隠元隆き
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隠元隆琦 | |
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1592年 - 1673年 | |
![]() 喜多元規筆 1671年 萬福寺蔵 紙本着色 重文 | |
諡号 | 大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師 |
尊称 | 真空大師、華光大師、黄檗琦禅師 |
生地 | 福建省福州府福清県万安郷霊得里東林 |
宗派 | 黄檗宗 |
寺院 | 興福寺、普門寺、黄檗山萬福寺 |
師 | 密雲円悟、費隠通容、鑑源興寿 |
弟子 | 木庵性瑫、即非如一、慧林性機、龍渓性潜、独湛性瑩、独立性易 |
著作 | 『隠元禅師語録』、『黄檗清規』 |

隠元隆琦の上陸地に建つ記念碑(右) - 京都府宇治市
隠元隆琦(いんげん りゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉 - 寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉)は、明末清初の禅宗の僧[1]。日本黄檗宗の祖[1]。福建省福州府福清県の生まれで[1]、その俗姓は林である。
隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。
なお、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元豆の名称に名を残し、日本における煎茶道の開祖ともされる。
目次
1 経歴
1.1 生い立ちから渡来前
1.2 渡来以降
1.3 黄檗宗開教以降
2 語録・著作
3 弟子
4 隠元豆
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 関連項目
7 外部リンク
経歴
生い立ちから渡来前
1592年、福建省福州府福清県万安郷霊得里東林に生まれる。俗名は林曽炳。
10歳で仏教に発心する(16歳という説もあり)が、出家修道は母に許されなかった。21歳の時に消息不明の父を浙江に捜したが果たせなかった。
23歳の時、普陀山(浙江省)の潮音洞主のもとに参じ、在俗信者でありながら1年ほど茶頭として奉仕した[疑問点 ]。
29歳で、生地である福清の古刹で、黄檗希運も住した黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度した[1]。
33歳の時、金粟山広慧寺で密雲円悟に参禅し[1]、密雲が萬福寺に晋山するに際して、これに随行した。35歳で[要出典]黄檗山の費隠通容から印可を受けた[1]。38歳の時、密雲は弟子の費隠通容に萬福寺を継席して退山したが、隠元はそのまま萬福寺に残り、45歳で費隠に嗣法した。
その後、萬福寺を出て獅子巌で修行していたが、費隠が退席した後の黄檗山の住持に招請されることとなり[要出典]、明崇禎10年(1637年)に晋山し、黄檗山の主を7年間つとめた[1]。後に退席したが、明末清初の動乱が福建省にも及ぶ中、順治3年(1646年)に再度晋山し、再び9年間つとめた[1]。
渡来以降
江戸時代初期、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請した[1]。
当初、隠元は弟子の也嬾性圭を派遣したが、途中船が座礁して客死したため、やむなく自ら良静・良健・独癡・大眉・独言・良演・惟一・無上・南源・独吼ら二十人ほどの弟子を率いて、鄭成功が仕立てた船に乗り、承応3年(1654年)7月5日夜に長崎へ来港した。月洲筆「普照国師来朝之図」にこのときの模様が残されている[注釈 1][注釈 2]。
隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。
明暦元年(1655年)、崇福寺に移る[1]。同年、妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山するが[1]、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限された。
隠元の渡日は、当初3年間の約束であり、本国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが引き止め工作に奔走し[要出典]、万治元年(1658年)には、江戸幕府4代将軍・徳川家綱と会見した[1]。その結果、万治3年(1660年)、山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年、新寺を開創し、旧を忘れないという意味を込め、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けた。
寛文3年(1663年)には、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、民衆に対しては、日本で初めての授戒「黄檗三壇戒会」を厳修した[注釈 3]。
黄檗宗開教以降
これによって、隠元は日本禅界の一派の開祖となったが、当初から黄檗宗と名乗っていたわけではない。本人は歴とした臨済宗を嗣法している自負があったので、臨済正宗を名乗っている。もっとも、宗風や叢林としての規矩清規は当時の中国・明時代の臨済禅に倣っていたことから、既に日本に根付いていた臨済宗とは趣を異にし、その違いにより、自ずから一派を形成する方向に向かったものである。
隠元の『黄檗清規』は、乱れを生じていた当時の禅宗各派の宗統・規矩の更正に大きな影響を与え、特に卍山道白らによる曹洞宗の宗門改革では重要な手本とされた。
隠元には、後水尾法皇[1]を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した。
萬福寺の住職の地位にあったのは3年間で、寛文4年(1664年)9月に後席は弟子の木庵性瑫に移譲し、松隠堂に退いた。
松隠堂に退隠後、82歳を迎えた寛文13年(1673年)正月、隠元は死を予知し身辺を整理し始め、3月になり、体調がますます衰え、4月2日には[要出典]後水尾法皇から「大光普照国師」号が特諡された[1]。翌3日に遺偈を認めて示寂。世寿82歳。
1917年(大正6年)には大正天皇から大師号を追贈される(真空大師)。能書家としても知られ、木庵性瑫、即非如一とともに黄檗の三筆と称される。
語録・著作
- 『隠元禅師語録』16巻
- 『普照国師広録』30巻
- 『黄檗隠元禅師雲涛集』1巻
- 『弘戒法儀』1巻[1]
- 『黄檗山寺志』1巻
- 『黄檗清規』
- 『普照国師語録』3巻[1]
- 『普照国師法語』2巻[1]
- 『松堂集』2巻[1]
- 『太和集』2巻[1]
弟子
嗣法者は23名で、うち3人が日本人である。
- 木庵性瑫
- 即非如一
- 慧林性機
- 龍渓性潜
- 独湛性瑩
- 大眉性善
- 独照性円
- 独本性源
- 独立性易
隠元豆
隠元が来日した際に日本に持ち込んだためにその名が付いたとされるインゲンマメは[2]、中南米原産のマメ科の作物。ヨーロッパに伝わった後、ユーラシア大陸を横断して中国から日本に伝来した。ただし、隠元が持ち込んだのは、現在のフジマメ(藤豆)だという説もあり、関西ではフジマメのことをインゲンマメと呼ぶ[3]。
脚注
注釈
^ 隠元に随行した弟子のうち、良静ら十弟子は翌年に帰国したが、十弟子が日本に留まり大眉・南源・独吼は日本に帰化した。
^ 渡日当時、中国は明末清初の騒乱期であったことから、この騒乱を避けて来日したとされているが、残されている書簡や記録等からは、そのように判断する根拠は乏しい。
^ 以後、中国福清の黄檗山萬福寺は「古黄檗」と呼ばれる。
出典
- ^ abcdefghijklmnopqrs総合仏教大辞典編集委員会(編) 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月、67頁。
^ 日本にインゲン豆と木魚を伝えた隠元さんWEB歴史街道
^ フジマメとはコトバンク
関連項目
- 福州語
- 篆刻
- 日本の篆刻史
- 寒天
- 三筆
- 日本の書道史
- 日本の書家一覧
- 長崎派
- 准胝観音
外部リンク
- 臨済宗・黄檗宗公式サイト
- 黄檗山萬福寺
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