サルバドール・アジェンデ







この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はアジェンデ、第二姓(母方の姓)はゴスセンスです。































サルバドール・アジェンデ
Salvador Allende

Salvador Allende Gossens-.jpg




チリの旗 チリ共和国
第29代大統領

任期

1970年11月3日 – 1973年9月11日

出生

1908年6月26日
 チリ、バルパライソ
死去

(1973-09-11) 1973年9月11日(65歳没)
 チリ、サンティアゴ・デ・チレ
政党

チリ社会党
配偶者
あり
署名

Salvador Allende signature.svg

サルバドール・イサベリーノ・デル・サグラード・コラソン・デ・ヘスス・アジェンデ・ゴスセンス(Salvador Isabelino del Sagrado Corazón de Jesús Allende Gossens、1908年6月26日 - 1973年9月11日)は、チリの政治家。1970年から1973年まで同国大統領であった。




目次






  • 1 生涯


    • 1.1 生い立ち


    • 1.2 医師から政界へ


    • 1.3 大統領選出馬


    • 1.4 1970年の大統領選


    • 1.5 大統領就任


      • 1.5.1 自由選挙による社会主義政権


      • 1.5.2 国内外からの反発


      • 1.5.3 経済政策失敗


      • 1.5.4 内部対立の激化


      • 1.5.5 クーデター




    • 1.6 死後


    • 1.7 死因




  • 2 国内外の評価


  • 3 家族


  • 4 脚注


  • 5 参考文献


  • 6 関連項目


  • 7 外部リンク





生涯



生い立ち


1908年に、チリの港町バルパライソにバスク系の移民の子孫として生まれる。その後、チリ国立大学の医学部に入学した。



医師から政界へ


チリ国立大学医学部を卒業した後に医師になり、またチリ軍に従軍する。その後チリ社会党結成に参加したアジェンデは、1938年に急進党を中心とする人民戦線政府に保健大臣として入閣した。



大統領選出馬





ラウル・カストロとともに(1959年)




アジェンデを支援する市民団体(1964年の選挙時)


第二次世界大戦を経て、冷戦下のチリにおいてその後社会党と共産党の連合である「人民行動戦線」から1958年と1964年の大統領選に出馬した。


1958年の大統領選では28.8%の得票を得たが、ホルヘ・アレッサンドリ(独立右派)とわずか3万票、得票率で3ポイント足らずの差で当選を逃した。冷戦下、資本主義陣営の盟主を自認するアメリカ合衆国はこれを脅威と見なし、CIAを通して対立候補に密かに援助を行ったという[1]。またこれに対し、南アメリカの赤化を望んだソビエト連邦はアジェンデを支援した。


1964年の選挙では、アジェンデは得票を39.9%まで伸ばしたものの、対立候補であり、チリを「進歩のための同盟」による開発計画のモデル国家とすることを目指していたエドゥアルド・フレイ・モンタルバが右派の国民党と中道のキリスト教民主党の一致した支援を受けたため、大差での敗北となった。


チリ国内の反共主義勢力や、それを後押しするCIAによる執拗なプロパガンダにも拘らず、アジェンデは労働者の男性を中心に支持を広げていた。続く大統領選挙は1970年であったが、アジェンデ政権の成立を憂慮した各勢力は、最悪の場合軍事クーデターも辞さない構えで、反共派の多いチリ軍部と接触した。しかし、チリ陸軍司令官のレネ・シュナイダー(1913-1970)は憲法に則った解決を主張した。



1970年の大統領選


1970年の大統領選挙では、国民党とキリスト教民主党がそれぞれ候補を擁立する中、アジェンデは従来の人民行動戦線から参加政党が拡大した人民連合の統一候補として出馬し、得票率が他の2候補を僅差で上回り首位となった。


憲法の規定に則り、首位のアジェンデと次点のホルヘ・アレッサンドリ(国民党)による決選投票が議会で行なわれることになった。CIAと反共勢力はアジェンデ当選を阻止するためシュナイダーの排除を目論み、CIAは軍部の反シュナイダー勢力に武器などを譲渡、シュナイダーは10月22日に暗殺された。



大統領就任



自由選挙による社会主義政権




アジェンデ内閣(1970年)


しかし、この暗殺は完全に裏目に出ることとなった。シュナイダー暗殺に反発してキリスト教民主党がアジェンデ支持に回ったことにより、153対35の大差でアジェンデが大統領に選出され、世界史上初の自由選挙による社会主義政権が成立した。


就任後は国内外からの反対の声を押し切って、内外の企業の資産の凍結や、企業や鉱山の国営化を進め、キューバやソ連などの共産主義国との友好を促進した。同時期に隣国ペルーで「ペルー革命」を推進していたフアン・ベラスコ・アルバラード政権との友好関係も確立され、アジェンデはベラスコを同志として賞賛した[2]



国内外からの反発


この様な動きは国内外からの大きな反発を受け、アメリカのリチャード・ヘルムズCIA長官は、アジェンデ政権を打倒する姿勢を見せた。アメリカなどの西側諸国は経済封鎖を発動、さらにもともと反共的である富裕層や中流層は自主的にストライキを開始した。さらに1972年9月に、CIAは物流の要であるチリのトラック協会に多額の資金を援助しストライキをさせた。



経済政策失敗




閣僚たちとアジェンデ(1971年)


加えて、アジェンデ政権の経済的失政も苦境に拍車を掛けた。当初アジェンデ政権のペドロ・ブスコビッチ経済相の経済政策は政府支出の拡大、国民の所得引上げによって有効需要を生み出すことにあり、そのための手段としての賃金上昇政策と農地改革が採用された。政府が強制した農地改革は驚異的なペースで進み、フレイ政権が6年間で収用したのと同等の農地面積が就任してから1年で収用された[3]が、地主からの大きな反発を招いた。


さらに、それまでチリの銅産業を支配しており、チリの税制から、チリにとって極めて不利な資本流出を起こしていたアメリカ合衆国系のアナコンダ・カッパー・マイニング・カンパニーとケネコット・カッパー・カンパニーなどの外資系の鉱山会社が国有化され、コデルコに統合され、チリの銅山は「ポンチョを着て、拍車をつけ」チリの下に戻った[4]。コデルコはその後のピノチェト時代にも民営化を逃れ、チリ政府の巨大な歳入源として存続した。


しかし、アジェンデが推し進めたチリ経済の実力に見合わない支出拡大により、外貨準備は1971年末に3000ドルにまで減少するなど急速に底を着き、加えてアメリカによる銅価格の操作や援助の削減、国際金融機関によるチリへの貸付停止措置はチリ経済に深刻な影響を与えた[5]。このような状況が複合的に進行した結果、民間投資は激減し、更なる資本流出が進む悪循環が生じた。



内部対立の激化





ソビエト連邦のキエフを訪問したアジェンデ(1972年)


こうした混乱により、1971年末から野党は連合して人民連合政府を批判するようになり、さらに1972年6月には人民連合内部での路線対立が尖鋭化した。アジェンデはキリスト教民主党との妥協工作を図り、社会主義的な経済政策を追求するブスコビッチ経済相を更迭し、経済回復を重視する方針を打ち出した。しかし、経済の衰退に歯止めはかからず、チリ国内では悪性のインフレが進行し、物資が困窮し、社会は混乱した。


同年9月にトラック業界のストライキが始まったが、このストは10月に入ると全国的な規模に拡大し、一ヶ月以上続くことになった。このような国内の混乱に対抗し、内戦の危機に備えてアジェンデは軍から立憲派の陸軍司令官カルロス・プラッツ将軍を入閣させ、11月にストを終わらせた。しかし、経済の衰退に歯止めがかからないことには変わらず、極右と極左の衝突、混乱は激しさを増すことになった。



クーデター





爆破されたモネダ宮殿




破損し血痕の付いたアジェンデの眼鏡


これらの混乱は、アジェンデ政権の誘導もあってその真偽を問わずチリ国民の多くを占める労働者からは「反対派による陰謀」とされ、結果として労働者の団結を促進し、1973年の総選挙で人民連合は大統領選より更に得票率を伸ばした。こうした状況に失望した反アジェンデ勢力は、アメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官とCIAの支援と黙認の下で、武力による国家転覆を狙うようになった。


チリ全土でストやデモが勃発する中、6月29日には軍と反アジェンデ勢力が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが、プラッツ将軍の軍への統制による努力により、このクーデター未遂事件(戦車クーデター(スペイン語版、英語版))は失敗した。アジェンデはこの事件への報復に労働者への工場占拠を呼び掛け、500以上の工場が政府の直接統制に置かれ[6]、労働者と軍の間で内戦の危機が迫った。


このような左右対立の図式の中で、野党内部では秩序回復のための軍の政治介入を求める運動が広がり、次第にチリ軍内部でのクーデター派のコンセンサスが確立すると、アジェンデにとって最大の軍内の同盟者だったプラッツ将軍は孤立し、8月22日に辞職した。陸軍の後任司令官にはアウグスト・ピノチェト将軍が就任した。


万策尽き、行政力も権威も失ったアジェンデは国民投票に訴えようとしたが、投票が実施される直前の9月11日に、ピノチェト将軍が陸海空軍と警察軍を率いて再度大統領官邸を襲撃した。アジェンデはクーデター軍と大統領警備隊の間で銃弾が飛び交う中、最後のラジオ演説を行なった後死亡した(死因については後述)。


ラテンアメリカでは現在でも「9・11」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件ではなく、1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。先述のプラッツ将軍はクーデター直後の9月15日に妻とアルゼンチンに亡命するが、翌年9月30日にブエノスアイレスでピノチェトの創設した秘密警察「DINA(英語版)」の仕掛けた車爆弾により妻とともに暗殺された。



死後




アメリカのキッシンジャー国務長官を迎えるピノチェト(右端/1976年)





モネダ宮殿前のアジェンデの銅像


チリ・クーデターの結果、クーデターの首謀者であったピノチェト将軍が大統領に就任し、チリは軍事独裁下に置かれることになった。その後南アメリカの共産主義化を憂えるアメリカ政府の支援の下、16年の長きに亘る軍事政権下で数千人(数万人という説もある)の反体制派の市民が投獄・処刑された。


また、チリの経済はアジェンデ時代よりは好転したものの、軍事政権下では改革は進まなかった。なおピノチェト政権時代の国家や社会を構成する様々な指標の統計は、民政復帰後から2011年現在に至るまで、チリ政府のウェブサイトでも、国連やその他の国際機関のウェブサイトでも、確認不可能な統計資料として空白になっている(一般的に独裁政権下では国家や社会の統計は非公開であるか、公開されても民主主義国と比較して信用度が低い)。そのため、今日において検証は困難となっている[7][8][9]


なお、ピノチェトによる軍事政権の後見人であったアメリカは、1989年にベルリンの壁が崩壊して冷戦が終わった事で、「南アメリカの共産化による自国への脅威」が消えた直後の1990年3月まで、ピノチェトを支え続けただけでなく軍事政権による人権侵害を黙認し続けた。



死因


長年アジェンデ大統領の死因について「クーデター軍との戦闘による戦死」か、「クーデター軍によって殺害された」か、「自殺」か、論争があり真実が不明だったが、2011年5月23日、チリ司法当局は調査を行い長年の論争に決着をつけるため、アジェンデ元大統領の遺体を墓所から発掘し鑑定した[10]


クーデターを率いたピノチェト将軍は、アジェンデ大統領の最期について「大統領府モネダ宮殿でキューバのフィデル・カストロ首相から贈られた自動小銃を使い自殺した」と発表していた。


しかし、「フィデル・カストロから私のよき友サルバドーレ・アジェンデへ」という刻印が彫られた金板が取り付けられていたとされる銃も弾も見つかっていない上、当時の軍は遺族に遺体を見せようとしなかったため、軍による射殺説も根強く残っていた。


チリ政府は2011年7月19日、発掘された遺体(白骨化していた)を外国人も含む専門家チームによる鑑定を行った結果、カストロ議長から贈られた自動小銃による自殺だったことが確認されたと発表し、元大統領の娘イザベル・アジェンデ上院議員もこの結果を受け入れることを表明した[11][12][13][14]



国内外の評価


チリ国内ではピノチェト同様、評価は未だに二分されている。親ピノチェト派にとっては左転回により国に混乱をもたらした唾棄すべき存在である一方、ピノチェトの圧政に苦しんだ左派活動家などにとっては今でも英雄視されている。


また、カラカス、ハバナ、パリ、ボローニャ、マドリッド、マナグア、モンテビデオなど、中南米や欧州諸国の各地にアジェンデの名前を冠した通りや広場などが続々と建設されている事例は、チリ国外のスペイン語圏の左派勢力を中心に、死後もアジェンデが一定の評価を得ていることが推測される[15]


2017年大韓民国大統領選挙において共に民主党の有力候補とされていた李在明は、2016年に大統領選に向けた訴えの中で「反乱軍に機関銃を持って闘ったアジェンデの心情で政権交代を越え、国家権力の正常化を図るべきだ」「国と国民のために機関銃を持って命を捧げたアジェンデ大統領ぐらいの覚悟がなければ、韓国社会のその根深い悪習と不義を掘り起こすことができるのか」とアジェンデを引き合いに出した発言をした[16]



家族




  • イサベル・アジェンデ - アジェンデの娘。民政復帰後の1993年以来、父と同じチリ社会党所属の政治家として活動し、社会党党首や上院議長を務めている。


  • イサベル・アジェンデ・ロナ(Isabel Allende Llona) - いとこの娘。小説家。アジェンデの娘イサベルのはとこであり、イサベル・アジェンデ・ロナの父はアジェンデのいとこである。



脚注




  1. ^ ウィリアム・ブルム「チリ 一九六四年~一九七三年 鎚と鎌が子供の額に焼き印される」


  2. ^ 増田義郎/柳田利夫『ペルー 太平洋とアンデスの国 近代史と日系社会』中央公論新社 1999 p.210


  3. ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.222


  4. ^ エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫訳『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』新評論、1986年 p.256


  5. ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.223


  6. ^ 中川文雄/松下洋/遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 1985 p.228


  7. ^ Instituto Nacional de Estadísticas Las Estadísticas de Chile 2011年7月31日閲覧


  8. ^ UN Statistics Division 2011年7月31日閲覧


  9. ^ OECD Statistics from A to Z 2011年7月31日閲覧


  10. ^ “Chile's buried secrets”. LAT. www.latimes.com (2011年5月23日). 2011年7月21日閲覧。


  11. ^ “Allende’s Death Was a Suicide, an Autopsy Concludes”. NYT. www.nytimes.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。


  12. ^ “Informe del Servicio Médico Legal confirma la tesis del suicidio de ex Presidente Allende”. www.latercera.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。


  13. ^ “チリ・故アジェンデ大統領は「自殺」 クーデターで死亡”. asahi.com (朝日新聞社). (2011年7月20日). オリジナルの2011年7月22日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20110722021404/http://www.asahi.com/international/update/0720/TKY201107200454.html 2011年7月21日閲覧。 


  14. ^ “アジェンデ元大統領は自殺 遺体掘り起こし確認 頭撃ち抜いて チリ”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2011年7月20日). オリジナルの2011年8月28日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20110828133259/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110720/amr11072013380006-n1.htm 2011年7月21日閲覧。 


  15. ^ [1]


  16. ^ “이재명 “피노체트 반란군에 기관총 들고 싸우던 아옌데 대통령의 심정. 목숨 건 투쟁 준비”(イ・ジェミョン「ピノチェト反乱軍に機関銃持って戦ったアジェンデ大統領の心情。命をかけた闘争の準備」)”. ファクトテレビ. http://facttv.kr/facttvnews/+(2016年8月16日). 2018年11月17日閲覧。


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参考文献



  • 中川文雄、松下洋、遅野井茂雄『世界現代史 34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社、1985年。


  • 増田義郎、柳田利夫『ペルー 太平洋とアンデスの国 近代史と日系社会』中央公論新社、1999年。

  • 増田義郎編『新版世界各国史 26 ラテンアメリカ史II』山川出版社、2000年。

  • ジャン・コルミエ/松永りえ訳、太田昌国監修『「知の再発見」双書 120 チェ・ゲバラ 革命を生きる』創元社、2004年12月。



関連項目



  • ビクトル・ハラ

  • パブロ・ネルーダ

  • 平和革命

  • 人民連合

  • フアン・ベラスコ・アルバラード


  • サンチャゴに雨が降る(五木寛之の『戒厳令の夜』に上記のクーデターが描かれている。)

  • チリの闘い

  • イサベル・アジェンデ

  • サイバーシン計画

  • ベンセレーモス

  • 不屈の民



外部リンク







  • Resolution of August 22, 1973


  • Alternate source of the Resolution of August 22, 1973 (In English, German, Spanish, French, Polish)


  • "Never Again: An essay about the breakdown of democracy in Chile" by José Piñera (examination of events leading up to, and implications regarding, the Resolution of August 22, 1973. (In English, Italian, Spanish) Mirror site


  • Official Government biography (in Spanish)


  • History of Chile under Salvador Allende and the Popular Unity by Ewin Martinez


  • Allende Memorial Site (in Spanish)

  • Hannah Cleaver Allende branded a fascist and anti-Semite 12 May 2005 in The Telegraph (UK).


  • Caso Pinochet (in Spanish).


  • Popular Unity of Salvador Allende (in Spanish)

  • Christopher Andrew and Vasili Mitrokhin, Mitrokhin archive: How 'weak' Allende was left out in the cold by the KGB describing relations between Allende and the KGB, including KGB payments to Allende. The Times September 19, 2005


  • Previously unreleased interview with Allende by Saul Landau in 1971, published by La Nacion on September 24th, 2005.




















公職
先代:
エドゥアルド・フレイ (en

チリの旗 チリ共和国大統領
第29代:1970 - 1973
次代:
アウグスト・ピノチェト
先代:
Miguel Etchebarne Rioll

チリの旗 チリ共和国保健大臣
第4代:1939 - 1942
次代:
Eduardo Escudero Forrastal
議会
先代:
Enrique Oyarzún Mondaca

チリの旗 チリ共和国上院議長
1966 - 1969
次代:
Tomás Pablo Elorza








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