ジンバブエ
- ジンバブエ共和国
Republic of Zimbabwe (英語)
- その他、14の公用語による正式名称:[1]
- Dziko la Zimbabwe (ニャンジャ語)
- Dziko la Zimbabwe (セナ語)
- Hango yeZimbabwe (カランガ語)
- Zimbabwe Nù (チュワ語)
- Inyika yeZimbabwe (ナンビャ語)
- Nyika yeZimbabwe (ンダウ語)
- Ilizwe leZimbabwe (北ンデベレ語)
- Tiko ra Zimbabwe (ツォンガ語)
- Nyika yeZimbabwe (ショナ語)
- Naha ya Zimbabwe (南部ソト語)
- Cisi ca Zimbabwe (トンガ語 (ザンビア))
- Naga ya Zimbabwe (ツワナ語)
- Shango ḽa Zimbabwe (ベンダ語)
- Ilizwe leZimbabwe (コサ語)
- その他、14の公用語による正式名称:[1]
(国旗) (国章)
- 国の標語:Unity, Freedom, Work
(英語: 統一、自由、労働)
国歌:ジンバブエの大地に祝福を
公用語
16の公用語
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チェワ語
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英語
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チュワ語(コイサン語)
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ンダウ語
北ンデベレ語(ンデベレ語)
ツォンガ語(シャンガーン語)
ショナ語
ジンバブエ手話
ソト語
トンガ語
ツワナ語
ヴェンダ語
コサ語
(カッコ内は憲法に記載されている名称)
首都
ハラレ
最大の都市
ハラレ
- 政府
大統領
エマーソン・ムナンガグワ
副大統領
コンスタンティノ・チウェンガ(第1)
ケムボ・モハディ(第2)
首相 廃止
- 面積
総計
390,757km2(61位)
水面積率
1.0%
- 人口
総計(2017年)
13,805,084人(72位)[2]
人口密度
35.3人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(xxxx年) xxx,xxx米ドル
- GDP (MER)
合計(2013年) 132億[3]ドル(124位)
- GDP (PPP)
合計(2013年)
256億[3]ドル(126位) 1人あたり 1,954[3]ドル
独立宣言(イギリスより)
ローデシアとして
(国際的に承認されず)
1965年11月11日
ジンバブエとして
1980年4月18日
通貨
米ドル (USD) など9種類 ※1
時間帯
UTC +2(DST:なし)
ISO 3166-1
ZW / ZWE
ccTLD
.zw
国際電話番号
263
※1 独自通貨のジンバブエ・ドル(Z$ / ZWD)はハイパーインフレーションの結果廃止され、2016年現在米ドル、ユーロ、英ポンド、南ア・ランド、ボツワナ・プラ、人民元、インド・ルピー、豪ドル、日本円の9つの外国通貨が法定通貨として定められている(複数基軸通貨制(別名:複数通貨制)または通貨バスケット制を導入している)[4][5]。
ジンバブエ共和国(ジンバブエきょうわこく)、通称ジンバブエは、アフリカ大陸の南部に位置する共和制の国家である。首都はハラレ。内陸国であり、モザンビーク、ザンビア、ボツワナ、南アフリカ共和国に隣接する。なお、地図を一見すると接しているように見えるナミビアとは、ザンビア、ボツワナを挟んで150メートルほど離れている。2003年に脱退するまでイギリス連邦の加盟国だった。
初代首相、2代目大統領を務めたロバート・ムガベは1980年のジンバブエ共和国成立以来、37年の長期に渡って権力の座につき、その強権的な政治手法が指摘されてきたが、2017年11月の国防軍によるクーデターで失脚した[6][7]。
目次
1 国名
2 歴史
2.1 ジンバブエの植民地化以前の時代 (1000年–1887年)
2.2 植民地時代 (1888年–1965年)
2.3 独立と内戦 (1965年–1979年)
2.4 独立後 (1980年–1999年)
2.5 経済危機とハイパーインフレ (1999–2008)
2.5.1 コンゴ民主共和国への派兵
2.5.2 白人大農場の強制収用
2.5.3 反対派への弾圧
2.6 2008–現在
3 政治
3.1 国外メディアの報道規制
3.2 ジンバブエ国外との関係
3.2.1 日本との関係
4 地方行政区分
4.1 主要都市
5 地理
6 経済
6.1 通貨
6.1.1 ジンバブエ・ドル
6.1.2 法定通貨
7 国民
7.1 民族
7.2 言語
7.3 宗教
7.4 婚姻
7.5 教育
7.6 保健
8 文化
8.1 食文化
8.2 文学
8.3 世界遺産
8.4 スポーツ
8.5 祝祭日
9 著名な出身者
10 脚注
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク
国名
正式名称は英語で Republic of Zimbabwe。通称 Zimbabwe。日本語の表記はジンバブエ共和国もしくはジンバブウェ共和国。通称ジンバブエ。日本での漢字表記は「辛巴威」。中国では辛巴威に加え、「津巴布韋」とも表記される。
国名はショナ語で「石の館(家)」を意味し、ジンバブエ国内にあるグレート・ジンバブエ遺跡に由来する。かつては南ローデシアと呼ばれていた。
歴史
ジンバブエの植民地化以前の時代 (1000年–1887年)
12世紀頃、リンポポ川中流域にマプングヴエ王国が成立し、次いで13世紀から14世紀中には、グレート・ジンバブエと呼ばれている王国が栄えた。グレートジンバブエの遺構からは、中国製陶器が発見されており、かなり大規模な交易を行っていたようである。15世紀頃、グレートジンバブエは放棄され、代わってザンベジ川中流域にモノモタパ王国、現ブラワヨ周辺のカミ遺跡を首都としてトルワ王国が興り、覇権を握った。
16世紀から17世紀にかけて、ポルトガル人の侵入に苦しむが、撃退。地方首長国の分立状態となる。
植民地時代 (1888年–1965年)
19世紀後半にイギリス南アフリカ会社に統治された後、第一次世界大戦後にイギリスの植民地に組み込まれ、イギリス南アフリカ会社設立者でジンバブエのマトボに葬られたケープ植民地首相のセシル・ローズの名から「ローズの家」の意を込め、イギリス領南ローデシアとなった。国土のほとんどは白人農場主の私有地となり、住民達は先祖の墓参りの自由すらなかった。
独立と内戦 (1965年–1979年)

ローデシアとその支援国(青、1975年)
第二次世界大戦が終結し、世界が脱植民地化時代に突入すると、南ローデシアでも1960年代から黒人による独立運動が本格的に展開されたが、民族解放までの道のりは険しく、1965年には世界中から非難を浴びる中で植民地政府首相イアン・スミスが白人中心のローデシア共和国の独立を宣言し、人種差別政策を推し進めた。これに対して黒人側もスミス政権打倒と黒人国家の樹立を目指してゲリラ戦を展開。1979年、ジンバブエ・ローデシアへの国名改称とともに黒人へ参政権が付与され、黒人のムゾレワ首相が誕生した。しかし、白人が実権を持ち続ける体制だったため、国際的承認は得られず戦闘も収拾しなかった。1979年末イギリスの調停により100議席中20議席を白人の固定枠とすることで合意、ローデシア紛争は終結した。
独立後 (1980年–1999年)
1980年の総選挙の結果、ジンバブエ共和国が成立し、カナーン・バナナが初代大統領に、そしてロバート・ムガベが初代首相に就任した。1987年からは大統領が儀礼的役割を果たしていた議院内閣制を廃して大統領制に移行し、首相職も廃止され、それまで首相だったムガベが大統領に就任。ムガベはその座を93歳となる2017年まで維持することになる。
経済危機とハイパーインフレ (1999–2008)
コンゴ民主共和国への派兵
1999年、コンゴ民主共和国(以後、コンゴと表記)のカビラ大統領と親交のあったムガベ大統領は内戦(第二次コンゴ戦争)が勃発したコンゴに約1万人の軍を派兵した。コンゴのカビラ大統領を支えるという名目だったが、真の目的としてコンゴにあるムガベ一族所有のダイヤモンド鉱山を守る事や、それらのダイヤモンドのほか銅や金など、コンゴの地下資源を狙う理由があった。反対運動がコンゴの都市部を中心に活発に起き、派兵直後にカビラ大統領が暗殺されるなどコンゴ派兵は混乱を招いた。ムガベ大統領は第二次コンゴ戦争への派兵に専念していったため、ジンバブエの経済や医療、教育などが悪化していった。
そのためムガベ大統領への批判が相次ぎ、イギリスのマスメディアなどは、ムガベ大統領は批判を避ける目的で白人農場を強制収用する政策にすり替えていったとしている。
白人大農場の強制収用

2003年以降のジンバブエ・ドルのハイパーインフレーション(単位はデノミネーション前のZWD、対数表示)
ムガベは初めは黒人と白人の融和政策を進め[8] 、国際的にも歓迎されてきたが、2000年8月から白人所有大農場の強制収用を政策化し、協同農場で働く黒人農民に再分配する「ファスト・トラック」が開始された[8]。
この結果、白人地主が持っていた農業技術が失われ、食糧危機や第二次世界大戦後、世界最悪になるジンバブエ・ドルのハイパーインフレーションが発生した。こうした経済混乱に、長期政権・一党支配に対する不満と相まって、治安の悪化も問題となっている。また、言論の統制などの強権的な政策は、外国や人権団体などから批判を受けている。
反対派への弾圧
2005年5月には「ムラムバツビナ作戦」によって地方の貧しい都市地域および周辺都市地域を標的に大規模な強制退去と住居破壊を行い[9]、さらには2007年3月11日、警察によって活動家ギフト・タンダレが暗殺されている。
2008–現在
コレラ流行が2008年8月に始まり、患者総数91,164人、死者総数4,037人に達している。2009年2月初めのピーク時には一週間で新患者数8,008人を超えた。WHO(国連世界保健機関)によると2009年3月14日までの1週間に報告された新患者数は2,076人で先週の3,812人から減少した。致死率も1月の6%弱から2.3%に低下した。発生数は全体として低下したが、首都ハラレとその周辺では増加の傾向にある。
ムガベの後継者争いは2017年11月15日の国防軍による事実上のクーデターを招き、ムガベは大統領の座を追われた[7][6]。
政治

第2代大統領ロバート・ムガベ
野党勢力への迫害が強く、野党の政治家、野党支持者への暴行・虐殺・拉致などが常態化しており、激しい対立が続いている。ムガベ大統領による独裁政治体制が長きに渡り続いた。
ローデシア共和国初代首相であったイアン・スミスは、政界復帰を狙っていると伝えられていたが、2007年11月20日に南アフリカ共和国・ケープタウンの自宅で心不全により88歳で死去した[要検証 ]。
2008年3月29日より大統領選挙が始まり、現職の与党ジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線のムガベ大統領他、与党から造反したシンバ・マコニ元財務相と最大野党の民主変革運動(MDC)のモーガン・ツァンギライ議長が立候補していたが、ムガベ政権からの弾圧によりツァンギライ議長は出馬の取り止めを余儀なくされた。これにより、ムガベ大統領は欧米からの決選投票延期要請を無視し、投票を強行、勝利したと宣言した。7月11日、国際連合安全保障理事会にジンバブエ政府非難と、ムガベ大統領ら政権幹部の資産凍結・渡航禁止などの制裁決議案が提出された。しかし、中国とロシアが内政問題であるとして拒否権を発動し、否決された。賛成9(アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、ベルギー、パナマ、クロアチア、コスタリカ、ブルキナファソ)、反対5(中、露、南アフリカ、リビア、ベトナム)、棄権1(インドネシア)だった。その後もライス米国務長官は、ムガベ政権の海外資産を凍結するなどの制裁措置を英国やアフリカの同盟国と協議する事を明らかにしている[10]。2009年2月11日、連立政権が樹立しMDCツァンギライ議長が首相に就任したため独裁体制に区切りがついた形だが、現地の英国大使館が地元紙に「ムガベ大統領が退陣しない限り意味がない」という広告を出すなど、懐疑論も強く残った[11]。
ムガベの後継をめぐってグレース・ムガベ夫人と、軍の支持を得るエマーソン・ムナンガグワとの間で争いが勃発。2017年11月6日にムガベがムナンガグワを第1副大統領から解任したことで国防軍が反旗を翻し事実上のクーデターを企図し、ムガベは自宅軟禁下に置かれ、軍が国家権力を掌握[6]。11月21日に議会でムガベの弾劾手続きが開始され[12]、ムガベは辞表を提出。37年間に及ぶ長期政権に幕が下りた[7]。
国外メディアの報道規制
国内では厳しい報道規制が敷かれ、政府はCNN・BBCといった欧米メディアによる取材を禁止している。宗主国であったイギリスに対するジンバブエ国民の悪感情は根強い。またイギリス側のジンバブエ報道も、過度に扇情的であるとの指摘もされている。
日本、ガボンと同じく、取材対象の公的機関が、一部の報道機関に対して排他的かつ独占的な便宜を供与(取材場所の提供、取材費用の負担等)する形の記者クラブ制度を有する。
ジンバブエ国外との関係
前述の植民地時代の影響で反英感情または反白人感情が強く、CNNやBBC の取材を禁じているほか、白人の持つ農地の強引な国有化、白人所有大農場の強制収用などの政策が行われた。ムガベ大統領の思想も影響しており、ムガベは自分を非難したコンドリーザ・ライスを「白人の奴隷」と侮辱し、過去のアメリカ合衆国の黒人奴隷制度の批判もしていたため反米感情もある。その一方で、2014年現在でジンバブエが支援を受けている二大主要国はアメリカ合衆国(約178百万ドル)とイギリス(約171百万ドル)という構図となっている[13]。
非白人国家である中華人民共和国や南アフリカ共和国と友好関係を深めており、両国の影響力が極めて強い[14]。特に中国は大統領になる前からムガベを支援していた関係にあり[15][16][17][18]、ムガベの後継者の座を争ったグレース夫人とムナンガグワはどちらも中国への留学歴を持っている[19][20][21][22]。ムガベは白人社会の欧米諸国やオーストラリアへの入国を禁止されているが、香港、シンガポール、マレーシアで別荘を購入するなど豪華な生活を堪能している。アメリカ合衆国、イギリス、フランスはジンバブエへの経済制裁を求めているが、他の常任理事国の中華人民共和国、ロシアは、ジンバブエへの経済制裁は内政問題という理由で拒否権を発動した。
日本との関係
- 在留日本人数 - 75人(2016年10月現在)[23]
- 在日ジンバブエ人数 - 139人(2016年12月現在)[23]
地方行政区分

ジンバブエの行政区画
ブラワヨ市
ハラレ市
マニカランド州(東部)
マショナランド中央州(北部)
マショナランド東部州(北部)
マショナランド西部州(北部)
マスィンゴ州(南東部)
北マタベレランド州(西部)
南マタベレランド州(西部)- ミッドランズ州
主要都市
主要な都市はハラレ(首都)、ブラワヨがある。
地理

ジンバブエの地図

ヴィクトリア滝
アフリカ南部に位置し、モザンビーク、南アフリカ、ボツワナ、ザンビアと国境を接する。ザンビア国境にはヴィクトリア滝が位置する。内陸国である。座標は東経30度・南緯20度のあたり。
面積は390,580 km2、うち陸地面積が 386,670 km2、内水面面積が 3,910 km2を占める。面積は日本とほぼ同じである。気候は熱帯性であるが、高地のためやや温暖である。雨季は11月から3月にかけて続く。地形は高原が大部分を占める。東部は山岳地帯である。国内最低地点はルンデ川とサビ川の合流地点で標高162 m、最高地点はンヤンガニ山(ショナ語: Gomo reNyangani、旧インヤンガニ山)で標高2,592 m。
経済

首都ハラレ

主要作物の生産量の推移(1999年/2000年から2007年)
石炭、クロム鉱石、アスベスト、金、ニッケル、銅、鉄鉱石、バナジウム、リチウム、錫、プラチナを産し、農業・観光と共に重要な外貨獲得産業である。とくに白金は世界最大級の埋蔵量を誇り、2006年に発見されたダイアモンド鉱山も2014年に12百万カラットと世界有数の産出量がある。ビクトリア滝に代表される観光資源だが森林破壊による野生動物の減少が深刻化している。
IMFの統計によると、2013年のジンバブエのGDPは132億ドルである。一人当たりのGDPは1,007ドルであり、隣接する南アフリカ共和国やボツワナと比べると大幅に低い水準にある[3]。
かつては農業、鉱業、工業のバランスの取れた経済を有する国家であった。白人大規模農家による非常に効率的な農業が行われており、外貨収入の半数を農産物の輸出で得ている農業国として、ヨーロッパから「アフリカの穀物庫」と呼ばれていたほどであった[8]。特にコムギの生産性は高く、10アールあたりの単収は1980年代から1990年代にかけては550kgから600kgにものぼり、ヨーロッパ諸国と肩を並べ世界最高水準に達していた[24]。
白人農家に対する強制土地収用政策の開始後、ノウハウを持つ白人農家の消滅、大規模商業農業システムの崩壊[8]により、農作物の収量は激減した。基幹産業の農業の崩壊によって生じた外貨不足は、さらに部品を輸入で調達していた工業にも打撃を与え、経済は極度に悪化した[8]。2002年には経済成長率は-12.1%を記録した。
旱魃により食糧不足が深刻化し、加えて欧米各国による経済制裁が影響し、2003年末には600%のインフレが発生。2006年4月には1,000%以上に達した[25]。
2007年8月23日、ジンバブエ政府が国内の外資系企業に対して株式の過半数を「ジンバブエの黒人」に譲渡するよう義務付ける法案を国会に提出、9月26日に通過した[26]。
通貨
独自通貨ジンバブエ・ドルは2000年代に発生したハイパーインフレーションにより価値を失い、2015年に廃止が決定された。2016年現時点では、主に米ドルが利用されている。南アフリカランドはかろうじて大きなスーパーマーケットやジンバブエ南部では使えるところもあるが、ほとんど使われていない。2016年11月からアメリカドルと同等価値の新通貨として「ボンド(ボンドノート)」の発行を開始した[27]。
1ドル以下の硬貨に関しては、2015年秋ごろから、政府発行のボンドコイン(Bond coin)が流通し始め、それまでの南アフリカランドが使えなくなった。
ジンバブエ・ドル

2009年に発行された100兆ジンバブエドル札
通貨ジンバブエ・ドル (ZWD) はアメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨ワースト5の一つとなり[28]、2008年5月に1億と2億5000万の額面のジンバブエ・ドル札が発行された後も、50億、250億、500億ドル札の発行と続き、7月には1000億ドル札の発行が行われた(これは発行時の時点で世界最高額面の紙幣)。そのため、コンピュータの処理にトラブルが発生したことから、中央銀行はデノミネーションを実施し、大幅な通貨単位の引き下げを実施した。それにより1000億ドルが10ドルとなり、対応した新紙幣が発行された。しかし、さらにインフレが続いたため、12月末には100億ドル新紙幣を、2009年1月には再び200億ドル紙幣と500億ドル紙幣の発行を行った。この時点でジンバブエ・ドルの価値は、250億(25000000000)ジンバブエ・ドル=1米ドルとなった。年間インフレ率は約2億3000万%に達した(2009年1月)。
法定通貨
- 米ドル
- 南アフリカランド
- ユーロ
- 英ポンド
- ボツワナ・プラ
- 人民元
- インド・ルピー
- 豪ドル
- 日本円
2009年1月29日、ジンバブエ政府は完全に信用を失ったジンバブエ・ドルに代えてアメリカ合衆国ドルや南アフリカランド、ユーロ、英ポンド、ボツワナ・プラの国内流通を公式に認め、公務員の給与も米ドルで支払うことにし、この5通貨を法定通貨とした。これにより同国のハイパーインフレは終息を見せ、ジンバブエ政府によれば同年3月の物価は同1月比0.8%減となった[29]。その結果、極度の経済混乱は収束し、12年ぶりに経済成長を記録した[30]。2012年現在は、都市部では経済の復興の傾向がみられはじめている[31]。
2013年1月29日、ジンバブエ政府は、前週の公務員への給与支払いにともない、国庫金の残高が217ドルになったことを明らかにした[32]。同時に、年内に予定されている憲法改正をめぐる国民投票と総選挙のための資金が不足していることを認め、国際社会の支援を要請した[33]。
2014年2月、ジンバブエ政府は法定通貨として、さらに中国人民元、インド・ルピー、豪ドル、日本円を加え、9通貨を法定通貨とした[30]。ジンバブエ政府では複数基軸通貨制(別名:複数通貨制)または通貨バスケット制を導入した。
2014年12月、ジンバブエ準備銀行は、ボンドコインと呼ばれる硬貨を発行(鋳造は南アフリカ国内)。ボンドは債券に裏付けされていることを意味し、公債コインと訳されることがある。価値は、アメリカ合衆国の通貨、セントと同等の価値を有するものと位置づけられているが、過去のジンバブエ・ドルの経緯から流通は停滞している[34]。
2015年6月、ジンバブエ中央銀行は、ジンバブエドルを廃止し、米ドルに両替して回収すると発表。両替レートは1ドル=3京5千兆ジンバブエドル。9月までに終わらせる[35]。2015年12月、9種の法定通貨のうち、中国人民元を2016年より本格的に流通させることを決めた[36]。
2016年5月には、ボンドコイン(前出)に続き紙幣版のボンドノートも発行されたが市民から支持はされず、2019年にかけて価値は急落している[37][38]。
国民

伝統的な衣装に身を包んだショナ人の呪術医
民族
ショナ人が71%、ンデベレ人が16%、その他のアフリカ系(バントゥー系のen:Venda people、トンガ族、シャンガーン人、en:Kalanga people、ソト族、en:Ndau people、en:Nambya)が11%、残りはヨーロッパ人やアジア人などである。
言語
公用語は英語だが、ショナ語、北ンデベレ語などが主に使われる。
新たに公用語として16言語(チェワ語、セナ語(バルウェ語(Chibarwe))、英語、カランガ語、チュワ語(コイサン語)、ナンビャ語、ンダウ語、北ンデベレ語(ンデベレ語)、ツォンガ語(シャンガーン語)、ショナ語、ジンバブエ手話、ソト語、トンガ語、ツワナ語、ヴェンダ語、コサ語)が定められている。
宗教
キリスト教と部族宗教の混合が50%、キリスト教が25%、部族宗教が24%、イスラム教などが1%となっている。
婚姻
結婚時の姓に関する法はなく、婚前の姓をそのまま用いる(夫婦別姓)ことも、夫の姓に変更する(夫婦同姓)ことも可能[39]。
教育
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この節の加筆が望まれています。 |
保健
国民の約3割が HIV に感染しているといわれており、世界保健機関 (WHO) の2006年版の「世界保健報告」によると、平均寿命は36歳と世界で最も短い(1990年の時点では62歳であった)。
文化
食文化
トウモロコシの粉を煮詰めた「サザ」が主食である。「ムリヲ(ホウレンソウ)」とピーナッツバターを混ぜた「ラリッシュ」という料理が存在する。牛、豚、鶏は一般的で、全土で食べられている。飲食店では、サザと、おかずとしてトマトベースのスープで牛肉を煮込んだ料理と、付け合わせのムリヲの組み合わせが一般的。
文学
1960年代の独立戦争の頃からチムレンガ文学と呼ばれる文学潮流が生まれた。『骨たち』 (1988) で知られるチェンジェライ・ホーヴェがジンバブエの特に著名な作家の名として挙げられる。
世界遺産
ジンバブエ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が1件存在し、ザンビアにまたがって1件の自然遺産が登録されている。
マナ・プールズ国立公園、サピとチュウォールのサファリ地域 - (1984年、自然遺産)
国史跡グレート・ジンバブエ遺跡 - (1986年、文化遺産)
グレートジンバブエ遺跡の「大囲壁」の外観。Randall-MacIver,D.1906より
国史跡カミ遺跡群 - (1986年、文化遺産)
モシ・オ・トゥニャ/ヴィクトリアの滝 - (1989年、自然遺産)
スポーツ

ナショナルサッカーチーム(2009年)
団体競技では過去2回ワールドカップに出場経験のあるラグビー、2003年にケニア・南アフリカとワールドカップ共催したクリケット、サッカー、テニス等が国際大会で実績を残してきた分野である。またゴルフではワールドゴルフランキング1位にもなった1990年代を代表するプロゴルフ選手の一人であるニック・プライスが、競泳ではオリンピックや世界水泳選手権で多くのメダル獲得や世界記録を打ち立てたカースティ・コベントリーが活躍している。しかし2000年以降のムガベによる独裁政治の加速とそれに伴う国内政治・経済の混乱により、スポーツ分野も大きなダメージを受けている。
テニスは1990年代から2000年代前半にかけてバイロン・ブラック、ウェイン・ブラック、カーラ・ブラックの「ブラック3兄妹」とケビン・ウリエットという、後に全員がグランドスラムダブルスタイトル保持者となる4人の白人選手の活躍により栄華を極めた。男子国別対抗戦デビスカップでも、デビスカップジンバブエ代表は最上位グループの「ワールドグループ」に3度出場する等、選手層は薄いながらもテニス強国の一角を占めるまでに成長したが、2000年以降のムガベによる白人層の弾圧により4人の内ウリエットは他の多くの白人国民と同様にイギリスへの亡命を余儀なくされ[40]、ブラック兄妹も活動拠点をイギリスに移す事態となり[41]、これにバイロンとウェインの現役引退が重なる形でデビスカップジンバブエ代表は主力選手を一気に失い、2002年のワールドグループ陥落から僅か7年で最下位カテゴリのアフリカゾーンⅣまで転落した[42]。女子テニスのフェドカップジンバブエ代表は90年代以降国際レベルで活躍している選手がカーラのみであり、国別対抗戦のフェドカップでカーラ一人に掛かる負担が大き過ぎたことや、2000年以降はムガベの独裁政治に対する抗議の意味合いも加わる形で1996年以降カーラがフェドカップ出場を拒否する状況が長年続いており[43]、カーラ個人の国際的な活躍と裏腹に代表は国別ランクで最下位レベルに低迷するばかりか、フェドカップ参加すら覚束ない状態となっている[44][45]。
祝祭日
日付 |
日本語表記 |
現地語表記 |
備考 |
---|---|---|---|
1月1日-2日 |
元日 | ||
4月18日 | 独立記念日 | ||
3月 - 4月 | 聖金曜日 | 移動祝日 |
|
3月 - 4月 | 復活祭月曜日 |
移動祝日 |
|
5月1日 | メーデー | ||
5月25日 | アフリカの日 | ||
8月11日 | 英雄の日 | ||
8月12日 | 国軍記念日 | ||
12月22日 | 国民統合の日 | ||
12月25日 | クリスマス | ||
12月26日 | ボクシング・デー |
- 祝日が日曜日の場合は翌日が振替休日となる。
著名な出身者
ニック・プライス - プロゴルファー
カースティ・コベントリー - 競泳選手。アテネ五輪女子200m背泳ぎ金メダリスト
バイロン・ブラック - プロテニス選手
ウェイン・ブラック - プロテニス選手
カーラ・ブラック - プロテニス選手
ケビン・ウリエット - プロテニス選手
ブルース・グロベラー - プロサッカー選手
コンラッド・ローテンバッハ - WRCラリードライバー
脚注
^ “CONSTITUTION OF ZIMBABWE (FINAL DRAFT : JANUARY 2013) (pdf)”. 2013年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月4日閲覧。
^ “The World Factbook - Zimbabwe”. 中央情報局 (2018年1月17日). 2018年1月22日閲覧。
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参考文献
- 小林信次郎 「アフリカ文学――黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』 岡倉登志編、明石書店、東京、2002年12月。
関連項目
- グレート・ジンバブエ遺跡
- ローデシア
- ジンバブエにおける死刑
- 記者クラブ
外部リンク
- 政府
ジンバブエ共和国政府 (英語)
在日ジンバブエ大使館 (日本語)
- 議会
ジンバブエ国民議会 (英語)
- 日本政府
日本外務省 - ジンバブエ (日本語)
在ジンバブエ日本国大使館 (英語)(日本語)
- 論文
植民地期南部アフリカにおける『風景』の形成 : ジンバブウェのMatopos Hillsを素材にして北川勝彦、関西大学東西学術研究所紀要41号、2008-04-01
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