源頼信
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凡例 源頼信 | |
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![]() 源頼信(菊池容斎画、明治時代) | |
時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 安和元年11月29日(968年12月21日) |
死没 | 永承3年4月17日(1048年6月1日) |
改名 | 頼信→蓮心(法名) |
墓所 | 大阪府羽曳野市・通法寺 |
官位 | 従四位上、昇殿、鎮守府将軍、検非違使、常陸介、伊勢守、河内守、甲斐守、信濃守、美濃守、相模守、陸奥守、左馬権頭、冷泉院判官代、治部少輔、皇后宮亮、左兵衛尉、兵部丞、贈従二位 |
主君 | 藤原道兼→道長 |
氏族 | 清和源氏経基流 |
父母 | 父:源満仲、 母:藤原元方娘または藤原致忠娘 |
兄弟 | 頼光、頼親、頼信、頼平、頼明、頼貞、頼範、頼尋、源賢(賢快)、藤原頼親室、源敦室、藤原道綱室 養兄弟:孝道(義弟) |
妻 | 修理命婦 |
子 | 頼義、頼清、頼季、頼任、義政、 源為満室、源信忠室 |
源 頼信(みなもと の よりのぶ)は、平安時代中期の武将。摂津国多田[注釈 1]の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男。河内国石川郡壺井[注釈 2]を本拠地とする河内源氏の祖。
目次
1 略歴
2 官歴
3 系譜
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 参考文献
6 関連項目
略歴
兄・頼光と同じく関白の藤原道兼に、その死後は道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任する。河内に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てる。
甲斐守在任時の長元4年(1031年)に平忠常の乱を平定し、その後の河内源氏の東国進出の第一歩を記す。武勇に優れ、平維衡・平致頼・藤原保昌らと「道長四天王」、「四天王」と称された。それまで四年間、平直方と争っていた忠常が戦わずして降伏したのは、それ以前に頼信との間で主従関係があったためと考えられている(元木 2011)。
この乱の後、坂東の武士は河内源氏と主従関係を結ぶようになり、後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築いた。
『古事談』や『今昔物語集』には頼信に関する説話が記されている。
墓は、大阪府羽曳野市の河内源氏の菩提寺の通法寺跡に、頼義、義家と共にある。
官歴
※日付=旧暦
987年(寛和3年)2月19日、左兵衛少尉に任官。
999年(長保元年)9月2日、上野介に任官。
1001年(長保3年)2月26日、上野介を退任?
1012年(長和元年)、時に前常陸介(御堂関白記閏10月23日条)
1019年(寛仁3年)春、石見守に任官、7月に赴任。
1023年(治安3年)8月、鎮守府将軍に任官。
1028年(長元元年)、時に前伊勢守(左経記6月21日条)
1029年(長元2年)、甲斐守に任官。
1031年(長元4年)1月6日、従四位下に昇叙し、甲斐守如元。
1032年(長元5年)2月8日、美濃守に遷任。
1036年(長元9年)10月14日、相模守に遷任。
1047年(永承2年)、従四位上に昇叙し、河内守に任官。
系譜
- 父:源満仲
- 母:藤原元方の娘もしくは藤原致忠の娘
- 妻:修理命婦 - 下級女官
長男:源頼義(988-1075)嫡男- 次男:源頼清(995-1073)子孫は信濃村上氏
- 妻:不詳(生母不明)
- 三男:源頼季(?-?)源氏井上氏の祖
- 四男:源頼任(?-?)信濃河内氏の祖
- 五男:源義政(?-?)常磐五郎
- 女子:源為満室
脚注
注釈
^ 現・兵庫県川西市多田。
^ 現・大阪府羽曳野市壺井。
出典
参考文献
元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』中公新書、2011年
関連項目
- 多田神社
- 壺井八幡宮
- 八幡荘
- 上野國一社八幡宮
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