織田秀敏

織田秀敏
織田 秀敏(おだ ひでとし、生年不詳 - 永禄3年5月19日(1560年6月12日)?)は、戦国時代の武将。『寛政重修諸家譜編』や『信長公記』などによると織田敏定の五男(または織田良信の子ともいう)。諱は信平とも。通称は七郎。官職は玄蕃允、玄蕃頭(確認されているのは玄蕃允のみ)。子に津田秀重。滝川一益の娘婿・津田秀政の祖父にあたる。
生涯
『重修譜』によると、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主の織田信定の末弟。織田信秀の叔父にして織田信長の大叔父「玄蕃」にあたるとされている。織田信秀に仕え、いち早く「秀」の偏諱を受け、秀敏と名乗ったと推定される。
天文21年(1552年)、信秀の跡を継いだ織田信長から尾張愛知郡の中村三郷を安堵されている。
この時期、織田家家中の不統一をめぐり、信長の岳父である美濃の斎藤道三に訴え、それに対し、6月22日付けの織田玄蕃允(秀敏)宛の道三の書状の中で、道三は秀敏に調停を試みる様に促し、信長を擁護する立場にある秀敏を労っている[1]。この事から織田一門の長老として、信秀の後を継いだ信長の後見人を任せられていることが窺える。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで甥(または兄弟)とされる飯尾定宗とともに鷲津砦に置かれた[2]。同年5月19日、今川軍の猛攻で鷲津砦は落城した。その後は消息は不明で、落延びたともいわれるが、同じく砦を守っていた定宗が戦死していることから秀敏も討ち死にしたとみられる。
子の秀重は信長の死後、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、のち子孫は美濃3000余石の旗本となった。
TVドラマ
徳川家康(1983年 NHK大河ドラマ 織田信平:加藤正之)
脚注
^ 『浅井文書』
^ 『信長公記』