パシフィック・リーグ






























パシフィック・リーグ
競技
日本プロ野球
開始年
1950年
参加チーム
6

日本の旗 日本
前回優勝
埼玉西武ライオンズ(10年ぶり22回目)
最多優勝
埼玉西武ライオンズ(22回)

パシフィック・リーグ(英: Pacific League)は、日本のプロ野球リーグのひとつ。


正式名称は日本プロ野球組織 パシフィック・リーグ運営部パ・リーグと呼称される。




目次






  • 1 沿革


    • 1.1 誕生


    • 1.2 1950年代 黎明期


    • 1.3 1960年代 衰退期


    • 1.4 1970年代 暗黒時代


    • 1.5 1980年代 西武黄金時代


    • 1.6 1990年代 イチロー&ドーム時代


    • 1.7 2000年代 地域密着&IT時代


      • 1.7.1 2000年代前半 日本ハムの北海道移転


      • 1.7.2 2000年代後半 東北楽天の参入、地域密着の時代へ


      • 1.7.3 2010年代






  • 2 現存する加盟球団


  • 3 過去に存在した加盟球団


  • 4 試合方式


    • 4.1 総当り回数


    • 4.2 指名打者制度


    • 4.3 時間・回数制限


    • 4.4 備考


    • 4.5 プレーオフ制度導入の背景




  • 5 「実力のパ」


    • 5.1 ファンサービス


    • 5.2 マンデー・パ・リーグ




  • 6 年度別順位


  • 7 優勝年と優勝回数


  • 8 各球団監督


  • 9 名称の由来


  • 10 低勝率罰金制度


  • 11 歴代リーグ会長(代表者)


    • 11.1 リーグ運営部長




  • 12 脚注


    • 12.1 注釈


    • 12.2 出典


    • 12.3 参考文献




  • 13 関連項目


  • 14 外部リンク





沿革



誕生



1949年11月26日に開かれた各球団の代表者会議で、新球団加盟の是非をめぐり日本野球連盟が分裂した。その日の午後1時には加盟賛成派の阪急ブレーブス(後のオリックス・バファローズ)、南海ホークス(後の福岡ソフトバンクホークス)、東急フライヤーズ(後の北海道日本ハムファイターズ)、大映スターズ(後の大映ユニオンズ)に新球団の毎日オリオンズ(後の千葉ロッテマリーンズ)、西鉄クリッパース(後の埼玉西武ライオンズ)、近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)も加わり、計7球団で太平洋野球連盟(たいへいようやきゅうれんめい)が発足し、結団式が行われた。閉幕まで3日を残した1949年シーズン末の事である[1]。初年度の1950年は親会社のバックアップで戦力を充実させた毎日オリオンズが優勝し、日本シリーズでも松竹ロビンスを倒し日本一に輝いた。


当初参加を予定していた大阪タイガース(後の阪神タイガース)は看板カードの巨人戦を手放せないとして最終的に離脱、日本野球連盟に残留した。こちらが現在のセントラル野球連盟、いわゆるセントラル・リーグ(セ・リーグ)である。



1950年代 黎明期


この時代は南海と西鉄の黄金時代で、両者の対決は「黄金カード」とまで呼ばれ、1959年にはセ・リーグとの観客動員数が拮抗したこともあった。その一方、奇数球団による試合日程の不具合を避ける為、1954年のシーズン開幕前には高橋ユニオンズ(1955年のみトンボユニオンズ)が加盟して8球団となった。同球団は1954年から1956年の3シーズンのみ参加し、1957年2月に大映スターズと合併(大映ユニオンズ)し7球団となる。さらに、1957年シーズン終了後にはその大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併(毎日大映オリオンズ)し6球団となり、現在に至る。



1960年代 衰退期


1960年代のテレビの普及はテレビ局を関連会社に持つ巨人を中心にセ・リーグの人気を高めたが、親会社が鉄道会社ばかりでマスメディアを持たない[注 1]パ・リーグには逆風となった(毎日新聞社は1960年11月に大毎オリオンズの経営から撤退)。そんな中、大毎のオーナーになった永田雅一は私財を投げ打って東京・南千住に1962年「東京スタジアム」を完成させた。それでもパ・リーグの活性化には遠く、特に巨人がV9をスタートさせてからは影が薄くなる一方であった。



1970年代 暗黒時代


1969年オフに勃発した黒い霧事件は西鉄ライオンズに致命的なダメージを与え、パ・リーグ全体のイメージダウンともなった(西鉄は1972年にライオンズを中村長芳に譲渡し球団経営から撤退)。また映画産業の衰退で球団を支える経営体力が無くなり、大映(永田雅一 → 中村長芳)はロッテへ、東映は日拓ホーム → 日本ハムへと、大手映画会社の球団譲渡が相次いだ(プロ野球再編問題 (1973年)を参照)。更にロッテに至っては大映倒産に伴い東京スタジアムが使用できなくなった為、本拠地を転々としなくてはならなくなった(ジプシー・ロッテを参照)。そして1975年にはパ・リーグの観客動員数がセ・リーグの約3分の1にまで落ち込んだ。パ・リーグ関係者はこの低迷を打破しようと前期・後期の2シーズン制の採用(1973年 - 1982年)、指名打者制度の採用(1975年 - )などいろいろ新機軸を試みる。中には邪道とも言える太平洋とロッテの遺恨試合を演出してまで観客動員を増やそうとした例まであった。1970年代は阪急の黄金時代で、特に1975年から77年まで3年連続日本一となったが、関西ではスポーツ紙が阪神タイガースの記事一辺倒の為、阪急以外に南海、近鉄も含めた在阪パ・リーグ3球団の観客は増えなかった。特に1977年6月の南海 - 阪急戦は在阪球団同士による首位攻防戦であったが(当時は前述したように2シーズン制で、事実上の前期優勝争いとなっていた)、当日は阪神の試合がなかったにも拘らず試合の翌日の1面は掛布雅之の特訓記事だった、と当時南海の監督であった野村克也は著書で述べている(「あぁ、阪神タイガース―負ける理由、勝つ理由」 角川oneテーマ21)。



1980年代 西武黄金時代


1978年、西鉄から譲渡を受けたものの経営難に陥っていた中村長芳からライオンズを買収した西武グループは、球団経営に革命を起こす。大リーグ並みといわれた西武ライオンズ球場の建設、ファンサービスの充実、金に糸目をつけない選手補強などを行ったことで、それらの施策が功を奏し多くの観客が詰め掛け、1980年代には実に5回の日本一を成し遂げ「球界の新盟主」とまで言われるようになる。NHKだけでなく民放テレビ局も巨人戦一辺倒から西武戦をも放送するようになった。またその頃は清原和博、阿波野秀幸、西崎幸広など魅力のある選手がパ・リーグに登場し人気を集めることとなった。しかし、それでもセ・リーグとの観客動員数では依然として差があり、とりわけ連日閑古鳥が鳴いていた川崎球場では観客が流しそうめんをしたり、鍋料理を囲む等の光景[注 2]が展開されるなど、オフのプロ野球珍プレー・好プレー大賞でも格好のネタになっていた。また、阪急は少しでも観客を増やそうと1981年に球団マスコット「ブレービー」を登場させたり、1983年には福本豊ら3選手と競走馬を競争させるアトラクションまで行った。それでも観客増には結びつかず、南海と阪急は「球団を持つ使命は終えた」として、ともに1988年秋に南海はダイエーに、阪急はオリエント・リースに、それぞれ球団譲渡を行った。


当時のパ・リーグの不人気ぶりはコンピューターゲームにも反映されており、任天堂が1983年に発売したファミコン用ソフト「ベースボール」ではモチーフがセ・リーグ6球団のみであり[注 3]、後にナムコ(後のバンダイナムコゲームス)から発売されたプロ野球ファミリースタジアムでも、1986年版と1987年版はソフト容量の問題から、セ・リーグをモデルとしたチームは6球団全てが単独で収録されたのに対し、パ・リーグをモデルとしたチームは連合チームが多く見受けられた[注 4]


なお、1980年に名称をパシフィック野球連盟に改称している。



1990年代 イチロー&ドーム時代


1990年代前半は西武の黄金時代が続き、1990年 - 1994年までパ・リーグ史上唯一の5連覇を飾ることになる。その頃のペナントレースは、西武に近鉄と日本ハムが追う展開であった。1994年は彗星のごとく登場したイチローは1シーズンで200本を超える安打を放つ大活躍でファンの人気を集めた。また、イチローの所属するオリックスも阪神・淡路大震災後の復興のシンボルとして、ファンからの後押しもあり1995年・1996年と連続優勝を成し遂げる。イチローの他にも野茂英雄・松坂大輔など全国級のスーパースターがデビューしたのもこの頃である。


一方で、本拠地球場が築40年以上を経過し、老朽化が顕著な問題となり始める。同時に、プロ野球規格の新球場が相次いで完成した為、地元の誘致もあり、1991年にはオリックスが、神戸総合運動公園野球場に、1992年にはロッテが、千葉マリンスタジアムにそれぞれ本拠地を移転した。


更に1990年代半ばになると、1993年には福岡ドームが、1997年には大阪ドームが新たに開業し、1999年には西武ドームが、西武ライオンズ球場の改装により誕生した。このため、既に東京ドームを本拠地としていた日本ハムを含めると、6球団のうち実に4球団がドーム球場を本拠地とするようになった。これらの最新の球場は人気を集め、スター選手の登場との相乗効果により、1997年にはパ・リーグの観客動員数が増えセ・リーグの70%近くまで持ち上げることとなる。



2000年代 地域密着&IT時代



2000年代前半 日本ハムの北海道移転


1999年には、福岡ダイエーホークスが日本シリーズを制覇し、翌2000年のリーグ連覇で「地域密着球団」の成功例として球界に大きなインパクトを与えた。これが、後の2004年に、日本ハムが地域密着型球団を目指して、北海道へ移転する大きな契機になった。また、この移転とともに球団名も「北海道日本ハムファイターズ」と改められた(これにより、東京都を本拠地とするパ・リーグ球団が消滅した)。


ただしこの頃はまだ地域密着があまり注目されておらず、ロッテも1992年に川崎から千葉に移転の際、球団名を「千葉ロッテマリーンズ」と改めていたものの、長年の低迷もあり観客動員数は伸び悩んでいた。



2000年代後半 東北楽天の参入、地域密着の時代へ


地域密着が本格的に注目されるようになったきっかけは、2004年6月に大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併が突如発表されたことである。


これにより、一時はリーグ存続が危ぶまれる状況となったが、楽天(東北楽天ゴールデンイーグルス)とライブドア(仙台ライブドアフェニックス)が新規参入に名乗りを挙げ、同年11月2日のオーナー会議の席上で東北楽天ゴールデンイーグルスの参入が決定した(プロ野球再編問題 (2004年))。


これにより、2005年以降も6球団制が維持されている。大阪近鉄バファローズの消滅により、パ・リーグ創設以来、経営母体が変換されたことのない球団は、新加盟の東北楽天ゴールデンイーグルスのみとなった。


パ・リーグの各球団は、この反省を教訓に、様々な地域密着方針を打ち出した。


ロッテは、既に川崎から千葉に移転して観客は徐々に増加していたとは言え依然として観客動員数が伸び悩んでいたため、行政とも協力して千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」を打ち出した。また、熱烈な応援や独特な球団スタイルを創りあげることによって、ファンを増やすことにつなげた。そのかいもあり、2005年には31年ぶりに日本一に輝き、5年後の2010年にも再び日本一を達成した。


日本ハムは、東京ドームを本拠地としていた時代は、観客動員数の低迷にあえいでいた。2004年にこれまでプロ野球球団の無かった北海道へ移転した。移転当初の北海道では、長年にわたってテレビ中継が巨人戦中心だったこともあり、巨人ファンが圧倒的に多かった。そのため、新規ファンの開拓は困難とされていたが、地元マスメディアや、自治体のバックアップと、移転後の球団フロント及び、監督や選手らによるファン獲得への努力により、既存の野球ファンをはじめ、その他にも、女性などの、これまで野球に関心のなかった層の獲得とファンの定着化に成功した[注 5]。2006年には、本拠地移転を契機に僅か3年で、久しく遠ざかっていたリーグ優勝と日本一を達成、翌2007年にはリーグ連覇を果たし、以降は優勝争いに絡むシーズンも増え、飛躍的な変化を遂げた。


福岡に本拠地を置いたダイエーや、千葉に移転したロッテなどに続いて、日本ハムが、プロ野球球団のなかった北海道に移転して新たにファンを開拓し、結果を出したことによって、フランチャイズ球団が地域にもたらす効果や球団にもたらした変化など、地域密着スタイルが再びクローズアップされることになった。


2005年には、新たに楽天が参入し、宮城県をフランチャイズとする「東北楽天ゴールデンイーグルス」が誕生した。


西武も、経営陣が刷新された後の2008年からは、球団名に「埼玉」を掲げ、県内の大宮でも主催試合を行うなど地域密着の姿勢を打ち出した。これらにより、新たな地域密着型のリーグとしての型が確立されることとなった。


2005年からはセ・リーグとの交流試合を開始した。


2007年5月にパ・リーグ所属6球団により共同事業会社パシフィック・リーグマーケティング株式会社(PLM)を設立[2]。当初は携帯電話向けの動画配信サービス「プロ野球24」を主業務としていたが、2008年シーズンからはパ・リーグ全球団のウェブサイト、携帯電話向けウェブサイト、インターネット動画配信、携帯電話向け動画配信がPLMにより統合管理され、「クライマックス・パ」をはじめとした共同プロモーション展開などを担うこととなった。現在はメジャーリーグベースボールのビジネスモデルを手本にしたリーグ統合型のビジネスを、球団の垣根を越えパ・リーグ全体で模索している。


2009年1月1日の改定日本プロフェッショナル野球協約発効に伴い、連盟事務局と直下の審判部・記録部はコミッショナー事務局、セントラル・リーグ事務局と統合され、コミッショナー直属の『審判部』『記録部』『パシフィック・リーグ運営部』となり、リーグ会長職は廃止された[3](セ・リーグには同様に『セントラル・リーグ運営部』がある)。



2010年代


2010年、リーグ戦の年間協賛社としてマニュライフ生命保険株式会社と提携を結ぶことを発表した。これまではクライマックスシリーズでの協賛社はあったが、年間を通しての協賛企業との締結はリーグ史上初。同社の協賛は2011年、2012年シーズンも継続していた。


2013年はスポーツゲームを専門に携帯電話サイトを運営するモブキャストとオフィシャル協賛スポンサーを結び、リーグ戦とクライマックスシリーズを通して協賛することになった。また、「パ・リーグTV」にも協賛することになりモブキャストの冠を添えることになった。


以下に、実数発表となった2005年以降のペナントレース(リーグ戦+セ・パ交流戦)における、主催試合(ホームゲーム)での、1試合あたり平均観客数(人/試合)の変遷を示す[4]。2017年シーズンには、平均観客数の上位3チームが札仙広福(地方中枢都市)に所在する地方球団(★)となり、下位3チームが三大都市圏に所在するチームになった。




現存する加盟球団






























































パシフィック・リーグの加盟球団
   
球団名

保護地域
創設年度
本拠地球場
チームカラー

Nippon Fighters insignia.PNG

北海道日本ハムファイターズ
(Hokkaido Nippon-Ham Fighters)

北海道
1946年

札幌ドーム
(札幌市豊平区、位置


Rakuten eagles insignia.png

東北楽天ゴールデンイーグルス
(Tohoku Rakuten Golden Eagles)

宮城県
2005年

楽天生命パーク宮城
(仙台市宮城野区、位置


Seibu lions insignia.png

埼玉西武ライオンズ
(Saitama Seibu Lions)

埼玉県
1950年

メットライフドーム
(所沢市、位置


Lotte marines insignia.png

千葉ロッテマリーンズ
(Chiba Lotte Marines)

千葉県
1950年

ZOZOマリンスタジアム
(千葉市美浜区、位置


Buffaloesinsignia.png

オリックス・バファローズ
(ORIX Buffaloes)

大阪府
1936年

京セラドーム大阪
(大阪市西区、位置


SoftBank Hawks insignia.png

福岡ソフトバンクホークス
(Fukuoka SoftBank Hawks)

福岡県
1938年

福岡 ヤフオク!ドーム
(福岡市中央区、位置


  • 球団表記順は野球協約の保護地域表記順









パシフィック・リーグの位置(日本内)

日本ハム

日本ハム



楽天

楽天



西武

西武



ロッテ

ロッテ



オリックス

オリックス



ソフトバンク

ソフトバンク




パ・リーグ


































球団名・本拠地・親会社の遍歴
球団名 遍歴
オリックス・
バファローズ

1936年1月23日に阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)を親会社として阪急軍(阪急職業野球団)を結成。宝塚球場を本拠地とする
1937年、阪急西宮球場に本拠地を移転
1947年、球団名を阪急ベアーズに改称(シーズン中に球団名を阪急ブレーブスに改称)
1988年、阪急電鉄がオリエント・リース(オリックス)に球団を譲渡
1989年、球団名をオリックス・ブレーブスに改称
1991年、球団名をオリックス・ブルーウェーブに改称。神戸総合運動公園野球場(ほっともっとフィールド神戸)に本拠地を移転
2004年、シーズン終了後に大阪近鉄バファローズと合併
2005年、球団名をオリックス・バファローズに改称。ダブルフランチャイズ制を採用[注 6]
2007年、大阪ドーム(京セラドーム大阪)を本拠地に、神戸総合運動公園野球場を準本拠地とする


福岡ソフトバンク
ホークス

1938年3月29日に南海鉄道(後の南海電気鉄道)を親会社とした南海軍が日本野球連盟に加盟。堺大浜球場を本拠地とする
1939年、中百舌鳥球場を本拠地とする
1944年、陸上交通事業調整法による近畿日本鉄道の誕生(南海鉄道と関西急行鉄道との合併企業)に伴い、シーズン中に球団名を近畿日本軍に改称
1946年、球団名をグレートリングに改称
1947年、近畿日本鉄道による南海電気鉄道への事業譲渡に伴い、シーズン中に球団名を南海ホークスに改称
1948年、阪神甲子園球場に本拠地を移転
1950年、大阪スタヂアムに本拠地を移転
1988年、南海電気鉄道の球団株式売却によりダイエーが経営権を持つ
1989年、球団名を福岡ダイエーホークスに改称。平和台野球場に本拠地を移転
1993年、福岡ドームに本拠地を移転
2005年、ダイエーの球団株式売却によりソフトバンクが経営権を持つ。球団名を福岡ソフトバンクホークスに改称


北海道日本ハム
ファイターズ

1945年11月6日にセネタースが日本野球連盟に加盟
1946年、東京急行電鉄が経営権を持つ
1947年、球団名を東急フライヤーズに改称
1948年、大映野球が経営参加を表明。球団名を急映フライヤーズに改称。後楽園球場を本拠地とする
1949年、大映野球の経営撤退に伴い、球団名を再び東急フライヤーズに改称
1953年、シーズン中に駒澤野球場に本拠地を移転
1954年、東映に球団経営を委託。球団名を東映フライヤーズに改称
1962年、明治神宮野球場に本拠地を移転
1964年、後楽園球場に本拠地を再移転
1973年、東映の球団株式売却により日拓ホームが経営権を持つ。球団名を日拓ホームフライヤーズに改称

同年、シーズン終了後に日拓ホームが球団株式売却。日本ハムが経営権を持つ
1974年、球団名を日本ハムファイターズに改称
1988年、後楽園競輪場跡地に開場した東京ドームに本拠地を移転
2004年、北海道移転に伴い球団名を北海道日本ハムファイターズに改称。札幌ドームに本拠地を移転


千葉ロッテ
マリーンズ

1949年11月26日に毎日新聞社を親会社とした毎日オリオンズがパシフィック・リーグに加盟。後楽園球場を本拠地とする
1957年、シーズン終了後に大映ユニオンズと合併
1958年、球団名を毎日大映オリオンズに改称
1962年、シーズン中に東京スタジアムに本拠地を移転
1964年、球団名を東京オリオンズに改称
1969年、ロッテが経営参加を表明。球団名をロッテオリオンズに改称
1973年、宮城球場に本拠地を移転[注 7]
1978年、川崎球場に本拠地を移転
1992年、千葉県移転に伴い球団名を千葉ロッテマリーンズに改称。千葉マリンスタジアムに本拠地を移転


埼玉西武
ライオンズ

1949年11月26日に西日本鉄道を親会社とした西鉄クリッパースがパシフィック・リーグに加盟。平和台野球場を本拠地とする
1951年、シーズン開幕前に西日本パイレーツと合併。球団名を西鉄ライオンズに改称
1972年、中村長芳(ロッテオリオンズオーナー)が球団を買収。太平洋クラブとの提携を表明
1973年、球団名を太平洋クラブライオンズに改称
1976年、クラウンガスライターとの提携を表明
1977年、球団名をクラウンライターライオンズに改称
1978年、国土計画(西武鉄道の元親会社)が球団を買収
1979年、球団名を西武ライオンズに改称。西武ライオンズ球場に本拠地を移転
1999年、西武ライオンズ球場のドーム化工事が完了。西武ドームとなる
2008年、球団名を埼玉西武ライオンズに改称


東北楽天
ゴールデンイーグルス

2004年11月2日に楽天を親会社とした東北楽天ゴールデンイーグルスがパシフィック・リーグに加盟。宮城球場を本拠地とする




  • 親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの

  • 球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記



過去に存在した加盟球団


パシフィック・リーグの消滅球団と成績










































球団名 創設年度 優勝回数 試合 勝利 敗戦 引分
勝率

大阪近鉄バファローズ
Osaka Kintetsu Buffaloes
(1950年 - 2004年)
1949年 4 7119 3261 3720 271 .467

大映ユニオンズ
Daiei Unions
(1950年 - 1957年)
1946年 0 1029 415 586 28 .415

高橋ユニオンズ
Takahashi Unions
(1954年 - 1956年)
1954年 0 435 147 280 8 .344

  • 成績はリーグが結成された1950年以降のもの

球団名・本拠地・親会社の遍歴


















球団名 遍歴
大映ユニオンズ

1946年2月18日にゴールドスターが日本野球連盟に加盟。後楽園球場を本拠地とする
1947年、球団名を金星スターズに改称
1949年、大映が球団を買収。球団名を大映スターズに改称
1957年、シーズン開幕前に高橋ユニオンズと合併。球団名を大映ユニオンズに改称

同年、シーズン終了後に毎日オリオンズと合併。合併球団名は毎日大映オリオンズとなる


大阪近鉄バファローズ

1949年11月26日に近畿日本鉄道を親会社とした近鉄パールスがパシフィック・リーグに加盟。藤井寺球場を本拠地とする
1950年、シーズン中に大阪スタヂアムに本拠地を移転
1958年、日本生命球場に本拠地を移転
1959年、球団名を近鉄バファローに改称
1962年、球団名を近鉄バファローズに改称
1984年、藤井寺球場に本拠地を再移転
1997年、大阪ドームに本拠地を移転
1999年、球団名を大阪近鉄バファローズに改称
2004年、シーズン終了後にオリックス・ブルーウェーブと合併。合併球団名はオリックス・バファローズとなる


高橋ユニオンズ

1954年2月4日に高橋ユニオンズがパシフィック・リーグに加盟。川崎球場を本拠地とする
1955年、トンボ鉛筆との提携を表明。球団名をトンボユニオンズに改称
1956年、トンボ鉛筆の経営撤退に伴い、球団名を再び高橋ユニオンズに改称

同年、シーズン開幕前に大映スターズと合併。合併球団名は大映ユニオンズとなる




  • 親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの

  • 球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記



試合方式



総当り回数


1952年のフランチャイズ(ホームタウン)制度が採用された後はホーム・アンド・アウェー方式で、原則それぞれ半分ずつの試合を行う。



  • 1950年 - 1951年:20回 120試合

  • 1952年:18回(予選:全チーム)108試合+4回(決勝:上位4チーム) 12試合 ※1

  • 1953年 - 1955年:20回 (1953年:120試合、1954年・1955年:140試合)

  • 1956年 - 1957年:22回 (1956年:154試合 1957年:132試合)

  • 1958年 - 1960年:26回 130試合

  • 1961年:28回 140試合

  • 1962年:26回 130試合

  • 1963年 - 1964年:30回 150試合

  • 1965年:28回 140試合

  • 1966年 - 1996年:26回 130試合

  • 1997年 - 2000年:27回 135試合 ※2

  • 2001年 - 2003年:28回 140試合

  • 2004年:27回 135試合 ※2

  • 2005年 - 2006年:20回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)6回 136試合

  • 2007年 - 2014年:24回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)4回 144試合

  • 2015年 - :25回+交流戦(対セ・リーグ6チーム)3回 143試合 ※2、3


※1:1952年度については決勝リーグ進出チームは予選と合せて120試合戦った。また最終順位の変動をきたす恐れのある試合については再試合をするという取り決めがあった

※2:1997年 - 2000年と2004年、2015年以降はリーグ間の対戦は総当りが奇数回となるため、対戦カードのどちらか一方がホームゲームを1試合多く行う形(1997年 - 2000年、2004年は14試合、2015年以降は13試合)である。なおその1試合増加分のホームチームは、2004年[注 8]を除いて2年単位で隔年入れ替え制である。

※3:2015年以降のセ・パ交流戦は3回総当たりであるため、対戦カードごとに隔年でホームチームを入れ替える。


引き分けに関する扱い


  • 引き分け再試合制度実施年:1952年、1955年、1959年 - 1960年、1962年、1966年 - 1968年

  • 引き分けを0.5勝0.5敗で勝率計算した年:1956年 - 1958年、1961年


上記が規定上の対戦回数であるが、諸事情により公式戦を一部中止した年度がある。



  • 1951年:同年10月20日より開催の日米野球に伴う日程上の都合で同月7日限りでペナントレースを打ち切り。

  • 2004年:プロ野球ストライキの関係で2試合を中止。



指名打者制度


1975年のシーズンから、指名打者制度(DH制)が採用されている。



時間・回数制限











































































内容

1950年 - 1951年

シングルの場合は時間・回数制限なし(デーゲームの場合日没まで)

ダブルヘッダー第1試合の延長は原則として12回。ただしナイトゲーム(薄暮含む)は9回まで


1952年

変則ダブルヘッダー第1試合は9回まで。それ以外は時間・回数無制限


1953年

シングルでのデーゲームの場合は時間・回数制限なし。(日没まで。以後1970年まで同じ)

変則ダブルヘッダー第1試合は12回まで。ナイトゲームは23:45を過ぎて次のイニングに入らない


1954年

ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで(回数制限は1958年まで同じ)

ナイトゲームは22:45を過ぎて次のイニングに入らない



1955年 - 1958年

ナイトゲームは22:15を過ぎて次のイニングに入らない



1959年 - 1960年

ダブルヘッダー第1試合は9回まで(延長戦なし)

ナイトゲームは22:30を過ぎて次のイニングに入らない(時間制限は1964年まで同じ)



1961年 - 1964年

ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで(回数制限は1965年も同じ)


1965年

ナイトゲームは22:15を過ぎて次のイニングに入らない(時間制限は1967年まで同じ)



1966年 - 1967年

ダブルヘッダー第1試合は延長11回まで



1968年 - 1970年

ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで

ナイトゲームは22:20を過ぎて次のイニングに入らない



1971年 - 1973年

ダブルヘッダー第1試合は延長11回まで

それ以外の試合(ダブルヘッダー第2試合含む)は試合開始から3時間20分を過ぎて次のイニングに入らない。ただし、以下の規定がある

(1):19:00以後開始の場合は経過時間に関係なく22:20を過ぎて次のイニングに入らない

(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する



1974年 - 1987年

ダブルヘッダー第1試合は9回まで

それ以外の試合は原則として試合開始から3時間を経過して次のイニングに入らない。ただし、以下の規定がある

(1):19:00以後開始の試合は経過時間に関係なく22:00を過ぎて次のイニングに入らない

(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する



1988年 - 1989年

ダブルヘッダー第1試合は9回。それ以外は原則として延長12回まで。ただし、以下の規定がある

(1):試合開始(開始時刻に関わらず)から4時間を経過した場合は12回に満たなくても次のイニングに入らない

(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する



1990年 - 1993年

延長12回まで。ただし、以下の規定がある

(1):試合開始(開始時刻に関わらず)から4時間を経過した場合は12回に満たなくても次のイニングに入らない

(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する



1994年 - 2010年

延長12回まで、時間制限なし



2011年 - 2012年

延長12回まで。ただし、東日本大震災に伴う節電対策として以下の規定がある

(1):試合開始から3時間30分(雨天等による中断時間も含む)が経過した場合は次のイニングに入らない

(2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する


※ただしクライマックスシリーズでは時限なし。


2013年 -

延長12回まで、時間制限なし




備考


1952年度は予選リーグ終了後、上位4チームによる決勝リーグを開催した。


1973年 - 1982年度は前後期の2シーズン制とし、各ステージの優勝チームによるプレーオフ(5戦3勝制)で年間優勝チームを決定した。


2004年以降は予選リーグの上位3チームがトーナメント式のプレーオフを行う。詳細はプレーオフ制度 (日本プロ野球)・パシフィック・リーグの項を参照。



プレーオフ制度導入の背景


プレーオフ制度 (日本プロ野球)も参照の事。



1952年

プロ野球の場合は、現在サッカーなど他の球技のような2部リーグが存在しないので、優勝争いが絞られる後半戦は、優勝争いに関係のない消化試合は観客動員数が大幅に減ってしまい、試合の質も落としてしまうことが課題となった。そこで1952年シーズンに、7チームで18回総当り・108試合の予選リーグを行った後で上位4チームが4回総当り・12試合の決勝リーグを行って優勝を決める方式を取り入れた。

しかし、上位4チームの成績は予選・決勝を合わせた120試合の通算成績で争うものだったために予選落ちの下位3チームとの比較が出来ず、また予選落ちの球団から予選リーグ終了後は試合がないことで「置き去りにされた感じがした」などの批判が出たため、1年で取りやめとなってしまった。

1973年 - 1982年

1973年には2シーズン(前後期)制を採用。年間130試合(当時)のペナントレースを4-6月の前期ステージと7-9月の後期ステージ、それぞれ65試合ずつに分けることにして、前期・後期各ステージ優勝チームによる5戦3勝制の決勝戦(プレーオフ)で優勝を決める方式を取り入れた。それぞれのステージごとの優勝争い、そしてプレーオフと1年で3つのクライマックス(山場)を設けて観客動員の確保に努めようという考えである。

導入当初は概ね好評で観客動員が比較的よく入ったが、日程面での課題もあった(前期が終了しないうちに後期が始まってしまったため、後期終了後に前期の未消化試合をこなすことがしばしば見られた)。

1973年度のペナントレースは、雨天中止になった場合の予備日程を確保するという名目で、前期終了から後期の開幕まで約2週間ものインターバルを取ったことがあった。しかし日程が余りにも空きすぎるとして翌1974年からインターバルをなくした連続開催形式での日程に変更している。また従来の半分の試合数で優勝が決まってしまうため、結果として消化試合が増加する(更に極端な話、前期優勝したチームは後期全ての試合を消化試合に出来てしまう)という問題もあった。

1980年代に入ると極端に観客動員が減少してしまったため2シーズン制を行う意義が薄れたとして1982年度の大会を最後にそれを打ち切った。

なお、前後期制については1962年のオフにも「営業的にプラスが見込める」としてリーグ理事会で導入を検討したことがあったが、日程作成の困難を理由に見送りとなった。

1983年-1985年

1983年から2シーズン制に代えて変則1シーズン制を導入することとなった。これはいわば2シーズン制と通常の1シーズン制(同勝率の場合にのみプレーオフを行う)の中間に位置する折衷案として企画されたもので、130試合終了時に1位と2位のゲーム差が5ゲーム以内である場合、5戦3勝制を原則としたプレーオフを行うというものだった。但し勝率の計算はプレーオフを含めた成績ではじき出すため、1位のチームが1勝した後、2位のチームが残り4試合に全勝しても勝率が1位のチームに届かない場合はその時点で1位チームの優勝となるといった複雑なルールがあった。

しかし、実際には優勝した各チーム(83年、85年は西武、84年は阪急)が2位以下に大差を付けて圧倒的な優勝を決めたことからプレーオフの実施には至らず、この制度は1度も実施されぬまま廃止となり、「幻のプレーオフ」といわれた。

2004年 - 2006年

その後セ・リーグ同様に通常の1シーズン制に戻して開催することとなったが、シーズンによっては独走で1位チームが優勝することもあり、前述のように試合の質を落とす懸念から2004年シーズンに上位3チームによるトーナメント方式のプレーオフ制度が導入された。このときは、第1ステージ勝ち上がりチームが日本シリーズに出場した場合、そのチームがリーグ優勝チームという扱いであった。

しかしこの制度に関しても、1位通過チームに対する第2ステージのアドバンテージ(2005年度までは1位チームと第1ステージ勝ち上がりチームのレギュラーシーズンのゲーム差が5ゲーム以上付いていた場合、1位チームに1勝分のアドバンテージが与えられる)の扱いや、2005年に「勝ってしまうと3位チームがプレーオフに出場できない」という事態が発生した(詳細はプレーオフ制度内の脚注参照)ことなどから、2006年度は以下のようにルールを改正した。



  1. 1位通過チームはゲーム差に関係なく、第2ステージのアドバンテージ1勝分を与える。

  2. 1位通過チームが複数同率で発生した場合でも第1ステージを行う。その場合、同率1位チームの当該チーム間のその年度の対戦成績の勝ち越しチーム(同数は前年度の順位を参考)を1位と見なし、2位扱いのチームと3位チームとで第1ステージを行うこととする。

  3. また、第2ステージの第3・4戦は、第1ステージ勝ち上がりチームのホームスタジアムを使用して行うことにする。


2007年 - 現在

クライマックスシリーズを参照。



「実力のパ」


人気球団の読売ジャイアンツ・阪神タイガースを擁するセントラルリーグが「人気のセ」と言われることに対して、オールスターゲームの勝利数、対抗意識から「実力のパ」といわれている。


パ・リーグ各球団の私設応援団やファンがリーグとしての結束力を強固なものにすることを目的とし、パ・リーグをこよなく愛するファンの団体として、1982年より宮田親平らにより発足した「純パの会」という組織が存在する[5]


交流戦が開始されて以降は、常にパ・リーグのチームが上位を占めていることが多く[注 9]、2010年に至っては、交流戦上位6球団全てがパ・リーグのチームであった。一方で「実力のパ」と言われた所以である、オールスターの成績は2000年代以降、8連敗や6連敗などもあり大きく負け越している。



ファンサービス


パ・リーグの球団はセ・リーグの読売ジャイアンツや阪神タイガースに比べ観客動員が少なく、それ以上にテレビ放映が少ないため、放映権料の収入はわずかである。そのため、観客増を狙うべく積極的なファンサービスを行っている。


パ・リーグ各球団のファンクラブは、ジュニア会員にホームで内外野自由席無料、ビジターで外野席無料の特典を設けている(例外が東北楽天ゴールデンイーグルスと福岡ソフトバンクホークスのホームゲーム時)。これらの特典は、セ・リーグ球団では広島東洋カープがホームの内野自由席無料(地方主催の場合は外野自由席)を東京ヤクルトスワローズがホームの外野自由席無料を行なっているだけ(ちなみに球団が運営に直接関わるファンクラブも日本ハムファイターズが1973年に結成したのが日本初)。


また、スタジアム内でも、福岡ドームやメットライフドームの勝利の花火、ZOZOマリンスタジアムかでの特定曜日花火、京セラドーム大阪のお好み焼きタイム等、観客を野球以外で楽しませるための演出や入場者へのホームチームノベルティプレゼント、各試合ごとのイベント(ホームチーム地元在住者は証明出来れば内外野自由席無料、サラリーマンは500円、女性は1000円等)を行うなど、各球団がさまざまな営業努力を払っている。この結果、平日のナイターでも多くの観客を動員するまでに至っている。


各球団のホームスタジアムでは7回裏にホームチームの球団歌を流すだけでなく、7回表にビジターチームの球団歌を流している。また、以前はすべてのスタジアムでビジターチームが勝利した場合でもヒーローインタビューを場内に流していたが、北海道日本ハムファイターズのホームゲームでは大多数を占める日本ハムファンの心情に配慮してかビジターチームのヒーローインタビューは原則場内に流さないようになっている[注 10]。(2014年途中より、ビジターチームのヒーローインタビューも場内に流れるようになった。)


近年ではインターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本であるソフトバンクや楽天はもちろん、ロッテや日本ハムも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。


2007年5月14日にはパ・リーグ6球団の共同事業による株式会社「パシフィックリーグマーケティング(PLM)」が設立され、2008年シーズンからは西武、オリックスが参加するとともに、同シーズンからはパ・リーグ6球団が個別で運用管理してきた公式ウェブサイト・携帯向けウェブサイトをPLMが一括管理し、パ・リーグ主催試合は「パ・リーグ 熱球ライブ!」という番組名でYahoo!動画の野球中継により無料で配信されることになった(交流戦ではパ・リーグ主催試合のみ配信)。その後、諸事情により2010年には有料会員制の「パ・リーグライブTV」に移行。2012年には「パ・リーグTV」と名称が変更され、2013年にはパ・リーグオフィシャルスポンサー(特別協賛)に就任した株式会社モブキャストが協賛スポンサーとなった。


また、2009年8月からはニコニコ生放送で楽天主催試合の一部を配信開始。2010年からはソフトバンクの主催試合も配信開始されるようになり、2011年からは地方開催試合も含む主催試合全試合が生中継で配信されるようになった。


携帯電話向けの動画サービスでも日本ハム、ロッテ、西武、ソフトバンクの4球団が2006年6月に「プロ野球24」を開始して主催試合をNTTドコモ・ソフトバンクの従来型携帯電話向けに動画配信している。2007年シーズンからは楽天が加わり、2008年シーズンからはオリックスも参加するとともに、経営体制もPLMへ移管された。


2009年6月から、当時J SPORTSで主催ゲームを放送していた4チーム(西武、ロッテ、オリックス、ソフトバンク)の試合ダイジェストやヒーローインタビューの動画を「パ・リーグチャンネル」と題してYouTubeで配信している。同年8月からは、楽天がニコニコ動画において同内容の動画配信を開始している。また、西武は独自にYouTubeに公式チャンネルを設け、イベントなどの様子を配信している。YouTubeでは2010年からは楽天、日本ハムも加わり、パ・リーグ全チームの動画が配信されるようになった。




マンデー・パ・リーグ


2001年から2005年まで実施されたパシフィック・リーグの毎週月曜日開催の公式戦の愛称である。


長年、毎週月曜日はセントラル・リーグも含めて、連戦による疲労を抑える目的から公式戦の開催を原則として組まず、祝日開催並びにシーズン後期の予備日が割り当てられる程度しかなかった。


しかし、パ・リーグの活性化につなげていこうという趣旨で2001年から毎週月曜日にパ・リーグの公式戦を増やすことで、この企画が実施された。このためパ・リーグでは毎週木曜日を原則休養(あるいは予備)日程に割り当てるようにした。基本的にはホームタウンのスタジアムで開かれる試合の2-3連戦の最初の試合が対象となっており、地方球場で開かれる試合については月曜日には開催せず、火・水の2連戦となるケースが一般的だった。しかし6チーム(3試合)揃うことは比較的少なく、1-2試合だけというケースも多く、また月曜日にはテレビ・ラジオで野球中継を放送する放送局が、J SPORTS・NHK BS1などの衛星放送や文化放送、ラジオ大阪、RKBラジオ、KBCラジオなど普段からパ・リーグの試合を中継している局以外ではほとんど無く、必ずしもパ・リーグの活性化につながってはいなかった。


セ・パ交流戦が実現したことで2005年を最後に廃止された。



年度別順位



  • 年度背景桃色は日本シリーズ優勝。*は左のチームと同率順位

  • 2006年までは優勝チームが日本シリーズに出場。クライマックスシリーズ導入後の2007年以降の日本シリーズ出場チームは太字で示す。










































































































































































































































































































年度 優勝 2位 3位 4位 5位 6位 7位 8位

1950
毎日 81 34 5
南海 66 49 5
大映 62 54 4
阪急 54 64 2
西鉄 51 67 2
東急 51 69
近鉄 44 72 4

1951
南海 72 24 8
西鉄 53 42 10
毎日 54 51 5
大映 41 52 8
阪急 37 51 8
東急 38 56 8
近鉄 37 56 5

1952
南海 76 44 1
毎日 75 45
西鉄 67 52 1
大映 55 65 1
阪急 49 58 1
東急 49 59
近鉄 30 78

1953
南海 71 48 1
阪急 67 52 1
大映 63 53 4
西鉄 57 61 2
毎日 56 62 2
東急 50 67 3
近鉄 48 69 3

1954
西鉄 90 47 3
南海 91 49
毎日 79 57 4
近鉄 74 63 3
阪急 66 70 4
高橋 53 84 3
東映 52 86 2
大映 43 92 5

1955
南海 99 41 3
西鉄 90 50 4
毎日 85 55 2
阪急 80 60 2
近鉄 60 80 2
大映 53 87 1
東映 51 89 3
トンボ 42 98 1

1956
西鉄 96 51 7
南海 96 52 6
阪急 88 64 2
毎日 84 66 4
近鉄 68 82 4
東映 58 92 4
大映 57 94 3
高橋 52 98 4

1957
西鉄 83 44 5
南海 78 53 1
毎日 75 52 5
阪急 71 55 6
東映 56 73 3
近鉄 44 82 6
大映 41 89 2
















































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































年度 優勝 2位 3位 4位 5位 6位

1958
西鉄 78 47 5
南海 77 48 5
阪急 73 51 6
大毎 62 63 5
東映 57 70 3
近鉄 29 97 4

1959
南海 88 42 4
大毎 82 48 6
東映 67 63 5
西鉄 66 64 14
阪急 48 82 4
近鉄 39 91 3

1960
大毎 82 48 3
南海 78 52 6
西鉄 70 60 6
阪急 65 65 6
東映 52 78 2
近鉄 43 87 1

1961
南海 85 49 6
東映 83 52 5
西鉄 81 56 3
大毎 72 66 2
阪急 53 84 3
近鉄 36 103 1

1962
東映 78 52 3
南海 73 57 3
西鉄 62 68 6
大毎 60 70 2

阪急*
60 70 1
近鉄 57 73 1

1963
西鉄 86 60 4
南海 85 61 4
東映 76 71 3
近鉄 74 73 3
大毎 64 85 1
阪急 57 92 1

1964
南海 84 63 3
阪急 79 65 6
東映 78 68 4
東京 77 68 5
西鉄 63 81 6
近鉄 55 91 4

1965
南海 88 49 3
東映 76 61 3
西鉄 72 64 4
阪急 67 71 2
東京 62 74 4
近鉄 46 92 2

1966
南海 79 51 3
西鉄 75 55 8
東映 70 60 6
東京 61 69 4
阪急 57 73 4
近鉄 48 82 3

1967
阪急 75 55 4
西鉄 66 64 10
東映 65 65 4
南海 64 66 3
東京 61 69 7
近鉄 59 71 2

1968
阪急 80 50 4
南海 79 51 6
東京 67 63 9
近鉄 57 73 5
西鉄 56 74 3
東映 51 79 5

1969
阪急 76 50 4
近鉄 73 51 6
ロッテ 69 54 7
東映 57 70 3
西鉄 51 75 4
南海 50 76 4

1970
ロッテ 80 47 3
南海 69 57 4
近鉄 65 59 6
阪急 64 64 2
東映 54 70 6
西鉄 43 78 9

1971
阪急 80 39 11
ロッテ 80 46 4
近鉄 65 60 5
南海 61 65 4
東映 44 74 12
西鉄 38 84 8

1972
阪急 80 48 2
近鉄 64 60 6
南海 65 61 4
東映 63 61 6
ロッテ 59 68 3
西鉄 47 80 3
二期制開始

1973
南海 68 58 4
阪急 77 48 5
ロッテ 70 49 11
太平洋 59 64 7
日拓 55 69 6
近鉄 42 83 5

1974
ロッテ 69 50 11
阪急 69 51 10
南海 59 55 16
太平洋 59 64 7
近鉄 56 66 8
日本ハム 49 75 6

1975
阪急 64 59 7
近鉄 71 50 9
太平洋 58 62 10
ロッテ 59 65 6
南海 57 65 8
日本ハム 55 63 12

1976
阪急 79 45 6
南海 71 56 3
ロッテ 63 56 11
近鉄 57 66 7
日本ハム 52 67 11
太平洋 44 76 10

1977
阪急 69 51 10
南海 63 55 12
ロッテ 60 57 13
近鉄 59 61 10
日本ハム 58 61 11
クラウン 49 73 8

1978
阪急 82 39 9
近鉄 71 46 13
日本ハム 55 63 12
ロッテ 53 62 15
クラウン 51 67 12
南海 42 77 11

1979
近鉄 74 45 11
阪急 75 44 11
日本ハム 63 60 7
ロッテ 55 63 12
南海 46 73 11
西武 45 73 12

1980
近鉄 68 54 8
ロッテ 64 51 15
日本ハム 66 53 11
西武 62 64 4
阪急 58 67 5
南海 48 77 5

1981
日本ハム 68 54 8
阪急 68 58 4
ロッテ 63 57 10
西武 61 61 8
南海 53 65 12
近鉄 54 72 4

1982
西武 68 58 4
日本ハム 67 52 11
近鉄 63 57 10
阪急 62 60 8
ロッテ 54 69 7
南海 53 71 6
二期制終了

1983
西武 86 40 4
阪急 67 55 8
日本ハム 64 59 7
近鉄 52 65 13
南海 52 69 9
ロッテ 43 76 11

1984
阪急 75 45 10
ロッテ 64 51 15
西武 62 61 7
近鉄 58 61 11
南海 53 65 12
日本ハム 44 73 13

1985
西武 79 45 6
ロッテ 64 60 6
近鉄 63 60 7
阪急 64 61 5
日本ハム 53 65 12
南海 44 76 10

1986
西武 68 49 13
近鉄 66 52 12
阪急 63 57 10
ロッテ 57 64 9
日本ハム 57 65 8
南海 49 73 8

1987
西武 71 45 14
阪急 64 56 10
日本ハム 63 60 7
南海 57 63 10
ロッテ 51 65 14
近鉄 52 69 9

1988
西武 73 51 6
近鉄 74 52 4
日本ハム 62 65 3
阪急 60 68 2
南海 58 71 1
ロッテ 54 74 2

1989
近鉄 71 54 5
オリックス 72 55 3
西武 69 53 8
ダイエー 59 64 7
日本ハム 54 73 3
ロッテ 48 74 8

1990
西武 81 45 4
オリックス 69 57 4
近鉄 67 60 3
日本ハム 66 63 1
ロッテ 57 71 2
ダイエー 41 85 4

1991
西武 81 43 6
近鉄 77 48 5
オリックス 64 63 3
日本ハム 53 72 5
ダイエー 53 73 4
ロッテ 48 77 5

1992
西武 80 47 3
近鉄 74 50 6
オリックス 61 64 5
ダイエー 57 72 1
日本ハム 54 73 3
ロッテ 54 74 2

1993
西武 74 53 3
日本ハム 71 52 7
オリックス 70 56 4
近鉄 66 59 5
ロッテ 51 77 2
ダイエー 45 80 5

1994
西武 76 52 2
オリックス 68 59 3
近鉄 68 59 3
ダイエー 69 60 1
ロッテ 55 73 2
日本ハム 46 79 5

1995
オリックス 82 47 1
ロッテ 69 58 3
西武 67 57 6
日本ハム 59 68 4
ダイエー 54 72 4
近鉄 49 78 3

1996
オリックス 74 50 6
日本ハム 68 58 4
西武 62 64 4
近鉄 62 67 1
ロッテ 60 67 3
ダイエー 54 74 2

1997
西武 76 56 3
オリックス 71 61 3
近鉄 68 63 4
日本ハム 63 71 1

ダイエー*
63 71 1
ロッテ 57 76 2

1998
西武 70 61 4
日本ハム 67 65 3
オリックス 67 67 1

ダイエー*
66 66 3
近鉄 66 67 2
ロッテ 61 71 3

1999
ダイエー 78 54 3
西武 75 59 1
オリックス 68 65 2
ロッテ 63 70 2
日本ハム 60 73 2
近鉄 54 77 4

2000
ダイエー 73 60 2
西武 69 61 5
日本ハム 69 65 1
オリックス 64 67 4
ロッテ 62 67 6
近鉄 58 75 2

2001
近鉄 78 60 2
ダイエー 76 63 1
西武 73 67
オリックス 70 66 4
ロッテ 64 74 2
日本ハム 53 84 3

2002
西武 90 49 1
近鉄 73 65 2

ダイエー*
73 65 2
ロッテ 67 72 1
日本ハム 61 76 3
オリックス 50 87 3

2003
ダイエー 82 55 3
西武 77 61 2
近鉄 74 64 2
ロッテ 68 69 3
日本ハム 62 74 4
オリックス 48 88 4
パシフィック・リーグ プレーオフ開始

2004
西武 74 58 1
ダイエー 77 52 4
日本ハム 66 65 2
ロッテ 65 65 3
近鉄 61 70 2
オリックス 49 82 2

2005
ロッテ 84 49 3
ソフトB 89 45 2
西武 67 69
オリックス 62 70 4
日本ハム 62 71 3
楽天 38 97 1

2006
日本ハム 82 54
西武 80 54 2
ソフトB 75 56 5
ロッテ 65 70 1
オリックス 52 81 3
楽天 47 85 4
クライマックスシリーズ開始

2007
日本ハム 79 60 5
ロッテ 76 61 7
ソフトB 73 66 5
楽天 67 75 2
西武 66 76 2
オリックス 62 77 5

2008
西武 76 64 4
オリックス 75 68 1
日本ハム 73 69 2
ロッテ 73 70 1
楽天 65 76 3
ソフトB 64 77 3

2009
日本ハム 82 60 2
楽天 77 66 1
ソフトB 74 65 5
西武 70 70 4
ロッテ 62 77 5
オリックス 56 86 2

2010
ソフトB 76 63 5
西武 78 65 1
ロッテ 75 67 2
日本ハム 74 67 3
オリックス 69 71 4
楽天 62 79 3

2011
ソフトB 88 46 10
日本ハム 72 65 7
西武 68 67 9
オリックス 69 68 7
楽天 66 71 7
ロッテ 54 79 11

2012
日本ハム 74 59 11
西武 72 63 9
ソフトB 67 65 12
楽天 67 67 10
ロッテ 62 67 15
オリックス 57 77 10

2013
楽天 82 59 3
西武 74 66 4
ロッテ 74 68 2
ソフトB 73 69 2
オリックス 66 73 5
日本ハム 64 78 2

2014
ソフトB 78 60 6
オリックス 80 62 2
日本ハム 73 68 3
ロッテ 66 76 2
西武 63 77 4
楽天 64 80

2015
ソフトB 90 49 4
日本ハム 79 62 2
ロッテ 73 69 1
西武 69 69 5
オリックス 61 80 2
楽天 57 83 3

2016
日本ハム 87 53 3
ソフトB 83 54 6
ロッテ 72 68 3
西武 64 76 3
楽天 62 78 3
オリックス 57 83 3

2017
ソフトB 94 49
西武 79 61 3
楽天 77 63 3
オリックス 63 79 1
日本ハム 60 83
ロッテ 54 87 2

2018
西武 88 53 2
ソフトB 82 60 1
日本ハム 74 66 3
オリックス 65 73 5
ロッテ 59 81 3
楽天 58 82 3

※1973年 - 1982年は、プレーオフ優勝(もしくは前後期優勝)チームが1位、2位以下は前後期通算の勝率による順位。

※2004年 - 2006年は、プレーオフ優勝チームが1位。

※2007年 - は、レギュラーシーズン優勝チームが1位。クライマックスシリーズ優勝チームが日本シリーズ出場。



優勝年と優勝回数






































球団
優勝年
回数
西武
1954 1956 1957 1958 1963
1982 1983 1985 1986 1987
1988 1990 1991 1992 1993
1994 1997 1998 2002 2004
2008 2018
22回
ソフトバンク
1946 1948 1951 1952 1953 1955 1959

1961 1964 1965 1966 1973


1999 2000 2003 2010 2011


2014 2015 2017


20回
オリックス
1967 1968 1969 1971 1972
1975 1976 1977 1978 1984
1995 1996
12回
日本ハム
1962 1981 2006 2007 2009
2012 2016
7回
ロッテ
1950 1960 1970 1974 2005
5回
楽天
2013
1回


各球団監督






































































パシフィック・リーグ

監督
チーム
生年月日(年齢)
就任日(日数)
監督
回数
監督
通算

28

西村徳文

オリックス・バファローズ

(1960-01-09) 1960年1月9日(59歳)
2018年10月5日- (124日)
2
0年目

21

工藤公康

福岡ソフトバンクホークス

(1963-05-05) 1963年5月5日(55歳)
2014年11月1日- (1558日)
1
5年目

25

栗山英樹

北海道日本ハムファイターズ

(1961-04-26) 1961年4月26日(57歳)
2011年11月3日- (2652日)
1
8年目

26

井口資仁

千葉ロッテマリーンズ

(1974-12-04) 1974年12月4日(44歳)
2017年10月14日- (480日)
1
2年目

18

辻発彦

埼玉西武ライオンズ

(1958-10-24) 1958年10月24日(60歳)
2016年10月3日- (856日)
1
3年目

7

平石洋介

東北楽天ゴールデンイーグルス

(1980-04-23) 1980年4月23日(38歳)
2018年6月16日- (235日)
1
0年目




名称の由来


1950年のベースボール・マガジン新年特大号で東急フライヤーズの猿丸理事が質問に答え、アメリカ横断鉄道のセントラルとトランス・パシフィックからそれぞれリーグ名をつけたと語った記事が載った。しかしこれは理事が取材記者の質問をはぐらかして答えたもので、実際には国際的な視野に立つことを謳いパシフィックという名称がつけられた。一方のセントラルは、日本プロ野球の中心を自負して決められた名称である[1]



低勝率罰金制度


低勝率罰金制度とは1953年にパシフィック・リーグ理事会総裁・永田雅一の考案した制度で、シーズン勝率が.350を割った球団から罰金500万円を徴収する制度である。


1954年に永田の球団である大映スターズが勝率.319で第1号となった。翌1955年にトンボユニオンズが勝率.300で第2号となった(これがきっかけでトンボ鉛筆は球団スポンサーを降り、翌年から球団名が高橋ユニオンズに戻った。)。


なお、この制度は1956年に廃止となった。



歴代リーグ会長(代表者)


(1950年から1958年までは各球団の持ち回り)


  • 初代:大川博(東映社長/東急フライヤーズ・東映フライヤーズオーナー)

(専任職移行後)



  • 2代目:中澤不二雄(1959年 - 1965年/野球解説者)

  • 3代目:松浦晋(1965年 - 1968年)

  • 4代目:岡野祐(1968年 - 1978年/元阪急ブレーブス代表)

  • 5代目:工藤信一良(1978年 - 1981年/元毎日新聞社副社長)

  • 6代目:福島慎太郎(1983年 - 1987年/元毎日オリオンズ、共同通信社、ジャパンタイムズ社長、元調達庁長官)

  • 7代目:堀新助(1987年 - 1991年/元駐イタリア・駐ポーランド大使)

  • 8代目:原野和夫(1991年 - 2000年/元時事通信社社長)

  • 9代目:小池唯夫(2000年 - 2008年/元毎日新聞社社長)【リーグ会長職廃止により退任】



リーグ運営部長


  • 初代:花井史朗光(2009年 - )


脚注


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注釈





  1. ^ 一部球団の親会社となっていた映画も広義のマスメディアの一つではあるが、ここでは新聞社・出版社・放送局などの報道・情報系媒体を指す。


  2. ^ 現在は各球場とも入場口で手荷物検査を行っているため、このような行為をする目的での入場は拒否される。


  3. ^ その一方、メジャーリーグをモチーフとした北米版はアメリカンリーグ(オークランド・アスレチックス・カンザスシティ・ロイヤルズ・ニューヨーク・ヤンキース)とナショナルリーグ(セントルイス・カージナルス・ロサンゼルス・ドジャース・フィラデルフィア・フィリーズ)から3球団ずつが選出されている。


  4. ^ 1984年に発売されたエポック社のスーパーカセットビジョンの「スーパーベースボール」では、パ・リーグをモデルとしたチームはF・H・Lの3チームが登場しているが、BとOは阪急ブレーブスとロッテオリオンズではなく、アトランタ・ブレーブスとボルチモア・オリオールズがモデルとなっている。その他「CAPCOMベースボール 助っ人外人大暴れ!」なるアーケードゲームでも、西武ライオンズに相当するチームは「ライオネッツ」として単独で収録されていたが、他の5チームは連合チームとされた(日本ハム・ロッテの連合チームをモチーフとした「オールイースタン」と、近鉄・オリックス・ダイエーの連合チームをモチーフとした「オールウェスタン」)。


  5. ^ 逆に、それまで「プラチナチケット」と称されるほど人気が高かった巨人主催による北海道シリーズは、2010年以降開催されなくなった。


  6. ^ 2007年までの暫定措置として、大阪ドーム(京セラドーム大阪)と神戸総合運動公園野球場を本拠地とした


  7. ^ ただし1973年は公式には地域保護権は東京都に残り、準本拠地扱いであった。1974年に保護権を暫定的に宮城県に移すが、特例として東京都でも半数程度開催することがあった。


  8. ^ 本来は2005年も実施予定だったが、近鉄のオリックスへの合併、楽天の加盟と、セ・パ交流戦の開催により総当たり回数が変更となったため行われなかった。


  9. ^ なお、交流戦開始以降は「交流戦で優勝するのも毎年パリーグのチーム」という状況が続いていたが、2012年に読売ジャイアンツが交流戦開始以後では初のセ・リーグで交流戦を制覇したチームとなった。


  10. ^ 例外もある。詳細は田中将大の項を参照。




出典




  1. ^ ab雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年6月30日号62ページ「セ・パ分立当時の連盟旗」


  2. ^ 会社概要


  3. ^ セ、パ両事務局が廃局 Archived 2008年12月27日, at the Wayback Machine. サンケイスポーツ 2008年12月27日閲覧[リンク切れ]


  4. ^ 2017年 セ・パ公式戦 入場者数(日本野球機構)


  5. ^ 純パの会とは? - 純パの会




参考文献


  • 「ベースボールマガジン」2009年11月号「パ・リーグ60年 魂の物語」(ベースボールマガジン社刊)


関連項目



  • セントラル・リーグ

  • セ・パ交流戦

  • オールスターゲーム (日本プロ野球)

  • クライマックスシリーズ

  • 日本選手権シリーズ



外部リンク



  • パシフィック・リーグ - NPB.jp 日本野球機構







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