源宗明
凡例 源宗明 | |
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時代 | 南北朝時代 |
生誕 | 元徳元年(1329年)または元徳2年(1330年) |
死没 | 不明 |
別名 | 宮大納言 |
官位 | 従一位・権大納言 |
主君 | 後醍醐天皇→光厳天皇→光明天皇→崇光天皇→後光厳天皇→後円融天皇 |
氏族 | 後深草源氏 |
父母 | 父: 久良親王 |
兄弟 | 宗明、宗久 |
源 宗明(みなもと の むねあきら)は、南北朝時代の公卿。鎌倉幕府8代将軍・久明親王の子[1]である久良親王の子。官位は従一位・権大納言。宮大納言と号す[2]。
目次
1 出自
2 経歴
3 脚注
4 出典
出自
参議を経ずに権中納言に任ぜられるという摂関家出身者並の昇進をし最終的には従一位に叙せられるなど、破格の待遇を受けた。
洞院公定の日記『玉英記』の記事に従えば、宗明は久良親王の息男ということになる[3]。また、『師守記』の内容から判断すると、当時既に出家していた久良親王(土御門入道親王)から臣籍降下した後に親王に復した例について意見を求められて所見を述べた[4]とあるのは、息男宗明の将来を念頭に置いてのことではないかと推測できる。
『玉英記』や『師守記』の内容から判断すると、宗明が元服する頃に実父の久良親王[5]は既に出家していたため二条家が後見となったのではないかと推測できる[6]。
経歴
以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
延元3年/暦応元年(1338年)8月11日、源氏姓を賜り従四位下に叙せられ侍従に任ぜられる[7]。延元4年/暦応2年(1339年)4月18日、左中将に任ぜられる。興国元年/暦応3年(1340年)7月19日、正四位下に昇叙。興国2年/暦応4年(1341年)4月16日、従三位に叙せられる。左中将は元の如し。興国6年/康永4年(1345年)4月16日、正三位に昇叙。
興国7年/貞和2年(1346年)2月18日、参議を経ず権中納言に任ぜられる。正平3年/貞和4年(1348年)4月12日、従二位に昇叙。同年12月24日には権大納言に昇進。正平9年/文和3年(1354年)10月22日、権大納言を辞した。正平10年/文和4年(1355年)8月13日、正二位に昇叙。
正平15年/延文5年(1360年)4月、従一位に昇叙。天授5年/康暦元年(1379年)、出家[8]。
脚注
^ 『公卿補任』によれば、父久良親王は二条道平亭で元服しているため、親子そろって二条家の庇護を受けたと考えられる。
^ 『師守記』貞和5年(1349年)11月1日の条。
^ 『玉英記』、暦応元年8月11日の条。ただし、洞院公定は暦応2年(1339年)生まれのため、この記録は父祖の記録を引き継いだ記述と考えられる。
^ 『師守記』貞和3年(1347年)6月14日の条による。
^ 『師守記』によれば、嘉暦3年(1328年)6月13日に源氏姓を賜り従三位に叙せられ、同日に右中将に任ぜられている。
^ 『玉英記』、暦応元年8月11日の条。『師守記』貞和3年(1347年)6月14日の条。
^ 『玉英記』、暦応元年8月11日の条によれば、土御門入道親王すなわち久良親王の息男である宗明王を四位に直叙したとある。
^ 出家した月日は不詳。
出典
- 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※興国2年/暦応4年(1341年)に宗明が非参議従三位となった時以降の記事。
- 『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「源宗明」および「二条道平」の項。
- 『玉英記』抄、文科大学史誌叢書抄
- 『師守記』 国立国会図書館蔵