松本匡史
基本情報 | |
---|---|
国籍 | ![]() |
出身地 | 兵庫県尼崎市 |
生年月日 | (1954-08-08) 1954年8月8日(64歳) |
身長 体重 |
180 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1976年 ドラフト5位 |
初出場 | 1977年4月3日 |
最終出場 | 1987年10月25日(日本シリーズ第1戦)[1] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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国際大会 | |
代表チーム | ![]() |
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松本 匡史(まつもと ただし、本名:松本 哲(さとし)[2]、1954年8月8日 - )は、兵庫県尼崎市出身の元プロ野球選手(外野手、右投両打)・コーチ・監督・野球解説者。現役時代は青い手袋と銀縁の眼鏡がトレードマークで、年間盗塁数のセ・リーグ記録保持者。
目次
1 経歴
1.1 プロ入りまで
1.2 現役時代
1.3 引退後
2 エピソード
3 詳細情報
3.1 年度別打撃成績
3.2 タイトル
3.3 表彰
3.4 記録
3.5 背番号
4 関連情報
4.1 著作
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
経歴
プロ入りまで
小学6年生の時に野球を始める[3]。中学から報徳学園中学校に進んで野球部に入り[4]、主に捕手として3番・4番打者を務め、中学時代に阪神・兵庫・近畿各大会いずれも制覇。神戸新聞に「第二の田淵」として掲載されたこともあった[4]。報徳学園高校では2年生の時に、左翼手として1971年の春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では、2回戦(初戦)で東邦と対戦する。後に青学大のエースとなる金沢真哉投手が、1回裏、打者13人に対し11四死球という乱調、リリーフの金城成男投手も3四球を続け無安打で11失点。その後は立ち直るが、東邦の水谷啓昭投手に抑えられ4-12で大敗した[5]。夏の選手権は四番打者として出場。1回戦で金沢が秋田市立高を完封、2回戦に進出するが、岡義朗遊撃手のいた岡山東商に3-5で敗退[6]。同年秋の和歌山黒潮国体にも出場。決勝まで進むがまたも岡山東商に敗れ、準優勝にとどまった。翌1972年夏は県予選準決勝で山川猛捕手のいた東洋大姫路に敗れた。高校同期に青山忠司(南海)がいる。
卒業後は早稲田大学に進学、内野手に転向する。東京六大学リーグではエース矢野暢生(日本生命)らを擁し、1973年春季、1974年春季リーグの2回優勝。1974年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で駒大を降し優勝している。リーグ盗塁記録を塗り替え、リードオフマンとして活躍[7]。1975年には第11回アジア野球選手権大会日本代表に選出された。しかし1976年には肩を脱臼し、長期欠場を余儀なくされる。リーグ通算67試合出場、260打数61安打、3本塁打、35打点、57盗塁、打率.235。大学同期に八木茂、吉沢俊幸がいる。また、この大学生時代に名前を「哲」から「匡史」に改めている(#エピソードの節で詳述)[2]。
現役時代
卒業後は社会人野球の日本生命に進む予定だったが[8]、1976年のドラフト会議で読売ジャイアンツ(以下、巨人)から5位で指名され入団する。入団1年目の1977年6月13日の対大洋戦の9回表に代走で出場してタイムリーヒットでホームインし、味方の打者一巡の猛攻の後に回ってきた打席で、満塁本塁打を打つという珍しい記録を作った。その後は肩の脱臼がクセになっていたこともあって伸び悩んでいたが、1979年に肩を手術するとともに外野手にコンバートされる。同年秋に長嶋茂雄監督が静岡県の伊東スタジアムで行った「地獄の伊東キャンプ」で、俊足を生かすために右打ちからスイッチヒッターに転向する。当初は全くボールが飛ばなかったが、練習を続けた結果、素質が開花する。翌1980年は9月から中堅手、一番打者に抜擢(ばってき)され、柴田勲の後継と目される。
1981年にはロイ・ホワイトが中堅手に入ったため左翼手に回り、シーズン中盤からは一番打者として河埜和正と併用される。同年は規定打席未満ではあるが打率.303をマーク、リーグ優勝に貢献した。8月15日に神宮球場で行なわれた対ヤクルト戦では、振り逃げを取り消された直後に本塁打を打っている。日本ハムファイターズとの日本シリーズでは第4戦まで一番打者として先発したが、14打数2安打2打点と不調に終わった。1982年には開幕から中堅手、一番打者に定着。同年は初めて規定打席(14位、打率.282)に達し盗塁王も獲得。翌1983年に記録した年間76盗塁はセ・リーグ記録。走塁のために特注のワンピースユニフォーム(ヘッドスライディング時に砂が入るのを防ぐため)[9]、また青色の手袋を着用し当時の巨人のビジターユニフォームが水色であったこととも併せて「青い稲妻」のニックネームを付けられる。これは赤い手袋を着用した「赤い手袋・柴田勲」にあやかったものである。同年の西武ライオンズとの日本シリーズでは全7戦に一番打者として先発、敗れはしたが30打数8安打1打点を記録した。脱臼が原因で弱肩ではあったが、守備範囲の広い中堅手として守備の要としても活躍。1981年から3年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。1982年9月、広島戦で頭部に死球を受け退場、戦線を離脱。
ウォーレン・クロマティ加入後の1985年からレフトを守ることが多くなる。1987年、開幕から打撃好調で前半戦一時は首位打者を独走したものの、6月下旬ころから突然スランプ気味になり、後半戦、台頭してきた駒田徳広が1番ライトでスタメン出場し、ライトを守っていた吉村がレフトの守備に付き、松本の出場機会が激減していった。そんな中、久しぶりにスタメンに起用された試合でイージーフライを落球すると、監督の王貞治がこれに激怒。このミスが致命的となり以後さらにベンチを温める日が続くようになる。新本拠地東京ドーム完成に伴う外野守備陣の強化と簑田浩二(阪急)の交換要員(結果的に簑田は金銭トレードで獲得することになる)として名前が挙がったことで事実上の戦力外となり33歳で引退。松本の後の回想ではファン感謝デー後に「構想から外れた。任意引退だ」と球団事務所で告げられたという[10]。引退後、阪神タイガースからオファーがあったが、任意引退だったため旧所属である巨人の同意が必要となり、確認の際に行き先を(球団名を出さずに)「セ・リーグ球団」と返答すると不可という反応だったと述べている[10]。
引退後
引退後は日本テレビ解説者(1988年)を経て、巨人(1989年一軍守備・走塁コーチ, 1990年・2001年一軍外野守備・走塁コーチ, 1992年二軍走塁コーチ, 1993年 - 1994年二軍守備・走塁コーチ, 1995年 - 1997年二軍監督, 2002年 - 2005年スカウト)・楽天(2006年ヘッドコーチ)で監督・コーチ・フロントを就任。野村克也監督は松本を採用した理由について「延々夜中まで野球の話をしても、時計も全く見ず、嫌な顔一つせずに話を聞いてくれるところが気に入った」と石橋貴明に語っている。しかし、ヘッドコーチの職は1年間務めただけで辞任した[11]と自らの著書の中で語っている。松本自身の述懐では、楽天からの当初のオファーは二軍監督で、それなら務まると受諾したところ、一軍監督の田尾安志の解任と野村の招聘という流れの中でヘッドコーチになったとしており、当時について「失敗」と評している[10]。
辞任後は再び解説者となり、フジテレビONE『プロ野球ニュース』、東北放送(2008年から)、スカイ・Asports+(2011年まで)、J SPORTS(2012年)、日テレプラス(2013年から)で解説を行っている。
2013年、日本女子プロ野球機構のリーグアドバイザーに就任。
2017年11月27日、来シーズンよりベースボール・チャレンジ・リーグの滋賀ユナイテッドベースボールクラブ監督に就任することが発表された[12]。
就任後の最初のシーズンとなる2018年前期は、5勝28敗1分の勝率.152で西地区最下位となり、勝率はリーグの半期ワースト記録を更新した。後期途中の8月24日付で体調不良による休養(復帰時期未定)が発表された[13]。9月8日より監督に復帰[14]。しかし、シーズン終了後の11月12日に今シーズンでの退任が発表された[15]。
エピソード
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この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2011年8月) |
- 巨人から指名された当初、入団に前向きではなかった。理由としては早稲田大学時代に肩の脱臼など怪我が多かったことや社会人野球へ進むことが決まっていたことが挙げられる。しかし、時の監督長嶋茂雄の強い希望、果ては正力亨オーナーが、入社が決まっていた日本生命の野球部首脳陣にまで懇願、入団にこぎつけた。長嶋は「これからは松本のような足のある選手が必要になる」と考えていたという[16]。
- 早稲田大学時代の2年生秋、野球生命に係わるほどの左肩の故障を負い、この他にも脱臼など怪我が多かったことから、運気を変えるために両親は姓名判断の先生に見てもらった上で松本を本名の哲から匡史に改名させた。父から「匡史」という名前の提示があり、読み方は本名の「さとし」に近い感じだからということで「ただし」を選んだ。なお同時に、妹を除く一家全員(父、母、姉)も改名を行っている[2]。
コンタクトレンズが目に合わないため、現役晩年は眼鏡をかけてプレーすることを余儀なくされた。盗塁やダイビングキャッチで破損・変形がたびたびあって、常に複数のスペアを用意していたという。- カレーライスが大の苦手だが、夫人と交際中に初めて手料理としてごちそうしてくれた際は完食したという[17])。
- 松本の現役時代の応援歌は現在でも使われ、試合前に打順の順番でヒッティングマーチを演奏する際の前奏のような扱いで使用されているほか、往年の名選手の復刻応援歌を演奏する機会があった際、同じ外野手で俊足の松本哲也の打席で演奏された。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977 |
巨人 |
49 | 61 | 57 | 11 | 20 | 3 | 0 | 4 | 35 | 11 | 10 | 3 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 10 | 0 | .351 | .393 | .614 | 1.007 |
1978 |
67 | 70 | 66 | 13 | 14 | 1 | 0 | 0 | 15 | 5 | 12 | 1 | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | 18 | 1 | .212 | .224 | .227 | .451 |
|
1980 |
71 | 225 | 198 | 28 | 55 | 5 | 0 | 1 | 63 | 15 | 21 | 9 | 3 | 0 | 20 | 0 | 4 | 50 | 3 | .278 | .356 | .318 | .674 |
|
1981 |
115 | 284 | 261 | 33 | 79 | 9 | 1 | 3 | 99 | 21 | 33 | 13 | 7 | 1 | 14 | 0 | 1 | 44 | 1 | .303 | .341 | .379 | .720 |
|
1982 |
113 | 465 | 415 | 62 | 117 | 13 | 5 | 1 | 143 | 12 | 61 | 13 | 9 | 0 | 37 | 0 | 4 | 65 | 0 | .282 | .346 | .345 | .691 |
|
1983 |
125 | 568 | 510 | 75 | 150 | 15 | 4 | 6 | 191 | 24 | 76 | 16 | 4 | 1 | 49 | 1 | 4 | 80 | 1 | .294 | .361 | .375 | .735 |
|
1984 |
121 | 452 | 394 | 61 | 102 | 10 | 7 | 3 | 135 | 24 | 45 | 17 | 4 | 3 | 48 | 0 | 3 | 58 | 2 | .259 | .344 | .343 | .686 |
|
1985 |
130 | 588 | 523 | 97 | 158 | 26 | 1 | 5 | 201 | 37 | 32 | 12 | 9 | 1 | 54 | 0 | 1 | 83 | 3 | .302 | .368 | .384 | .752 |
|
1986 |
119 | 516 | 461 | 66 | 118 | 14 | 8 | 3 | 157 | 26 | 39 | 9 | 8 | 0 | 43 | 0 | 4 | 67 | 3 | .256 | .325 | .341 | .665 |
|
1987 |
106 | 392 | 365 | 50 | 89 | 14 | 1 | 3 | 114 | 20 | 13 | 10 | 1 | 2 | 24 | 0 | 0 | 74 | 2 | .244 | .289 | .312 | .601 |
|
通算:10年 |
1016 | 3621 | 3250 | 496 | 902 | 110 | 27 | 29 | 1153 | 195 | 342 | 103 | 46 | 10 | 294 | 1 | 21 | 549 | 16 | .278 | .340 | .355 | .695 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
盗塁王:2回 (1982年、1983年)
表彰
ベストナイン:1回 (1983年)
ダイヤモンドグラブ賞:3回 (1981年 - 1983年)
月間MVP:1回 (1982年7月)
後楽園MVP賞:1回 (1982年)
記録
- 初記録
- 初出場:1977年4月3日、対中日ドラゴンズ2回戦(後楽園球場)、6回表に土井正三に代わり二塁手で出場
- 初打席・初安打・初打点:同上、7回裏に堂上照から中前適時打
- 初盗塁:1977年4月19日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、9回表に二盗(投手:古沢憲司、捕手:田淵幸一)
- 初先発出場:1977年5月1日、対ヤクルトスワローズ5回戦(明治神宮野球場)、7番・二塁手で先発出場
- 初本塁打:1977年5月10日、対大洋ホエールズ6回戦(川崎球場)、7回表に淡口憲治の代打で出場、間柴茂有からソロ
- 節目の記録
- 300盗塁:1986年6月8日、対ヤクルトスワローズ10回戦(明治神宮野球場)、3回表に二盗(投手:鈴木正幸、捕手:芦沢優) ※史上18人目
- 1000試合出場:1987年8月30日、対広島東洋カープ16回戦(広島市民球場)、8回表に槙原寛己の代打で出場 ※史上273人目
- その他の記録
オールスターゲーム出場:6回 (1981年 - 1985年、1987年)
背番号
23 (1977年 - 1979年)
2 (1980年 - 1987年)
88 (1989年 - 1997年、2018年 - )
83 (2001年)
82 (2006年)
関連情報
著作
- 『プロが教える野球入門』(大泉書店、1998年10月発行)ISBN 4-278-04653-7
脚注
^ 9番・指名打者として先発出場。2打数無安打1三振で岡崎郁と交代。
- ^ abcスポーツニッポン 2017年11月14日 28面「我が道 松本匡史」
^ スポーツニッポン 2017年11月2日 26面「我が道 松本匡史」
- ^ abスポーツニッポン 2017年11月3日 30面「我が道 松本匡史」
^ 『選抜高等学校野球大会60年史』 毎日新聞社 編、毎日新聞社、1989年、[要ページ番号]。
^ 『全国高等学校野球選手権大会70年史』 朝日新聞社 編、朝日新聞社、1989年、[要ページ番号]。
^ スポーツニッポン 2017年11月13日 28面「我が道 松本匡史」
^ スポーツニッポン 2017年11月14日 20面「我が道 松本匡史」
^ 1986年からユニフォームの上着がプルオーバータイプになったため、使用は長くとも前年までと思われる。[独自研究?]
- ^ abc““青い稲妻”元巨人・松本匡史さん、12年ぶりユニホームで描く夢 BC滋賀監督就任”. スポーツ報知. (2018年1月9日). http://www.hochi.co.jp/baseball/column/20180109-OHT1T50056.html 2018年1月9日閲覧。
^ 橋上秀樹 『野村克也に挑んだ13人のサムライたち』 双葉社〈双葉新書〉、2011年、205頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
ISBN 978-4575153712。
^ “元巨人「青い稲妻」松本匡史氏がBC滋賀監督に就任”. 日刊スポーツ. (2017年11月27日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/201711270000350.html 2017年11月27日閲覧。
^ 松本匡史監督 休養のお知らせ - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2018年8月24日)
^ 松本監督復帰のお知らせ - 滋賀ユナイテッドベースボールクラブ(2018年9月7日)
^ 松本匡史監督退任ならびに成本年秀監督就任のお知らせ - 滋賀ユナイテッドベースボールクラブ(2018年11月12日)
^ スポーツニッポン 2017年11月15日 芸能面「我が道 松本匡史」
^ 『月刊ジャイアンツ』1986年5月号、報知新聞社、 [要ページ番号]。
参考文献
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2017年8月) |
- 松本匡史 『熱球悲願 塁間の“青い稲妻”』 恒文社 1982年 ISBN 4-7704-0500-6
- 柏英樹『プロ野球選手になるには』ぺりかん社、2009年
関連項目
- 兵庫県出身の人物一覧
- 早稲田大学の人物一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
外部リンク
個人年度別成績 松本匡史 - NPB.jp 日本野球機構- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 所属事務所TCP-Artist 公式プロフィール
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