ジェームス・ブラウン
ジェイムズ・ブラウン James Brown | |
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ハンブルクにて(1973年) | |
基本情報 | |
出生名 | ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア James Joseph Brown,Jr. |
別名 | JB |
生誕 | 1933年5月3日 アメリカ合衆国、サウスカロライナ州バーンウェル |
出身地 | アメリカ合衆国、ジョージア州オーガスタ |
死没 | (2006-12-25) 2006年12月25日(73歳没) アメリカ合衆国、ジョージア州アトランタ |
ジャンル | R&B ソウル ファンク ブルース ゴスペル |
職業 | ソウルミュージックシンガー 音楽プロデューサー 作曲家 |
担当楽器 | ヴォーカル |
活動期間 | 1953年 - 2006年 |
公式サイト | http://www.jamesbrown.com |
ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア(James Joseph Brown, Jr., 1933年5月3日 - 2006年12月25日)は、アメリカ合衆国のソウルミュージック、R&B、ファンク、シンガー、音楽プロデューサー、作曲家。
ファンクの帝王と呼ばれ、 The Hardest Working Man in Show Business(ショウビジネス界一番の働き者)と称される。シャウトを用いたソウルフルなヴォーカルと、革新的なファンク・サウンドが特徴である。
父はアパッチ族インディアンで、母はアフリカ系黒人アメリカ人とアジア人の系統である[1][2]。
「ナンバーワン・ソウル・ブラザー」「ミスター・ダイナマイト」「ファンキー・プレジデント」など、いくつものニック・ネイムを持っていた。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第10位[3]。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第7位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第37位[4]。
目次
1 生涯
1.1 生い立ち
1.2 1950年代(ミスター・ダイナマイト)
1.3 1960年代(ファンク革命)
1.4 1970年代(ファンキー・プレジデント)
1.5 1980年代(アイム・バック)
1.6 1990年代
1.7 2000年代
1.8 死去
2 家族
3 来日記録
4 エピソード
5 ディスコグラフィ
5.1 トップ10シングル
5.2 主なアルバム
5.3 ベストアルバム
5.4 JBファミリーのアルバム
6 参考文献
6.1 評伝
7 伝記映画
8 関連項目
9 脚注・出典
10 外部リンク
生涯
生い立ち
ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアとして、サウスカロライナ州バーンウェルに生まれる。このことは、本人が自伝などでも書いているが、他にも1928年、テネシー州プラスキ生まれという説がある。成人後に、ジェイムズ・ジョセフ・ブラウンへと改名している。一家は貧しく、ジョージア州オーガスタに移り住んだが、ブラウンは親類の家などで育てられた。幼少時は、綿花詰みの手伝いや下町での靴磨きを行って生計を助けた。子供時代から地元の「アマチュア・ナイト」で歌っては優勝をさらうほどの歌唱力を持っていた、とブラウンは回想している。15歳の時の車の窃盗を、16歳(成人扱い)で反省があれば8年反省がなければ16年という、差別をたっぷり含んだ有罪判決を下され、1948年から教護院に収容された。
教護院での服役中に、ブラウンはボビー・バードと知り合う。バードの家族は、ブラウンの釈放後の生活を助けた。ブラウンは、オーガスタまたはリッチモンド郡に戻らず、職を得るという条件で出所し、ボクサー、野球のピッチャーを短期間経験したが、脚の怪我で断念することとなる。ブラウンは、音楽へその情熱を傾けることとなった。
1950年代(ミスター・ダイナマイト)
ブラウンとバードの妹サラは、1955年からゴスペル・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始める。その後、結局ブラウンはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加し、バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになる。バンドは、その名を「フェイマス・フレイムズ」と変え、オハイオ州シンシナティでシド・ネーサンのキング・レコードと契約を結ぶ。
シド・ネーサンは頑固な男だった。ブラウンが「プリーズ~」と歌い始めるとネーサンは腹を立て、スタジオから出ていってしまった。ネーサンの言い分は「こんなものは音楽でも何でもない。ただのクズだ」というものだった。それでもブラウンが音楽的な妙味を説明し、なんとか発表にこぎつけることができた。バンドのファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ Please, Please, Please」[5]は、1956年にリリースされた。レコードには「ジェイムズ・ブラウンとフェイマス・フレイムズ James Brown with the Famous Flames」とクレジットされ、同シングルはチャート5位を記録し、ミリオン・セラーとなった。しかしながら、その後はヒット曲に恵まれず、続く9枚のシングルが商業的に失敗した後、キング・レコードはバンドと契約解除を行おうとした。1958年の「トライ・ミー Try Me」がビルボード48位の小ヒットとなり、バンドは活動を継続させることができた。バンドの曲のほとんどはブラウンが作曲し、バードのバンドであったフレイムズはブラウンが実質的なリーダーへと変化、結局は後のソロ活動において、フレイムズがバックバンドとなっていった。
これらの初期の録音には「I'll Go Crazy」(1959)「Bewildered」(1960)といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、リトル・リチャードやレイ・チャールズといった同時代のアーティストの影響を受けた作品が含まれていた。しかし、その歌唱スタイルは変化、後には「ファンク」と呼ばれるスタイルに発展していき、Pファンク、プリンスなどに強い影響を与えた。
1960年代(ファンク革命)
ブラウンとフレームスの初期のシングルは、アメリカ南部およびR&Bチャートでは成功していたが、彼らの全国的な成功は、キング・レコードの反対を押し切ってリリースした『Live at the Apollo (1962)』まで待たなければならなかった。
ライブ・アルバムが成功した後、最初のファンク・ナンバーとされる1964年の「アウト・オブ・サイト・Out of Sight」を発表。さらに「 Night Train」を制作した。これらの曲は、ギターのカッテングに、ホーンセクションとベース・ドラムスが特徴だった。ブラウンのヴォーカルは、リズミカルバックにのり好調を保った。しかしながら、「Out of Sight」はスマッシュ・レコードからリリースされたため、キング・レコードとの契約破棄に関する法廷闘争となり、裁判所は彼の録音作品の1年間リリース禁止を言い渡した。67年ごろのJBsのドラマーには、「ファンキー・ドラマー」クライド・スタブルフィールドがいた。「コールド・スウェット」はクライドがドラムスを担当した傑作ナンバーだった。
1970年代(ファンキー・プレジデント)
60年代末から70年代初頭に、彼はキャリアの頂点を迎える。この時期のヒットとしては「セックス・マシーン」「リッキン・スッティック」「スーパー・バッド」「ソウル・パワー」「ギブ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ルーズ」「アイム・ア・グリーディ・マン」「メイク・イット・ファンキー」[6]などがある。1970年3月には、ジェームス・ブラウンのバック・バンドに大幅なメンバーチェンジがあった。給料に関するトラブルから、メイシオ・パーカー(テナーサックス)をはじめとするメンバーのほぼ全員が脱退した。それに伴い、ブーツィー・コリンズ(ベース)らを中心とする新しいバンドが迎え入れられる。彼らは「JBズ The J.B.'s」と名付けられ、その名義でのリリースも行うようになった。ブラウンの「全盛期」を支えたJBズの主要なメンバーは、次の通りである。
- 1970-71年ごろのメンバー
ダリル・ジャミソン(Darryl 'Hasaan' Jamison) - トランペット
クレイトン・ガネルズ(Crayton 'Chicken' Gunnels) - トランペット
フレッド・ウェズリー(Fred Wesley) - トロンボーン
ロバート・マックロー(Robert McClaugh) - テナーサックス
セントクレア・ピックニー(St. Clair Pickney) - テナーサックス
フェルプス・キャットフィッシュ・コリンズ(Phelps 'Catfish' Collins) - ギター
ハーロン・マーティン(Harlon 'Cheese' Martin) - ギター
ウィリアム・コリンズ(William 'Bootsy' Collins) - ベース
ジョニー・グリッグス(Jonny Griggs) - コンガ、パーカッション
クライド・スタブルフィールド(Clyde Stubblefield) - ドラム
ジョン(ジャボ)・スタークス(John "Jabo" Starks) - ドラム
ヴィッキー・アンダーソン(マイラ・バーンズ)(Vicki Anderson) - ボーカル
ダニー・レイ(Danny Ray) - MC
1970年末からは、フレッド・ウェズリーが音楽監督となった。ウェズリーが75年に脱退するまでの4〜5年間は、「ファンク完成期」とでも言うべき時期であり、ブラウンの充実期である。1972年から74、75年までの主要メンバーは次の通り。
- 1972-74年(75年)ごろのメンバー
ジェローム・サンフォード(Jerome 'Jasaan' Sanford) - トランペット
ダリル・ジャミソン(Darryl 'Hasaan' Jamison) - トランペット
アイク・オークレー(Ike Oakley) - トランペット
フレッド・ウェズリーFred Wesley - トロンボーン/音楽監督
ジミー・パーカー(Jimmy Parker) - アルト・サックス
メイシオ・パーカー(Maceo Parker) - アルト・サックス ※1973年頃再加入
セント・クレア・ピンクニー(St. Clair Pinckney) - テナー・サックス
エルディー・ウィリアムス(Eldee Williams) - テナー・サックス
スウィート・チャールズ・シェレル - キーボードおよびベース
ジミー・ノーラン(Jimmy Nolen) - ギター ※1972年頃再加入
ハーロン・マーチン(Harlon 'Cheese' Martin) - ギター
ロバート・コールマン(Robert Coleman) - ギター ※1971〜2年頃脱退
フレッド・トーマス(Fred Thomas) - ベース
ジョニー・グリッグス(Jonny Griggs) - コンガ、パーカッション
ジョン(ジャボ)・スタークス(John 'Jabo' Starks) - ドラマー
マーサ・ハイ(Martha 'High' Harvin) - バックボーカル
ダニー・レイ(Danny Ray) - MC
ボビー・バード(Bobby Byrd) - ボーカル、オルガン
リン・コリンズ(Lyn Collins) - ボーカル
72年にはファンクの傑作「ゲット・オン・ザ・グッド・フット」を発表した。73年、74年はやや勢いが弱まるが「ペイバック」「ファンキー・プレジデント」「マイ・サング」など、まずまずの作品を発表した。1974年には、ブラウンはアフリカで公演している。アフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)の首都のキンシャサで、ボクシング世界ヘビー級タイトルマッチが行われた。挑戦者モハメド・アリと王者ジョージ・フォアマンが対戦し、「世紀の一戦」「キンシャサの奇跡」と謳われた。この試合をプロモートしたドン・キングが同時に開催したアフリカのウッドストックと宣伝された音楽フェスティバルに、ブラウンが出演した。この模様は、映画『モハメド・アリ かけがえのない日々』や映画『SOUL POWER』で観ることができる。
その後、1975年頃から起こった「ディスコ・ブーム」とともに、彼の人気は下降線をたどる。ブラウンのサウンドは、ダンス・ミュージックのオリジナルであるにも関わらず、皮肉にもディスコ・ブームに乗ることは出来なかった。76年の『Get Up Offa That Thing』や77年の『Bodyheat』などのヒットもあるが、70年代後半はブラウンのセールスは低調で冬の時代を迎える。しかし79年の「イッツ・トゥー・ファンキー・イン・ヒア」を含むアルバム「オリジナル・ディスコ・マン」は、佳作として後に評価されている。
1980年代(アイム・バック)
1980年、映画『ブルース・ブラザース』に出演。1984年、ラップのアフリカ・バンバータとのデュオ「ユニティ」がスマッシュ・ヒット。久々に音楽シーンの注目を集めた。1986年1月23日にはロックの殿堂入りした他、映画「ロッキー4/炎の友情」に「ソウル界のゴッドファーザー」として出演した。そして同年「リビング・イン・アメリカ」が久々のヒットとなる。さらに1988年には、フルフォースのプロデュースによる大傑作「アイム・リアル」を発表した。ラップ・ヒップホップのミュージシャンたちから「我が師」として尊敬され、ブラウンの曲はサンプリングされまくる。
しかし、そんな矢先にトラブルが発生してしまう。1988年には、薬物吸引中に妻とケンカし、銃を持って家を飛び出し公園のトイレに向かって乱射し、駆けつけた警察とカーチェイスを行った末、ガス欠となって逮捕され[7]、6年の実刑判決を受けた。
1990年代
1991年2月27日、6年の判決に対して3年弱の服役で釈放された。この年には 4-CD セットの "Star Time" を発表、この頃よりブラウンは、その功績を称えられ、いくつかの名誉ある音楽関連の賞を受賞している。
1992年2月25日、ブラウンは第34回グラミー賞特別功労賞を受賞している。その1年後には第4回リズム&ブルース財団賞特別功労賞を受賞した。また、1993年11月11日にオーガスタ市長のチャールズ・ディヴァニーは、オーガスタ9番街を「ジェイムズ・ブラウン大通り James Brown Boulevard」と改名し記念式典を行った。また、C&Cミュージック・ファクトリーと,
ソウルIIソウルのジャジーBがプロデュースを担当した新作アルバム「ユニバーサル・ジェームス」も発表された。
2000年代
2000年10月14日発売のSMAPが発表したアルバム『S map ~SMAP 014』収録曲の「ジャラジャラJAPAN~for the Japanese」でコラボ楽曲を発表、競演。
2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードに招かれる。ここではマイケル・ジャクソンが飛び入りで参加したが、この共演は約20年ぶりのことであった。その後、マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らのミュージシャンの師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。同年にはケネディセンター賞も受賞した。
2004年12月に、ブラウンは前立腺癌と診断され手術を受ける。
2005年5月6日、ブラウンの72度目の誕生日にオーガスタ市は7フィートのブロンズ像を贈呈した。像は本来その1年前に送られる予定であったが、その当時ブラウンが直面していた家庭内暴力事件のため、延期された。2005年7月6日にはLIVE 8のEdinburgh 50,000 - The Final Pushに出演し、イギリスの歌手ウィル・ヤングと「Papa's Got A Brand New Bag」をデュエットした。また、その1週間前にはジョス・ストーンと「Friday Night with Jonathan Ross」に出演し、デュエットを行っている。
2006年、ブラウンは世界ツアー「Seven Decades Of Funk World Tour」を行った。ショーは、聴衆から肯定的に受け入れられた。最後のショーは、オキシジェン・フェスティヴァルへの出演であった。8月22日、オーガスタ・リッチモンド郡競技施設局(Augusta/Richmond County Coliseum Authority)は、オーガスタ・リッチモンド郡市民ホール(Augusta-Richmond County Civic Center)をジェイムズ・ブラウン・アリーナと改名することを票決した[8]。11月14日には、イギリス音楽の殿堂入りを果たした。ブラウンは、授賞式で演奏を行った幾人かの受賞者の内の一人であった。
死去
ブラウンは2006年12月24日、歯科医を訪れそこで肺炎の症状が判明し、ジョージア州アトランタのエモリー・クローフォード・ロング病院に入院するが、翌日の午前1時45分、死去。73歳であった。代理人によると、死因はうっ血性の心不全であった。その死去はCNNやBBCなど世界中のメディアでトップニュースとして報じられた。
この時、ブラウンの医者として働いていたのはコンラッド・マーレーであった[9]。マーレーは現在、マイケル・ジャクソンの死因を巡り、過失致死傷罪として正式に裁判するかの予備尋問を行っている。
死の時点でツアー予定を残しており、最後まで"The Hardest Working Man in Show Business"であった。
12月30日にオーガスタで行われた葬儀には、約8,500人のファンやマイケル・ジャクソン、M.C.ハマーなどの友人、関係者が集まり、ブラウンの音楽界に残した業績、人生を讃え最後のお別れをした。ただ、元JBズのメンバーの参列が少なかったことは残念だった。ブラウンが逝去する直前に病床で話した、ブラウンのマネジャーであるチャールズ・ボビットはそのスピーチで、ブラウンが最後まで仕事のことを気にしていたこと、マイケル・ジャクソンやプリンスとしなければならない仕事があるのだと、最後に話したことを明かした。
家族
ブラウンは、4度の結婚を経験した。ブラウンは、最初の妻ヴァルマ・ウォーレンとの間に2人の子供、2番目の妻ディドレ・ジェンキンスとの間に3人の子供がいる。最後の妻トミー・ライ・ヒニーとは2002年に結婚したが、その後離婚している。彼らは、2004年に再婚し子供を1人授かった。
来日記録
1973年、1974年、1975年、1979年、1986年、1987年、1992年、1993年、1994年、1995年、1997年、1998年、2002年、2003年、2006年(15回)に来日している。また、返還前の沖縄で1968年に公演を行なっている。吉田拓郎はアマチュア時代に岩国基地でジェームス・ブラウンの生ライブを観た、「ダブルベースのダブルドラムで、とにかく音が凄かった」などと話している[10]。
- 1975年
- 4月16日 中野サンプラザ、17日 北海道厚生年金会館、18日 東京厚生年金会館、21日 大阪厚生年金会館、22日 中野サンプラザ
- 1979年
- 12月10日 フェスティバルホール、12日,14日 中野サンプラザ、17日 東京郵便貯金会館
エピソード
- 世界的ミュージシャンの中でも驚異的な記憶力で知られていた。無名時代からの世話になったDJや関係者の名前などを覚えており、相手の人物がどうせ忘れているだろうと思い込んでいても、ブラウンはフルネームで覚えており、「あの時はありがとう」と語ったという。
- グッチ裕三は、ジェームス・ブラウンの大ファンでJBの音楽ソフトは全て持ってる、と豪語している。他にドン勝本もJBの大ファンだった。
- プリンスは、若年時ブラウンのファンで音楽的に多大な影響を受けたが、ブラウンのコンサートでステージに上がって踊り続け、警備員に引き降ろされている。
- 客席にいたマイケル・ジャクソン、プリンスが、ステージに飛び入り参加したことがある。先ずマイケルがステージに呼ばれ、彼独特の歌唱と踊りを披露し、観客から喝采を浴びる。そして、プリンスも同会場にいる事を知ったブラウンは、ステージからプリンスを呼ぶ。客席の奥からセキュリティに背負われながら登場したプリンスは、J.B'sからギターを渡されるもまともに演奏が出来ず、さらに上半身裸になり興奮状態のままフラフラとしながら寄りかかった照明器具を倒しつつ、客席に戻った。
- 幼い頃のマイケル・ジャクソンは、ステージの端から彼の驚異的なステップの数々を見て学んだという。その後の彼があるのも、ブラウンによるところが大きいと言える。オーディエンスの沸かせ方も、またそうである。
- 2000年には、サマーソニックに出演のために来日。初日の東京公演では押していた進行の中、時間から遅れて登場し、持ち時間をオーバーして歌い続けた。しかし、次に控えていた大トリのジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンのファンであると思われる観客によってステージにペットボトルを投げつけられると袖に引っ込んだ。数分後、ステージに戻ってきたブラウンは何事も無かったように歌い続けた。2日目の大阪公演でも同じように時間をオーバーしても歌い続けた。なお、この演奏により2日続けて演奏時間を大幅に短縮されてしまったジョン・スペンサーはブラウンを尊敬しているため、それほど怒ってはいないという。
- ツアーやライブのない時には、サウスカロライナ州ビーチアイランドの川岸の自宅で生活していた。
- ニューミュージックのミュージシャンによる音楽ユニットフレンズ・オブ・アースの『SEX ENERGY & STAR』には、ブラウン自身の歌唱とメイシオ・パーカーのベースをフィーチャーした「SEX MACHINE」のエレクトロファンク・カバーが収録されている。レコーディングは、86年の来日公演後に行われた。
- メディアでたびたび語っているが、ジェームス・ブラウンを招いた際、アリスが多額の借金を背負ったというのは事実である。
- 1992年に死亡したとの誤報があった。これはハードコアテクノのL.A. Styleがリリースした「James Brown is Dead」のヒットが要因だったと思われる。
- 日本では、1992年にはカップヌードルのCMに出演。「セックス・マシーン」の「ゲロッパ(ゲロンパ)!」を「ミソンパ!」と歌うというパロディだった[11]。1993年1月21日には「セックス・マシーン」の再録音盤「SEX MACHINE'93」も日本でシングルとして発売、約1か月で1万枚超と、当時の日本における洋楽シングルとしてはヒットとなった[11]。
ディスコグラフィ
トップ10シングル
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主なアルバム
Please Please Please (1959)
Try me (1959)
Live at the Apollo (1963)
Cold Sweat (1967)
Super Bad (1970)
Get on the Good Foot (1972)
The Payback (1973)
Hell (1974)
Hot (1975)
In the Jungle Groove (1986)
ベストアルバム
THE CD of JB (イギリス人:クリフ・ホワイトが編集)- CD of JB2
Star Time (1991)
20 All-Time Greatest Hits! (1991)
JBファミリーのアルバム
ジェームス・ブラウンズ・ファンキー・ピープル (イギリス人:クリフ・ホワイトが編集)
参考文献
- ブルース・タッカーと共著 『俺がJBだ! ジェームズ・ブラウン自叙伝 (ON MUSIC)』 、山形浩生・渡辺佐智江・クイッグリー裕子訳、JICC出版局 1993年/文春文庫 2003年
評伝
- ステファン・ケクラン『ジェームズ・ブラウン』、鈴木知子訳、<ガリマール新評伝シリーズ世界の傑物2>祥伝社、2010年
伝記映画
- 2014年 映画『ジェームス・ブラウン〜最高の魂を持つ男〜』
関連項目
- スライ&ザ・ファミリー・ストーン
- クール&ザ・ギャング
- オハイオ・プレイヤーズ
- ジョージ・クリントン
- パーラメント
- ファンカデリック
- ザップ
- ロジャー
- グラハム・セントラル・ステーション
- ウォー
- フェラ・クティ
- アフロビート
- ウィルソン・ピケット
- アレサ・フランクリン
- ブルース・ブラザース
- ボンゴ
ワウペダル(ワウワウギター)
脚注・出典
^ JONATHAN LETHEM (2009年). “[http://www.rollingstone.com/news/story/10533775/cover_story_being_james_brown/3 Being James Brown
The Godfather of Soul invented funk, befriended presidents and laid the foundations of rap. And he did it by defying the laws of space and time. Inside the private world of the baddest man who ever lived]”. ローリング・ストーン. 2009年4月9日閲覧。
^ Contact Music (2004年). “James Brown - James Brown's Indian Heritage”. Contact Music. 2009年4月9日閲覧。
^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: James Brown”. 2013年5月26日閲覧。
^ “Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
^ http://www.allmusic.com/.../please-please-please-mt00287459...
^ http://www.discogs.com/James...Make-It-Funky/master/10815...
^ 「Godfather of soul」
^ ブラウンの急逝を受け、2006年12月30日付で改称が実施された。
^ ジョセフ・ジャクソン『息子 マイケル・ジャクソンへ ~天国への遺言状~』(講談社、2010年6月)
^ パックインミュージック(TBSラジオ)1972年5月31日放送での拓郎の言及。
- ^ ab「セックス・マシーン'93」 「ミソンパ!」の掛け声『日経流通新聞』1993年3月2日付、23頁。
外部リンク
James Brown - Godfather of Soul, Brown's official site.
JAMES BROWN,Universal-Music official site.Japanese.- James Brown discography
- BBC Obituary: James Brown
- Burnett, Bugs. "Audience With the Godfather" -- Interview. The Hour, December 21, 2006.
- Lethem, Jonathan. "Being James Brown" -- Interview. Rolling Stone, June 12, 2006. with audio[リンク切れ].
Photo archive of James Brown by rock photographer Chris Walter- PhotoGallery James Brown