犬養毅
![]() いぬかい つよし[注釈 1] | |
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![]() 礼装である大礼服を着用した犬養 | |
生年月日 | 1855年6月4日 (安政2年4月20日) |
出生地 | ![]() |
没年月日 | (1932-05-15) 1932年5月15日(76歳没) |
死没地 | ![]() |
出身校 | 慶應義塾中退 (現・慶應義塾大学) |
前職 | 統計院権少書記官 |
所属政党 | (立憲改進党→) (中国進歩党→) (進歩党→) (憲政党→) (憲政本党→) (立憲国民党→) (革新倶楽部→) 立憲政友会 |
称号 | 正二位 勲一等旭日桐花大綬章 |
配偶者 | 犬養千代子 |
子女 | 芳沢操(長女) 犬養彰(長男) 犬養健(三男) |
サイン | ![]() |
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内閣 | 犬養内閣 |
在任期間 | 1931年12月13日 - 1932年5月15日 |
天皇 | 昭和天皇 |
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内閣 | 犬養内閣 |
在任期間 | 1932年3月16日 - 1932年3月25日 |
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内閣 | 犬養内閣 |
在任期間 | 1931年12月13日 - 1932年1月14日 |
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内閣 | 加藤高明内閣 |
在任期間 | 1924年6月11日 - 1925年5月30日 |
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内閣 | 第2次山本内閣 |
在任期間 | 1923年9月2日 - 1924年1月7日 |
その他の職歴 | |
![]() (1923年9月2日 - 1923年9月6日) | |
![]() (1898年10月27日 - 1898年11月8日) | |
![]() (1890年 - 1932年) |
犬養 毅(いぬかい つよし[注釈 1]、1855年6月4日(安政2年4月20日) - 1932年(昭和7年)5月15日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。通称は仙次郎。号は木堂、子遠。
中国進歩党総裁、立憲国民党総裁、革新倶楽部総裁、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任した。
目次
1 生涯
1.1 生い立ち
1.2 代議士として
1.3 総理就任
1.4 暗殺(殺害)
1.5 統帥権干犯問題
2 犬養の死後
3 人物・挿話
4 系譜
5 家族
6 栄典
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 関連項目
9 外部リンク
生涯
生い立ち
犬養の生家
備中国賀陽郡川入村(現・岡山県岡山市北区川入)で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男としてうまれる(後に犬養と改姓)。父は水荘と称した備中松山藩板倉氏分家の庭瀬藩郷士である。もともと、犬飼家は庭瀬藩から名字帯刀を許される家格であったが、毅が2歳の時、父がコレラで急死する不幸に見舞われたため、生活はかなり苦しかったという[1]。
同藩の経世学者楠之蔚の下で漢籍をおさめたのち[2]、1876年(明治9年)に上京して慶應義塾に入学し、一時共慣義塾(渡辺洪基と浜尾新主宰の塾)に通い、また漢学塾・二松學舍では三島中洲に漢学を学んだ。慶應義塾在学中に、郵便報知新聞(後の報知新聞)の記者として西南戦争に従軍(ちなみに、抜刀隊が「戊辰の仇!」と叫びながら突撃した事実は、一説には犬養の取材によるものとも言われている)。1880年(明治13年)藤田茂吉と共に、慶應義塾卒業前に栗本鋤雲(郵便報知新聞社主筆)に誘われて記者となる[3]。
明治10年代はじめ頃に豊川良平と東海社を興し、『東海経済新報』の中心として保護主義経済(保護貿易)を表明している(田口卯吉らの『東京経済雑誌』は自由主義を表明し論戦となった)。統計院権少書記官をへて、1882年(明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍する。また、大隈のブレーンとして、東京専門学校の第1回議員にも選出されている。『日本及日本人』などで軍閥、財閥批判を展開。
代議士として
1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を作る。
後に中国地方出身議員とともに中国進歩党を結成する(ただし、立憲改進党とは統一会派を組んでいた)が、進歩党・憲政本党の結成に参加、1898年(明治31年)の第1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。
1913年(大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸をなめながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後革新倶楽部となる)。

1929年、盟友の頭山満(左)や日本亡命中に庇護していた蒋介石(右)らと
犬養は政治以外にも神戸中華同文学校や横浜山手中華学校の名誉校長を務めるなどしていた。この頃、東亜同文会に所属した犬養は真の盟友である右翼の巨頭頭山満とともに世界的なアジア主義功労者となっており、ガンジー、ネルー、タゴール、孫文らと並び称される存在であった。
1907年(明治40年)から頭山満と共に中国漫遊の途に就き、1911年(明治44年)に孫文らの辛亥革命援助のため中国に渡り、亡命中の孫文を荒尾にあった宮崎滔天の生家にかくまう。書や漢詩にも秀でており、書道家としても優れた作品を残している。漢詩人の井土霊山は『木堂雑誌』に掲載された記事で犬養の手紙を「先づ上手」と賞している[注釈 2]。
総理就任
犬養は第2次山本内閣で文相兼逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても、逓信相を務めた。しかし犬養は、ほどなくして小政党を率いることに限界を感じて革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ、自身も政界から引退し、富士見高原の山荘に引きこもった。だが、世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ、衆議院選挙で当選させ続けた。

演説する犬養(政友会総裁のころ)
さらに政友会総裁の田中義一が没すると後継総裁をめぐって鈴木喜三郎と床次竹二郎が激しく争い、党分裂の恐れが出た。党内の融和派が引退状態の犬養担ぎ出しに動き、嫌がる犬養を強引に説得した。
1929年(昭和4年)10月、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれた。
同12月8日、日光東照宮の板垣退助像建立の時には、序幕式で頭山満と共に、祝辞を述べている[4][5]。(日光の板垣像建立も参照)
1930年(昭和6年)、濱口内閣が進めるロンドン海軍軍縮条約に反対して鳩山一郎とともに「統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。犬養のこの行動は、統帥権が政治的手段になる事を軍部に教えた形となり、日本の民主主義と政党政治が衰退する要因となった。当時の東京朝日新聞は、統帥権を政治利用した犬養らを非難しており「醜態さらした政友会は正道に還れ」という記事を書いている。なおこの時に犬養とともに統帥権問題を起こした鳩山一郎は軍部を台頭させた人物として戦後GHQにより公職追放された。
同年に勃発した満州事変を巡って第2次若槻内閣は閣内不統一に陥り、総辞職した。
この頃は内閣が行き詰まって政権を投げ出したときは、野党第1党に政権を譲るという「憲政の常道」のルールが確立されていた上、元老・西園寺公望は犬養が満州事変を中華民国との話し合いで解決したいとの意欲を持つことを評価して、昭和天皇に野党・政友会総裁の犬養を推薦したのである。この時、犬養は数え年で77歳。新聞は白髪を黒く染めて戦った源平合戦の老武将・斎藤実盛になぞらえ「昭和の実盛」と書いた。
犬養は組閣の大命が下ると直ちに解散・総選挙を断行し、政友会の議席を大きく伸ばした。これによりまず国民の支持を取り付けた上で、高橋是清を蔵相に起用して経済不況の打開に取り組んだ。高橋は金輸出再禁止と兌換(だかん)停止を断行、同時に積極財政へと転換を図った。これで日本経済は世界恐慌から最速で脱出した。
しかし、もう1つの課題の満州事変の処理は難物だった。犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。犬養の解決案は、満州国の形式的領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くというものだった。かねて支援していた元記者の萱野長知を上海に送って、国民党幹部と非公式の折衝に当たらせた。
しかし、萱野からの電報は内閣書記官長であった森恪に握り潰された。森はかつて三井物産の社員として中国で働き、孫文の革命運動を支援したこともある人物であったが、政界入りしてからは中国に対して強硬的な姿勢となり、弱腰とも取れる犬養内閣の外交姿勢に不満を持っていた。その為、森は辞表を提出していたが、犬養は最後まで受理しなかった。その後、交渉は行き詰まり、結局、犬養の満州支配構想は頓挫する事となった。
犬養は、軍部主導の満州国の承認には消極的であったが、その一方で公債による膨大な軍事費を支出していた。この軍備拡張が関東軍の大陸作戦に貢献したことから、陸軍との関係はそれほど悪くなかった。ただし、一部の青年将校の振舞いには深い憂慮を抱いており、陸軍の長老・上原勇作元帥に手紙を書き、この風潮を改められないかと訴えている。また天皇に上奏して、問題の青年将校ら30人程度を免官させようと考えていた。犬養はその考えを娘婿の外相・芳沢謙吉と森に喋ったため、森から連絡を受けた軍は統帥権を侵害するものと憤激した。
暗殺(殺害)

五・一五事件を伝える大阪朝日新聞
1932年(昭和7年)5月15日はよく晴れた日曜日だった。犬養は総理公邸でくつろいだ休日を過ごしていた。夫人、秘書官、護衛らも外出していた。犬養は往診に来た医者に鼻の治療を受けていた。
体にはなんの異常もなく、犬養は医者に「体中調べてどこも異常なしだ。あと100年はいきられそうじゃわい」と言っている。夕方5時半ごろ、警備も手薄の中、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団が、ピストルをふりかざして乱入してきた。襲撃犯の一人である三上卓は犬養を発見すると即座にピストルの引き金を引いた。だが偶然にも弾が入っておらず不発に終わり、その様子を見た犬養は両手を上げて、有名な文句「話せば分かる」を口にして将校たちを応接室に案内した。応接間に着くと「靴ぐらい脱いだらどうだ」と述べ、彼らに煙草を勧めたが、三上は「何か言い残すことはないか」と返した。その言葉を聞いた犬養は何かを言おうとしたが、興奮状態にあった山岸宏が「問答無用、撃て」と叫び、別働隊であった黒岩勇が応接間に突入して犬養を銃撃した。同時に三上も発砲して弾丸は頭部に命中した。襲撃者たちは犬養に重傷を負わせるとすぐに去って行った。女中たちが駆けつけると、犬養は顔面に被弾し鼻から血を流しながらも意識ははっきりしており、縋り付く女中を制して「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と述べたという。
10時ごろ大量の吐血をしたが、驚く周囲に「胃にたまった血が出たのだよ。心配するな」と逆に励ますほど元気だった。見舞いに来た家人に「九発撃って三発しか当たらぬとは、軍はどういう訓練をしているのか」と嘆いたという。しかしその後は次第に衰弱し、午後11時26分に絶命した。享年78、「昭和の実盛」の壮烈な死だった。
この事件の背景は、浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したことにあった。その際に全権大使だったのが元総理の若槻禮次郎である。浜口内閣が崩壊すると若槻が再び総理となり第2次若槻内閣が誕生した。その為、本来なら若槻が暗殺対象であったが、その若槻は内閣を纏めきれず一年足らずで総理を辞任してしまい、青年将校の怒りの矛先は若槻ではなく政府そのものに向けられることになった。そもそも犬養は、軍縮条約に反対する軍部に同調して、統帥権干犯問題で浜口内閣を攻撃し、軍部に感謝されていた側の人間である。しかし、その政府の長に犬養が就任した為、政府襲撃事件を計画していた青年将校の標的になってしまった。
事件後、森恪が手引きしたのではないかとの噂が絶えなかった。総理官邸に駆けつけた森の態度がおかしかったとする古島一雄の証言と、青年将校たちが犬養の在宅をどうして知ったのかが事件後の取調べでもはっきりしなかった為、森の手引き説が消えなかったのである。ただし、計画自体は一部の協力者(大川周明)を除けば極秘で進められており、森はおろか軍上層部も情報を掴めておらず、中谷武世は計画立案者である古賀清志から「犯行日時は海軍青年将校の間で自主的に決定した」「決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」との証言を得ている。
5月19日、犬養の葬儀が総理官邸の大ホールでしめやかにとり行われた。たまたま来日中で官邸からほど近い帝国ホテルに滞在しており、事件当日には犬養の息子である健と会食していた喜劇王チャーリー・チャップリンから寄せられた「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す。」との弔電に驚く参列者も多かった。
墓所は港区の青山霊園と岡山にある。
統帥権干犯問題
1930年に先の選挙に大敗北した、犬養を総裁とする立憲政友会は、ロンドン軍縮条約を攻撃した。
犬養毅政友会総裁は、「艦種の選択力量の決定は作戦計画に成りまったく専門的知識を俟つべきものである。 然して専門家の説を徴するにこれでは国防危険なりとの定論である。 果して然らば国家安危の係るところで、真に憂慮に堪えぬのである」と演説した。
この「専門家の意見」は軍令部の意見であった。 このとき政友会はロンドン軍縮条約に不満の軍令部と通じて、財部彪海軍大臣を窮地に陥れて浜口内閣倒閣しようとしていた。 政友会のこの野心を見ぬいていた海軍軍令部長加藤寛治大将、軍令部次長末次信正らの軍令部首脳は政友会を利用して批准を遮ろうとした。 彼らは海軍軍縮会議からの脱退を目論んでいた。
これに対し浜口雄幸首相は、軍部の硬化を顧慮して正面から対決せず、手続き論で乗り切ろうとした。 しかし、議会のこの統帥権論議は「尽忠精神」に燃える海軍軍人に強い衝撃を与えた。 その下地にはワシントン軍縮条約など国内外による軍縮への反撥があった。 陸軍もまた大正十四年、宇垣一成陸軍大臣(第一次加藤高明内閣)のもとで四個師団を廃し、 二千余の将校が馘首された苦い経験があるので、海軍の態度に同調した。[6]
上記のように第58帝国議会の論争で、政友会は軍部の主張を容認するかのような立場から、浜口内閣にゆさぶりをかけた。政友会総裁犬養毅は代表質問に立ち、軍令部が反対する兵力量では国民は安心できないと政府に詰めより、総務の鳩山一郎は政府が軍令部長の意見に反し、またはこれを無視して回訓を決定したのは統帥権干犯のおそれがあると、政府を非難・追及した。日露戦争以来、軍部は統帥権の独立を盾に、議会の統制を極力無視し、 軍の思うがままに国政を左右しようとする衝動をたえずもっていた。
大正時代の護憲運動から政党政治家であった犬養らがこの軍の非立憲主義的衝動を知らないはずは無く、 兵力量の決定という最も重要な国務を内閣の所管外であるかのように説いたのは、政党政治家の自殺行為に等しいものだった。また、政権を奪つための策略であったとするなら、あまりに目先の見えぬ愚挙であった。
実際に自らが首相になって軍縮をしようとした約二年後の1932年の五・一五事件で統帥権独立を呼号する軍部によって、その生命を断たれたのが 犬養毅自身なのはあまりに無残な歴史の皮肉だった。[7]
犬養の死後
犬養から端を発した統帥権干犯問題もさることながら、犬養の死と日本の対応も、日本の命運に大きな後遺症を遺し、その後「大正デモクラシー」と呼ばれることになった大正末期からの政党内閣制が続いていた昭和史の分水嶺となった。
事件の翌日に内閣は総辞職し、次の総理には軍人出身の齋藤實が就任した。総選挙で第1党となった政党の党首を総理に推すという慣行が破られ、議会では政友会が大多数を占めているにもかかわらず、民政党よりの内閣が成立した。大正末期から続いた政党内閣制は衰えが始まり、軍人出身者が総理についたが、まだ議会は機能していた。しかし、これ以後は最後の存命している元老の西園寺公望(1940年没)や重臣会議の推す総理候補に大命が降下し、いわゆる「挙国一致内閣」が敗戦まで続くことになった。この時期は武官または軍部出身者が総理になることが多く、終戦までの文官の総理は広田弘毅、近衛文麿と平沼騏一郎だけである。
満州事変は、齋藤内閣成立直後に締結された塘沽協定をもって終結を見た。
この後、日本は中国進出を進めて国際的孤立の道を進んでいった(ただし、この時点では列強諸国とのぶつかり合いはまだない。さらに蒋介石ら国民党の実力者達は、事変後に至ってさえ満州情勢には静観の姿勢を示し先ずは共産党殲滅を優先している。事変を激しく批判したのは中国共産党である)。
五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたものの世論の万単位の嘆願で軽い刑で済み、数年後に全員が恩赦で釈放され、彼らは満州や中国北部で枢要な地位についた。現職総理を殺した反逆者やそれを焚きつけたテロリストらに死刑を適用しなかったことが、さらに大掛かりな二・二六事件の遠因となった。なお、五・一五事件の海軍側軍法会議の判士長は「彼らを死刑にすれば彼らが殉教者扱いされるから死刑を出すのは良くないと思った」などと軽い刑に処した理由を語った。
この事件の後、浜田国松、斎藤隆夫などは反軍政治を訴えたが、大抵の政治家は反軍的な言動を差し控えるようになった。新聞社も、軍政志向への翼賛記事を書くようになり、政治家は秘密の私邸を買い求め、ついには無産政党までが「憎きブルジョワを人民と軍の統一戦線によって打倒する」などと言い始めた。後の翼賛選挙を非推薦で当選した政治家たちは、テロや暗殺にこそ遭わなかったが、軍部から選挙妨害を受け、さらに大政翼賛会に参加した諸政党からも言論弾圧を受けている。
人物・挿話
犬養には常に毀誉褒貶が付きまとった。
第1回衆議院議員総選挙での当選以来藩閥政治打倒の先頭に立っており、第1次護憲運動では尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれ[8]、東京朝日新聞の記者だった中野正剛は「咢堂が雄弁は珠玉を盤上に転じ、木堂が演説は霜夜に松籟を聞く」と評した。
犬養の演説は理路整然としていて無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったという。
その犬養が一旦藩閥政権である寺内内閣への内閣不信任案の共同提出を憲政会(桂に引き抜かれた元国民党議員が所属)に対して呼びかけながら、不信任案反対派の政友会と憲政会の足の引っ張り合いを皮肉って、政権を巡って右往左往する憲政会の態度を切って捨てて、そのまま衆議院解散に持ち込み、総選挙では孤立した憲政会に大打撃を与えた上で寺内正毅の要請を受けて寺内内閣の臨時外交調査会に入ったため、たちまち「変節漢」の悪罵を浴びた。その落差は大きい。

頭山満(テーブルの向こう側中央)やボース(テーブルの向こう側の後ろ)、内田良平(頭山の右隣)らと

前列左から、五百木良三、犬養毅、頭山満、古島一雄。後列左から、島野三郎、在東京回教僧正クルバンガリー、在神戸回教僧正シャムグノーフ、 足羽清美
その後も、山本権兵衛内閣や護憲三派による加藤高明内閣にも閣内協力をした。
犬養は普通選挙の実現をはじめ、経済的軍備論、南方進出論、産業立国論など独自の政策を温めていた。
明治の政界で隠然たる影響力を誇っていた山縣有朋が「朝野の政治家の中で、自分の許を訪れないのは頭山満と犬養毅だけ」と語ったという話もある。同じように藩閥支配に敵意を抱きながら、原敬は山縣に接近し、その力を利用して自らの勢力拡大を図った。一方で犬養はその道をたどらず、ほとんど少数政党に身を置いて苦労を重ねた。
犬養は毒舌でも有名だった。親友の古島一雄は、犬養の毒舌がやたらに政敵を増やすのを見て「ご主人の出掛けに口を慎めと必ず言ってくれ」と夫人に頼んだほどである。これは、意志が強固で悪や卑劣を憎む犬養の性格からくるものからでもあったと思われる。
私生活では全く無欲の人で、細かいことには無頓着だった。嫌いな食べ物が出ても文句を言わず、着せられる着物を黙って着ていた。議会事務局で働く少年が病気になると、自宅に引き取って学校に通わせるなど、困った人を見ると援助の手を差し伸べずにはいられないところもあった。
宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて中国から亡命してきた孫文や蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまったこともあった。宮崎は当初、犬養が大隈重信寄りだったため警戒していたが、自宅で会ってみると、煙草盆片手にヒョロヒョロと出てきて、あぐらをかいて煙草を吸い全く気取らない。宮崎は直感的に「好きな人」と判断したという。
また囲碁は本因坊秀栄と交友があり、後に日本棋院は三段を追贈した。1928年の呉清源の訪日の際も、援助を行った。
陸軍統制派の中心人物であった永田鉄山は、五・一五事件で銃口を向けられながらも話せばわかると説いた犬養の態度を古今の名将にもまさる床しさを感じると称賛し、犬養を射殺した犯人達を批判しながら、不穏な動きを見せていた一部の軍人の行動を言語道断と評した。しかし、その後まもなく相沢事件によって永田本人も凶刃に倒れ、二・二六事件につながっていく。[9]
系譜
吉備津神社に建つ銅像
- 犬養氏
- 伝承によると、遠祖は吉備津彦命に従った犬飼健命(イヌカイタケルノミコト)[10]、江戸時代には大庄屋を務めた豪家だった。遠祖・犬飼健命は吉備津彦命の随神であったとして吉備津神社への崇敬の念強く、神池の畔に犬養毅の銅像が建ち、吉備津神社の社号標も犬養毅の揮毫である。
- 曽祖父・犬飼幸左衛門当謙は訥斎と号し、京都の守中翁若林強斎に遊学し、垂加翁山崎闇斎の学問を、吉備津に伝えた(岡次郎直養編『強斎先生雑話筆記』)。犬養木堂は、崎門の宿老であった。
孫左衛門(室は間野貞宗[注釈 3]の娘) ━ 次郎左衛門 ━ 忠兵衛 ━ 源左衛門當展 ━ 幸左衛門當謙 ━ 仙左衛門當則 ━ 健蔵當吉 ━ 源左衛門當済 ━ 仙次郎毅
家族
- 妻:千代
- 妾:斎藤仙(せん) - 元烏森芸者[11]
- 長女:芳沢操
- 女婿:芳澤謙吉 - 外交官。
- 長男:犬養彰 - 仙の子。継母(毅の後妻)とそりが合わず廃嫡。彰の長男に犬養正男がいる。
- 三男(次男という説もある):犬養健 - 仙の子。政治家、小説家。兄彰の廃嫡後、嗣子となる。妻・仲子は長與稱吉の次女。
- 孫(健の長女):犬養道子 - 評論家。
- 孫(健の次女):安藤和津 - エッセイスト。奥田瑛二夫人。健の愛人だった柳橋の芸者との間に生まれ、その後、子として認知された。
- 孫(健の長男):犬養康彦 - 共同通信社社長。
- 曾孫:緒方貞子 - 日本政府アフガニスタン支援特別代表、元国連難民高等弁務官。母は、芳沢謙吉・操夫妻の長女・恒子。父は、外交官の中村豊一。
- 曾孫:安藤桃子 - 映画監督。
- 曾孫:安藤サクラ - 女優。夫は俳優の柄本佑(俳優の柄本明の長男)。
- 従兄弟:小松原慶太郎-実業家。倉敷紡績所、倉敷銀行(現中国銀行)などを設立。
栄典
1898年(明治31年)11月4日 - 正三位 [12]
1915年(大正4年)11月10日 - 勲二等瑞宝章 [13]
1920年(大正9年)9月7日 - 勲一等旭日大綬章 [14]
1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章 [15]
1932年(昭和7年)5月16日 - 正二位・旭日桐花大綬章 [16]
脚注
注釈
- ^ ab毅は「つよき」とも称する(参照:近代日本人の肖像「犬養毅」、国立国会図書館)。憲政記念館では「つよき」と表記する。また『犬養木堂伝』上巻(東洋経済新報社、昭和13年)口絵(ノンブルなし)の憲政国民党時代「自筆の履歴書」では「イヌカヒ ツヨキ」となっている
^ 井土靈山「惡札の裁判―木堂先生の屑籠埋葬―」『木堂雑誌』3号、1925、34-35頁.(同記事には犬養が霊山に語ったという「近頃の大學性なぞの手紙は丸るで腐つた女郎の手紙とでも云つたやうなもので、字體から文句から自體ものになつて居らぬ、そんな手紙が來ると讀むのが苦痛だから屑紙籠に葬って仕舞ふばかりだ」との言が見える。)
^ 源義仲 ━ 清水太郎義高 ━ 清水左近義季 ━ 清水左衛門為頼 ━ 清水四郎左衛門義治 ━ 清水五郎左衛門治興 ━ 清水希一郎貞興 ━ 清水源太郎義信 ━ 清水慶之介義員 ━ 清水八郎高貞 ━ 清水源太兵衛貞氏 ━ 間野徳兵衛貞元 ━ 間野源左衛門貞宗 犬養(犬飼)家系図
出典
^ 『犬養毅』 山陽図書出版 平沼赳夫 1975年 p.255
^ 『犬養毅』 山陽図書出版 平沼赳夫 1975年 p.255
^ 岩淵辰雄 『犬養毅』P15 時事通信社 1986年 ISBN 4788785633
^ 『土陽新聞』昭和4年(1929年)12月10日号参照
^ 田辺昇吉『日光の板垣退助銅像』(所収『土佐史談』第161号)
^ 松本清張 「昭和史発掘(7)」 P.191
^ 中村政則 「昭和の歴史(2)」 P.188
^ 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年、1055頁。ISBN 4-06-203994-X。
^ 上法快男編、高山信武著、『続・陸軍大学校』芙蓉書房 1978年
^ 犬飼健命は昔話「桃太郎」の犬のモデルになったとされる。
^ 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017/07/25、「犬養毅」の章
^ 『官報』第4606号「叙任及辞令」1898年11月5日。
^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
^ 『官報』号外「叙任及辞令」1932年5月16日。
関連項目
- 栗本鋤雲
- ラス・ビハリ・ボース
- 孫文
- 潘佩珠
- ファン・ボイ・チャウ
- 神戸中華同文学校
- 林醇平
- 犬養木堂記念館
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第2章 歴代首相 | あの人の直筆 - 国立国会図書館
公職 | ||
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先代: 若槻禮次郎 |
![]() 第29代:1931年12月13日 - 1932年5月16日 |
次代: 斎藤実 |
先代: 中橋徳五郎 |
![]() 第50代:1932年3月16日 - 同3月25日(兼任) |
次代: 鈴木喜三郎 |
先代: 幣原喜重郎 |
![]() 第45代:1931年12月13日 - 1932年1月14日(兼任) |
次代: 芳澤謙吉 |
先代: 前田利定 藤村義朗 |
![]() 第27代:1923年9月2日 - 1924年1月7日 第29代:1924年6月11日 - 1925年5月30日 |
次代: 藤村義朗 安達謙蔵 |
先代: 尾崎行雄 鎌田栄吉 |
![]() 第15代:1898年10月27日 - 同11月8日 第35代:1923年9月2日 - 同9月6日 |
次代: 樺山資紀 岡野敬次郎 |
党職 | ||
先代: 田中義一 |
立憲政友会総裁 第6代:1929年 - 1932年 |
次代: 鈴木喜三郎 |
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