朝廷





朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権を指す[1]。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。



字義

  • 「朝」は草原に日が昇る様を表す。日の出とともに臣下が天子に拝謁し執政していたことから、天子の政務そのものを指すようになった。

  • 「廷」は大きな壇上に人が立つ様を表し、これが臣下が天子に拝謁する別格の場所という意味になった。「广」は建物を意味し、従って「庭」は造営された「廷」という意味になる[2]





目次






  • 1 中国の朝廷


  • 2 日本の朝廷


    • 2.1 「朝廷」と「朝庭」


    • 2.2 朝政と朝儀


    • 2.3 朝堂院


    • 2.4 大和朝廷


    • 2.5 朝廷の分裂


    • 2.6 遠の朝廷


    • 2.7 武家政権樹立以降


    • 2.8 朝廷式微論


    • 2.9 領地


    • 2.10 その他




  • 3 脚注


  • 4 参考文献


  • 5 関連項目





中国の朝廷


中国で「朝廷」の語は、前漢の『戦国策』「朝廷之臣莫不畏王」、『論語』郷党第十「其在宗廟朝廷、便便言、唯謹爾」、『淮南子』巻九 主術訓「是故朝廷蕪而無迹、田野辟而無草」などに見られ、「廷」の文字の成立からして、朝廷の観念は少なくとも周代まで遡り、中央集権的政治概念としての確立は始皇帝が中国を統一した秦代となる。


『礼記』玉藻「朝服以日視朝於内朝」や『国語』魯語下「自卿以下,合官職於外朝,合家事於内朝。」とあるように、中国では早くも周代から国家的行事や儀式の場を外朝もしくは外廷、王宮で暮らす人々の生活の場を内朝もしくは内廷として区別していた。なお、外朝と内廷の双方を往き来できる皇帝の側近として、去勢した男子による宦官が設けられた。


清朝においては、紫禁城のうち太和殿、中和殿、保和殿を「外朝三殿」(もしくは「前殿」)と称し、乾清宮、交泰殿、坤寧宮は「後三宮」と称し、前者が外朝、後者が内朝とされていた。



日本の朝廷


日本において「朝廷」という言葉が見えるのは、『古事記』の開化天皇紀に「次朝廷別王」と記されたのが現存文献で確認できる初出で、『日本書紀』では崇神天皇紀《崇神天皇60年(38年)七月己酉条》「聞神宝献于朝廷」まで遡って記され、また、「朝庭」が当てられたものでは、景行天皇紀《景行天皇51年(121年)八月壬子条》「則進上於朝庭」がある。しかし、いずれも実在自体が疑われる天皇に関するものである。


『日本書紀』用明天皇紀《用明天皇元年(586年)五月条》に「不荒朝庭」とあるのは実在する場所を推測させる具体的な記述であるが、推古天皇紀で「朝庭」または「庭」として度々言及され、十七条憲法の官吏の出退について説かれた8条に「群卿百寮、早朝晏退」(官吏は早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け)とあって政務を執る場所として明確な推古天皇の小墾田宮が発掘調査から実在が裏付けられた最古の「朝庭」である。



「朝廷」と「朝庭」


中国では「朝廷」と「朝庭」は同義に用いられ、記紀でも混用されているが、中国での字義に広場の意味はないにも関わらず、日本史学では後に「朝堂院」と総称される政務・儀式を執り行う建物群に囲まれた広場を指して特に「朝庭」と区別して用いる。



『日本書紀』推古天皇紀《推古天皇16年(608年)八月壬子条》「召唐客於朝庭」と記された、隋使裴世清が天皇に来朝の挨拶をしたとされる小墾田宮の「朝庭」を指して、吉村武彦は、「朝庭は、普通は『朝廷』の字を使うが、ここはのちの朝堂院にあたるスペースの中央広場であるから、『朝庭』の方が的確である」と述べている[3]。また、熊谷公男は、「左右対称の整然とした配置をとった『朝庭』を付設した宮は、小墾田宮がはじめてであった可能性が高い」としている[4]



朝政と朝儀


「朝廷」で執り行われたのが朝政と朝儀である。


朝政は、天皇が早朝に政務をみる「あさまつりごと」として始まり[5]、後に転じて、朝廷の政務一般を指す「ちょうせい」となった[6]



朝儀とは、さまざまな公の儀式の総称であり、天皇即位儀、元日朝賀、任官、叙位、改元の宣詔、告朔などの朝拝を中心とする儀式と、節会や外国使への賜饗などの饗宴を中心とする儀式とがあった。




朝堂院



朝堂院は朝政と朝儀が執り行われた朝廷の正庁であり、小墾田宮の「朝庭」は住まいである「宮」から分離して朝堂院の原型が姿を見せており、「朝堂」を置いて政務を執る「朝堂政治」が開始されたのを推古天皇治下とする[7]が、その規模が確認されたものでは、条坊制により日本史上最初に建設された都城とされる藤原京(藤原宮)の朝堂院が最古である。


朝堂院はその後平城京、難波京、長岡京、平安京と都が移っても建設され続けた。平安時代、876年(貞観18年)、1058年(康平元年)に焼失し、そのたびに再建されたが1177年(安元3年)の安元の大火ののちは再建されなかった。


内裏の焼失により里内裏が現れるようになって後、天皇が政務を執る場所は朝堂院の有無にかかわらず天皇の私的な住まいであった内裏に移り、朝儀は主に内裏の紫宸殿でおこなわれることとなった[8]


また、退位した天皇(上皇)が「天皇家の当主」[9]である資格をもって政務を行う院政も朝堂院外で行われたが、これも朝廷に含められる。


なお、中国の場合とは異なり、日本では、天皇の私的な住まいである内裏の七殿五舎(後宮)には宦官が置かれず、もっぱら女官によって秩序が維持された。



大和朝廷


奈良時代以前の古墳時代から飛鳥時代にかけての畿内政権は、主に飛鳥近辺の大和地方に宮を置いていたので「大和時代の朝廷」という意味合いで「大和朝廷」と呼称されてきた。しかし、大和地方は古墳時代当時は「倭」もしくは「大倭」と表記され「大和」の表記が後のものであることと、1970年以降、古墳時代の政治組織にかかわる研究の進展から、朝廷の語源である「君主制下で官僚組織をともなった政府および政権」というよりも、古墳時代に関しては「ヤマト政権」または「ヤマト王権」と呼ばれることが多くなっており[10]、「大和朝廷」の表記は少なくなっている[11]


このことについて、関和彦は、「朝廷」は「天皇の政治の場」であり、4世紀・5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し[12]、鬼頭清明もまた、一般向けの書物のなかで、磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、継体朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として「大和朝廷」の語は継体天皇以後に限って用いるべきと説明している[13]


また中国側の史書である『隋書』600年条の記述では、日本が夜に政治(まつりごと)を行っていることを説明し、中国皇帝が合理的でないとし、改めるように指示したことが述べられており、中国と国交を結ぶ必要性と律令制導入のため、日本側も中国式である「朝に政治を行うスタイル」に変化している。内容としては、日本側は、日本には独自の思想と文化があると主張したが、中国側はこれを否定したため、以後、中国文化に合わせたことになる。つまり古墳時代の日本は、朝廷=朝に政治をする体制ではなかった。



朝廷の分裂


壬申の乱の際、大海人皇子を中心とする飛鳥朝廷と大友皇子(弘文天皇)を中心とする近江朝廷とが対立した。この内乱では飛鳥朝廷側が勝利し、大海人皇子は天武天皇として即位した。


また、建武の新政ののち、朝廷は後醍醐天皇を奉じる大覚寺統の南朝(吉野朝廷)と、持明院統に属する光明天皇を擁して京都に所在した北朝とに分かれて対立した。ここでは、朝廷が2つに分立したことから、この時代を「南北朝時代」と呼んでいる。


さらに、薬子の変における嵯峨天皇と平城上皇の関係、また治承・寿永の乱終末期における安徳天皇と後鳥羽天皇の関係など、一君万民を建前とする朝廷からすれば異例の事態といえる。



遠の朝廷



律令体制下の日本の地方制度は五畿七道と称される。七道のうち、東海道、東山道、北陸道、南海道、山陽道、山陰道はいずれも畿内5か国(五畿)に接していた。唯一、陸接していない西海道すなわち現在の九州地方には、中央からの出先機関として大宰府が置かれ、大陸との外交や軍事を主任務とし、筑前国司を兼帯するとともに西海道に属する諸国の人事・行政・司法の一部を総管した。その権限の大きさから「遠の朝廷(とおのみかど)」「西御門」と呼ばれた。


なお、大宰府跡の発掘調査により、大宰府政庁は、第1期(7世紀後半-8世紀初頭)、第2期(8世紀初頭-10世紀中葉)、第3期(10世紀中葉-12世紀)の3つの建て替え時期のあったことが判明した。そのうち、第2期と第3期では朝堂院形式が採用されており、条坊も整備されて、律令国家確立期にあたる8世紀初頭には、景観の上でも「遠の朝廷」と呼ぶにふさわしい状態となったことがわかる。



武家政権樹立以降


鎌倉幕府成立により政治の実権が武家に移って以降も、天皇を長とする「朝廷」は存在し続けた。


今日において「朝廷」という言葉は「幕府」に対応する言葉としてよく使われるが、これは天皇・公家(公家政権)と武家(武家政権)を対立した存在として捉えるようになった江戸時代中期以降の影響が強い。鎌倉時代(鎌倉殿)、室町時代(室町殿)にあって征夷大将軍(公方)による政権は「幕府」と呼称されておらず、「武家政権=幕府」という用例が一般的になったのは江戸幕府も後期に至ってからであった。そもそも「朝廷」は京都を指す固有名詞ではなく、「江戸幕府」を指して「朝廷」と呼ぶ例さえ広く見られたのである。武家政権(幕府)に対する公家政権(朝廷)という用法は近世もしくは近代の所産といえる。


1867年(慶応3年)の大政奉還と王政復古によって政治権力を回復した「朝廷」は、旧制を模した太政官制を採用した。しかし、これは律令制を廃して成立した全く異質なもので、旧来の朝廷機構は事実上廃止され、新政府によって近代国家の体裁が整えられ、 1885年(明治18年)に太政官制を廃止して内閣制度が発足したことにより、政治機構としての「朝廷」は名実共に消滅した。



朝廷式微論


「皇室式微論」ともいう(後述書 p.245)。「式微」とは経済的に衰退した状態を指すが、戦国時代の朝廷が衰退していたという論調が江戸時代に強まる(後述書 p.244)。その説話の一つとして、『慶長軍記抄』には、「禁裏紫宸殿の築地が破壊のまま放置され、三条大橋のたもとから内侍所のろうそくの光りが見えた」といったものがある。また後奈良天皇が百人一首や『伊勢物語』など色紙に宸筆を染め、売り物に出したため、後奈良院のものが今も世に多く残っているとした伝説が生じ、『高野春秋』にも「後奈良帝の時代、大内困窮し」と記される。


こうした説話は二次大戦以前の官学アカデミズムの著作の中でも史実として引用されており、例として、渡辺世祐や黒板勝美がいる(後述書 p.245)。しかし奥野高廣はこれらの式微論が後世の編纂物を無批判的に墨守した妄説であると主張し、皇室経済・諸大名や土豪による献金などの状況を詳細に論じ(『戦国時代に於ける皇室の研究』国史学11号)、式微論が近世期の誇張に過ぎないと結論づけた(今谷明 『戦国時代の貴族』 講談社学術文庫 2002年 p.245)。



領地


近世期では徳川家康によって各地に散らばっていた朝廷の領地は整理され、山科1万石のみとなり、五代将軍徳川綱吉の時代になり、3万石に加増されたが、小大名ほどである(水野計 『江戸の大誤解』 彩図社 2016年 pp.213 - 214)。石高も参照(最終的な調査では4万石を超えている)。近世期日本全体の石高が3千万石、将軍家直轄地が400万石(同書、家臣400万石と合わせ、800万石)と比しても小規模とわかる。ただし、大名から叙任の返礼として献上された礼金や進物が収入源となり、実質的な財政状態は10万石の大名に匹敵した[14]



その他


  • 近世期における朝廷は、外国の王室とは異なり、「寸鉄も帯びず」といわれ、独自の軍隊を有さなかったため、幕末の動乱では何事においても有力藩の顔色をうかがわなければならず、この反動から維新直後では直轄軍隊をもつべきという貴族の論調がでた[15]


脚注





  1. ^ 欧州などの君主制下のものには通常「王廷」が用いられる。ローマ皇帝などの帝政下のものには「宮廷」が用いられることがある。


  2. ^ この場合の「庭」は「廷」と同義であり、木々や池などを配した「庭(にわ)」の意味は無く、その場合は「園」が用いられる。


  3. ^ 吉村『集英社版日本の歴史3 古代王権の展開』「第4章 飛鳥の都」p.117


  4. ^ 熊谷『日本の歴史03 大王から天皇へ』「第4章 王権の転機」P.231


  5. ^ 隋書巻八十一·列伝第四十六


  6. ^ 「朝政」という用語は『古事記』では全く使われておらず、『日本書紀』でも天智天皇紀と天武天皇紀でそれぞれ1箇所、わずか計2箇所だけである。


  7. ^ 岸『日本の古代7 まつりごとの展開』「1 朝堂政治のはじまり」p.9-24


  8. ^ 『百錬抄』の記載による。


  9. ^ ここでいう「天皇家」は有力な権門勢家としての皇室の意味。律令体制が崩壊したのち、天皇制は形式と化したが、中世の天皇家は最高級の権門勢家の1つとして存在した。なお、「天皇家」という表現については「誤った言葉である」とする意見がある。


  10. ^ その成立時期について、白石太一郎は3世紀前半の「邪馬台国連合」とは一応区別して3世紀中葉以降に「初期ヤマト政権」が成立したとし、箸墓古墳(奈良県)・椿井大塚山古墳(京都府)など出現期の前方後円墳が畿内につくられた時期としている。白石『日本の時代史1 倭国誕生』序章「四-1 初期ヤマト王権の成立」p.69-79


  11. ^ 笹山晴生ほか『詳説日本史』(山川出版社)、江坂輝弥ほか『高等学校新日本史B』(桐原書店)、加藤友康ほか『高等学校日本史B 改訂版』(清水書院)などではいずれも「ヤマト政権」、大津透ほか『新日本史』(山川出版社)では「ヤマト(大和)政権」、尾藤正英ほか『新選日本史B』(東京書籍)では「大和王権」などの表現が採用されており、高校での「大和朝廷」の表記はなくなっている。
    一方、2006年(平成18年)における中学校教科書における表記は、『わたしたちの中学社会 歴史的分野』(日本書籍新社)、藤岡信勝ほか『改訂版 新しい歴史教科書』(扶桑社)の教科書では「大和朝廷」の表現が採用されている。なお、仁藤敦史ほか『中学生の歴史 日本の歩みと世界の動き』(帝国書院)では「ヤマト王権」、大口勇次郎ほか『新中学校歴史 日本の歴史と世界』(清水書院)、大濱徹也『歴史 日本の歩みと世界』(日本文教出版・大阪書籍)、笹山晴生『歴史 未来を見つめて』(教育出版)では「大和政権」であった。
    学習指導要領では2008年(平成20年)の中学校学習指導要領の改訂でも「大和朝廷」の用語は使用されており([1])、高校では従来「大和朝廷による国土統一」([2])の文言があったが、2009年(平成21年)告示の新学習指導要領では「大和朝廷」の用語は見られない(「ヤマト王権」などの用語も見られず、同時代の日本について「古代国家」との表現のみが見られる)。



  12. ^ 関『争点日本の歴史2 古代編Ⅰ』「『ヤマト』王権の成立はいつか」p.53-54


  13. ^ 鬼頭『朝日百科 日本の歴史1 原始・古代』「大王と有力豪族」p.250脚注


  14. ^ 週刊朝日ムック 『歴史道 vol2[完全保存版] 江戸の暮らしと仕事大図鑑』 朝日新聞出版 2019年 p.24.


  15. ^ 磯田道史 『素顔の西郷隆盛』 新潮新書 2018年 ISBN 978-4-10-610760-3 p.204.




参考文献




  • 吉田孝『大系日本の歴史3 古代国家の歩み』小学館<小学館ライブラリー>、1992年10月20日。ISBN 4-09-461003-0


  • 吉村武彦『集英社版日本の歴史3 古代王権の展開』集英社、1991年8月11日。ISBN 4-08-195003-2

  • 熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』講談社、2001年1月10日。ISBN 4-06-268903-0


  • 白石太一郎『日本の時代史1 倭国誕生』吉川弘文館、2002年6月10日。ISBN 4-642-00801-2

  • 関和彦「『ヤマト』王権の成立はいつか」『争点日本の歴史2 古代編Ⅰ』新人物往来社、1990年12月20日。ISBN 4-404-01775-8

  • 鬼頭清明「大王と有力豪族」『朝日百科 日本の歴史1 原始・古代』朝日新聞社、1989年4月8日。ISBN 4-02-380007-4

  • 鬼頭清明『大和朝廷と東アジア』吉川弘文館、1994年5月1日。ISBN 4-642-07422-8



関連項目







  • 都城制

  • 君臣共治

  • 朝敵




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