シルクロード
シルクロード(絹の道、英語: Silk Road, ドイツ語: Seidenstraße, 繁体字:絲綢之路, 簡体字:丝绸之路)は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。絹が中国側の最も重要な交易品であったことから名付けられた。その一部は2014年に初めて「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」としてユネスコの世界遺産に登録された。

シルクロードの主要なルート
目次
1 概要
2 「草原の道」
3 「オアシスの道」
4 「海の道」
5 シルクロードと日本
6 シルクロードプロジェクト
7 シルクロードを題材とした作品
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
概要
「シルクロード」という名称は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China(支那)』(1巻、1877年)においてザイデンシュトラーセン(ドイツ語:Seidenstraßen;「絹の道」の複数形)として使用したのが最初であるが、リヒトホーフェンは古来中国で「西域」と呼ばれていた東トルキスタン(現在の中国新疆ウイグル自治区)を東西に横断する交易路、いわゆる「オアシスの道(オアシスロード)」を経由するルートを指してシルクロードと呼んだのである。リヒトホーフェンの弟子で、1900年に楼蘭の遺跡を発見したスウェーデンの地理学者ヘディンが、自らの中央アジア旅行記の書名の一つとして用い[1]、これが1938年に『The Silk Road』の題名で英訳されて広く知られるようになった。
シルクロードの中国側起点は長安(陝西省西安市)、欧州側起点はシリアのアンティオキアとする説があるが、中国側は洛陽、欧州側はローマと見る説などもある。日本がシルクロードの東端だったとするような考え方もあり、特定の国家や組織が経営していたわけではないのであるから、そもそもどこが起点などと明確に定められる性質のものではない。
現在の日本でこの言葉が使われるときは、特にローマ帝国と秦・漢帝国、あるいは大唐帝国の時代の東西交易が念頭に置かれることが多いが、広くは近代(大航海時代)以前のユーラシア世界の全域にわたって行われた国際交易を指し、南北の交易路や海上の交易路をも含める。つまり、北方の「草原の道(ステップロード)」から南方の「海の道(シーロード)」までを含めて「シルクロード」と呼ばれるようになっているわけである。

ステップ地帯
「草原の道」
中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至る、最も古いとみなされている交易路。この地に住むスキタイや匈奴、突厥といった多くの遊牧民(騎馬民族)が、東西の文化交流の役割をも担った。
現在の中国国鉄集二線は、部分的にほぼこの道に沿っている。
モンゴルのツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領が同名の中露蒙経済回廊を提唱していることでも知られている[2][3]。
「オアシスの道」
東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路「オアシスの道」が、リヒトホーフェンが名付けたところの「シルクロード」である。長安を発って、今日の蘭州市のあたりで黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る。ここから先の主要なルートは次の3本である。西トルキスタン[4]以西は多数のルートに分岐している。このルート上に住んでいたソグド人が、シルクロード交易を支配していたといわれている。東トルキスタンの興亡史については、「西域」「楼蘭」「ホータン王国」「中国の歴史」などを参照のこと。

オアシスの道
(ロプノールが干上がると、楼蘭を経由する水色のルートは通行が困難になった。)
- 西域南道
- 敦煌からホータン、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠南縁のオアシスを辿ってパミール高原に達するルートで、漠南路とも呼ばれる。オアシスの道の中では最も古く、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされる。このルートは、敦煌を出てからロプノールの北側を通り、楼蘭を経由して砂漠の南縁に下る方法と、当初からロプノールの南側、アルチン山脈の北麓に沿って進む方法とがあったが、4世紀頃にロプノールが干上がって楼蘭が衰退すると、水の補給などができなくなり、前者のルートは往来が困難になった。
- 距離的には最短であるにもかかわらず、極めて危険で過酷なルートであるが、7世紀に玄奘三蔵はインドからの帰途このルートを通っており、楼蘭の廃墟に立ち寄ったと『大唐西域記』に記されているので、前者のルートも全く通行できない状態ではなかったものとみられる。13世紀に元の都を訪れたマルコ・ポーロは、カシュガルから後者のルートを辿って敦煌に達したとされている。
- 現在のG315国道は、部分的にほぼこの道に沿って建設されており、カシュガルからホータンまでは、2011年に喀和線が開通している。

- 天山南路(西域北道)
- 敦煌からコルラ、クチャを経て、天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至るルートで、漠北路ともいう。西域南道とほぼ同じ頃までさかのぼり、最も重要な隊商路として使用されていた。このルートは、楼蘭を経由してコルラに出る方法と、敦煌または少し手前の安西からいったん北上し、ハミから西進してトルファンを通り、コルラに出る方法とがあったが、楼蘭が衰退して水が得られなくなると、前者は通行が困難になった。
- 現在トルファンとカシュガルを結んでいる南疆線は、概ね後者のルートに沿って敷設されており、1971年に工事が始まり、1999年に開通した。G314国道も部分的にほぼこの道に沿っている。
- 天山北路
- 敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチを通り、天山山脈の北麓沿いにイリ川流域を経てサマルカンドに至るルートで、紀元後に開かれたといわれる。砂漠を行く上記ふたつのルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、平均標高5000mとされるパミール高原を越える必要もない。
- 現在のG312国道や蘭新線、北疆線は、部分的にほぼこの道に沿っている。

青い線が海の道
「海の道」
中国の南から海に乗り出し、東シナ海、南シナ海、インド洋を経てインドへ、さらにアラビア半島へと至る海路は「海のシルクロード」とも呼ばれる。海のシルクロードの起点は福建省泉州市。
すでにプトレマイオス朝の時代からエジプトは紅海の港からインドと通商を行っており、エジプトを征服した古代ローマ(共和政ローマ、ローマ帝国)はこの貿易路も継承して、南インドのサータヴァーハナ朝との交易のために港湾都市アリカメドゥ(現ポンディシェリ近郊のポドゥケー遺跡)などいくつかの商業拠点を築き(『エリュトゥラー海案内記』も参照)、絹を求めて中国にまで達したことは中国の史書にも記されている。このルートでセイロン(獅子国)やインド、ペルシアの商人も中国に赴いたのである。しかし、陸のシルクロードが諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのと同様、海のシルクロードも荒天や海賊の出没、各国の制海権の争奪などによって撹乱され、必ずしも安定した交易路とはいえなかった。
7世紀以降はペルシアの交通路を継承したイスラム商人(アラブ人、ペルシア人等の西アジア出身のイスラム教徒商人)が絹を求めて大挙中国を訪れ、広州などに居留地を築く。中国のイスラム教徒居留地は、唐末に広州大虐殺や黄巣の乱によって大打撃を受け、一時後退した。
宋代になると再び中国各地(泉州市、福州市など)に進出し、元代まで続いた。元のクビライ・ハーンは東シナ海、南シナ海からジャワ海、インド洋を結ぶこの貿易路で制海権を握るために日本(元寇)や東南アジアに遠征軍を次々とおくった。
明は朝貢貿易しか認めない海禁政策を取り、鄭和艦隊で知られるように、海上交易路を海賊から保護した。鄭和はアフリカのマリンディまで航海している。
その後インド洋は、オスマン帝国・マムルーク朝・ヴェネツィア共和国が制海権を握っていたが、16世紀に喜望峰経由でポルトガルが進出し、1509年のディーウ沖海戦で敗れたため、イスラム商人の交易ルートは衰えた。
1622年、イングランド王国・サファヴィー朝ペルシア連合軍が勝利した(ホルムズ占領)のを皮切りに、1650年にはヤアーリバ朝(現オマーン)がインド洋の制海権を握り、ポルトガルとスペインの商人が追放された。また中近世以降は、中国から大量の陶磁器が交易商品となったので「陶磁の道」とも称された。
19世紀に、1809年ペルシャ湾戦役の結果、イギリスが制海権を握った。
中華人民共和国は真珠の首飾り戦略から制海権を握ることを目指しているとされ、この貿易路を「21世紀海上シルクロード」と呼称している。
シルクロードと日本
日本には、奈良の正倉院に中国製やペルシア製の宝物が数多く残っており、天平時代に遣唐使に随行してペルシア人の李密翳[5](り・みつえい)が日本に来朝したことに関する記録[6]なども残されている。当時の日本は唐代の東西交通路の東端に連なっていたと認識されており、摂津国の住吉津(現在の大阪市住吉区)は「シルクロードの日本の玄関」、飛鳥京や平城京は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。なお、ユーラシア交易と直接的な関係はないが、幕末から明治にかけて、日本の主要な輸出品であった絹を横浜港に運ぶ交易路が存在し、その集積地があった八王子から横浜にかけての道が「絹の道」や「シルクロード」と呼ばれることもある。
シルクロードに関しては近年の日本における学校教育でも取り上げられていたが、歴史やヘディンの著書などに関心を持つ一部の人たち以外には、さほど興味を引く存在ではなかった。しかし、中華人民共和国との文化交流が進む過程でNHKが中国中央電視台とともに1980年に共同制作した『NHK特集 シルクロード-絲綢之路-』によって、喜多郎のノスタルジックなテーマ音楽とともに、一躍シルクロードの名が広く知れ渡ることとなった。日本ではシルクロードという語は独特のエキゾチシズムやノスタルジアと結びついており、西安や新疆、ウズベキスタン、イラン、トルコなどへの海外旅行情報やツアーの広告には必ずと言ってよいほど「シルクロード」という言葉が記されている。この80年代の「シルクロードブーム」を受け[7]、1988年に日中両政府は日中友好環境保護センターの設立を決定した。また、シルクロードの世界遺産登録をユネスコに中国政府とともに働きかけた[8][9]平山郁夫は平山郁夫シルクロード美術館を設立している。
シルクロードプロジェクト
シルクロードが世界遺産に登録されたことを契機に、ユネスコの人文・社会科学局が推進する「異文化間の対話」プログラムにおいて、「シルクロード-対話、多様性、開発」プロジェクトが始まった[10]。これはシルクロードほど多様な人種・文化・宗教・自然環境などが混在する地域はなく、そのことが歴史的には係争の舞台ともなってきたことから、シルクロードを平和の象徴にしようという主旨。
具体的にはユネスコを代表する事業となった世界遺産をシルクロードに広げてゆき、各地域に無形文化遺産・記憶遺産・生物圏保護区・ジオパーク・創造都市ネットワークなど(海の道においては水中文化遺産保護条約も)各種ユネスコ事業を総投入展開し、可動文化財や少数民族言語の保護にも取り組む。ユネスコ公式サイトでは、「シルクロード・オンラインプラットフォーム」を立ち上げた。
一方で、このプロジェクトの主たる旗振り役が中国であり、中国による一帯一路計画の文化面政策として利用される懸念もある[11]。
シルクロードを題材とした作品

駱駝に乗る西方人の像(中国唐代、陶磁器製〈唐三彩〉。上海博物館)
- テレビ番組
NHK特集
- 『シルクロード』、『海のシルクロード』
NHKスペシャル『新シルクロード』- BSプレミアム 激走!シルクロード104日の旅
- 音楽
- コンサート「シルクロード音楽の旅」- 1979年に民主音楽協会が制作したシリーズ企画
- NHK特集『シルクロード』 オリジナルサウンドトラック(喜多郎)
- NHK特集 『海のシルクロード』 オリジナルサウンドトラック(S.E.N.S.)
- 交響組曲「シルクロード」 (團伊玖磨)上田仁指揮・東京交響楽団
異邦人 -シルクロードのテーマ- 久保田早紀が1979年にリリースしたデビュー・シングル曲
- 写真集
- 秘宝・草原のシルクロード(並河萬里)
- 写真集シルクロード(NHK取材班)大村次郷ほか
- シルクロード(篠山紀信)
脚注
^ ヘディン(著) 西 義之(訳) 『シルクロード』 中公文庫、2003年、ISBN 4-12-204187-2
^ “習近平主席がモンゴル国のエルベグドルジ大統領と会談、両国の全面的な戦略パートナーシップの絶え間な位発展を推進すると強調”. 新華社. (2015年11月11日). http://jp.xinhuanet.com/2015-11/11/c_134805643.htm 2016年5月19日閲覧。
^ “習近平主席が中露蒙首脳会議に出席”. 人民日報. (2015年7月10日). http://j.people.com.cn/n/2015/0710/c94474-8918669.html 2016年5月19日閲覧。
^ 現在のウズベキスタン、トルクメニスタンなどを含む地域。
^ 松本清張の歴史小説『眩人』でも知られる人物。
^ 『続日本紀』巻第十二 聖武天皇 天平八年(736年)
^ 王坤「中国側から見る日中経済協力 : 1979~1988年の『人民日報』の対中ODA 報道を中心に」OUFCブックレット 3, 313頁, 2014-03-10
^ 日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報2015』pp. 18 講談社、2014年
^ 日本ユネスコ協会連盟 『世界遺産年報2005』p. 40 平凡社、2005年
^ SILK ROADS DIALOGUE, DIVERSITY & DEVELOPMENTUNESCO
^ 「中国『経済ベルト』戦略 / シルクロード 世界遺産」『読売新聞』2014年6月23日(朝刊)4面
参考文献
- ジャン=ピエール・ドレージュ(著) 長沢和俊(監修) 吉田良子(訳) 『シルクロード 砂漠を越えた冒険者たち』 「知の再発見」双書、創元社、1992年
長沢和俊 『シルクロード』 講談社学術文庫、1992年- ジャン=ノエル・ロベール(著) 伊藤晃、森永公子(共訳) 『ローマ皇帝の使者中国に至る 繁栄と野望のシルクロード』 大修館書店、1996年
- 宇山智彦 『中央アジアの歴史と現在』 東洋書店、2000年
- 長沢和俊編 『シルクロードを知る事典』 東京堂出版、2002年
- 三杉隆敏 『海のシルクロードを調べる事典』 芙蓉書房出版、2006年
- エドワード・H. シェーファー(著) 伊原弘(日本語版監修) 吉田真弓(訳) 『サマルカンドの金の桃 唐代の異国文物の研究』 アシアーナ叢書2、勉誠出版、2007年
関連項目
カルラエの戦い(紀元前53年)
桓帝(166年) - ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウスからの使節が後漢に送られた。
タラス河畔の戦い(751年) - 紙の製法がイスラム圏に伝わり、1144年にヨーロッパで初めての製紙工場がムワッヒド朝支配下のイベリア半島のシャティヴァに作られた。
陶磁器、紙、仏教:シルクロード経由して伝来したもの。- 正倉院
- シルクロード鉄道
- 一帯一路
- 中国の夢
|