杉浦忠


































































杉浦 忠

Tadashi Sugiura 1959.jpg
雑誌『週刊野球』1959年6月24日号表紙

基本情報
国籍
日本の旗 日本
出身地
愛知県西加茂郡挙母町
(現:豊田市)
生年月日
(1935-09-17) 1935年9月17日
没年月日
(2001-11-11) 2001年11月11日(66歳没)
身長
体重

176 cm
71 kg
選手情報
投球・打席
右投右打
ポジション
投手
プロ入り
1958年
初出場
1958年4月5日
最終出場
1970年10月10日
1971年3月25日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴




  • 愛知県立挙母高等学校

  • 立教大学


  • 南海ホークス (1958 - 1970)




監督・コーチ歴




  • 南海ホークス(1966 - 1967)


  • 近鉄バファローズ (1974 - 1977)

  • 南海ホークス
    福岡ダイエーホークス (1986 - 1989)





野球殿堂(日本)


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選出年
1995年
選出方法
競技者表彰

杉浦 忠(すぎうら ただし、1935年9月17日 - 2001年11月11日)は、愛知県西加茂郡挙母町(現:豊田市)出身のプロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督、解説者・評論家。「史上最強のアンダースロー」「魅惑のアンダースロー」などと呼ばれた[1][2]




目次






  • 1 経歴


    • 1.1 プロ入り前


    • 1.2 現役時代


    • 1.3 引退後




  • 2 プレースタイル


    • 2.1 投球スタイル


    • 2.2 各選手による評価


    • 2.3 稲尾とのライバル関係


    • 2.4 セ・リーグへの反抗精神




  • 3 逸話


    • 3.1 鶴岡との関係


    • 3.2 背番号


    • 3.3 幻の大リーガー第一号


    • 3.4 立大時代の脱走歴


    • 3.5 人物




  • 4 詳細情報


    • 4.1 年度別投手成績


    • 4.2 年度別監督成績


    • 4.3 タイトル


    • 4.4 表彰


    • 4.5 記録


    • 4.6 背番号




  • 5 関連情報


    • 5.1 出演番組


    • 5.2 著書




  • 6 脚注


  • 7 関連項目


  • 8 外部リンク





経歴



プロ入り前


「忠」の名は「南総里見八犬伝」から取られたもの。(父、定治は、長男を「仁」、次男を「智」、三男を「孝」、四男を「忠」、五男を「義信」と命名した[3]


挙母高校時代は無名の速球投手[4]だったが、立教大学進学後は同期の長嶋茂雄・本屋敷錦吾と3人で「立教三羽ガラス」と呼ばれた。


1年春から登板があり[4]、もともとオーバースロー投手であったが、大学2年の時にサイドスロー(アンダースローと呼ばれることなどもある)に転向した。杉浦自身は、転向の理由を「メガネ」としている(当時のメガネはガラスとセルロイドで重かった)。「上手投げ時代のフォームは上下動が激しかったので、投げるたびにずれて苦労していた」「それで、頭の位置を一定にさせるためにサイドスローがよいのではないかと思い、実際、やってみると見違えるようにコントロールが良くなった」「オーバースローで投げていたときの方が、ボールは速かったね。自分でいうのもおかしいが、滅茶苦茶に速かったと思う」と語っている[1][5]。2年春閉幕後の「砂押排斥事件」の後、自主練習の期間があり、そのときにフォームを変えたもので、「砂押監督時代なら反対されてできなかったと思う」と述べている[6]


東京六大学リーグ通算36勝(立教OBとして最多)12敗、防御率1.19、233奪三振、ベストナイン2回。勝利の大半を占める28勝は、フォーム変更後の2年間で挙げたものである。


1957年春、秋季リーグ連覇に貢献し[4]、秋の早大戦では森徹、木次文夫らの強力打線を抑え、ノーヒットノーランを達成した。同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で興津達雄らのいた専大を降し優勝した。



現役時代


卒業後は日本ビールか朝日新聞社への入社も考えていたが、1958年に南海ホークスへ入団した。入団の際には当時南海の主力選手で大学の先輩でもある大沢昌芳を通じ、長嶋茂雄と共に少なからぬ額の栄養費を受け取っており、両者の南海入団は確実視されていた。その後、翻意して読売ジャイアンツへ入団した長嶋と、義理堅く南海へ入団した杉浦との対比が現在でも語り草となっている[7]。長嶋が予想に反して巨人へ入団したことを聞き、心配になって杉浦の元へ来た鶴岡(山本)一人だが、杉浦は「心配ですか?僕がそんな男に見えますか?」とだけ言って笑顔を浮かべたことに、鶴岡は「その静かな口調の底に、『僕は一度決めたことを破るような男ではありませんよ』という強い鉄石のような心が隠されていた(と、後になって分かった)」と語っている[8]


入団後は新人ながら開幕投手を務め、対東映フライヤーズ戦でプロ初勝利を挙げた[9]。鶴岡が試合後に「固くなったのか?と聞くと、『固くなりました』と言っていた」と言ったように[8]立ち上がりこそ不安定だったが、味方の大量援護に落ち着きを取り戻したものだった。下手から浮き上がる速球と横に大きく曲がるカーブで相手打者を手玉に取り[4]、この年は27勝を挙げて新人王を獲得、鶴岡を「これでやっと西鉄を叩くことが出来る」と喜ばせた[4]


2年目の1959年は38勝4敗(勝率.905)という驚異的な成績で南海のリーグ優勝に貢献し、MVPを獲得、日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)では第1戦から4連投し、4連勝の大活躍で南海を初の日本一に導き、シーズンに続いて日本シリーズMVPを獲得した。試合後に記者団の問いに、杉浦は「一人になったら、嬉しさが込み上げてくるでしょう」と言ったつもりだが、「一人になって泣きたい」という言葉が一人歩きしたと、自叙伝で語っている[10]。同年には54回2/3連続無失点のパ・リーグ記録を樹立しているが、この記録は直前の8月26日から9月9日にかけて43回連続無失点を記録し、9月13日の対西鉄ライオンズ戦で失点、15日の対近鉄パールズ戦で2回に1失点した直後の3回から作られたものである[11]。また、同年は日本プロ野球史上5人目、リーグ分立後は2人目となる投手五冠王(勝利、防御率、奪三振、完封数、勝率)を達成しているが、この記録は2018年現在までに杉浦の他に沢村栄治(読売ジャイアンツ、1937年春)、ヴィクトル・スタルヒン(読売ジャイアンツ、1938年秋)、藤本英雄(読売ジャイアンツ、1943年)、杉下茂(中日ドラゴンズ、1954年)、江川卓(読売ジャイアンツ、1981年)、斉藤和巳(福岡ソフトバンクホークス、2006年)の7名しか達成していない大記録である[11]。しかも杉浦の五冠は、各部門で2位以下を大きく引き離しての達成であり、スケールの大きさは史上最高ともいえるものだった。


1960年も31勝を挙げ[12]、シーズン30勝以上を2度以上記録したのも杉浦以外にはスタルヒン、野口二郎、別所毅彦、杉下、稲尾和久、金田正一、権藤博だけの大記録を達成した。1961年5月には通算100勝を達成、プロ入りから僅か3年1ヶ月、188試合目での史上最速記録だった[13]。しかし、連投による右腕の血行障害(動脈閉塞)[14]により、20勝を挙げた直後にチームを離脱、太股の血管の移植手術を受け、残りはリハビリに費やした。1962年には復帰したが右腕は元に戻ることは無く、同年、1963年とそれぞれ14勝止まりとなり、1964年こそ20勝したものの、これを最後に二桁勝利を挙げることは無かった。故障から復帰後は握力が大きく落ち、僅か50球を投げただけで腕がカチカチに強張ってしまったという[10][15]。1965年シーズン終了後、一度現役を引退して南海の一軍投手コーチに就任するが、1966年の開幕直前にコーチ兼任で現役に復帰した[16]。コーチ兼任は1967年までで[17]、復帰後も何度か引退を表明したが、その度に周囲から慰留されたりしてその後5年に渡り現役を続けた[18]


先発投手として長いイニングを投げられなくなってからは、主に抑えの切り札としてチームに貢献した。杉浦は「僕が(抑えの切り札としては)パ・リーグの元祖ですかね。リリーフ成功率は高かったですよ。前の投手が出したランナーを返したことは無かったと思います。セーブ制度があればかなり行ったでしょうね」と語っている[6]。1970年に現役引退を決意し、同年12月に正式に表明した[18]。1971年3月25日に行われた対読売ジャイアンツ戦(オープン戦、大阪スタヂアム)が杉浦の引退試合として行われ、5回終了後、試合の記録に含まれないセレモニーとして杉浦が登板し、巨人は大学の同窓だった長嶋茂雄を打席に送った[19]。試合直前、長嶋は記者の質問に「思いっきり振って三振するよ」と答えていたが、実際は杉浦が投じた2球目を弾き返した。試合後、杉浦は「向こう(長嶋)も真剣に打ってくれて…妙なことをしてもらうより嬉しかった」と述べている[19]


プロでは完全試合、ノーヒットノーランとは縁が無かったが、1964年には打たれた安打が1本だけの準完全試合を達成している[11]


通算187勝を挙げ、200勝以上が入会基準である名球会には加入出来ないが、落合博満が「あの杉浦さんが入れない名球会に意味があるの?」と疑問を呈したように、日本プロ野球史上屈指の名投手であることに疑問の余地はない[1]。なお、落合は通算2371安打を放っており、野手の入会条件である通算2000安打を満たしているが、入会を辞退している[20]



引退後


現役引退後は毎日放送解説者・スポーツニッポン評論家(1971年 - 1973年)を経て、立教の大先輩・西本幸雄に請われて1974年から1977年まで近鉄バファローズの一軍投手コーチを務めた。鈴木啓示らを指導した。その後は再び毎日放送の野球解説者を務めた。


1985年オフに古巣・南海の監督に就任。1986年オフに獲得した加藤英司(巨人を自由契約となり、西本が仲介して移籍してきた)の現役生活の最後を飾る奮闘も有り、1987年は9月初めまで久々の優勝争いを演じた。1988年にチームはダイエーに売却され、福岡に移転する。


南海としてのホームゲーム最終戦後のセレモニーで「長嶋君が引退した時に『読売巨人軍は不滅です』と、こういう言葉を使ったわけですけれども…ホークスは不滅です!」「ありがとうございました、(福岡に)行ってまいります!」とのスピーチを残した。


引き続き、福岡ダイエーホークスの初代監督となったが、1989年限りで退任。その後は1990年にフロント入りし、1994年に退職した。


ホークス退団後は、1995年から九州朝日放送(KBC)の野球解説者を務め、「仏の杉浦、鬼の河村」で人気を博した。柔らかい、穏やかな語り口から人気を得たが、柔らかいながらも時には叱咤激励のコメントを出すこともあった。当時のキャッチコピーは「マイクの前のジェントルマン」。また後年は「球界の紳士」とも紹介されていた。1999年に南海の後身であるダイエーが優勝を決めた試合でのラジオ放送では、「ひとりで中洲で酒を飲みたい」と中継内でコメントした。


2001年よりプロ野球マスターズリーグ、大阪ロマンズのヘッドコーチに就任。3試合のみ代理監督を務めた。同年11月11日、大阪ロマンズの遠征先で宿泊していた札幌市内のホテルで、急性心筋梗塞のため死去。66歳没。浄土真宗本願寺派堺別院で行われた告別式では、山門前に集まったファンが掲げる南海ホークス球団旗と球団歌「南海ホークスの歌」の合唱で見送られた。


杉浦の功績を称え、マスターズリーグの最優秀投手に与えられる「杉浦賞」に名を冠している。



プレースタイル



投球スタイル


地面ギリギリから浮かび上がるようなストレートと大きな横のカーブが武器であった。カーブは変化が大きく、ストライクと思って空振りした左打者の体にあたることもしばしばだった[1]。野村克也は、その著書で、「榎本(喜八)は外角からの切れ味鋭いカーブに空振りしたのに、球が腹に食い込むように当たった」とのエピソードに触れている[21]


杉浦のフォームは、「手首を立てたアンダースロー」といわれる独特の手首の使い方に特徴があった。オーバースローをそのまま上体を横に倒しただけで、腕は肩より下がることはなく、ボールに独特の回転と切れを与えた。加えて天性の関節の柔らかさ(特に股関節)がサイドスロー投法にはまり、流れるようなフォームから威力抜群の速球を生む要因となった。このフォームは、巨人の大友工の連続写真を新聞記者からもらい研究した結果、辿り着いたものだという[1]


全盛時、杉浦が投げるとき、バックネット裏やベンチにいる者にまで、手首を返す「ピシッ」という音が聞こえたという[1][5]


野村は自著[22]の中で、杉浦の類まれなる下半身の強靱さと、筋肉の質の良さについて語っている。野村によると、1960年オフに、サンフランシスコ・ジャイアンツが来日した際に、触れさせてもらったウイリー・メイズの腕の筋肉と、杉浦の腕を触ったときの感触がまるで同じで「おまえの体はメイズ並みだな」と、ため息が出たという。


杉浦の下半身の強さについては、広瀬叔功も「私(広瀬)は南海に入ってから、競走して負けたことはほとんど皆無だった。しかし、スギやん(杉浦)には負かされたことがある」「スギやんは足も速くて、何より体が柔軟だった」と、同様の証言をしている[23][24]


しかし、後年、シンカーを覚えたことで持ち味を殺してしまったともいう。酷使され、少しでも投球数を減らしたかった杉浦は同い年の技巧派アンダースロー、皆川睦男が、大きく沈むシンカーを武器に、1球で内野ゴロを打たせ、1アウトを取るのを見て羨ましがったのだという。「皆川のようなシンカーを覚えたい」と相談された野村は、サイドスローでシンカーを投げようとすると、ボールを放すときに手の捻りを逆回転させなければならず、杉浦の持ち味であるストレートに悪影響を及ぼすとして大反対し、スライダーを勧めたが、杉浦は反対を押し切ったのだという[22][25]。野村は、「もし杉浦があのとき、沈む球にこだわらなければ、勝ち星は確実に増えていただろう」と説得に折れたことへの後悔の念を綴っている[22]



各選手による評価


野村克也は、「対戦した中で一番凄かったのは稲尾だけど、おれが受けた中では杉浦が最高のピッチャーだ。右打者の背後からカーブが曲がってくるんやで。背中を通る軌道の球がストライクになってくる。しかも真っすぐは明らかに浮き上がってきた」「内角への速いスライダーを右打者に投げさせてみたら、面白いようにバットが折れてさ。本当に楽しかったよ」[15]「日本プロ野球界で数少ない本格派のエース」[26]と賛辞を贈る一方、「捕手としてバッテリーを組んでいると、実に退屈だった。杉浦の投げたいように投げさせていれば、まともな打球は飛ばない。捕手の出る幕はなかった」[27]とも語っている。


1954年、1955年に2年連続で最多勝を獲得した、ホークスの同僚、宅和本司は「杉やんの投球を見た時に『上には上がいた』と愕然とした。ピッチングの哲学にしても、ボール一つ無駄にしない。だから私の知る限り、杉やんが敬遠したのを見たことがない。四球を嫌って、いかに最少投球数でアウトを重ねるかを考えた。阪急の山田久志も素晴らしいアンダースローだったがタイプが違った。杉やんは下から投げるんだが、手首が立って上から投げる軌道を描く。西鉄戦は杉浦と稲尾和久のエース対決になるわけだが、私がブルペンに行こうと思ったら、親分(鶴岡)に『お前はベンチでジッとしとけ』と止められた。今日はリリーフはいらんということだろう。それほど信頼されていた。38勝した2年目なんていつ負けるんだろうと思って見ていた。もうあんなピッチャーは出てこない」と語っている[15]


1959年の日本シリーズでの杉浦について、長嶋茂雄は、「地面に沈み込むようなアンダースローの右腕から投げ込まれる速球が、右打者の背中から外角へと走っていく。まったく打てませんでした」と述懐している[15]


張本勲は、「パ・リーグの投手のトップ3は、稲尾、杉浦、そして、土橋正幸」、「すごいのは杉浦さんのカーブ。ウチの西園寺昭夫さんは『当たる!』と尻もちをついた。それが、ググッと曲がってストライク。これを見た杉浦さんがクスクス。つられて球審さんまでクスクス(笑)」、「杉浦さんは「オレのカーブは大き過ぎて困ったんだ。もう少し小さく鋭く曲がるヤツが欲しいなあ」と嘆いていましたが、何というぜいたくな嘆きでしょう」などと回顧している[28]。また、アンダースローの投手では「1.杉浦忠、2.秋山登、3.山田久志」の順で球の威力がある投手と評している[29]


山田久志は杉浦のカーブについて次のように回顧している[30]。「私は杉浦さんの現役時代にかろうじて間に合ってるんです。これは幸運だったですね。杉浦さんのカーブが信じられない曲がり方をするので『カーブについて教えてください』と頼み込んだことがありました。杉浦さんは快く『来なさい』と大阪スタヂアムのロッカーに連れて行ってくれた。で、カーブの投げ方を見せてくれたのですが『エーッ!?』でした。説明するのは難しいのですが、とにかくあんな投げ方はできっこありません。ただ、ヒジから上が立ったままなのは、私と同じでした。これでないとサブマリン投手のボールは速くならんのです。」


1958年の秋、セントルイス・カージナルスが来日しての日米親善野球では、カージナルスの14勝2敗という成績であったが、日本の2勝のうちの1勝は、杉浦が完投勝利(9対2)したものであった。三振したカージナルスの4番、スタン・ミュージアルは、帰国の際に「あの21番を付けたピッチャーが、もっとも印象に残った」とコメントしている[31]


なお、杉浦自身が、打者として対戦してみたい投手は「自分自身」であるという。理由は「自分の投げる球がどれほどのものか見てみたいから」と語っている。



稲尾とのライバル関係


現役時代、同世代の大投手・稲尾和久とは対戦も多くライバルであったが、同時にマウンドマナーなど学ぶところも多く、稲尾の仕草を自分のものとするように努めたという。


稲尾との投げ合いになったある試合で、稲尾が投げた後の1回裏に杉浦がマウンドに行くと、1回表に稲尾が投げたのだから投球の際に踏み込んだ部分はそれなりに掘られているはずなのに、マウンドはきれいにならされていた。杉浦は「初回だからかな?」程度に思っていたという。しかし2回裏、3回裏、それ以降も同様にきれいにならされていて、ロージンバッグもすぐ手の届く位置に置かれていた。「もしや稲尾がならしているのでは?」と感じ、実際にその通りであったため、杉浦は稲尾を「すごいピッチャーだと思った」という。杉浦は「それからはすぐ稲尾の真似をしました」「(しかし)ぼくはピンチの後ではマウンドが荒れていることなどつい忘れてしまうのですが、彼はたったの一度も、マウンドが荒れた状態でぼくに(マウンドを)渡したことはなかった」と語っている[5]


1958年の秋、セントルイス・カージナルスを迎えての日米親善野球で、中西太、稲尾和久と杯を傾ける機会があった。杯を重ねるごとに、杉浦の語気が鋭くなり、やがて二人をつかまえて「太さん、稲尾、ここに座れ」「来年は絶対に勝つからな!」と息巻いたという。中西は「大逆転で優勝を逃がした悔しさが胸の中にたぎっているような声だった」と述懐している[32]。なお、杉浦は「途中からプッツンと記憶が切れてしまった」「あとから聞いた」と述べている[10]


野村克也が著書の中で頻繁に取り上げているエピソードの一つに、ある年のオールスター戦でベンチが一緒になった際、野村が稲尾の癖を熱心に研究していることを杉浦が喋ってしまい(杉浦は野村の研究熱心さを稲尾に誇るつもりで発言した)、稲尾が癖を直して対戦して来たため、新たに研究し直さなければならなくなったというものがある。野村は、「(三人で)セ・リーグの打撃練習を見てたら、杉浦が『サイちゃん(稲尾)、野村はよう研究しとるで』っていうわけだよ。そうしたら、稲尾の顔色がパッと変わった。それだけのことなんだけど、オールスターが終わって稲尾との初対決のとき、1球様子を見たれと思って見逃したら、インコースに来るはずの球が外角に。ありゃと思って稲尾の顔を見たらにたぁっと」と語っている[33]


なお、杉浦の自著[10]によると、稲尾と杉浦が投げ合って勝敗に関わった試合は、24勝24敗の五分である。



セ・リーグへの反抗精神


稲尾が持っていて自分にはない長所は、手本として素直に受け入れようという態度で稲尾に接した杉浦であるが、その一方で、セ・リーグの華やかな存在に対しては、徹頭徹尾逆をいってやるという反抗精神に燃えていた。杉浦の落ち着いたマウンドさばきや静かな語り口は、そのような対抗心から生まれたものだといい、金田正一、村山実、藤田元司など華やかに脚光を浴びるセ・リーグの投手が派手なアクションをすれば、杉浦は静かに顔をうつむき加減にしてマウンドを降り、彼らが大きな声でしゃべれば、杉浦は小さな声で静かに語ったという。


例えば、杉浦の最大の特徴である、ゆっくりしたバックスイング、大きな腕の振り、スローモーションのようなフォームは、「金田、村山、藤田の切れのいい、素早いモーションに対抗して考え出したことなのです。彼らが喜怒哀楽をオーバーに表現すればするほど、ぼくは無表情で、より紳士ぶってやったものです」というものだという[5]


1948年オフ、別所毅彦が南海から巨人に移籍(別所引き抜き事件)。その経緯を「なんと汚いんだ」と思うようになって以来、アンチ巨人になったという。



逸話



鶴岡との関係


鶴岡と杉浦の関係を、南海の控え捕手であった鈴木孝雄は「だれも入り込めない仲。でもベタベタしたところは一切ない。周囲には見えない絆だった。でも、あの二人には見えていたのかもしれない」という[15]


杉浦夫人(志摩子)は、「ある時、お風呂に入っていて右腕が真っ白になった。もう血が通わなくなっていた。私が主人に野球のことで口を出したのはその時が初めてです。『どうして監督さんに、もう投げられないかもしれませんって言わないの?』と聞いたら怒鳴られた。『バカヤロー!こういう体になっても投げるのがエースなんだ!』って」「付き合っている当時から『おれはサムライの時代に生まれたかった』という人。世のため、人のためというような人。それくらい鶴岡さんにほれ込んでいました」「勝ち試合は当たり前で、負けてるゲームに投げるのもエースの仕事だと。絶対に自分からマウンドを降りるような人じゃなかった。だから毎日投げていたような気がします」と語っている[15]


野村克也によると、「悪いが、スギ行ってくれんか」と連投やピンチの際に鶴岡から頼まれ、杉浦が打たれると、キャッチャーだった野村が代わりに叱られることがしばしばだったという。


広瀬叔功は、「以前、スギやん(杉浦)と話していて『親分に褒め言葉、言われたことあるか?』と尋ねたことがある。彼(杉浦)はしばらく考え込んで『そう言えば、全然ないなあ』と微笑んだ。むろん、私(広瀬)もない」「多分、それでいいのだ。言葉にしなくても分かり合えるものはある。人生最大の感激を運んでくれた愛弟子であってさえも、直接には何も語りかけない。それが親分だったし、親分とスギやんの絆には、言葉など不要だったのかもしれない」と述べている[23]


また、次のエピソードもよく知られている。1965年の日本シリーズ終了後に、蔭山和夫新監督が就任直後に急死した。鶴岡に再度監督として戻ってきてもらうため、杉山光平、広瀬叔功、野村克也、杉浦らが鶴岡の自宅に説得に行ったが、酒に酔って気持ちの高ぶった鶴岡は、「何が三冠王や。何が本塁打王や。ちゃんちゃらおかしいわい。本当に貢献したのは杉浦だけや」と言ったという[2]


若いころは、野村克也、広瀬叔功と三人で夜の街を徘徊し、門限破りなど、いろいろ悪さをしたことから、鶴岡からは、黒澤明監督の「隠し砦の三悪人」をもじって、「南海の三悪人」と呼ばれたという[10][23]



背番号


南海は当初14を用意していたが、六大学選抜チームでフィリピン遠征をした際に着けていた21に替えてもらったという。カウント2ストライク1ボールと追い込み、そこから勝負するのが投手と思っていたことによる[6]。引退試合時の新聞報道では「永久欠番になる」と記されていた[19]。正式に球団がこれを定めたかどうかは不明で、1971年には着用者はなかったものの、同年のドラフト会議で1位指名された野崎恒男が1972年から使用することになり、「欠番」扱いは1シーズンのみであった。



幻の大リーガー第一号


1960年の秋、優勝争いをするシカゴ・ホワイトソックスから、南海に「杉浦を貸してほしい」との申し入れがあった。残り十数試合のみのレンタルであったが、実現すれば、日本人大リーガー第一号になるところであった。鶴岡監督も、「日本野球のためになる。チャンスだから、やってこい」と賛成し、パスポートも取り、渡米寸前までいった。しかし、直前になって、大毎と優勝争いをしており、優勝の望みが一縷でもある以上出すわけにはいかない、との理由で球団からストップがかかり、実現しなかった[10]



立大時代の脱走歴


当時の六大学では、立教大学と明治大学の野球部のしごきの激しさは群を抜いていた。砂押邦信監督のスパルタ訓練に悲鳴をあげ、合宿所では上級生の鉄の規律に震え上がり、合宿所を抜け出したことがあるという。




  • 長嶋茂雄引退時に発行された「報知グラフ」への寄稿文では、合宿所を抜け出したのは「二度ほど」としている[34][33]

  • 自身の回顧録[10]では、1年生春のシーズン終了後の脱走について記している。シーズン中に肩を痛め、「もう肩は治らないんのではないか」と思い詰め、また上級生のしごきのすさまじさに押しつぶされそうになり、シーズン終了を待って実家に帰った。このときは、砂押監督の指示で部のマネジャーが迎えに来て、しぶしぶ合宿所に舞い戻ったという。

  • 2年生のときには、長嶋と共に合宿所を抜け出し、杉浦の地元・愛知の中日の球団事務所を訪問、「入団させてくれるのなら、契約金など一銭もいらない」と売込みを図ったものの、元中日球団代表の高田一夫に「とにかく卒業してからこい。大学生は勉強が本分なんだから」と諭されて帰還するということがあったという[35][36]



人物


野村克也は、「お山の大将然とし、自己中心的な人間の多い投手の中にあって、杉浦忠は全く珍しいタイプの選手だった。一言でいえば彼は常に紳士的だった」「いつももの静かで謙虚であり、控えめにしていた」「電話で珍しく杉浦がつっけんどんな応対をしている時は、相手は決まって奥さんだった」と語っている[26]


ホークス福岡移転後初優勝翌日のテレビ中継では、杉浦は副音声での解説を担当。和田安生アナウンサー(当時)と「ビールを飲みながら野球を見る」というコンセプトで放送したが、杉浦は酒を飲みながら野球を見るのは初めてであり、放送内で「なかなかええもんやな」と話している。


カラオケの十八番は、志賀勝の「女」であった。冒頭の「志賀勝や!」の台詞部分を「杉浦や!」に変えて歌っていたという。


自宅が老朽化し、家族が家の建て替えを提言した時、杉浦は「この家には愛着がある。嫌なら出て行けばいいだろう」と提言を受け入れなかった。後年、KBC解説者として福岡で解説を行っていた時期も、大阪府堺市の自宅から通っていた。なお、この自宅は杉浦の死後の2010年12月25日に全焼している[37]



詳細情報



年度別投手成績















































































































































































































































































































































































































































































W
H
I
P

1958

南海
53 34 14 1 3 27 12 -- -- .692 1187 299.0 235 11 72 4 13 215 4 0 91 68 2.05 1.03

1959
69 35 19 9 9 38 4 -- -- .905 1377 371.1 245 17 35 2 11 336 2 0 67 58 1.40
0.75

1960
57 29 22 4 8 31 11 -- -- .738 1284 332.2 266 28 44 5 5 317 1 0 85 76 2.05
0.93

1961
53 20 12 1 1 20 9 -- -- .690 946 241.2 202 24 31 3 10 190 1 0 85 75 2.79 0.96

1962
43 18 6 1 1 14 15 -- -- .483 705 172.2 165 12 36 4 5 96 1 0 68 59 3.07 1.16

1963
51 24 9 1 3 14 16 -- -- .467 990 252.2 217 30 46 5 1 156 1 0 86 74 2.63 1.04

1964
56 33 9 1 3 20 15 -- -- .571 1100 270.2 253 28 52 4 9 162 1 0 103 91 3.02 1.13

1965
36 8 3 0 0 8 1 -- -- .889 429 111.1 85 10 16 0 2 82 0 0 27 27 2.19 0.91

1966
27 0 0 0 0 2 4 -- -- .333 191 51.0 42 6 3 0 0 39 0 0 16 14 2.47 0.88

1967
45 4 0 0 0 5 5 -- -- .500 384 98.1 82 9 16 2 2 68 0 0 29 26 2.39 1.00

1968
41 7 0 0 0 5 6 -- -- .455 457 111.0 100 8 32 6 4 53 1 0 39 33 2.68 1.19

1969
30 5 1 0 0 2 7 -- -- .222 268 65.1 68 8 16 1 3 33 0 0 33 30 4.15 1.29

1970
16 0 0 0 0 1 1 -- -- .500 141 35.2 28 4 10 1 2 9 0 0 13 11 2.75 1.07
通算:13年
577 217 95 18 28 187 106 -- -- .638 9459 2413.1 1988 195 409 37 67 1756 12 0 742 642 2.39 0.99

  • 各年度の太字はリーグ最高


年度別監督成績





















































































年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率

年齢
1986年 南海 6位 130 49 73 8 .402 21.5 136 .251 4.46 51歳
1987年 4位 130 57 63 10 .475 16.0 132 .261 3.86 52歳
1988年 5位 130 58 71 1 .450 17.5 162 .267 4.07 53歳
1989年 ダイエー 4位 130 59 64 7 .480 11.0 166 .257 4.74 54歳
通算:4年
520 223 271 26 .451 Bクラス4回


タイトル




  • 最多勝:1回 (1959年)


  • 最優秀防御率:1回 (1959年)


  • 最高勝率:1回 (1959年)


  • 最多奪三振(当時連盟表彰なし):2回 (1959年、1960年) ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰



表彰




  • 最優秀選手:1回 (1959年)


  • 新人王 (1958年)


  • ベストナイン:1回 (1959年)


  • 最優秀投手:1回 (1959年)


  • 日本シリーズMVP:1回 (1959年)

  • 日本シリーズ最優秀投手賞:1回 (1959年)


  • 野球殿堂競技者表彰(1995年)



記録


初記録


  • 初登板・初先発・初勝利:1958年4月5日、対東映フライヤーズ1回戦(駒澤野球場)、7回2失点

  • 初奪三振:同上、1回裏に毒島章一から

  • 初完投勝利:1958年4月20日、対毎日大映オリオンズ2回戦(川崎球場)、9回2失点

  • 初完封勝利:1958年9月24日、対東映フライヤーズ22回戦(大阪スタヂアム)


節目の記録


  • 1000投球回:1959年10月2日、対阪急ブレーブス28回戦(阪急西宮球場) ※史上89人目

  • 100勝:1961年5月6日、対西鉄ライオンズ5回戦(平和台野球場) ※史上32人目

  • 1000奪三振:1961年7月29日、対西鉄ライオンズ17回戦(大阪スタヂアム)、9回表に城戸則文から ※史上23人目

  • 1500投球回:1963年6月27日、対東映フライヤーズ13回戦(明治神宮野球場) ※史上48人目

  • 150勝:1964年5月26日、対東京オリオンズ14回戦(大阪スタヂアム) ※史上17人目

  • 1500奪三振:1965年5月2日、対阪急ブレーブス5回戦(阪急西宮球場)、8回裏にダリル・スペンサーから ※史上13人目

  • 2000投球回:1965年5月19日、対東映フライヤーズ7回戦(大阪スタヂアム) ※史上28人目

  • 500試合登板:1968年5月24日、対阪急ブレーブス9回戦(阪急西宮球場)、6回裏2死に3番手で救援登板・完了、3回1/3を無失点 ※史上22人目


その他の記録


  • 54.2イニング連続無失点(1959年9月15日 - 10月20日)

  • 新人から3年連続開幕投手(1958年 - 1960年) ※2リーグ制以降唯一の記録だったが、後に則本昂大が4年連続(2013年 - 2016年)で更新


  • オールスターゲーム出場:6回 (1958年 - 1961年、1964年、1965年)



背番号




  • 21 (1958年 - 1970年)


  • 70 (1974年 - 1977年)


  • 71 (1986年 - 1988年)


  • 81 (1989年)



関連情報



出演番組


※野球解説者として出演していた番組



  • 毎日放送ダイナミックナイター
    • KBC解説者時代にも火〜木・土・日曜にネット受けでの出演があった(ネットワークの関係で月・金曜はABCラジオ『ABCフレッシュアップナイター』がネット受け)。



  • SAMURAI BASEBALL - 毎日放送時代(1978年〜1985年)に出演した、TBS系列の中継番組の現行統一タイトル。稀にTBS制作分(大洋対巨人戦など)にも出演することがあった。


  • KBCジャンボナイター(KBCラジオ)
    • MBS解説者時代にも火〜木・土・日曜ネット受けでの出演があった(ネットワークの関係で月・金曜はRKBラジオ『RKBエキサイトナイター』がネット受け)。



  • スーパーベースボール - 毎日放送時代(〜1973年)・KBC時代に出演した、NETテレビ→テレビ朝日系列の中継番組の現行統一タイトル。毎日放送時代にはNETテレビ制作中継に出演することもあった。


  • ベースボールLive - 毎日放送時代(〜1973年)に出演した、東京12チャンネル→テレビ東京系列の中継番組の現行統一タイトル。



著書


  • 『僕の愛した野球』(海鳥社:1995年9月)


脚注




  1. ^ abcdef「南海ホークス栄光の歴史 1938-1988」ベースボールマガジン社 2012年

  2. ^ ab野村克也「一流の条件 プロ野球 野村克也の目」朝日新聞社 1986年


  3. ^ 「Sports Graphic Number PLUS 1999年8月号」 文芸春秋社

  4. ^ abcde野球殿堂2012 The Baseball Hall of Fame 野球体育博物館(編集)ベースボールマガジン社 2012年

  5. ^ abcdスポーツグラフィック ナンバー編「豪球列伝」文春文庫ビジュアル版 1986年

  6. ^ abc「日本プロ野球偉人伝5 1959-1964 「長嶋時代」の74人」ベースボールマガジン社 2013年


  7. ^ 長嶋の翻意は母と兄が懐柔されたためとも言われている。また長嶋はプロ入り後、立教時代に受け取った栄養費と同額の金を返還している。

  8. ^ ab鶴岡一人「鶴岡一人の栄光と血涙のプロ野球史」恒文社 1977年


  9. ^ “明暗クッキリ 長嶋の同級生杉浦忠 大量援護でプロ初勝利”. Sponichi Annex. 2011年6月25日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年8月12日閲覧。

  10. ^ abcdefg杉浦忠「僕の愛した野球」海鳥社 1995年

  11. ^ abc『プロ野球記録大鑑 昭和11年→平成4年』(宇佐美徹也著、講談社、1993年)


  12. ^ 同年は小野正一(大毎オリオンズ)が奪三振以外の投手四冠だったが、小野の五冠を阻んで最多奪三振を獲得したのも杉浦だった。


  13. ^ 杉浦の188試合での通算100勝は、スタルヒン(165試合)、藤本・ダルビッシュ有(共に177試合)、野茂英雄(185試合)に次ぐ歴代5位の記録である。


  14. ^ “杉浦忠、入団4年目で100勝も忍び寄っていた病魔”. Sponichi Annex. 2011年6月26日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年8月12日閲覧。

  15. ^ abcdef大阪日刊スポーツ編著「感涙!ナニワ野球伝説」朝日新書 2011年


  16. ^ 朝日新聞1966年4月6日朝刊12頁


  17. ^ 「HAWKS the 70th - ホークス栄光の軌跡」ベースボールマガジン社 2008年

  18. ^ ab朝日新聞1970年12月5日朝刊21頁

  19. ^ abc朝日新聞1971年3月26日朝刊21頁


  20. ^ 1995年 名球会目指してきたわけじゃない 落合博満、資格獲得も入会辞退 スポニチ 日めくりプロ野球2009年4月


  21. ^ 野村克也「楽天はなぜ強くなれたのか 巨人の「天才野球」をしのいだ力」PHP新書 2014年

  22. ^ abc野村克也「エースの品格 一流と二流の違いとは」小学館 2008年

  23. ^ abc広瀬叔功「南海ホークス ナンバ 栄光と哀しみの故郷」ベースボールマガジン社 2014年


  24. ^ 広瀬は同著で、この言葉に続けて、「ちょうど腰とヒザを悪くしていた春先なのだが、競争して負けた。もちろん腰とヒザが治ってから、もう一度競争したら勝ったのだが...」と負け惜しみっぽく語っている。


  25. ^ “週刊ベースボールONLINE 野村克也の野球論 本物の野球はどこへ行った「温故知新」”. 2015年5月31日閲覧。

  26. ^ ab野村克也「名選手にドラマあり 脳裏に焼き付くあのシーン」小学館新書 2014年


  27. ^ 野村克也「私が見た最高の選手、最低の選手」東邦出版 2013年


  28. ^ 「週刊ベースボールONLINE レジェンドたちに聞け 第1回 張本勲 2014年3月7日」


  29. ^ “速球派のアンダースロー投手”. 2015年5月31日閲覧。


  30. ^ 「週刊ベースボールONLINE レジェンドに聞け 第14回 山田久志 2014年6月5日」


  31. ^ 「Sports Graphic NUMBER PLUS August 1999」文芸春秋社


  32. ^ 中西太「西鉄ライオンズ 獅子たちの「闘争」」ベースボールマガジン社 2014年

  33. ^ ab「ホークス75年史 1938-2013」ベースボールマガジン社 2013年


  34. ^ 「栄光の背番号3 長島茂雄」報知新聞社 1974年


  35. ^ 近藤唯之「プロ野球 運命の出会い」PHP研究所 2012年


  36. ^ 大沢啓二「こんな野球をやってきた 球道無頼」集英社 1996年


  37. ^ 読売新聞 (2010年12月25日)




関連項目



  • 愛知県出身の人物一覧

  • 立教大学の人物一覧

  • 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧



外部リンク



  • 個人年度別成績 杉浦忠 - NPB.jp 日本野球機構








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