 柳田文庫蔵書目録』が刊行された(初刊1967年)。
柳田民俗学の特徴
現地調査主義
『郷土生活の研究法』(1935年)において「在来の史学の方針に則り、今ある文書の限りによって郷土の過去を知ろうとすれば、最も平和幸福の保持のために努力した町村のみは無歴史となり、我邦の農民史は一揆と災害との連鎖であった如き、印象を与へずんば止まぬこととなるであろう」と述べている。
ここでは、文献史学においては典拠とする史料そのものに偏りが生まれるのは避けられないとしており、それゆえ公文書などに示された一揆や災害とかかわる民衆の姿をそこで確認できたとしても、その生活文化総体は決して見えてこないという認識が示されている。「常民」の生活文化史の解明を目的とする民俗学にとっては文献資料にのみ依拠することには限界と危険が伴うのであり、それゆえフィールドワークによる民俗資料の収集が重要だと論じている。
また、柳田は『日本民俗学』(1942年)において「民俗学は微細な事実の考証から出発する」とし、随筆や紀行文等との差異からも確なる学的立脚を求め、計画調査を重要視した。
柳田國男と歴史学
和歌森太郎『柳田国男と歴史学』(NHKブックス)によれば、國男の問題意識と関心は、常に歴史学と歴史教育にあったことが記され、國男が長野県東筑摩郡教育会で「青年と学問」と題して講演した際に、「自分たちの一団が今熱中している学問は、目的においては、多くの歴史家と同じ。ただ方法だけが少し新しいのである」と述べたことが紹介されている。そして「日本はこういうフォークロアに相当する新しい方法としての歴史研究をなすには、たいへんに恵まれたところである」としている。
たとえば、ヨーロッパでは1000年以上のキリスト教文明と民族大移動、そしてまた近代以降の産業革命の進展のためフォークロア(民間伝承、民俗資料)の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し、日本ではそのようなことがなく現実のいたるところに往古の痕跡が残っているというのである。
言い換えれば日本にはフォークロアを歴史資料として豊かに活用できる土壌があるということであり、柳田民俗学とはこのような民間伝承の歴史研究上の有効性を所与の条件として構築されたものということができるのである。また東北地方や沖縄を様々な観点から詳細に調査したことから、東北と沖縄こそが柳田民俗学の出発点であり、古き日本の神話や伝説が今も生きる地域の共同体とした。
柳田についての評価
柳田の日本民俗学の祖としての功績は非常に高く評価できる。柳田の研究に影響を受けて民族学者となった宮本常一は、柳田同様にフィールドワークによる民俗資料収集を基礎とし、多くの研究を残した。さらに宮本の研究は、網野善彦によって歴史学の分野でも注目を集めた。
近年では、柳田を学者としてとらえるならば、その学説は取捨選択されるべきものであるとの意見も一部にみえる。
作品紹介
- 『遠野物語』
東北地方の伝承を記録した、柳田民俗学の出発点。現行版は新潮文庫・角川ソフィア文庫・岩波文庫ほか(話者:佐々木喜善の『聴耳草紙』より、新版はちくま学芸文庫)、他に「佐々木喜善全集」遠野市立博物館編・刊行(全4巻)。
- 『蝸牛考』
- 各地のカタツムリの呼び名の方言分布を比較検討することにより、言葉が近畿から地方へ伝播していったことを明らかにしたもの。この中で提唱された理論が方言周圏論である。言葉は文化的中心地を中心として、まるで何重もの円を描くように周辺へと伝播し、中心地から遠く離れた地方ほど古い言葉が残っていることを示したものである。柳田自身は晩年になって、「あれはどうも成り立つかどうかわかりません」と発言し、方言周圏論に懐疑的になっていたといわれる。しかし、彼の死後6年経って刊行されはじめた国立国語研究所の『日本言語地図』では「牝馬」「もみがら」など、調査した言葉のおよそ27%に周圏分布が見られ、方言周圏論が有効な理論であることが確認された。
- 『桃太郎の誕生』
- 昔話の解析を通して、日本社会の断面図を描こうとしたものだが、この手法は民俗・民族学、文化人類学に応用され、多くの後継者を生み出した。(例:中野美代子『孫悟空の誕生』 岩波現代文庫)
- 『故郷七十年』
- 晩年の口述での回想、嘉治隆一(朝日新聞記者)と宮崎修二朗(神戸新聞記者、著書に『柳田国男 その原郷』(朝日選書、1978年)がある)が筆記しまとめた[17] 。
全集・文庫
筑摩書房版「全集」の刊行一覧
- 『定本 柳田國男集』(全31巻別巻5)は、没する寸前に刊行開始し短期間で完結(※別巻1・2巻は「朝日新聞論説集」、3巻は「故郷七十年、同増補」、4巻は「炭焼日記・書簡」、5巻は「総索引、書誌、年譜」)、新装版が1970年代半ばに刊行(函を軽くした)。
- 1978-81年に、資料編(全5巻、内容は基本文献の項目を参照)を加えた愛蔵版(装丁は新装版と同一)が刊行。1978-79年に、代表作を現行仮名遣いで読み易くした『新編 柳田国男集』(全12巻)を刊行した。
- 1989-91年に、ちくま文庫版『柳田国男全集』(全32巻、新字+現行仮名遣い)が刊行、大いに反響を呼んだ。
- 1997年秋より、新たな『柳田國男全集』(新字+歴史的仮名遣い、全36巻+別巻2予定)を刊行開始。著作編は十数年を経てほぼ完結(2006年6月以降未刊だったが、2010年9月に第22巻、2014年3月に第34巻、2015年6月に第35巻が刊行)。第36巻(書簡集)、別巻(資料補遺・年譜・書誌+総索引)が編さん中。
- 文庫判の現行は、岩波文庫(一部改版)、ちくま文庫、講談社学術文庫[注釈 4]に多く書目があり重版されている。(没後半世紀を経て著作権がなくなり)2013年から、角川ソフィア文庫で多数の新版が刊行された[注釈 5]。
書誌
著作の書誌解説。
- 後藤総一郎編 『柳田国男をよむ 日本人のこころを知る』 アテネ書房、1995年 - 入門書
- 田中正明編・解説 『柳田國男書目書影集覧』 岩田書院、1994年
- 田中正明 『柳田國男の書物 書誌的事項を中心として』 岩田書院 2003年 - 各大著
家族・親族
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- 養父:柳田直平 - 大審院判事
- 実父:松岡賢次 - 儒者、医者
- 兄
松岡鼎 - 医師- 松岡俊次(早世)
井上通泰(松岡泰蔵) - 国文学者、歌人、医師- 松岡芳江(早世)
- 松岡友治(早世)
- 弟
松岡静雄 - 海軍大佐、言語学者・民族学者。妻・初子(野村靖の娘)を通じて野村益三、入江貫一、本野一郎、中勘助らと親戚関係
松岡輝夫(松岡映丘) - 日本画家
- 妻:孝 - 柳田直平四女
- 妻の姉:木越安綱陸軍中将(男爵)の妻
- 子
- 長男:柳田為正 - 生物学者、お茶の水女子大学名誉教授
- 他に4女あり
友人
- 島崎藤村
- 田山花袋
- 国木田独歩
系譜
- 松岡家
松岡左仲━━小鶴 ┏松岡鼎
┃ (操と改名) ┃
┣━━━松岡賢次 ┣松岡俊次
┃ ┃ ┃
中川至 ┣━━━╋松岡泰蔵(井上通泰)
┃ ┃
たけ ┣松岡芳江
(尾芝) ┃
┣松岡友治
┃
┣松岡國男(柳田國男)
┃
┣松岡静雄
┃
┗松岡輝夫(松岡映丘)
- 柳田家・安東家
柳田暢助 (信濃飯田藩士) |
安東辰武 (信濃飯田藩士) |
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きん | 直平 | 貞美 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
國男 | 孝 | てい | 木越安綱 | 順 | 矢田部良吉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
為正 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考文献
※あくまでごく一部で品切・絶版を多く含む。評伝研究は数百冊を数える。
基本文献
- 『定本 柳田國男集 資料集 4 年中行事図説』、『5 柳田國男写真集』筑摩書房。同時期に別版が岩崎美術社で刊
- 前者は柳田國男監修、民俗学研究所編(1980-81年)、なお『資料集 1』は初版の月報合本。
- 『柳田國男対談集』 宮田登編・解説、ちくま学芸文庫、1992年、復刊2010年
- 初刊は 『柳田国男対談集』、『民俗学について』 筑摩叢書(1965年-1966年、復刊1985年)。別版に『資料集 2・3 柳田國男対談集』
柳田為正 『父柳田國男を想う』 筑摩書房、1996年- 堀三千 『父との散歩 - 娘の眼に映じた柳田国男』 人文書院、1980年。著者の夫は堀一郎
谷川健一編 『父を語る 柳田国男と南方熊楠』 冨山房インターナショナル、2010年
臼井吉見編 『柳田国男回想』 筑摩書房、1972年
神島二郎編 『柳田国男研究』 筑摩書房、1973年
後藤総一郎編 『人と思想 柳田国男』 三一書房、1972年
大藤時彦 『柳田国男入門』 筑摩書房、1973年
牧田茂編 『評伝柳田国男』 日本書籍、1979年 - 大藤・牧田は直弟子
川田稔 『柳田国男 - その生涯と思想』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、1997年- 川田稔 『柳田国男 - 知と社会構想の全貌』 ちくま新書、2016年
赤坂憲雄 『柳田国男の読み方 - もうひとつの民俗学は可能か』 ちくま新書、1994年/ちくま学芸文庫(増補版)、2013年- 牧田茂 『柳田国男』 中公新書、1972年 - ※以下は入門書
- 宮田登編・評伝 『新潮日本文学アルバム5 柳田国男』 新潮社、1984年
- 谷川健一 『柳田国男の民俗学』 岩波新書、 2001年
鶴見太郎 『柳田国男入門』 角川学芸出版〈角川選書〉、2008年- 鶴見太郎 『民俗学の熱き日々 - 柳田国男とその後継者たち』 中公新書、2004年
石井正己 『いま、柳田国男を読む』 河出書房新社〈河出ブックス〉、2012年
河出書房新社編 『文芸読本 柳田国男』 同 1975年、新装版1984年 - 代表作の抜粋を収む- 河出書房新社編 『新文芸読本 柳田國男』 同 1992年 - それぞれ異なる論考を収む
- 河出書房新社編 『柳田国男 民俗学の創始者』 同〈文芸の本棚〉、2014年[注釈 6]
研究文献
- 『葬送習俗事典 葬儀の民俗学手帳』(新版) 河出書房新社、2014年 ISBN 978-4-309-24665-9
- 初刊「葬送習俗語彙」 民間伝承の会編(柳田が代表)、岩波書店、1937年。多数の類書を刊行
- 『私の歩んできた道』 田中正明編、岩田書院、2000年
- 『柳田国男談話稿』 柳田為正、千葉徳爾ほか編・解説、法政大学出版局、1987年
高藤武馬 『ことばの聖 柳田国男先生のこと』 筑摩書房、1983年 - 全集(初刊)の編集担当者- 大藤時彦 『日本民俗学史話』 三一書房、1990年 - 遺著
- 『谷川健一全集 18 柳田国男』 冨山房インターナショナル、2008年
- 『現代思想 総特集柳田國男-『遠野物語』以前/以後』 青土社、2012年10月臨時増刊
赤坂憲雄 『山の精神史 - 柳田国男の発生』、『漂泊の精神史』、『海の精神史』 小学館、1991-2000年
大室幹雄 『ふくろうと蝸牛 柳田国男の響きあう風景』 筑摩書房、2004年
船木裕 『柳田国男外伝 白足袋の思想』 日本エディタースクール出版部、1991年
井口時男 『柳田国男と近代文学』 講談社、1996年
岡谷公二 『柳田國男の恋』 平凡社、2012年[注釈 7]
- 岡谷公二 『柳田国男の青春』 筑摩書房、1977年/筑摩叢書、1991年
- 岡谷公二 『貴族院書記官長 柳田国男』 筑摩書房、1985年
鶴見和子 『漂泊と定住と 柳田国男の社会変動論』 筑摩書房 1977年
- 増訂版 『鶴見和子 曼荼羅コレクション4 土の巻 柳田国男論』 藤原書店、1998年
橋川文三 『柳田国男論集成』 作品社、2002年。講談社学術文庫で旧刊
吉本隆明 『定本 柳田国男論』 洋泉社 、1995年[注釈 8]
山折哲雄 『これを語りて日本人を戦慄せしめよ 柳田国男が言いたかったこと』 新潮選書、2014年
佐谷眞木人 『民俗学・台湾・国際連盟 柳田國男と新渡戸稲造』 講談社選書メチエ、2015年
山下一仁 『いま蘇る柳田國男の農政改革』 新潮選書、2018年
和歌森太郎 『柳田国男と歴史学』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1975年
中村哲 『柳田国男の思想』 法政大学出版局、新版 1985年・2010年/講談社学術文庫(上下) 1977年
桜井徳太郎 『私説柳田國男』 吉川弘文館、2003年 - 晩年の弟子の一人
伊藤幹治 『日本人の人類学的自画像 柳田国男と日本文化論再考』 筑摩書房、2006年- 伊藤幹治 『柳田国男と文化ナショナリズム』 岩波書店、2002年 - 晩年の弟子の一人
福田アジオ 『柳田国男の民俗学』 吉川弘文館〈歴史文化セレクション〉、2007年。初刊は1992年- 石井正己 『柳田国男を語る』 岩田書院、2012年‐他数冊が刊
- 川田稔 『柳田国男のえがいた日本 民俗学と社会構想』 未來社、1998年 - 他数冊が刊
松本三喜夫 『柳田国男と民俗の旅』 吉川弘文館、1992年 - 他数冊が刊- 『庄司和晃著作集2 柳田国男と科学教育』明治図書、1988年‐他数冊が刊
千葉徳爾 『柳田国男を読む』 東京堂出版、1991年
佐伯有清 『柳田国男と古代史』 吉川弘文館、1988年
来嶋靖生 『評註柳田国男全短歌』河出書房新社、2018年‐他2冊が刊- 『柳田国男 日本文学研究資料叢書』 同刊行会編、有精堂出版、1976年
- 『柳田国男事典』 野村純一・三浦佑之ほか編 勉誠出版 1998年
- 柳田国男研究会編 『柳田国男伝』 三一書房 1988年 - 柳田研究の大著
- 『柳田国男 ジュネーヴ以後』 三一書房 1996年 - 他に「柳田国男研究」で、別の版元(岩田書院・梟社)で刊(2014年に7冊目)。
- 後藤総一郎 『柳田国男論』 恒文社 1987年 - 著者は柳田国男研究会代表を務めた。
- 後藤総一郎編 『柳田国男研究資料集成』(全20巻別巻2)日本図書センター、完結1987年
映像資料
- 後藤総一郎監修 『ビデオ・学問と情熱.9 柳田國男』 紀伊國屋書店、1998年
- DVD版は『学問と情熱 柳田國男 - 民俗の心を探る旅』で、2008年8月に再版。
- 「柳田国男・詩人の魂」 語り手・吉増剛造、NHK教育テレビ、2006年3月
- 『知るを楽しむ・私のこだわり人物伝』テキスト、他にも評伝番組はいくつかある。
- 『NHK特集、遠野物語をゆく 柳田國男の風景 第1・2部』、1977年10月放映
- 『ここに鐘は鳴る』 今和次郎らと対面、1962年3月22日放映で、没する数ヶ月前の映像である。
- 昭和32年(1957年)3月に放送文化賞を受賞したさいのテレビインタビューも現存している。
柳田國男が登場する作品
- 小説
- 『今昔続百鬼――雲』(京極夏彦)
- 『遠野物語より』(京極夏彦、『冥談』収録)
- 『くもはち』(大塚英志)
- 『小説とは何か』(『決定版三島由紀夫全集34』、新潮社、2003年)
- 漫画
- 『神秘家列伝』(水木しげる)
- 『北神伝綺』(脚本:大塚英志、作画:森美夏)
- 『八雲百怪』(脚本:大塚英志、作画:森美夏)
- 『オクタゴニアン』(脚本:大塚英志、作画:杉浦守)
- 『松岡國男妖怪退治』(脚本:大塚英志、作画:山崎峰水)
- 『恋する民俗学者』(脚本:大塚英志、作画:中島千晴)
脚注
注釈
^ 後年に、赤松宗旦 『利根川図志』(岩波文庫、初版1938年、復刊1994年ほか)を校訂解説した。本書は安政5年(1858年)に書かれた博物地誌。
^ 養父・柳田直平が永井岩之丞(平岡夏子の父親)と同僚だったことや、国男が夏子の夫・平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁で、三島由紀夫の祖母・夏子の家庭と早くから交流があったという[7]。
^ 上司の議長徳川家達(徳川宗家)との不和衝突が原因で、官界を辞め立身出世から外れ、以後学者として高名を挙げていった。辞任の経緯は、岡谷公二『貴族院書記官長 柳田国男』(筑摩書房、1985年)と、山本一生『恋と伯爵と大正デモクラシー 有馬頼寧日記 1919』(日本経済新聞出版社、2007年)に詳しい。
^ 他に、新学社『近代浪漫派文庫16 柳田國男』(歴史的仮名遣い)と、講談社文芸文庫『柳田國男文芸論集』(巻末に書誌・年譜)がある。
^ 創元社(創元選書・創元文庫ほか)での出版を引き継ぐ形で、角川文庫で約20冊が刊行し重版した。
^ 河出では2014年から、著作の改訂新版を相次いで刊行している。
^ 旧版は、岡谷公二『殺された詩人 柳田国男の恋と学問』 新潮社、1996年。
^ 元版は、吉本隆明『柳田国男論集成』 JICC出版局 、1990年/『柳田国男論・丸山真男論』 ちくま学芸文庫、2001年。第一部を収録。
出典
- ^ abc牧田茂『柳田國男』(中公新書、1972年)[要ページ番号]
^ 「故郷七十年」より、『柳田國男 ちくま日本文学全集』 431-432頁、新版 ちくま文庫(抄版)。[要文献特定詳細情報]
^ 岡田俊裕『日本地理学人物事典 (近代編Ⅰ)』原書房 2011年、p261
^ 岡谷公二 『柳田國男の恋』(平凡社、2012年)に詳しい。[要ページ番号]
^ 岩波文庫旧版で、根岸鎮衛 『耳嚢(耳袋)』全1巻を校訂している。解題新版は『柳田国男集 幽冥談』(東雅夫編、ちくま文庫)に収録。[疑問点 ]
^ 水野葉舟 『遠野物語の周辺』(国書刊行会、2001年)の解題、横山茂雄 「怪談への位相」より。[疑問点 ]
^ 柳田国男『故郷七十年』(神戸新聞社〈のじぎく文庫〉、1959年11月。新装版1989年・2010年)。橋川文三『三島由紀夫論集成』(深夜叢書社、1998年12月)pp.37-38
^ 椎葉民族芸能博物の館掲示物[疑問点 ]
- ^ ab佐谷 2015, p. 66.
^ 『柳田国男・南方熊楠往復書簡集』(平凡社「南方熊楠選集 別巻」、のち平凡社ライブラリー 上下)参照。
^ 佐谷 2015, p. 116.
^ 宮本常一『著作集1 民俗学への道』(未來社、1968年)[要ページ番号]
^ 新谷尚紀. “國學院大學|文学部(日本文学科) 教員詳細”. 2016年3月5日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。
^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
^ 『官報』第1038号、「叙任及辞令」1916年01月20日。
^ 『官報』第2711号「授爵・叙任及辞令」1921年8月13日。
^ 『故郷七十年』は、(朝日選書、オンデマンド版2002年)、(のじぎく文庫・神戸新聞総合出版センター、新装版2010年)で新版。2016年に講談社学術文庫刊。他に石井正己が再編した『柳田国男の故郷七十年』(PHP、2014年)がある。[疑問点 ]
参考文献
- 佐谷眞木人 『民俗学・台湾・国際連盟:柳田國男と新渡米稲造』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2015年1月。ISBN 9784062585941。
関連項目
- 天神真楊流
- 赤松啓介
- 東雅夫
- 有賀喜左衛門
- 井上円了
イタコ、サンカ
- 岡茂雄
- 越知川
- 折口信夫
- 嘉治隆一
- 鎌田東二
雑誌 心 - 編集同人で参加。- 幸田露伴
- 佐々木喜善
佐藤健二 - 全集編集委員、他は伊藤幹治・後藤総一郎・宮田登・石井正己・赤坂憲雄・小田富英
- 渋沢敬三
岩田準一 - 竹久夢二の弟子。画家・風俗研究家・民俗研究家。- 中村吉治
- 方言周圏論
- 牧口常三郎
- 正宗白鳥
- 宮本常一
- 和辻哲郎
砧村(現・世田谷区成城) - 「民間伝承の会」の拠点となった柳田宅の所在地。転じて、民族学グループ(会と対立関係にあり、のち日本民族学会に発展した)による、同会に対する蔑称。
外部リンク
- 成城大学|民俗学研究所|柳田國男について
- 福崎町立柳田國男・松岡家記念館
- 柳田文庫(慶應義塾大学言語文化研究所)
- 柳田國男記念公苑(茨城県利根町)
- 飯田市美術博物館―柳田國男館
- 国立国会図書館デジタルコレクション検索結果
- 柳田 国男:作家別作品リスト - 青空文庫
- 柳田國男 - NHK人物録