楽天地 (大阪)
「白露台ヨリ登仙閣ヲ望ム」
登仙閣と名づけられた展望台は大阪市内を一望でき人気を集めた。
楽天地(らくてんち)は、1914年(大正3年)から1930年(昭和5年)まで大阪府大阪市南区難波新地四番町(現・中央区千日前)にあった劇場・演芸場・レジャーの殿堂。大正時代の大阪を代表するハイカラな名所だった。
目次
1 大阪の新名所
2 映画産業への進出
3 撤退
4 関連項目
大阪の新名所
1912年(明治45年)1月16日、「ミナミの大火」で難波新地から西高津新地、生国魂神社あたりまでが焼失した。ミナミの壊滅的な被害で繁華街の灯が消えることを危惧した南海鉄道の社長は、近代的なレジャーセンターを作って復興したいと考え大阪の興行界の実力者・山川吉太郎に声をかけた。彼は当時、活動写真館や演芸場を経営し役者をアイドルとして売り出す才能の持ち主だった。南海の出資で彼はすべての娯楽を詰め込んだレジャーセンターを構想する。

夜のイルミネーション
焼け跡整理にあたり、現在の千日前通にあたる東西の通りが拡幅され電車通りとなる。同時に、電車通りにできた新しい千日前交差点の南西隅に、山川吉太郎は1914年(大正3年)5月に一大娯楽センター「楽天地」を建設、一躍市内のハイカラな名所となった。地上3階建てで多くの尖塔を持ち、中央には円形ドームを載せ、夜はイルミネーションで彩られていた。館内は大劇場と二つの小劇場で芝居・演劇・映画を公演した。大劇場では主に外国の映画を上映、小劇場「朝陽殿」は男性向けの漫才などの演芸場、小劇場「月宮殿」は琵琶少女歌劇で、悲恋物など若い女性向けの泣ける芝居を上映していた。この中の少女スターが後の名優田中絹代である。地下にはメリーゴーランド、ローラースケート場、水族館などもあった。屋上ドームを回る螺旋階段を登るとドーム上に大阪市内を見渡す展望台があり人気を集めた。
映画産業への進出
山川吉太郎はレジャーセンターが一段落したところで事業意欲を失い、新たな事業を求める。同年、上映用の映画を制作するために東京の小林喜三郎の「常盤商会」と共同して「天然色活動写真株式会社(天活)」を設立し、山川は大阪支社長に納まった。1916年(大正5年)には大阪における映画撮影所を現在の東大阪市河内小阪駅付近に建設している。1920年(大正9年)天活解体後は「帝国キネマ演芸株式会社」を創設し、1924年には、沢蘭子主演の悲恋物『籠の鳥』が爆発的な大ヒットとなった。その資金を元手に1928年(昭和3年)、現在の東大阪市長瀬駅近くの長瀬川河畔に「東洋のハリウッド」とよばれた巨大な「長瀬撮影所」を新設した。しかし、撮影スタジオやトーキー用の機材などにかかる巨額投資、日活や松竹など現代劇の大会社の関東大震災からの復興で、資金力に乏しい帝キネは窮地に陥り、1929年以後は松竹と提携するようになった。1930年(昭和5年)にはトーキー映画の『何が彼女をそうさせたか』が大ヒットするが、同年9月、スタジオはわずか2年で焼失した。
撤退
この頃楽天地も御堂筋沿いのデパートなどさらに新しい名所に押され、また山川吉太郎の映画制作で多額の借金を抱えたことで営業が立ち行かなくなってきた。1930年(昭和5年)に帝国キネマが1930年(昭和5年)に撮影所を焼失したのと時を同じくして、楽天地も閉鎖し、その跡地には1932年(昭和7年)には松竹経営で7階建て、3000名弱収容の南欧風近代建築「大阪歌舞伎座」が誕生した。
帝国キネマは1931年(昭和6年)に「新興キネマ」に改組され、その後戦時統合で大映(→現在の角川映画)となった。
山川吉太郎は借金を抱えたまま、1934年(昭和9年)に生涯最大のヒット作「籠の鳥」の主題歌を歌ってもらいながら世を去った。
その子孫は戦後、十三で再起し、戦前からある映画館「朝日座」(前身は十三劇場)を「十三大映朝日座」と改称し映画興行を続けた。
関連項目
- 千日前
日本ドリーム観光(楽天地の運営会社・千日土地建物の後身企業)