パンジャーブ











1909年のパンジャーブ地図




赤い城(デリー)




時計塔(ファイサラーバード)


パンジャーブPunjabあるいはPanjab、パンジャブとも)は、インド北西部からパキスタン北東部にまたがる地域。
インド・パキスタンの分割の際に、インド側とパキスタン側に分割されている。




目次






  • 1 地理


  • 2 歴史


  • 3 住民


    • 3.1 民族


    • 3.2 言語


    • 3.3 宗教




  • 4 画像


  • 5 関連項目





地理


パンジャーブの語源は、ペルシア語で「5つの水」を意味するパンジュ・アーブ (panj ab) で、インダス川とその4つの大きな支流、シェナブ川、ラーヴィー川(英語版)、サトレジ川、ジェルム川に由来する。パンジャブはこれらの大河に囲まれた地域で、灌漑によって小麦・米の生産力に優れた豊かな農地となっており、インド・パキスタン両国にとっては重要な穀倉地帯である。



歴史



古代にはガンダーラ(紀元前6世紀 - 11世紀)が栄え、中心都市はペシャーワル(現カイバル・パクトゥンクワ州)、チャールサダ(英語版)(現カイバル・パクトゥンクワ州)、タクシラ(現パンジャーブ州 (パキスタン))、フント(英語版)[要リンク修正](現カイバル・パクトゥンクワ州)などに移り変わった。








1757年、マラーターのインド北西部征服(英語版)パンジャーブが占領される。


1761年、第三次パーニーパットの戦いでドゥッラーニー朝とアワド太守などのムスリム同盟軍が、ヒンドゥー教のマラーター同盟に勝利。パンジャーブの領土を拡張した。


現在のヒマーチャル・プラデーシュ州付近には、Chamba、Bilaspur、Bhagal、Dhamiといった諸国が並立していた。グルカ戦争(1814年 - 1816年)を経てBritish India領となった。


1823年、ノウシェーラの戦い(英語版)でドゥッラーニー朝がシク王国に敗北し、ペシャーワル一帯の領土を失い、カイバル峠を越えて撤退した。


シク戦争(1845年 - 1849年)では、第一次シク戦争でラホール条約を締結しカシミール地方をイギリスに譲渡(ジャンムー・カシミール藩王国の成立)、第二次シク戦争で敗れ併合され、British Indiaのパンジャーブ地方(英語版)となり、マリー(英語版)Murree)が夏の首都となった。


1858年にイギリス領インド帝国が成立。1864年、シムラーがイギリス領インド帝国の夏の首都となる。









住民



民族


パンジャーブ人、en:Arain、ジャート族、en:Chamar、en:Scheduled Castes and Scheduled Tribes、ラージプート、en:Malik Jat clan、en:Khatri、en:Aheer、en:Gurjar。



言語


  • パンジャーブ語


宗教


住民の宗教は、イスラーム教、シク教、ヒンドゥー教の3宗教によって大別される。各宗教の信者はイギリス統治期には入り混じって暮らしていたが、現在ではおおむね前者がパキスタン領、後二者がインド領に別れている。



画像




関連項目







  • パンジャーブ地方(英語版)

  • ヒマーチャル・プラデーシュ州



座標: 北緯31° 東経74° / 北緯31度 東経74度 / 31; 74







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