埼玉郡

埼玉県埼玉郡の範囲
埼玉郡(さいたまぐん)は、埼玉県(武蔵国)にあった郡。
目次
1 郡域
2 歴史
2.1 沿革
3 参考文献
4 脚注
5 関連項目
郡域
詳細は「北埼玉郡#郡域」および「南埼玉郡#郡域」を参照
現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。
南埼玉郡(全域)
八潮市(全域)
越谷市(全域)
蓮田市(全域)
加須市(全域)
羽生市(全域)
行田市(全域)
さいたま市(岩槻区)
草加市(綾瀬川以東)
春日部市(大落古利根川以西)
久喜市(八甫、西大輪、東大輪、上川崎以北を除く)
鴻巣市(元荒川以北)
熊谷市(大字太井、戸出、平戸、上中条、今井、小曽根、大塚、上川上、下川上、池上、上之、箱田。上之・箱田付近の住居表示実施地区の境界は不詳)
白岡市(全域)
歴史
- 「埼玉」の県名の由来と考えられている。現在の埼玉県東部を南北に貫く(八潮から羽生、行田周辺まで)広い地域で、大落古利根川と元荒川に挟まれ、利根川東遷事業までは武蔵国東端だった。郡衙の位置は熊谷市の北島遺跡が有力視されている[1]。
埼玉古墳群のある行田市埼玉(さきたま)や、隣接する前玉神社(延喜式神名帳で埼玉郡筆頭)が郡名の由来とされる[2]。
534年、武蔵国造の乱に登場する笠原直使主の本拠地(笠原郷、現在の鴻巣市)とされ、一時的ながら国府も置かれた。
771年、武蔵国が東山道から東海道に所属変更となる。
938年、和名類聚抄には東海道武蔵國の郡名として埼玉郡が記されている。- 平安時代後期から鎌倉時代 武蔵七党の野与党が勢力を伸ばす。
- 明治初期の村誌(のち武蔵国郡村誌)には、10町、4郷、4組、2宿、378村、18新田が記載[3]されている。
沿革
- 所属町村の変遷は北埼玉郡#郡発足までの沿革、南埼玉郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での、当郡域18町433村[4]の支配は以下の通り。他にも寺社領、寺社除地が各村に散在。
- 後の北埼玉郡域(5町204村) - 幕府領(関東在方掛・木村飛騨守支配所、大竹左馬太郎支配所、小笠原甫三郎支配所、松村忠四郎支配所、福田所左衛門支配所)、旗本領、一橋徳川家領、武蔵忍藩、下総古河藩、上野前橋藩、陸奥泉藩、上総久留里藩、常陸下妻藩、下野足利藩、出羽長瀞藩、武蔵岩槻藩
- 後の南埼玉郡域(13町229村) - 幕府領(大竹左馬太郎支配所、佐々井半十郎支配所、小笠原甫三郎支配所、松村忠四郎支配所、荒井清兵衛支配所)、旗本領、一橋徳川家領、武蔵岩槻藩、武蔵忍藩、武蔵金沢藩、上総久留里藩、下総佐倉藩、下総古河藩
- 後の北埼玉郡域(5町204村) - 幕府領(関東在方掛・木村飛騨守支配所、大竹左馬太郎支配所、小笠原甫三郎支配所、松村忠四郎支配所、福田所左衛門支配所)、旗本領、一橋徳川家領、武蔵忍藩、下総古河藩、上野前橋藩、陸奥泉藩、上総久留里藩、常陸下妻藩、下野足利藩、出羽長瀞藩、武蔵岩槻藩
慶応4年
6月17日(1868年8月5日) – 関東在方掛の旧岩鼻陣屋に岩鼻県が設置され、幕府領・旗本領のうち外田ヶ谷村・上会下村・上手子林村・不動岡村を管轄。
6月19日(1868年8月7日) - 忍藩士の山田政則が武蔵知県事に就任。上記4村、下記2村を除く幕府領・旗本領を管轄。
7月10日(1868年8月27日) - 旧幕府代官の桑山効が武蔵知県事に就任。青柳村(現草加市)・荻島村を管轄。- 領地替えにより、忍藩、佐倉藩、久留里藩、岩槻藩領の一部が山田知県事の管轄となる。
- 領地替えにより、山田知県事の管轄地域の一部が忍藩、長瀞藩、佐倉藩領となる。
- 明治元年
12月23日(1869年2月4日) - 桑山効知県事が河瀬秀治に交代。
- 明治2年
1月10日(1869年2月20日) - 山田政則知県事が宮原忠英に交代。
1月13日(1869年2月23日) - 武蔵知県事・宮原忠英、河瀬秀治の管轄区域にそれぞれ大宮県(県庁は馬喰町)、小菅県を設置。
6月23日(1869年7月31日) - 金沢藩が任知藩事にともない六浦藩に改称。
9月29日(1869年11月2日) - 県庁が浦和に置かれ浦和県に改称。
11月1日(1869年12月3日) - 出羽長瀞藩が藩庁を移転して上総大網藩となる。- このころ一橋徳川家領が浦和県の管轄となる。
- 明治4年
2月17日(1871年4月6日) - 上総大網藩が藩庁を移転して常陸龍崎藩となる。
7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が岩槻県、忍県、六浦県、久留里県、佐倉県、古河県、前橋県、泉県、下妻県、足利県、龍崎県となる。
11月14日(1871年12月25日) - 第1次府県統合により、全域が埼玉県の管轄となる。
- 明治5年4月9日(1872年5月15日) - 大区小区制により町村が廃止され、大区と小区に再編成される。主な大区には、二区(越ヶ谷付近)、五区(粕壁付近)、九区(久喜付近)、十区(菖蒲付近)、十一区(加須付近)、十二区(不動岡付近)、十三区(羽生付近)、十四区及び十五区(忍付近)、十六区(埼玉村・広田村付近)、二十区(岩槻付近)が存在した。
- 明治12年(1879年)3月17日 - 郡区町村編制法の埼玉県での施行により[5]、岩槻町ほか6町218村の区域に南埼玉郡、成田町(忍)ほか5町188村の区域に北埼玉郡がそれぞれ行政区域として発足。同日埼玉郡消滅。
参考文献
角川日本地名大辞典 11 埼玉県- 旧高旧領取調帳データベース
- 埼玉県市町村合併史 上・下巻 埼玉県地方課監修
- 埼玉県市町村誌
脚注
^ 埼玉県熊谷市埋蔵文化財調査報告書第5集 20ページ埼玉県熊谷市教育委員会
^ 武蔵国・前玉神社(さきたまじんじゃ)埼玉県名発祥の古社前玉神社
^ 武蔵国埼玉郡村誌埼玉県立浦和図書館
^ 村数の数え方には諸説あり、「角川日本地名大辞典」の記述では「旧高旧領取調帳」では19町421村、27万4,658石とある。
^ 郡役所半世紀の光芒 郡長たちのアーカイブズ埼玉県立文書館]
関連項目
- 消滅した郡の一覧
- 北埼玉郡
- 南埼玉郡
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行政区の変遷 - 1879年 |
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