旧皇族
旧皇族(きゅうこうぞく)とは、1947年(昭和22年)に皇籍離脱した11宮家51名の元皇族の総称。旧宮家ともいう。またこの皇籍離脱者の子孫も含めた総称で用いられることも増えている[1]。天皇の男系子孫であるため、近年の後継者不足による皇位継承問題で話題となることが多い。
目次
1 概説
1.1 旧皇族構成
1.2 旧皇族起源
1.3 伏見宮・閑院宮系図
1.4 旧皇族系図
1.5 現在の皇室との近親関係
2 離脱した51名の一覧
3 皇籍離脱の経緯
4 永世皇族制と旧皇族
5 皇籍離脱後の旧皇族
6 その後の旧皇族
6.1 賀陽宮
6.2 東久邇宮
6.3 竹田宮
6.4 断絶した旧皇族
6.4.1 東伏見宮
6.4.2 山階宮
6.4.3 閑院宮
6.4.4 梨本宮
6.5 断絶の可能性が濃厚な旧皇族
6.5.1 伏見宮
6.5.2 北白川宮
6.5.3 久邇宮
6.5.4 朝香宮
7 旧皇族の著名人
8 旧皇族邸
9 旧皇族の皇籍復帰問題
10 旧皇族系図
11 皇籍離脱前の皇位継承順位
11.1 旧皇室典範時:1947年(昭和22年)10月より前
11.1.1 11宮家
12 参考文献
13 脚注
14 関連項目
15 外部リンク
概説
旧皇族の11家は、すべて室町時代以来続く世襲親王家の筆頭であった伏見宮家の男系子孫にあたる。現皇室と旧皇族の男系での共通の先祖は、伏見宮貞成親王(後崇光院、北朝第3代崇光天皇の皇孫、事実上の妻は庭田幸子)である。
旧皇族の各家は、いずれも明治維新前後の時期に、伏見宮家の第19代貞敬親王及び第20代・第23代邦家親王の王子が還俗して、宮家を創設もしくは継嗣のいない宮家を相続したことに起源を有する。ただし、この時期に新立した宮家に関しては1代限りとして、2代目からは臣籍降下させて華族に列することとし、世襲は想定されていなかった。
伏見宮家をはじめ、桂宮・有栖川宮・閑院宮の各世襲親王家に共通することであるが、これら4家が代々、親王の身位を世襲してきたのは、時の天皇との血縁の近さによるものではなく、あくまでも家の特権としてである。歴代の当主及び継嗣は、そのときどきの天皇または上皇の猶子となることにより、擬制的な親子関係を構築し、そのことを根拠にして親王宣下により親王の地位と称号を与えられてきたのである。また、門跡寺院に入寺する法親王・入道親王は天皇または上皇の養子として親王宣下を受けることになっており、明治維新前後に新設された宮家は、当時の廃仏毀釈の風潮に乗って続々と還俗した元門跡たちに、その身分にふさわしい礼遇を与えるためのものであった。
旧皇族は、伏見宮貞常親王の兄彦仁王(いずれも貞成親王と庭田幸子の実子)が、男子を儲けないまま崩御した称光天皇の後を受けて後花園天皇となって以後、現在の皇室(後花園天皇の男系子孫)とは男系血統では完全に分岐しているため、上述の通り男系での血縁は非常に遠い(但し、女系を含めると17世紀に在位した霊元天皇の第五皇女である福子内親王が伏見宮邦永親王との間に貞建親王を儲けており、旧皇族はその子孫にあたる)。
また明治天皇の皇女である4人の内親王が、竹田宮、北白川宮、朝香宮、東久邇宮の各家に、昭和天皇の皇女・成子内親王が東久邇宮家にそれぞれ嫁いでいるため、現皇室とも姻戚関係が深い。なお、昭和天皇の皇后であり今上天皇の生母でもある香淳皇后は久邇宮家の女王である。
旧皇族構成
宮家 |
読み |
創始年 |
初代当主 |
初代の続柄 |
初代の 世数[2] |
離脱時 の当主 |
備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
伏見宮 |
ふしみ |
1456年[3] |
栄仁親王 |
崇光天皇第1皇子 |
1世 |
博明王 |
世襲親王家 |
閑院宮 |
かんいん |
1718年 |
直仁親王 |
東山天皇第6皇子 |
1世 |
春仁王 |
世襲親王家 |
山階宮 |
やましな |
1864年 |
晃親王 |
伏見宮邦家親王第1王子 |
15世 |
武彦王 |
|
北白川宮 |
きたしらかわ |
1870年[4] |
智成親王 |
伏見宮邦家親王第13王子 |
15世 |
道久王 |
|
梨本宮 |
なしもと |
1871年[5] |
守脩親王 |
伏見宮貞敬親王第9王子 |
14世 |
守正王 |
|
久邇宮 |
くに |
1875年 |
朝彦親王 |
伏見宮邦家親王第4王子 |
15世 |
朝融王 |
|
賀陽宮 |
かや |
1892年 |
邦憲王 |
久邇宮朝彦親王第2王子 |
16世 |
恒憲王 |
|
東伏見宮 |
ひがしふしみ |
1903年 |
依仁親王 |
伏見宮邦家親王第17王子 |
15世 |
[6] | |
竹田宮 |
たけだ |
1906年 |
恒久王 |
北白川宮能久親王第1王子[7] |
16世 |
恒徳王 |
|
朝香宮 |
あさか |
1906年 |
鳩彦王 |
久邇宮朝彦親王第8王子 |
16世 |
鳩彦王 |
|
東久邇宮 |
ひがしくに |
1906年 |
稔彦王 |
久邇宮朝彦親王第9王子 |
16世 |
稔彦王 |
旧皇族起源
93後伏見天皇 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 |
光明天皇 北2 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇光天皇 北3 |
後光厳天皇 北4 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)栄仁親王 |
後円融天皇 北5 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)治仁王 |
(3)貞成親王 (後崇光院) |
100後小松天皇 北6 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102後花園天皇 |
(4)貞常親王 〔伏見宮家〕 |
101称光天皇 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
103後土御門天皇 |
(5)邦高親王 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現皇室へ | 伏見宮 (旧皇族)へ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
伏見宮・閑院宮系図
崇光天皇 | (1)栄仁親王 |
(2)治仁王 |
後花園天皇 | 後土御門天皇 | 後柏原天皇 | 後奈良天皇 | 正親町天皇 | A | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)貞成親王 (後崇光院) |
(4)貞常親王 |
(5)邦高親王 |
(6)貞敦親王 |
(7)邦輔親王 |
(8)貞康親王 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(9)邦房親王 |
B | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
A | 誠仁親王 | 後陽成天皇 | 後水尾天皇 | 霊元天皇 | 東山天皇 | 中御門天皇 | C | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
B | (10)貞清親王 |
(11)邦尚親王 |
(閑院宮1)直仁親王 |
D | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(12)邦道親王 |
(16)邦忠親王 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(13)貞致親王 |
(14)邦永親王 |
(15)貞建親王 |
(18)邦頼親王 |
(19)貞敬親王 |
邦家親王へ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
C | 桜町天皇 | 桃園天皇 | 後桃園天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(17)貞行親王 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
D | (閑院宮2)典仁親王 |
(閑院宮3)美仁親王 |
(閑院宮4)孝仁親王 |
(閑院宮5)愛仁親王 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光格天皇 | 仁孝天皇 | 孝明天皇 | 明治天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
旧皇族系図
(20/23)伏見宮邦家親王 |
(1)山階宮晃親王 |
(2)山階宮菊麿王[8] |
(3)山階宮武彦王 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)梨本宮守脩親王 |
(1)久邇宮朝彦親王 |
(1)賀陽宮邦憲王 |
(2)賀陽宮恒憲王 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)久邇宮邦彦王 |
(3)久邇宮朝融王 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)梨本宮守正王 |
香淳皇后 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今上天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(21)伏見宮貞教親王 |
(1)朝香宮鳩彦王 |
昭和天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)東久邇宮稔彦王 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)竹田宮恒久王 |
(2)竹田宮恒徳王 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)北白川宮能久親王 |
(3)北白川宮成久王 |
(4)北白川宮永久王 |
(5)北白川宮道久王 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小松輝久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)北白川宮智成親王 |
(25)伏見宮博恭王 |
博義王 | (26)伏見宮博明王 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(22/24)伏見宮貞愛親王 |
邦芳王 | (4)華頂宮博忠王 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)閑院宮載仁親王 |
(7)閑院宮春仁王 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)東伏見宮依仁親王 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
依仁親王妃周子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
数字は代目 背景オレンジは皇籍離脱した時の11宮家当主(東伏見宮依仁親王は離脱前に薨去)
現在の皇室との近親関係
香淳皇后の実家(今上天皇の伯父筋にあたる家系)
- 久邇家
- 久邇家は香淳皇后を通して現在の天皇家、常陸宮家と姻戚関係にあるが、これは香淳皇后が入内したことによるもので久邇家には明治天皇以降の男系の血統は入っていない。久邇宮朝融王は今上天皇の伯父にあたる。
- 明治天皇の女婿たる家(今上天皇の義理の大叔父筋にあたる家系)
- 北白川家
- 竹田家
- 朝香家
- 東久邇家
- 昭和天皇の女婿たる家(今上天皇の義兄筋にあたる家系)
- 東久邇家
東久邇宮稔彦王は明治天皇の第九皇女の泰宮聡子内親王と結婚しており、今上天皇の義理の大叔父に当たると同時に久邇宮家出身の香淳皇后を通して実の大叔父にもあたる。また稔彦王の第一王子の盛厚王は昭和天皇の第一皇女の照宮成子内親王と結婚しており、盛厚王は今上天皇の大叔父の子であると同時に義兄でもある。
明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大正天皇 | 竹田宮恒久王 | 昌子内親王 | 北白川宮成久王 | 房子内親王 | 朝香宮鳩彦王 | 允子内親王 | 東久邇宮稔彦王 | 聡子内親王 | 昭和天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和天皇 | 竹田恒徳 | 永久王 | 朝香孚彦 | 盛厚王 | 成子内親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今上天皇 | 竹田恒正 | 北白川道久 | 朝香誠彦 | 東久邇信彦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現皇族 | 竹田家 | 北白川家 | 朝香家 | 東久邇家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
離脱した51名の一覧
- 年齢は離脱時の数え年[9]
宮家 |
名 |
読み |
身位 |
年齢 |
備考 |
---|---|---|---|---|---|
伏見宮 |
博明 |
ひろあき |
2/王 |
16 |
1/第26代当主。 博義王第1男子。 |
朝子 |
ときこ |
4/王妃 |
46 |
博義王妃。 |
|
光子 |
みつこ |
女王 |
19 |
博義王第1女子。 |
|
章子 |
あやこ |
女王 |
14 |
博義王第2女子。 |
|
閑院宮 |
春仁 |
はるひと |
2/王 |
46 |
1/第7代当主。 載仁親王第2男子。 |
直子 |
なおこ |
4/王妃 |
40 |
春仁王妃。 |
|
山階宮 |
武彦 |
たけひこ |
2/王 |
50 |
1/第3代当主。 菊麿王第1男子。 |
北白川宮 |
道久 |
みちひさ |
2/王 |
11 |
1/第5代当主。 永久王第1男子。 |
房子 |
ふさこ |
3/内親王 王妃 |
58 |
3代当主の成久王妃。 明治天皇第7皇女。 |
|
祥子 |
さちこ |
4/王妃 |
32 |
4代当主の永久王妃。 |
|
肇子 |
はつこ |
女王 |
9 |
永久王第1女子。 |
|
梨本宮 |
守正 |
もりまさ |
2/王 |
74 |
1/第2代当主。 久邇宮朝彦親王第4男子。 |
伊都子 |
いつこ |
4/王妃 |
66 |
守正王妃。 |
|
久邇宮 |
朝融 |
あさあきら |
2/王 |
47 |
1/第3代当主。 邦彦王第1男子。 |
俔子 |
ちかこ |
4/王妃 |
69 |
邦彦王妃。 |
|
静子 |
しずこ |
4/王妃 |
64 |
多嘉王妃。 |
|
朝子 |
あさこ |
女王 |
21 |
朝融王第2女子。 |
|
邦昭 |
くにあき |
2/王 |
19 |
朝融王第1男子。 |
|
通子 |
みちこ |
女王 |
15 |
朝融王第3女子。 |
|
英子 |
ひでこ |
女王 |
11 |
朝融王第4女子。 |
|
朝建 |
あさたけ |
2/王 |
8 |
朝融王第2男子。 |
|
典子 |
のりこ |
女王 |
7 |
朝融王第5女子。 |
|
朝宏 |
あさひろ |
2/王 |
4 |
朝融王第3男子。 |
|
賀陽宮 |
恒憲 |
つねのり |
2/王 |
48 |
1/第2代当主。 邦憲王第1王子。 |
敏子 |
としこ |
4/王妃 |
45 |
恒憲王の妃 |
|
邦寿 |
くになが |
2/王 |
26 |
恒憲王第1男子 |
|
治憲 |
はるのり |
2/王 |
22 |
恒憲王第2男子。 |
|
章憲 |
あきのり |
2/王 |
19 |
恒憲王第3男子。 |
|
文憲 |
ふみのり |
2/王 |
17 |
恒憲王第4男子。 |
|
宗憲 |
むねのり |
2/王 |
16 |
恒憲王第5男子。 |
|
健憲 |
たけのり |
2/王 |
6 |
恒憲王第6男子。 |
|
東伏見宮 |
周子 |
かねこ |
4/王妃 |
72 |
初代当主依仁親王妃。 |
竹田宮 |
恒徳 |
つねよし |
2/王 |
39 |
1/第2代当主。 恒久王第1男子。 |
光子 |
みつこ |
4/王妃 |
33 |
恒徳王妃。 |
|
恒正 |
つねただ |
2/王 |
8 |
恒徳王第1男子。 |
|
恒治 |
つねはる |
2/王 |
4 |
恒徳王第2男子。 |
|
素子 |
もとこ |
女王 |
6 |
恒徳王第1女子。 |
|
紀子 |
のりこ |
女王 |
5 |
恒徳王第2女子。 |
|
朝香宮 |
鳩彦 |
やすひこ |
2/王 |
61 |
1/初代当主。 久邇宮朝彦親王第8男子。 |
孚彦 |
たかひこ |
2/王 |
36 |
鳩彦王第1男子。 |
|
千賀子 |
ちかこ |
4/王妃 |
27 |
孚彦王妃。 |
|
富久子 |
ふくこ |
女王 |
7 |
孚彦王第1女子。 |
|
誠彦 |
ともひこ |
2/王 |
5 |
孚彦王第1男子。 |
|
美乃子 |
みのこ |
女王 |
3 |
孚彦王第2女子。 |
|
東久邇宮 |
稔彦 |
なるひこ |
2/王 |
61 |
1/初代当主。 久邇宮朝彦親王第9男子。 |
聡子 |
としこ |
3/内親王 王妃 |
52 |
稔彦王妃。 明治天皇第9皇女。 |
|
盛厚 |
もりひろ |
2/王 |
32 |
稔彦王第1男子 |
|
成子 |
しげこ |
3/内親王 王妃 |
23 |
盛厚王妃。 昭和天皇第1皇女。 |
|
信彦 |
のぶひこ |
2/王 |
3 |
盛厚王第1男子。 |
|
文子 |
ふみこ |
女王 |
2 |
盛厚王第1女子。 |
|
俊彦 |
としひこ |
2/王 |
19 |
稔彦王第4男子。 |
皇籍離脱の経緯
終戦後の1947年(昭和22年)10月14日、11宮家51名は、GHQの指令により皇室財産が国庫に帰属させられたため、経済的に従来の規模の皇室を維持できなくなったことから皇籍離脱した。
『昭和財政史』によれば、終戦前後の皇室の財政規模は約2,500万円と推定されている。そのうち450万円が政府の一般会計から支出されていた。この450万円という額は明治43年度(1910年度)から昭和22年度(1947年度)まで完全に固定され、その後の財政規模の拡大にともなう差額は山林・有価証券・農地などの皇室独自の財源からまかなわれていた。終戦後には皇室が自らこの差額を調達することは不可能となり、長年固定されていた皇室費を一挙に数倍に増額することは、敗戦直後の極度に逼迫した財政のもとではとうてい合理的な説明がつかなかったのである。
皇籍離脱という着想自体は、GHQにより新たに持ち込まれたものではない。東久邇宮稔彦王は、1945年(昭和20年)に内閣総理大臣を辞任した直後にも、自らの臣籍降下を昭和天皇に願い出ており、さらにそのことをマスコミにも語り、他の皇族も自分にならうことを求めたために、宮内省があわてて否定の声明を出す一幕もあった。また、賀陽宮恒憲王も天皇に同様の申し入れをしている。
当然、この動きに対し昭和天皇や一部の皇族から激しい抵抗があり、香淳皇后の実家である久邇宮家や昭和天皇の第一皇女成子内親王の嫁ぎ先である東久邇宮家などの一部の宮家に関しては皇室に残す案も出た。しかし最終的には、昭和天皇の実弟である秩父・高松・三笠の3宮家のみを残し、伏見宮系の11宮家は全て皇籍離脱させることになった。
11宮家51名の皇籍離脱は、形式上は現行の皇室典範の第11条第1項「その意思に基き、皇室会議の議により」、第11条第2項「やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により」もしくは第14条「その意思により」または第13条「皇族の身分を離れる親王又は王の妃並びに直系卑属及びその妃は、他の皇族と婚姻した女子及びその直系卑属を除き、同時に皇族の身分を離れる」によってそれぞれ行なわれた。
永世皇族制と旧皇族
1889年(明治22年)2月11日制定の旧皇室典範は元来永世皇族制を原則としていたが、1907年(明治40年)の皇室典範増補で早くも例外が設けられた。たとえば、同増補第1条には、
「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムコトアルヘシ」
とあるように、臣籍降下ができるとされたのである。
しかし、その後、王の臣籍降下は北白川宮輝久王(侯爵小松輝久)の1例のみにとどまった。そこで、1920年(大正9年)5月19日に制定された内規「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」により、この趣旨はさらに徹底された。準則第1条には、
「皇玄孫ノ子孫タル王明治40年2月11日勅定の皇室典範増補第1条及ヒ皇族身位令第25条ノ規定ニヨリ情願ヲ為ササルトキハ長子孫ノ系統4世以内ヲ除クノ外勅旨ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列ス」
とあり、情願をしない王は、皇族会議及び枢密顧問の諮問を経て勅旨によって臣籍降下させて華族に列することが明記された(皇族身位令第25条は、情願をすることができるのは満15歳以上の王に限る旨の規定である)。
具体的には、皇玄孫までを皇族としその子孫は臣籍降下させること、ただし宮家を継承する長男のみは例外とするが、これも皇玄孫のさらに4世(玄孫)までを皇族とし、それ以降の世代は臣籍降下させることとされた。伏見宮系の皇族はもちろんこの範囲には収まらないが、邦家親王を皇玄孫に擬制し、邦家親王の4世(玄孫)までを皇族の身分にとどめるものとされていた。
旧皇族との関連で言えば、準則は、伏見宮系の皇族を皇位継承資格として確保することよりも、むしろ邦家親王の子孫からこれ以上皇族が増加することを抑制し、将来的には全員の臣籍降下に導くことを意図していた。そのことは、皇族の範囲を狭く限定する趣旨(これは大正天皇の直系子孫の王・女王であっても同様に適用されるとした)が準則の第1条にまず謳われ、邦家親王の子孫に関する規定は特例として「附則」に言及されているに過ぎないことからも明白である。
準則は、同増補では明確でなかった皇玄孫以降の子孫たちが順次臣籍降下してゆく基準を具体的・機械的に定めるものであった。
なお、降下の情願をなさなかった場合において、当時の準則に基づいて勅旨によって降下する可能性は以下を除く全ての男性皇族にあった。以下の人物も邦家親王に対する特例を排除した場合は否応なく適用対象となる。(※を付した人名は2006年12月現在の生存者)
伏見宮邦家親王━┳━山階宮晃親王━━━━━菊麿王━━━━━━武彦王(断絶)
┃
┣━久邇宮朝彦親王━━┳━賀陽宮邦憲王━━━恒憲王━━━邦寿王━━━治憲王━━━賀陽正憲※
┃ ┃
┃ ┣━邦彦王━━━━━━朝融王━━━邦昭王※
┃ ┃
┃ ┣━梨本宮守正王(断絶)
┃ ┃
┃ ┣━朝香宮鳩彦王━━━孚彦王━━━誠彦王※
┃ ┃
┃ ┗━東久邇宮稔彦王━━盛厚王━━━信彦王※
┃
┣━北白川宮能久親王━┳━竹田宮恒久王━━━恒徳王━━━恒正王※
┃ ┃
┃ ┗━成久王━━━━━━永久王━━━道久王※
┃
┣━貞愛親王━━━━━━━博恭王━━━━━━博義王━━━博明王※
┃
┣━閑院宮載仁親王━━━━春仁王(断絶)
┃
┗━東伏見宮依仁親王(断絶)
むろん、皇族を勅旨によって強制的に臣籍降下させることを原則とするこのような規定には異論もあり、裁定にあたって準則の諮詢を受けた枢密院での審議でも、一律・機械的に適用するのではなく個別の事情に応じて判断する旨の説明がなされている。枢密院はこれを受けて満場一致で準則を可決した。ついで諮詢を受けた皇族会議でも、一部の皇族たちの反発が予想されたため、宮内省側は、皇族会議の議員は「自己の利害に関する議事」では採決に参加できないという皇族会議令第9条の規定を利用して採決を行わずに議長であった伏見宮貞愛親王の判断のみで皇族会議を通過させている。
皇族の身分に関する事柄は天皇の大権事項であるから、この準則が存在したとしても、天皇の意思があれば例外を作ることは可能であったと考えられる。しかし、皇室典範増補制定以来の政府の皇族増加抑制策は、明治維新前後の時期に創設された宮家が、いわゆる世襲親王家とは異なり、本来は世襲を予定しなかったにもかかわらず、当初の意図に反してなしくずしに永世皇族に移行してゆき、結局、皇室典範での永世皇族制の成立に結びついた経緯への反省を踏まえたものでもあり、天皇の大権を発動して例外を作るケースが実際に発生したとは考えにくい。
その後、準則が制定されてから1946年(昭和21年)に廃止されるまでの26年間に12人の皇族の臣籍降下があった。いずれも皇室典範増補第1条に基づく情願による降下であり、準則の適用を受けて自らの意志に反して降下させられたケースはひとつもない。しかし、情願をしなければ強制的に降下させられる以上、そのような不名誉を避けるためには、準則の条件に該当する皇族は望むと望まざるとにかかわらず降下の情願をせざるを得ない状況に置かれていたのである。準則の強制力は非常に強いものがあった。準則の規定に反して例外がつくられたケースはひとつもない。
ただし、準則の項の一つである「宮家の嫡男たる皇玄孫の玄孫の子」の降下は例そのものが存在していない。もっともこれは、当てはまる皇族が準則の廃止まで一人も存在しなかったことによる。項目に当てはまるべき邦昭王・誠彦王・信彦王・恒正王のそれぞれの長男は何れも親の皇籍離脱後に誕生した人物である。
皇籍離脱後の旧皇族
彼らは、皇籍離脱後は、それぞれ宮号から「宮」の字を除いたものを名字として名乗り、民間人としての生活を始めた。
財産税の賦課を受けてほとんどの者が資産の多くを失い、長く経済的な困窮に苦しんだ者がいる一方、資産の一部を確保して一定の生活レベルを維持できた者、事業を興して成功した者、皇室・旧華族・神道などに関係する職に就いたりして、社会の名士として活動を続けた者もおり、その後の運命はさまざまである。なかには、新聞の三面記事を賑わすスキャンダルを起こした者もいる。
旧皇族は世間の注目を避けて静かに生活してきた者がほとんどだったが、最近では賀陽正憲、竹田恒治など外交官に就いた者、竹田恒泰のように積極的に著作や講演などで活躍し、マスメディアに登場している者もいる。なお、プリンスホテルの社名は、ホテルの建物が旧皇族の手放した土地に立地していることに由来している。
皇籍を離脱した後も皇室の親戚という立場には変わりがなく(皇族ではないが民法上は天皇の親族である者もいる)、皇室の親族が所属する親睦団体の菊栄親睦会に所属して現在でも皇室と親しく交流を続けている。久邇朝融(香淳皇后の兄)や東久邇成子など、一部の旧皇族は特例として豊島岡墓地に葬られている。
その後の旧皇族
賀陽宮
- 皇籍離脱時の当主:恒憲王の死後、長男:邦寿が1986年(昭和61年)に死去し、直系では断絶。
恒憲の三男:章憲には息子正憲[10]がいる。
- 正憲には現在男子が2人(1996年・1998年生)いる。
東久邇宮
- 初代稔彦王の妻は明治天皇第九皇女の泰宮聡子内親王。
- 現当主は東久邇信彦(信彦王)。 (1945-03-10) 1945年3月10日(74歳)生。母は昭和天皇の第1皇女である照宮成子内親王であり信彦は昭和天皇の初孫となる。
- 信彦の長男・征彦(1973年生)にひとりの男子(2010年生)がいる。
- 信彦の弟・眞彦は2人の男子がいる。
- 眞彦の長男には男子がいる(2004年生)。
- 信彦のもう一人の弟は壬生家に養子に行っており、2人の男子がいる。この二人の息子にはそれぞれ男子がいる(2010年頃生)。
竹田宮
- 初代当主恒久王の妻は明治天皇第六皇女昌子内親王。
- 現在の当主は、恒徳王の長男第3代当主竹田恒正。 (1940-10-11) 1940年10月11日(78歳)。息子は恒貴(1974年生)。
恒正の弟・恒治には2人の男子(恒昭1979年生・恒智1980年生)がいる。- 恒正の弟・恒和には2人の男子(恒泰1975年生・恒俊1978年生)がいる。
断絶した旧皇族
東伏見宮
- 皇籍離脱時に周子のみ。彼女の死去により1955年(昭和30年)断絶。
久邇宮邦彦王の第三王子、東伏見慈洽が1931年に臣籍降下をして同家の祭祀を継承している。長男東伏見韶淑、次男東伏見慈晃、三男東伏見睿淑。
山階宮
- 皇籍離脱時の当主:武彦王の死去により1987年(昭和62年)断絶。
- 武彦王の弟は山階芳麿・筑波藤麿・鹿島萩麿・葛城茂麿の4人。(いずれも戦前に皇籍離脱済)
藤麿には3人、茂麿には2人男子がいる。
- 茂麿には男子の孫がいる。
山階芳麿の養子山階芳正(浅野侯爵家より養子入り)が同家の祭祀を継承している。
閑院宮
- 皇籍離脱時の当主、春仁王の死去により1988年(昭和63年)断絶。
- 2代目典仁親王の6男・師仁親王(光格天皇)の子孫は現天皇家。
梨本宮
- 皇籍離脱時の当主:守正王の死後、未亡人の伊都子が甥の徳彦を養子とした。実子系統では断絶。
断絶の可能性が濃厚な旧皇族
伏見宮
- 現当主は離脱時のまま第26代目の伏見博明(博明王) 。 (1932-01-26) 1932年1月26日(87歳)。
- 博明の子3人は全員女子。
北白川宮
- 2代目成久王の妻は明治天皇の第7皇女・周宮房子内親王。
- 5代目当主の北白川道久(道久王)が2018年10月20日死去。3人の子は全員女子。
久邇宮
- 2代目邦彦王の娘は昭和天皇妃香淳皇后。
- 現直系当主は4代目の久邇邦昭(邦昭王)。 (1929-03-25) 1929年3月25日(89歳)生。香淳皇后の甥であり、今上天皇(明仁)とは従兄弟にあたる。
- 邦昭には息子が2人(1959年生・1961年生)がいるが男子の孫はおらず。
朝香宮
- 初代の鳩彦王の妻は明治天皇の第八皇女允子内親王。
- 現当主は孚彦王の息子で3代目の朝香誠彦。子は明彦(1972年生・独身)。
旧皇族の著名人
北白川房子(元神社本庁総裁、元神宮祭主)
北白川道久(神社本庁統理、元神宮大宮司。妹肇子は今上天皇のお妃候補として有力視されていた)
久邇邦昭(元神社本庁統理、元伊勢神宮大宮司)
竹田恒治(在ブルガリア日本国特命全権大使)
竹田恒徳(日本オリンピック委員会会長、日本馬術連盟会長)
多羅間俊彦(旧姓・東久邇。ブラジルに移民し、コーヒー園を経営していた)
東久邇稔彦(第43代内閣総理大臣。また、皇籍離脱後たびたび新聞の三面記事を賑わせた)
東久邇信彦(全日本野球会議名誉会長、崇敬会「東郷会」名誉会長)
東伏見慈洽(僧侶、ピアニスト)
山階芳麿(鳥類学者)
- ※下記の人物は皇籍離脱後の誕生であるため、厳密に区分すると「旧皇族の子孫」である。
有馬頼義(直木賞作家。北白川宮能久親王の外孫)
賀陽正憲(在デンマーク大使館一等書記官)
竹田恒和(日本オリンピック委員会会長)
竹田恒泰(評論家、皇學館大学講師、元慶應義塾大学講師)
筑波常治(科学史家、早稲田大学教授)
美苑ふう(SF作家。朝香孚彦の長女)
旧皇族邸
すべて都心6区に所在している。京都に別邸もある。

朝香宮邸(現:東京都庭園美術館)
邸宅 |
建物 |
現在 |
所在地 |
位置 |
---|---|---|---|---|
朝香宮邸 |
現存 |
東京都庭園美術館 |
東京都港区白金台 |
地図 |
賀陽宮邸 |
千鳥ケ淵戦没者墓苑 |
東京都千代田区三番町 |
地図 |
|
閑院宮邸 |
[11] | 衆議院議長公邸・参議院議長公邸 |
東京都千代田区永田町 |
地図 |
北白川宮邸 |
グランドプリンスホテル新高輪国際館パミール |
東京都港区高輪 |
地図 |
|
久邇宮邸 |
一部現存[12] |
聖心女子大学構内パレス |
東京都渋谷区広尾 |
地図 |
竹田宮邸 |
現存 |
グランドプリンスホテル貴賓館 |
東京都港区高輪 |
地図 |
梨本宮邸 |
東京都児童会館 |
東京都渋谷区渋谷 |
地図 |
|
東久邇宮邸 |
放火焼失 |
ホテルパシフィック東京 |
東京都港区高輪 |
地図 |
東伏見宮邸 |
現存 |
常陸宮邸 |
東京都渋谷区常盤松 |
地図 |
伏見宮邸 |
ホテルニューオータニ |
東京都千代田区紀尾井町 |
地図 |
|
山階宮邸 |
ふじみこどもひろば |
東京都千代田区富士見 |
地図 |
旧皇族の皇籍復帰問題
1965年(昭和40年)の秋篠宮文仁親王の誕生以来、2006年(平成18年)の悠仁親王の誕生までの41年間、男子の誕生がなかった。一方、現行の皇室典範の規定では、男系の男子しか皇位を継承することができないため、近い将来に皇位継承資格者が存在しなくなる皇位継承問題が予想されている。この問題へのひとつの対処として、旧皇族から男系男子を補充して皇族の数を維持しようというアイディアが提示されている。
現行の皇室典範・旧皇室典範ともに、いったん皇族の身分を離れた者がふたたび皇族になることを禁止しており、このアイディアの実現には法改正が必要である。具体的な方法については旧皇族男性を現在の皇族の養子とする、旧皇族男性を未婚の女性皇族と結婚させるなどのアイディアが提示されている。小泉純一郎首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は旧皇族男性を養子にする案については「当事者の意思により継承順位が左右され、一義性に欠ける」として否定的見解が出された。
近代以前の朝廷では、いったん皇族でなくなった者がふたたび皇族となった例がいくつかある。
宇多天皇は父である光孝天皇の意向でいったん臣籍に降り「源定省」と称したが、父が危篤となり皇位継承者の不在を回避するためふたたび皇族となり皇太子とされ、父の死後即位している。
醍醐天皇は父である宇多天皇が源氏を称していた時期の出生である。はじめ「源維城」と名乗り、父の即位とともに皇族の身分を獲得して「敦仁」と改名、その後皇太子となり、父の譲位を受けて即位した。
- なお、光孝天皇は先代の陽成天皇が突然の不祥事により廃位されたことにともなって即位した暫定の天皇であった。陽成の弟であり関白藤原基経の外孫である貞保親王は有力な皇位継承者としてなお健在であり、光孝は貞保に遠慮して子女26人の全員を臣籍降下させた。宇多・醍醐父子が臣下として暮らした3年間はそのような特殊な事情による。
兼明親王(醍醐天皇の皇子)は6歳で源氏となったが、57年後に親王宣下を受けてふたたび皇族となった。ただしこれは兼明から左大臣の官職を剥奪するための陰謀によるもので、あきらかに左遷であった。詩人として知られている兼明がこのときの怒りと悲しみを詠った詩が残っている。
惟康親王(後嵯峨天皇の孫)は鎌倉幕府6代将軍宗尊親王の子であり、父の跡を継いで7代将軍となった。7歳で臣下に降って「源惟康」と名乗ったが、24歳になって突然親王宣下を受けて皇族に復帰した。理由は不明であるが、いずれにせよ鎌倉幕府の内部事情によるもので皇位継承に関係するものではない。
忠房親王は承久の乱で謀反人となった順徳天皇の曾孫であり、祖父忠成王は四条天皇の急死で皇位継承者が不在となった際に一時新天皇候補に擬せられた。父彦仁の代から源氏となった。そのような危険な家系の出身である忠房が皇族となった理由は不明である。忠房の子彦良はふたたび源氏となり、その子孫がどうなったかもわからない。
承鎮法親王(忠房親王の弟)
守子内親王(忠房親王の妹)
旧皇族のなかには、皇位を継承しさらに未来の皇位継承者を生み出すことのできる若い男性が若干名おり、有事に備え各家は連絡会を結成している。このことは上記のいくつかの先例と合わせて女系天皇反対論・旧宮家皇籍復帰論にも関係する。ただし立場から、旧皇族が積極的に皇族身分への復帰を表明することはない。
旧皇族系図
崇光天皇 | (1)栄仁親王 |
(2)治仁王 |
後花園天皇 | 後土御門天皇 | 後柏原天皇 | 後奈良天皇 | 正親町天皇 | A | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)貞成親王 (後崇光院) |
(4)貞常親王 |
(5)邦高親王 |
(6)貞敦親王 |
(7)邦輔親王 |
(8)貞康親王 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(9)邦房親王 |
B | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
A | 誠仁親王 | 後陽成天皇 | 後水尾天皇 | 霊元天皇 | 東山天皇 | 中御門天皇 | C | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
B | (10)貞清親王 |
(11)邦尚親王 |
(閑院宮1)直仁親王 |
D | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(12)邦道親王 |
(16)邦忠親王 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(13)貞致親王 |
(14)邦永親王 |
(15)貞建親王 |
(18)邦頼親王 |
(19)貞敬親王 |
E | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
C | 桜町天皇 | 桃園天皇 | 後桃園天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(17)貞行親王 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
D | (閑院宮2)典仁親王 |
(閑院宮3)美仁親王 |
(閑院宮4)孝仁親王 |
(閑院宮5)愛仁親王 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光格天皇 | 仁孝天皇 | 孝明天皇 | 明治天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
E | (20/23)邦家親王 |
(山階宮1)晃親王 |
(梨本宮2/山階宮2) 菊麿王 |
(山階宮3)武彦王 (皇籍離脱) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(梨本宮1)守脩親王 |
(久邇宮1)朝彦親王 |
(賀陽宮1)邦憲王 |
(賀陽宮2)恒憲王 (皇籍離脱) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(久邇宮2)邦彦王 |
(久邇宮3)朝融王 (皇籍離脱) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(梨本宮3)守正王 |
香淳皇后 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多嘉王 | 今上天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(21)貞教親王 |
(朝香宮)鳩彦王 (皇籍離脱) |
昭和天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(東久邇宮)稔彦王 (皇籍離脱) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小松宮彰仁親王 | (竹田宮1)恒久王 |
(竹田宮2)恒徳王 (皇籍離脱) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(北白川宮2)能久親王 |
(北白川宮3)成久王 |
(北白川宮4)永久王 |
(北白川宮5)道久王 (皇籍離脱) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小松輝久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(華頂宮1)博経親王 |
(華頂宮2)博厚親王 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(北白川宮1)智成親王 |
(25/華頂宮3) 博恭王 |
博義王 | (26)博明王 (皇籍離脱) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(22/24)貞愛親王 |
邦芳王 | (華頂宮4) 博忠王 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(閑院宮6)載仁親王 |
(閑院宮7)春仁王 (皇籍離脱) |
華頂博信 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(東伏見宮)依仁親王 |
伏見博英 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇籍離脱前の皇位継承順位
旧皇室典範時:1947年(昭和22年)10月より前
.mw-parser-output .treeview ul{padding:0;margin:0}.mw-parser-output .treeview li{padding:0;margin:0;list-style-type:none;list-style-image:none}.mw-parser-output .treeview li li{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f2/Treeview-grey-line.png")no-repeat 0 -2981px;padding-left:21px;text-indent:0.3em}.mw-parser-output .treeview li li:last-child{background-position:0 -5971px}.mw-parser-output .treeview li.emptyline>ul>.mw-empty-elt:first-child+.emptyline,.mw-parser-output .treeview li.emptyline>ul>li:first-child{background-position:0 9px}
大正天皇 (嘉仁; 1879–1926)
今上天皇 (裕仁 born 1901 昭和天皇)
(1) 継宮明仁親王 (b. 1933)
(2) 義宮正仁親王 (b. 1935)
(3) 秩父宮雍仁親王 (b. 1902)[13]
(4) 高松宮宣仁親王 (b. 1905)
(5) 三笠宮崇仁親王 (b. 1915)
(6) 寬仁親王 (b. 1946)
11宮家
伏見宮邦家親王 (1802–1872) (伏見宮)
山階宮晃親王 (1816–1891) (山階宮)
山階宮菊麿王 (1873–1908)
- (8) 山階宮武彦王 (b. 1898)[13]
久邇宮朝彦親王 (1824–1891) (久邇宮)
賀陽宮邦憲王 (1867–1909) (賀陽宮)
- (9) 賀陽宮恒憲王 (b. 1900)
(10) 邦寿王 (b. 1922)
(11) 治憲王 (b. 1926)
(12) 章憲王 (b. 1929)
(13) 文憲王 (b. 1931)
(14) 宗憲王 (b. 1935)
(15) 健憲王 (b. 1942)
久邇宮邦彦王 (1873–1929)
(16) 朝融王 (b. 1901)
(17) 邦昭王 (b. 1929)
(18) 朝建王 (b. 1940)
(19) 朝宏王 (b. 1944)
(20) 梨本宮守正王 (b. 1874) (梨本宮)[13]
(21) 朝香宮鳩彦王 (b. 1887) (朝香宮)[13]
(22) 孚彦王 (b. 1912)
(23) 誠彦王 (b. 1943)
(24) 東久邇宮稔彦王 (b. 1887) (東久邇宮)[13]
(25) 盛厚王 (b. 1916)
(26) 信彦王 (b. 1945)
北白川宮能久親王 (1847–1895) (北白川宮)
竹田宮恒久王 (1882–1919) (竹田宮)
(28) 恒徳王 (b. 1909)[13]
(29) 恒正王 (b. 1940)
(30) 恒治王 (b. 1944)
北白川宮成久王 (1887–1923)
北白川宮永久王 (1910–1940)
(27) 北白川道久王 (b. 1937)
伏見宮貞愛親王 (1858-1923)
伏見宮博恭王 (1875–1946)
博義王 (1897–1938)
(7) 伏見宮博明王 (b. 1932)
閑院宮載仁親王 (1865–1945)
(31) 閑院宮春仁王 (b. 1902)[13]
[14][15][16][17][18]
参考文献
浅見雅男『闘う皇族 ある宮家の三代』角川書店〈角川選書〉、2005年。ISBN 4047033804
加瀬英明『天皇家の戦い』新潮社〈新潮文庫〉、1983年。ISBN 4101309019
広岡裕児『皇族』中央公論新社〈中公文庫〉、2002年。ISBN 4122039606
- 大蔵省財政史編纂室編『昭和財政史-終戦から講和まで-』第4巻 東洋経済新報社、1977年、144-163頁(第3章 新財政制度の発足 第3節 皇室財政の改革)。
新潮社『週刊新潮』2011年12月15日号
脚注
^ 竹田恒泰によれば、宮内庁は1947年に皇籍離脱した11宮家51人の王、王妃、女王を「元皇族」、その中で当時宮家の当主だった王を「旧皇族」と定義しているという(ブログ開設しました! 産経新聞朝刊に注目! 竹田恒泰blog 2006年2月1日)。また高森明勅や小林よしのりらは自身の著書や講演での発言において、旧皇族とは実際に1947年に皇籍離脱した人物であるとし、離脱後に誕生した男系子孫については一度も皇族であった時期がないという点から「旧宮家系国民男子」と呼んでいる。
^ 直系尊属の天皇から数えた数
^ 貞常親王が後花園から後崇光の紋所を代々使用することと永世「伏見殿御所(伏見殿)」と称することを勅許された年
^ 照高院宮と称したのは1868年
^ 梶井宮と称したのは梶井宮
^ 当主東伏見宮依仁親王は離脱前の1922年に薨去。
^ 庶長子
^ 梨本宮2代目
^ 『皇族 天皇家の近現代史』 小田部雄次 中公新書 2009 p300
^ 皇太子徳仁親王の学友でもある。
^ 東京奠都(1896年)の前に住んでいた屋敷は京都府京都市上京区に復原されている。
^ 御常御殿
- ^ abcdefg皇室典範 (1889年)の条項
^ p. 2-5, "Japanese Royalty" Japan Year Book 1939, Kenkyusha Press, Foreign Association of Japan, Tokyo
^ Genealogy of the House of Fushimi
^ Genealogy of the Fushimi-no-miya (jp)
^ "House of Fushimi" (jp)
^ Bix, Herbert P. (2001). Hirohito and the making of modern Japan (Book) (1st Perennial ed.). New York: Perennial. pp. 382–383. ISBN 978-0060931308.
関連項目
- 世襲親王家
- 親王宣下
- 臣籍降下
- 皇位継承
- 皇室の系図一覧
- 皇族
- 宮家
- 皇別摂家
- 皇別
- 華族
- 旧皇室典範
- 皇室典範
- 万世一系
- 皇位継承問題
- 皇室典範に関する有識者会議
- 女性天皇
- 女系天皇
- 女系天皇問題
- 女性宮家
外部リンク
「帝国憲法改正関係研究資料(第1巻)」中「19.皇族の降下に関する施行準則」「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」の条文、解説、系図等を収録した文書。外務省「外交記録公開文書検索」のサイト内。閲覧にはDjVuブラウザプラグインが必要。- また、JACAR(アジア歴史資料センター)では枢密院における審議の記録である「皇族ノ降下ニ関スル内規ノ件」(枢密院会議筆記・大正九年三月十七日―レファレンスコード:A03033626200、枢密院会議文書D(会議筆記):大正・昭和)をはじめとした枢密院の関係文書が閲覧できる。
日本の親王・諸王 臣籍降下表
- 特に下記の一覧表を参照のこと。
- 臣籍降下・授爵表 自明治元年至昭和二十年
- 皇族身分離脱表 昭和二十二年(一九四七)
- 旧宮家旧皇族写真館
|