ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム
ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム محمد بن راشد آل مكتوم | |
---|---|
ドバイ首長国アミール | |
ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム(2008年) | |
在位 | 2006年1月5日 - 在位中 |
別号 | アラブ首長国連邦第4代副大統領・首相 |
出生 | (1949-07-15) 1949年7月15日(69歳) 休戦海岸、ドバイ |
配偶者 | ヒンド・ビント・マクトゥーム |
ハヤー・ビント・アル=フセイン | |
子女 | 一覧参照
|
王家 | マクトゥーム家 |
父親 | ラーシド・ビン・サイード・アール・マクトゥーム |
宗教 | イスラム教スンナ派 |
ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム(アラビア語: محمد بن راشد آل مكتوم, ラテン文字転写: Muḥammad bin Rāshid al Maktūm、英語: Mohammed bin Rashid Al Maktoum、1949年7月15日 - )は、ドバイ首長国のアミール(首長)。連邦政府の肩書を踏襲してアラブ首長国連邦の副大統領と首相(在任:2006年2月11日 - )も兼任する。ドバイの石油の枯渇を見越し、商業およびサービス産業を興して独自の国家運営を打ち立て、経済発展に焦点を当ててドバイの繁栄の基礎を築いた父親の跡を継ぎ、更にその繁栄を推進させている。また世界でも有数の競走馬のオーナーブリーダーであり、その場合は英語読みに近いシェイク・モハメド(あるいはモハメッド、英語: Sheikh Mohammed)の名で紹介されることが多い。なお、この場合の「シェイク」(標準アラビア語では「シャイフ」)は、一種の称号である。日本の報道などではムハンマド・ビン・ラシド・マクトムと表記される。
目次
1 経歴
2 若年期と教育
3 国務大臣
4 ビジネスキャリア
4.1 エミレーツ航空の設立
4.2 ドバイ ポーツ ワールド
4.3 ブルジュ アル アラブとジュメイラグループ
4.4 ドバイインターネットシティとテコム/TECOM
4.5 パームアイランド
4.6 ブルジュ ハリファ
5 政治改革
5.1 ムハンマド・ビン・ラーシド政治学校
5.2 政治的腐敗への攻撃
6 家族
6.1 妃
6.2 ヒンド妃との息子達
6.3 ヒンド妃との娘達
6.4 他の女性達との間の子供達
7 スポーツへの興味
8 文化的人道主義
8.1 アートアワード パトロン
8.2 ナレッジ アワード
9 慈善事業
9.1 ドバイケア
9.2 ノアドバイ
9.3 UAE パキスタン援助プログラム
9.4 パレスチナ援助
9.5 アフガニスタン援助
10 ヨット
11 脚注
11.1 注釈
11.2 出典
12 関連項目
13 外部リンク
経歴
ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム(ラテン文字転写:Muḥammad bin Rāshid al Maktūm、英語:Mohammed bin Rashid Al Maktoum、1949年7月15日 - )は、ペルシア湾に面したアラビア半島の南西端の地域に位置し、東にオマーン、南にサウジアラビアと隣接し、同時にカタールおよびイランと海上の軍事境界線を共有する7つの首長国からなるアラブ首長国連邦を構成するドバイ首長国のアミール(首長)であり、またアラブ首長国連邦の副大統領と首相を兼任する(在任2006年2月11日‐)。
1949年7月14日、有名なドバイクリーク近くに位置するシンダガ地区[2]に住居のあったアル・マクトゥーム家に生まれる。シャイフ・ラーシド・ビン・サイード・アール・マクトゥームの4人の息子の第3子である。兄弟は、シャイフ・マクトゥーム・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム、シャイフ・ハムダーン・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム、シャイフ・アハメッド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム。
競馬に情熱を注ぐ世界でも有数の競走馬のオーナーブリーダーでもあり、英語読みに近いシェイク・モハメド(あるいはモハメッド、英語:Sheikh Mohammed)の名で紹介されることが多い(以降、本記事中では「シェイク・モハメド」を用いる)。「シェイク」(標準アラビア語では「シャイフ」)は一種のアラビアの称号であり、アラブの指導者という意味がある。アラブ族、家族または村の首長または頭である。日本の報道などではムハンマド・ビン・ラシド・マクトムと表記されることもある。乗馬をこよなく愛し、またその競馬愛好家ぶりは特に有名で、アラビアの最も注目に値する種族の1つであるバニ・ヤス[1]連邦に属する部族[3]の血筋を引いており、馬は子供の頃から人生の一部となっている。熱心な騎手で、マクトゥーム家が所有する厩舎ゴドルフィンの設立者である。首長国6か国で世界最大の競走馬の生産、育成およびサラブレッド種雌馬の繋養業務を営むグループ企業のダーレーグループの所有者でもある。2012年に競走馬のメヂィ・デュポン160 kmに騎乗し、世界馬術選手権(長途騎乗FEI世界エンデュランス)決勝戦へと導く。
2006年2月11日に副大統領と首相に就任して以来、アラブ首長国連邦政府の主な改革に乗り出し、2007年4月にアラブ首長国連邦の連邦政府戦略を始める。2010年に、アラブ首長国連邦を2021年までに「世界で最も良い国の1つ」にすることを目的としたアラブ首長国連邦ビジョン[4][5]に着手する。精力的で権力に富む統率力を具体化し、誓約を交わして行動し実行する。卓越し、優れたものだけを強く求める。
現在、豪華なビジネス目標[6]に向けてドバイの転換を図る責任を負っている。エミレーツ航空(アラビア語: الإمارات 、英語: Emirates)やドバイ・ポーツ・ワールド(港湾管理会社、アラビア語: موانئ دبي العالمية、英語: DP World、Dubai Ports World)および高級ホテルチェーンのジュメイラ・インターナショナル(ジュメイラ グループ)を含む多数の主要企業の立ち上げおよび経営だけではなく、世界都市(グローバルシティ)にドバイを成長させる計画の重鎮である。その大部分はマルチ型多角経営や投下資本を有する持株会社のドバイ・ホールディング(Dubai Holding)により保持されており、現在、会社の99.67パーセントの株式を所有している。
これまでテクノロジーパークおよびエコノミック フリーゾーン(ジュベル・アリ・フリーゾーン)(ジュベル・アリ)のドバイ インターネットシティ、ドバイ・メディア・シティ、ドバイ国際金融センター、パーム・アイランドおよび象徴的なブルジュ・アル・アラブの建設を含むドバイの多数の経済的転換プロジェクトの構築を監督した。また、世界で2番目に高い超高層ビル(328 m)であるブルジュハリファの建築を指揮している(世界一高いビルはドバイのローズタワーで333 m)。
アラビア生まれの詩人としても評価されている。
若年期と教育
シェイク・モハメドは、ラーシド・ビン・サイード・アール・マクトゥーム 英語版
の4人の息子の3男である(ドバイを統治するアル=マクトゥーム家[2]の一員であり、統率者を務めるアル=ファラジ英語版部族の子孫に当る)。アル=マクトゥーム家は、バニ・ヤス連邦に属する部族の一派であるアルブ・ファラーサの血筋を引き、当連邦は現アラブ首長国連邦における大部分の期間を通じて支配的権力を握る部族連邦であった。ドバイの統治者としてのアル=マクトゥーム家の在位期間は、1833年に始まる。当時のほとんどの移民地域と同様に連邦は実に小さい町であったが、アル=マクトゥーム家の到来により変貌を遂げ、ドバイは世界各国から旅行者やビジネス経営幹部を惹きつける大都市の1つとなっている[3]。
母親は、シャイハ・ラティファ・ビント・ハムダーン・アール・ナヒヤーン(アブダビの統治者であるシャイフ・ハムダーン・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーンの娘)。両親の下でシェイク・モハメドは幸福な子供時代を過ごす。両親のシャイフ・ラーシドとシャイハ・ラティファ、ドバイの統治者であった祖父の故シャイフ・ラーシド・ビン・マクトゥーム・アール・マクトゥームは愛情を降り注ぎ、結束の強い家族の絆を満喫した。シェイク・モハメドと兄弟は、従弟たちや首長国のドバイの主要な貿易に携わる上流階級に属する家族に気取らない自然な遊び友達を見つけた。伝統的な子供ゲームの熱狂的な参加者で、特に家の中庭周囲の砂の上でするボール蹴りを最も好んだ。身体的能力を存分に有する行動的な子供で、常に動き回り、ゲームをして遊び、周囲の世界に好奇心が旺盛だった。祖父のシャイフ・ラーシドと親しく、よく隣りに座っているのが見られた。[要出典]4歳の時から個人的に家庭教師が付き、アラビア語とイスラム教義(イスラム教)について学ぶ。1955年にデイラ地区にある小さい小学校のアルアハメディア校で正式な教育を受け始め、古代アラビア語、英語、数学、地理および歴史を勉強する。10歳の時にアルシャーブ校に移り、2年後にドバイ中等学校に進学する。1966年、従兄弟のムハンマド・ビン・ハリーファ・アール・マクトゥームと共に英国のベル教育委託機関の英語スクールに出席。学業に優れていた。その後、英国南東部ハンプシャー州のオールダーショットの町にあるモンス士官幹部養成学校(後のサンドハースト王立陸軍士官学校)で学び、上級下士官に昇級。イギリス連邦の士官候補生の首席学生として評価され、名誉の剣が贈呈されて卒業した。また、パイロットの訓練を受けるためにイタリアへも行っている。
1968年1月、ドバイ首長のシャイフ・ラーシドとアブダビ首長のシャイフ・ザーイドがドバイとアブダビ間にある砂漠のアルゴウ・エル・セディラ(Argoub El Sedira)で初めて2首長国での連邦結成に関して会談を行ったときに若くして出席。休戦協定締結国家からの撤退要請を目的とした英国への通知に続き、アラブ首長国連邦の結成に合意した。引き続き連邦の体制確立に力を尽くし、1971年12月2日に6首長国の代表がアラブ首長国連邦の結成を謳う暫定憲法に署名してアラブ首長国連邦が新しく建国され、その際に最初の国防大臣に就任した。
国務大臣
シェイク・モハメドは、軍事分野および他の内政問題において抜け目がないことで有名である。
軍事訓練を終えてドバイに戻ると、父親からドバイ警察および後のアラブ首長国連邦軍の傘下となる国防軍(陸海空軍、防空軍、準軍事組織の警察軍を含む連邦軍は国防軍と呼ばれ、アブダビ、ドバイ、ラアス・アル=ハイマの3首長国は首長国軍を保有しており、UDF(アラブ首長国連邦軍)から地域コマンドと呼ばれている)の長官に任命される。アラブ首長国連邦の結成後に不確実で不安定な期間が続き、新しい国境の両側に位置する地所を巡って部族間の小戦闘が生じた。1972年1月24日、シャールジャ首長国の国外追放になったサクァ・ビン・スルターン・アール=カースィミー前首長英語版が、統治者ハリド・ビン・ムハンマド・アル=カースィミーに反抗し、反徒のクーデターを率いた。続くアラブ首長国連邦軍と、そのほとんどがラアス・アル=ハイマからアラブ首長国連邦に入国したエジプトの雇い兵から成るサクァ軍との間の激しい銃撃戦後、サクァの降伏を受諾する。シャイフ・ハリドはその戦闘で殺害され、現在のシャールジャの首長は兄のスルターン・ビン・ムハンマド・アル=カースィミーが継承し統治している。シェイク・モハメドは、世界で最も若い国防大臣であるという事実にかかわらず、1年も経たないうちにアラブ‐イスラエル紛争(中東戦争)の間に割り当てられた重大な責任に取り組み、その間に国家の連邦国防軍を結成しようとしていた。
1973年に、アムステルダムのスキポール空港(アムステルダム・スキポール空港)離陸後に成田空港へ向かう予定だった日本航空404便がハイジャックされドバイに着陸した。この日本赤軍メンバーである丸岡修らによるドバイ日航機ハイジャック事件で、長期化した交渉に関与した。ハイジャック機種は747-246B で123人の乗客と22人の乗組員が乗っていた。女性の犯人の一人が所持していた手榴弾が爆発し、犯人は死亡。フライトのチーフパーサが怪我をした。ハイジャックの首謀者は、管制塔に自らをエル・カサールと称し、パレスチナ解放機構の名の下に飛行機をハイジャックしたと声明を出す。数か国の中東諸国が404便の着陸を拒否し、最終的にドバイに着陸した。ハイジャック犯人グループとの人質解放では成功しなかったが(犯人グループは最終的にリビアで投降後に国外逃亡し、同機は爆破している)、後にオランダKLM航空861便英語版の3人のハイジャック犯人との交渉では247人の乗客および8人の乗務員の解放で成功しており、人質のバランスを調整し、安全な移動の保障の代わりに飛行機を引き渡した。更に、アラブ首長国連邦軍は1976年に最初の国際任務を引き受け、レバノン内戦時にレバノンに軍の派遣を指令し、問題を抱えた当地の平和維持の使命の下にアラブ国防軍に参加している。
2006年にオーストラリアでマクトゥーム・ビン・ラーシド・アール・マクトゥームが死亡し、ドバイの皇太子だったシェイク・モハメドが2006年1月4日にドバイの統治者となった。1月5日に最高評議会の議員がアラブ首長国連邦の副大統領に任命。2月11日に、アラブ首長国連邦大統領のシャイフ・ハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーンがシェイク・モハメドを首相に指名した。シェイク・モハメドと内閣議員がアブダビのアル・バティーン宮殿でシャイフ・ハリーファの面前で宣誓を行った。ドバイを世界地図に載せることで歴史を作り、賢い優れた指導者として国家に比類のない方向付けを行った。
2007年4月17日にアラブ首長国連邦政府戦略の地図を公開。持続維持が可能な開発・発展を達成し、更に効果的に連邦資金を投資し運用するものであった。最も注目に値する達成の1つは2007年のムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム基金[4]の立ち上げである。
ビジネスキャリア
20世紀初頭までにドバイは着実に国家として確立され、人口は 10,000人に達する。デイラ地区は、約1600軒の家に、主にアラブ人、また現在のイラン、パキスタンおよびアフガニスタンの一部の地域から移住してきたイラン人、パレスチナ人、バルーチスターン人が居住し、その時点で最も人口密度が高い地区だった。
ドバイを21世紀の主要大都市に変革する監督は世襲によって権力継承した3男のシェイク・モハメドにその責任が任され、2006年に統治者として兄から在位を引き継ぐ以前から現代ドバイの顔であった。1990年中頃から事実上の指導者としてドバイを統治し、驚異的な社会、文化および経済変化を遂げた期間にドバイに一貫性と持続性をもたらした。[5]
ドバイの石油の責任を一手に引き受けている。アラブ首長国連邦は世界で7番目に大きい石油埋蔵量を有するが、その大部分はアブダビに集中している。現在の産出レベルでは、埋蔵量は僅か次の世紀までしか持たないと考えられており、国は如才なく識見のある未来の石油に取って代わる別の産業[6]を検討している。ドバイは固有の先見の明もって新産業に取り組み、これはシェイク・モハメドの見解と野心に縁るところが大きい。石油とガスの埋蔵量[7] は大きくないが、貿易のための近代的で効果的な経済構造基盤への融資、製造および観光に向けて資源が賢く運用されている。
2009年、ドバイ政府は政府系企業の債権者に債務返済繰り延べを要請し、世界株式相場が急落して世界経済に衝撃を与えた信用危機から回復し、経済破綻はムハンマドの決断と措置で回避できた。[8][9]
現在、ドバイをペルシャ湾岸地域の商業および観光の中心地にする構想を立てている。エミレーツおよびドバイ空港はその第一歩であり、そうした事業に関して、「オープンスカイ」航空自由化協定(オープンスカイ)を採択し、豪華な観光産業を構築した。
シェイク・モハメドは、多数のビジネスの構築と急激な成長、およびドバイの主要な経済資産に対して責任を負っており、ドバイ・ワールドとドバイホールディングの2つの会社で多くの割合で株式数を保有している。
ドバイワールドは2006年7月2日に、ロジスティクス株式会社のドバイ ポーツ ワールド、政府系不動産開発業者のナキール不動産、政府系投資会社のイスティスマール ワールドを含む莫大な資産を一元管理する持株会社として事業を開始した。世界の100を上回る都市で5万人以上の従業員を擁し、当グループは米国、英国、南アフリカに不動産、ロジスティクス株式会社および他の投資会社を有する。2009年にドバイホールディングは、ホスピタリティ、ビジネスパーク、不動産、4つの事業部門を通じた電気通信事業を発展させ管理している。4つの部門には、ジュメイラ・インターナショナル、テコム/TECOM[10] インベストメンツ、ドバイ不動産グループおよびエミレーツ・テレコミュニケーションズ・コーポレーションが含まれる。部門を運営する会社の投資グループにはドバイグループとドバイインターナショナルキャピタルを含む。
[11]
また、不動産住宅開発業者、資産やイベント管理および投資会社のメラースホールディングの企業支配権を保有し、現在メラースは、ドバイでレゴランドやボリウッド映画テーマパークを含む多くの小売り、ライフスタイルおよびテーマのある開発を発展させている。2015年9月8日、メラースは「メラース アル シーフ」のショーケースを発表し、アルシーフ地方と平行して文化および歴史地区のアル・ファヒディ歴史保護区内で具体化している観光発展計画を進める。メラース アル シーフの建造が開始され、2017年に完了するように計画されている。
ドバイ国際空港と世界初の最大級専用空港都市であるドバイ ワールド セントラル[12]の傘下企業としてアール・マクトゥーム国際空港の両方の開発を進めただけでなく、エミレーツ航空の設立に貢献している。更に、国有格安航空会社のフライドバイの建設の後ろ盾にもなっている。
2008年9月のリーマン・ショックによる金融危機で不動産ブームが縮小したことと相まって世界経済が悪化している中、2009年11月25日、ドバイ政府がドバイ・ワールドの債権者に対し、40億米国ドルを含む600億ドル近い全債務に関して返済期限を半年以上繰り延べる要請を出し、再度、世界的株価の下落を引き起こした。2012年12月12日発表の「ドバイ経済2012」のレポートによるとドバイ経済はドバイショックから回復したことを示している[13] が、この時期に多くの日本企業が中東地域から撤退している。
エミレーツ航空の設立
シェイク・モハメドは、1970年代を通じドバイ国防軍長官とアラブ首長国連邦国防大臣としての役割を務めると同時に、ドバイのエネルギー資源を監視し、ドバイ民間航空の責任者も務めた。1985年3月にドバイ「オープンスカイ」ポリシーに関してバーレーン国営航空会社ガルフ・エアと対立後、エミレーツと名付けた新航空会社の設立と同時に、英国の実業家のマーライス・フラナガン氏に当時のドバイ国営航空会社旅行代理店|DNATAの創業およびCEOの任務に就かせたのは上述のドバイ民間航空の職務であった。リースされた2機の機材とボーイング737型機、エアバス300-B4型機でドバイから最初の路線を開設。航空会社の設立予算は約1000万ドル(フラナガンが航空会社設立に必要であると申請した金額)で、就航飛行は1985年10月25日に行われた。設立時に自身より若い叔父のアフマド・ビン・サイードを新会社の会長にする。更に施設と機械材料に約7500万ドルが提供されたが、エミレーツは世界の主要な航空会社の1つとなる会社の華々しい発展を通してドバイ政府からの出資助成金を受け取ることは一切なく、配当金で借金を返還したとしている。[14][15]
1989年、最初のドバイ航空ショーに着手し、空軍のアクロバット飛行チーム「アル・フルサン(Al-Fursan)」をはじめとする各国のチームによる曲芸飛行や各社の戦闘機による展示飛行などが行われ、2年毎に開催される。2013年にはそのイベントは1,000社以上の展示にまで発展し、ジェット航空機の発注額が1620億ドル(約20兆円)にのぼり、エミレーツは航空史上最大級の航空機発注を行ってエアバスA380型機50機とボーイング777X型機150機で合計990億ドルの発注を発表した。2014年にはハイデラバード航空ショーでの初披露のためにエアバス380型機をインドに運搬する。世界のトップブランドを選ぶ英国の調査会社「ブランド・ファイナンス社」による2014年「ブランド・ファイナンス・グローバル500」で「世界で最も価値あるエアラインブランド」に3年連続で選ばれ、翌年の2015年にはトップ200社の中にランクインした。2015年11月8日に開幕したドバイ航空ショーでは、これまでの初日恒例のジェット旅客機の大型発注の続出は見られず、航空機業界への投資家は販売ブームの終結と見ている一方、エミレーツ航空は140機を発注。欧州、アジア、アフリカの中間にある地理的優位性を生かして世界シェアの拡大を目指す。
ドバイ ポーツ ワールド
1991年、ジュベル・アリ港、フリーゾーン(ジュベル・アリ・フリーゾーン)[16]、ラーシド港を合併し、ドバイ港湾公社を結成する。1999年には、ドバイ ポーツ インターナショナルを設立し、海外企業の買収や経営契約を検討する。ドバイ ポーツ インターナショナルは、2005年にドバイ・ポーツ・ワールドを結成するためにドバイ港湾公社に組み入れられる。2006年に当会社は英国の船舶会社であるP&Oを70億ドルで買収。これに関して米国の多数の政治家やロビイストが、P&Oの買収の一部として同社により運営されていた全米の6か所の港湾の安全保障に関して懸念を呈し、後に投資の自由か米国のインフラ防衛のどちらを優先するかというドバイ ポーツ ワールド論争に繋がった。その後、ドバイ ポーツ ワールドは問題となった港湾を売却した。[17]
採算の取れるグローバル企業のドバイポーツ ワールドは、現在、世界で最大の港湾ターミナル運営を行う巨大港湾会社の1つとなっている。6か国に亘って60以上のターミナルを運営し、収益の80パーセントはコンテナの取扱いによるものであり、それにはインド、アフリカおよび中東の新し発展就航を含む。
ブルジュ アル アラブとジュメイラグループ
ブルジュ・アル・アラブは、1999年12月に操業を開始。ドバイ政府観光・商務局の5段階の格付けによると「5つ星」の最高級ホテルではあるが、通称「7つ星ホテル」と呼ばれる世界で最も豪華なホテルである。シェイク・モハメドが「世界で最も豪華」という評判を象徴するに相応しい建物を建設するように概要を簡単に説明したのに応え、WS アトキンス社英語版がデザインしてアラビアのダウ船の優美な帆を模してデザインされ、アラビア船の帆の形になったホテルである。ホテルは、1997年にシェイク・モハメドが運営会社を設立し、前トラストハウスフォルテの幹部のジェラルド・ローレス英語版が当ホテルの事業を進めた。ジュメイラ・ビーチ・ホテルがジュメイラグループによって最初に運営・管理された不動産で、ブルジュ アル アラブは、その建設場所から離れた沖の人工島に建設された。実際には両方のホテルで同時に操業が開始されたが、人工島の増設に2年の歳月がかかり、ブルジュアルアラブのホテルの建物を地盤に建造し完成するまで3年の歳月が費やされている。その以降のジュメイラグループの国際的な展開は、2004年にドバイホールディングの傘下企業となった後に推進されて著しく進み、10か国で22のホテルを含む。
有名なジュメイラ海岸の沿岸と増進するドバイの都市から280メートル離れたアラビア湾の海上に造られた人工島にそびえ立ち、繁栄を示す象徴的な超高層ビルで、現代建築の最高傑作であり、世界で最も絢爛華麗たるホテルである。高さは321メートル。ドバイ市から20キロ以内に位置する。ドバイの海岸線を見下ろし、夜には水と炎を表す演出された照明で照らされ、個性的で煌びやかな印象深いホテルである。英語版
ドバイインターネットシティとテコム/TECOM
1999年10月29日、シェイク・モハメドはテクノロジーハブとジュベル・アリ・フリーゾーンに設置した自由貿易地域(自由貿易協定)のジュベル・アリ・フリーゾーンのドバイインターネットシティ(以下、DIC)Home 英語版[18]を発表した。同自由貿易地域には約1500社(日本企業約60社)が進出。物流・情報のハブとなることを志向し、外国資本の導入と世界の最先端技術の取り込みを目的として、会社の長期リース、全所有権および政府サービスへの迅速なアクセスを提供し、2000年10月の最初のテナントから約15,000人を雇用する現在の地域に成長した。2000年11月にDICと同じ場所に隣接して拠点を置くコンテンツとメディアプロダクションのフリーゾーンであるドバイメディアシティ(以下、DMC)と提携。DMCの設立は、メディアの自由に関してシェイク・モハメドからの保障が付いている。
DIC は、多様な技術と業界専門家を有する広範囲に及ぶ多言語人材銀行へのアクセスを提供する。最先端のオフィス、堅固なIT基礎構造、24時間セキュリティ、小売りサービスおよびホテルを含む多岐にわたる施設を提供し、ビジネスパークの固有かつ落ち着きのある地形に散在し、また情報通信技術ICT(情報技術)の発達、革新および成長に役立つ環境にある。
DIC は、In5Home 英語版 新興企業革新ハブとファーストステップのビジネスセンター構築を通して企業家や新興企業、中小企業(SME)を支援し助成する大胆な構想の指揮を取った。In5 は、ドバイでエコシステムを始動する新興企業を更に発展させ、経済基礎構造を提供し、財政的支援にアクセスし、活性化させる力で起業家に対する労働環境を保障するために起業家精神や新機軸を育成し、促進することを目的としている。
2003年に確立されたファーストステップは、ドバイで最初の固有のビジネスセンターの1つで、立ち上げ、SMEおよび多国籍企業が UAEの商業界へ迅速にアクセスできるようした。 経営上の支援、使用許諾、家具付の即使用可能なオフィススペースを含む多数のサービス提供を通して、ファーストステップは更に展開していくための良い位置を獲得するまでビジネスの成長を育成していく。
2007年 に地方のジャーナリストが名誉毀損で告訴され拘留刑の判決を受けた事件に続き、当ジャーナリストの収監を禁止する法令を発令している。
それ以来、インターナショナルメディアプロダクションゾーン[19]、ドバイシリコンオアシス[20]、ドバイスタジオシティ[21]、ドバイヘルスケアシティ[22]、ドバイインダストリアルシティHome 英語版およびドバイナレッジビレッジ[23]を含む多数のメディアとテクノロジー関連のフリーゾーンが、ドバイの持株会社TECOMHome 英語版 によって開設されている。
パームアイランド
シェイク・モハメドは、ドバイの沖合の不動産物件を最大化し、初の人工島のパームアイランドを造設する計画の発表を行った。最も小さい中央の島の最長の前面は海岸から1マイル(約1.6キロメートル)近く離れ、両側に地所を有する。1993年にドバイ初の人工島建設が始まり、有名な7つ星ホテルであるブルジュ ブリ アラブの本拠地となる。人目を引く建造物が周囲の超高層ビルを背景にしてそびえ立ち、その位置の919フィート(約280メートル)は海にでており、すぐ近くのビーチリゾートに影を落とさないように配慮されている。ブルジュ ブリ アラブの沖合のビジネスの成功は、更にもっと壮大な計画の設計の構築に寄与した。
国営企業のナキール不動産は、シェイク・モハメドが大部分の株を保有する投資持株会社のドバイワールド(上記ドバイポーツワールドも所有)の傘下企業で、3つのパームアイランドと多数の小島のワールドを開発したが、2009年の世界的な金融危機で中止された。最小規模のパームアイランドのパーム・ジュメイラは完成し、2007年の夏に最初の居住者を受け入れ、英国出身の元サッカー選手のデビッド・ベッカムが小区画の土地を所有している。2008年に高級ホテルのアトランティス・ザ・パームが完成している2番目のアイランドのパームジェベルアリでは埋め立て地は完成したもののそれ以上は開発されなかった。最大規模のパームデイラは規模が縮小され、デイラ・アイランドと名称が変更されて、2013年に干拓が進められ再着手された。
ブルジュ ハリファ
ブルジュ・ハリファは、2010年1月4日、ドバイの大都市の上空828メートルまでそびえる世界で最も高い超高層ビルとして完成し、オープニングセレモニーでは約1万発の花火が打ち上げられた。162階建てのタワー型のデザインは、ドバイ地域の文化的影響と最先端のテクノロジーを組み合わせて、極端な砂漠気候の下で優れた機能を発揮できる。
大きな多目的建造物のブルジュハリファは、ドバイ開発・発展の中心を形成し、オフィス、世界でも最も大きいショッピングモールの1つであるドバイ・モールのリテールアウトレットアウトレットモール(1200店舗入居)、個人用住居ユニット、ジョルジオ・アルマーニホテルHome 英語版が含まれている。
Y字型の床は、ペルシア湾の展望が最大限に見えるように設計されている。地上レベルは、広い公園で囲まれたグリーンの空間、水の様相を用いた施設、歩行者に優しい大通りに囲まれている。
タワー全体の外観のデザインは、地域の砂漠の花の放射状形状とイスラム建築を具象化する様式の系統から着想を得たものである。強化コンクリート(繊維補強コンクリート)と屈折率の低いガラスのクラッドで覆って建てられ、タワーは中央強化核心部の周囲に配置された造形構成部で構築されている。平面の床からタワーが立ち上がっているので、上へ行くにしたがって各構成部は螺旋状を取りながらセットバックが生じて上階の床面積が狭くなっていく。 先端では中央のコアが表面に突出し、尖塔を形成する。[24][25]
その新記録の高さ以上に、新構造および建設効率を組み込んで素材の使用と浪費を削減している。これには「空供給」換気システムが含まれ、建物の頂上から涼しい湿気の少ない空気が下りてくる。タワーには、世界で最も大きい復水回収システム(復水器)が設置されている。
当初は80階タワーと周辺の開発として着想しており、プロジェクトチームが「人類が知る最も偉大な隣人」のシェイク・モハメドと共に送り出された。シェイク・モハメドは「国家の偉業、歴史上画期的出来事、重要な経済転機である」とタワーを表し、アラブ首長国連邦の国民だけではなく、全アラブの誇りの象徴である。
政治改革
ムハンマド・ビン・ラーシド政治学校
ムハンマド ビン ラーシド政治学校Home 英語版(前ドバイ政治学校)は、アラブ首長国連邦&アラブ世界の卓越した統治および行政に重点的に取り組む初の教育および学問的な研究機関である。2005年に設立され、学校は具体的実効的な国政を目指し、地域の能力強化や体系的な教育、訓練、研究、学問を通して将来のリーダーを育て、統治における優越性を促進し、指示することを目的としている。
当校の運営は、ハーバード大学大学院のケネディスクールと連携して発達したグローバルな ベストプラクティスの上に成り立っている。また、地域的あるいは国際的な幾つかの政府や私立機関とも提携し共同で行っている。
トレーニングプログラムの全体的な企画と実施は、科学的な思考の土台の上に築かれ、アラブ行政の現実によって鼓舞され、問題を提起する視野を有し、将来の指導者がアラブ世界の様々な役割において行政と向かい合う挑戦に対処するのを支援する。研究およびトレーニングプログラムの目標に向けて地域的および世界的機関と連携および協力を維持し、国際的あるいは地域的なカンファレンス、専門分野別のワークショップが企画され、フォーラムを開催してアラブ地域と世界とのアイデアや知識を交換する。 更にアラブ世界における政策に関する見解のやり取りを促進し、重要な議論を展開する。
学校は、下記の研究および教義のプログラムを支援している:
- 政策および管理における応用研究
- 政策および行政における修士学位
- 上級官吏および幹部の管理職教育
- 学者および政策立案者のナレッジフォーラム
政治的腐敗への攻撃
シェイク・モハメドは政治的腐敗に対する毅然としたゼロ・トレランス方式を打ち出し、2001年にドバイ税関長官および世界税関協会議長のオバイド・サクァ・ビン・ブシットの逮捕を命令する。ブシットと2人の助手、3人の他の従業員は2年間に亘る汚職・収賄調査の容疑者だった。注目を浴びた逮捕は広範囲に及んで衝撃を巻き起こし、その月の後半に多数の汚職官僚の逮捕が続いた。全部で6人の上級官吏を含む14人の官僚が逮捕され、汚職関連の犯罪で告発された。汚職官僚は公に著しく名指しされ、不名誉に晒された。ずっと最近になり、景気の悪化によってドバイのバブルに終焉の兆しが訪れ、それと同時に国有会社の経営の在り方に監視が厳しくなり、国有のドバイ不動産会社であるデヤール社の汚職関連の問題も明るみに出た。調査チームは、シェイク・モハメドにより緻密な調査のための前代未聞の権力が与えられた。会社のCEOは、権力の悪用による20億 ディルハム(約66億円)の横領で起訴され、10年の禁固刑の判決が言い渡された。
家族
2012年4月現在で20人の子供達の父親となっている。
2015年9月19日に長男ラーシド・ビン・ムハンマドが心臓発作で薨去される。(1981~2015)
妃
ヒンド・ビント・マクトゥーム(1979年 - )
- 詳細な経歴などは全く紹介されていない。5男7女の母親。
ハヤー・ビント・アル=フセイン(2004年 - )
ヨルダン国王フセイン1世の三女。2007年10月に第1子アル=ジャリーラ、第2子ザーイドを出産。
ヒンド妃との息子達
息子達のうちの数人が2006年のドーハアジア大会におけるエンデュランス馬術競技で金メダルを獲得した。
ラーシド(1981年11月12日 -2015年9月19日 )
ハムダーン (筆名はファッザ、1982年11月14日 - )
2008年2月1日にドバイ首長国の世子に指名された。ドバイ執行評議会議長、ハムダーン・ビン・ムハンマド電子大学(HBMe-U)学長を務めている。2008年12月にシェイハ・ビント・サイード・ビン・ターニー・アール・マクトゥームと婚約した。
- ちなみに「ハムダーン・ビン・ムハンマド」で「ムハンマドの息子ハムダーン」、「アール・マクトゥーム」で「マクトゥーム家の」の意味があり、「マクトゥーム家のムハンマドの息子ハムダーン」という意味になる。
マクトゥーム(1983年11月24日 - )
2008年2月1日にドバイ執行評議会の第一副議長に任命された。
- アフマド (アッザム)(1987年2月7日 - )
- ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム基金の理事長を務めている。
- サイード(1988年3月 - )
ヒンド妃との娘達
- ヘッサ(1980年11月6日 - )
2008年12月にサーイド・ビン・ダルムーク・ビン・ジュマア・アール・マクトゥームと結婚した。
- ラティーファ(1989年3月30日 - )
- ドーハアジア大会における馬術の障害飛越競技で銅メダルを獲得した。
2009年2月にフジャイラ首長国の世子ムハンマド・ビン・ハマド・ビン・ムハンマド・アッ=シャルキーと結婚した。
マリヤム(1992年1月11日 - )
- シェイハ(1992年12月20日 - )
2009年10月にバーレーン王子のナースィル・ビン・ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ(ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファの四男)と結婚した。
- ファーティマ(1994年7月22日 - )
- サラーマ(1999年8月8日 - )
- シャマ(2001年11月 - )
他の女性達との間の子供達
母親の名前は公表されていない。
マナール(1977年11月12日 - )
- ムハンマドの第1子。アラブ首長国連邦副首相のマンスール・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン(ハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーンの弟)と結婚した。
2006年6月9日に第1子ファーティマ、2007年12月4日に第2子ムハンマドを出産した。- ドバイ女性組織(DWE)の会長を務めている。
マイサー(1980年3月5日 - )
- シャムサ(1981年8月15日 - )
- マンスール
- マージド(1987年10月16日 - )
- ドバイ文化芸術庁の長官を務めている。
- マルワーン(1983年3月20日? - )
- おそらくドイツ人女性との間の子供。
スポーツへの興味
シェイク・モハメドは、サラブレッドの国際競走と生産の主要な大立者(オーナーブリーダー)である。ダーレースタッド(ダーレーグループ)を所有しており、米国、アイルランド、英国に牧場を有する世界で最大の馬の繁殖業務を行う。1985年にサラブレッドのパークアピールを第2シーズンの終わりに未公表の金額で購入した。パークアピールは、12歳の子馬で9頭の勝馬を生産し続け、多くの成功馬の種馬(種牡馬)である。
「私の家系には馬に対する愛情が流れている。馬はアラブ民族によって何世紀にもわたり育てられ、狩り、戦争、アラブ史の象徴として使われたてきたことを忘れないで欲しい。乗馬は単に馬の背中に跨るという以上の意味がある。それは高潔さと騎士道である」-- ムハンマド・ビン・ラーシド英語版
子供時代から乗馬を学び、特に父親のシャイフ・ラーシドが上手に教えた。将来を約束された俊敏な運動選手で、テニスとフットボールで勝利を勝ち取った選手だったが、スポーツに対する真の情熱は馬術に集中している。
幼少時に(学校の登校途中に馬と朝食を取ったりしていた)馬をレースに参加させているが、1967年にニューマーケット競馬場で、兄のハムダーンと一緒に、ロイヤルパレス[26]が勝利を収めた最初の正式なレース2000ギニーを観戦した。自己の権利で馬主になり、10年後にブライトン競馬場で所有馬ハッタが最初のレースで勝利する。その5年後にシェイク・モハメドとハムダーンは、3つの種馬飼育場と訓練を受ける100頭の馬を所有した。
1981年の後半に、英国バークシャーのニューベリー近くにゲインズバラスタッドを購入した。アイルランドのカウンティティペラリー州バリーシーンスタッドを所有する。同様に米国ケンタッキー州のウッドフォード郡バーセイルズ市にゲインズバラ牧場株式会社を所有する。
シェイク・モハメドに成功をもたらしたものは単にお金だけではなかったことがすぐ明白になる。1992年までにドバイで馬の越冬を開始し、この頃からしばしば英国の調教師や専門家の助言に反対し始める。その後、競走馬の相次ぐ勝利を果たして注目を集めニューアプローチ、1994年に兄のマクトゥームと共に競走馬の生産・管理・調教などを行う組織ゴドルフィン[27]を設立して本格的に活動を開始した。その結果、ゴドルフィンは、シェイク・モハメドのアイデアで以前は不可能だった事が十分実行できることを確信させた。1995年に、レースに対する専門家から直接手取り足取りで訓練するハンズオンアプローチで筆頭調教師のヘンリー・セシルとの競馬に関する見解の不一致後にシェイク・モハメドの要求した馬が怪我をし、重大な決裂の結果に繋がった。セシルは議論を公にし、シェイク・モハメドはセシル調教師から40頭の馬を全部引き上げた。
ゴドルフィンの初の勝利は、1994年の英国エプソムダウンズ競馬場エプソム競馬場で行われた競走馬バランシーンが出馬したロワイヤルオーク賞で、中にラムタラ、デイラミ、ファンタスティックライト、ストリートクライ、サラマニドバゥイ、ラモンティのような馬と卓越した走りの始まりを記録するはずだった。結果は、このレースが初戦のランフランコ・デットーリを背に1着のラスメニーナスに短頭差(着差)で2着に入る。ドバイミレニアムはシェイク・モハメドの本命馬と言われ、2001年に怪我に続く腸管運動性の減退をきたすグラスシックネス疾患で死亡するまで[28]10回出走し9回勝利を収めた。
また、1996年には世界最高額賞金を誇る競走のドバイワールドカップを創設し伝説的な米国のダート競走馬シガーをドバイでレースに出すために引く。今日、27億ドルの高額賞金を誇るドバイミーティングのレースは全てメイダン競馬場[29]で行われる。
1999年にはエミレーツ航空をスポンサーとしてワールドシリーズ・レーシング・チャンピオンシップを創設(後にエミレーツ航空は撤退、2006年以降休止状態)、世界の名馬がその能力を競う場を提供した。
日本の競馬にも関心を持っており、第3回ジャパンカップにハイホークを出走させて以来、ハートレイク(安田記念優勝)など多くの馬を出走させている[注 1]。また2003年には日本現地法人ダーレー・ジャパン・レーシングを設立し、法人として地方競馬の馬主免許を取得。船橋競馬場の川島正行厩舎などを拠点として活動していた。
英国では、モハメド所有馬がイギリスクラシックレースを幾つか含む多数の重要な競走格付けグループワンレースで優勝している。またアイリッシュダービーステークスとフランスのロンシャン競馬場で開催される凱旋門賞でも優勝しており、米国では、種牡馬バーナーディニが出馬した2006年プリークネスステークスで優勝している。
同年のゴドルフィンマイルを優勝した直後のユートピア(2002年全日本2歳優駿、2003年ダービーグランプリ、2004年・2005年マイルチャンピオンシップ南部杯優勝)を400万ドルの移籍金で獲得してゴドルフィンに移籍させている。2008年にバーナーディニは460億ドル以上をウッドランズスタッドエンパイアでもたらしている。
アラビア馬は、その伝説的なスタミナで様々なレースに並外れて上手く適することが証明された。UAEは、シェイク・モハメドをナショナルチームの主将としてこのスポーツを行う。1990年中頃に初めて真剣に競馬に参加し始めているが、UAE の騎手は世界で最上であると見做されている。実際に息子のシャイフ・ラーシドとシャイフ・ハムダーンは、1999年と2000年にそれぞれ世界ランキング競馬の競走格付けの首位を占めている。シャイフ・アメド・ビン・ムハンマドは世界エンデュランス馬術競技で優勝し、最も若い騎手で初のアジア世界チャンピオンとなっている。
ダーレージャパンは関連会社であるダーレー・ジャパン・ファーム有限会社が2007年に中央競馬の馬主免許を取得し、約40億円のトレードで獲得したアドマイヤムーン(2007年ドバイデューティーフリー、宝塚記念優勝)を中央競馬における所有馬第1号とした。しかし、11月1日にダーレージャパングループの代表である高橋力を解任し、11月27日には中央競馬馬主登録を抹消申請した。
2年後の2009年11月25日、JRAはこの年から認められていた日本国外居住者の馬主登録について、ムハンマドが登録したことを発表した。JRAでの馬主登録名は「H.H.シェイク・モハメド」(H.H.はHis Highness=殿下)。また勝負服の柄は「海老、白袖、海老一本輪」。ムハンマドの登録に合わせて、ハヤー妃(登録名:H.R.H.プリンセス・ハヤ)とハムダーン太子(登録名:H.H.シェイク・ハムダン)もJRAに馬主登録したと発表された。2011年には所有馬のデボネアが東京優駿に出走することとなり、観戦のために訪日している[32]。2018年3月から所有馬の名義を「ゴドルフィン」に変更。勝負服も国際的なゴドルフィンのイメージに合わせた「青、袖水色1本輪」へと変更した[33]。
俊敏なエンデュランス馬術競技の優秀な騎手であり、数々の大会で優秀な成績を残しており、63歳の時に2012ワールドエンデュランス競技の160キロコースで優勝した。また自身が大会を主宰する事もある。しかし、所有するサラブレッドとエンデュランス競技の両馬がドラッグテストで失格し、調教師は非難を受諾している。このエンデュランス競技用の厩舎は、致命的な怪我や競技不正参加者を含む多数の別の醜聞に巻き込まれた。
2006年の第15回アジア競馬のエンデュランス競技では、息子のラシッドが個人金を獲得し、またラシッド、アハメド、マジド、ハムダーンの息子たちがエンデュランス競技でチーム金を獲得。姪のラティファは障害飛越競技で銅、娘のマイサーがテコンドーでアラブ首長国連邦チームを率いた。2013年にサッカーアラブ首長国連邦代表がガルフカップで優勝。シェイク・モハメドは、チームに50億ディルハム(137億ドル)を贈呈した。更に妻がチームに、25億ディルハム(6.8億ドル)を贈呈し、一方で二人の夫妻の孫息子が12億ディルハム(3.3億ドル)を貢献した。
2014年3月29日に国際競馬の祭典ドバイワールドカップ(英語: Dubai World Cup、アラビア語: كأس دبي العالمي)に参加。傘下のゴドルフィン・レーシング(Godolphin Racing)が所有するアフリカンストーリーが勝利し、シェイク・モハメドがトロフィーを受けとった。
- 日本での主な所有馬[34]
ミッドサマーフェア(2012年フローラステークス)- フリートストリート[35](2013年エルムステークス)
- アルキメデス(2013年朝日チャレンジカップ)
ディサイファ(2014年エプソムカップ、2015年中日新聞杯、札幌記念、2016年AJCカップ)
サマリーズ(2014年クラスターカップ)- ティーハーフ(2015年函館スプリントステークス)
ファインニードル(2017年セントウルステークス、2018年シルクロードステークス、高松宮記念、セントウルステークス、スプリンターズステークス)
文化的人道主義
アートアワード パトロン
シェイク・モハメドは、古典アラビア語とアラブ系遊牧民ベドウィンが話す口語方言のナバティ[36]スタイルの詩人である。アラビア半島の地域以外には存在しない唯一無二のスタイルで、16世紀から文化を強く特徴付けている。当初は口承(口伝伝承)で、大らかさを伴った日常生活の現実を反映していることが顕著な特徴だった。最初は「サリーテ」のような偽名を使い、一人の青年として詩を書き始めた。従って、当時はドバイの統治者の息子であることは関係がなかった。初期の詩の1つに、無名の未知の詩人に対して珍しいことであるが、女流詩人から激励を受けている。
1998年に、意識を高め、アラブ首長国連邦の地方の文化、習慣、宗教を分かり易く説明することを目的とする非営利組織シェイク・ムハンマド・ビン・ラーシド文化理解センター (SMCCU)英語版を設立する。SMCCUは、「ドアを開け、心を開け」のモットーの下に運営が行われ、アラブ首長国連邦の地元の人とアラブ首長国連邦を訪問する客または在住の人との異文化理解とコミュニケーション(異文化コミュニケーション)を改善することを目的としている。
シェイク・モハメドによる最近の新たな取り組みは、ドバイメトロ駅がアートドバイ2015につながる時代のアートギャラリーに変わったことで確かめられる。
シェイク・モハメドは、2009年3月にムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム アートアワードを設置し、ドバイの芸術発展に貢献した個人や機関に栄誉を授けた。アワードは、芸術家やプロジェクトが4つの分類区分の下で個人の部門サポートから恩恵を受けることができるようにする。
パトロン4分類区分:アート著名パトロン( 15 億ディルハム)/ アートパトロン(2-5 億ディルハム)/ アートサポーター(500,000ディルハム)/ アートフレンド(50,000-50,0000ディルハム)
またアワードは、意義のある金銭的援助または現物を、ドバイの芸術や文化領域を高めることに著しく貢献する視覚芸術およびパフォーミングアーツ、文学、映画部門に供与することを目的としている。アートアワードは、ドバイの創造的コミュニティへの大切な金銭的サポートを表彰という形を用いて奨励している。
ナレッジ アワード
ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム 基金の1億ドル ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム ナレッジ アワード[37]は、2014年12月7日に設立された。このアワードは、知識の普及の重要性に関して認識を高め、適切な国民の発展と繁栄のための手段として知識を伝達し、同時に世界中で知識の普及、伝達および地方化に貢献する更に促進を促す独創力とプログラムを奨励することを目的としている。
最初の賞は、コンピューター科学者でワールド ワイド ウェブの発案者であるティム・バーナーズ=リー氏とウィキペディアの企業家で共同創立者であるジミー・ウェールズ氏に「世界中に知識を広げる分野での努力と貢献を認められた」ことにより、両氏に合同で授与された。賞は均等に分割され、ムハマンド・ビン・ラーシド基金の委員長であるシャイフ・アフマド・ビン・ムハマンドにより、アラム首長国連邦の副大統領および首相でドバイの統率者であるシェイク・モハメドが出席し贈呈された。
慈善事業
シェイク・モハメドは、慈善寄付を行うことで知られている。1997年に開始し、ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥームチャリティおよび人道主義組織は、恵まれない国民またはUAEに住む国籍離脱者を援助する慈善および人道主義的事業を促進することを目的としている。財団法人は、また、教育、健康および経済状況を改善する事業によりUAE 以外の他国の発達に向けて積極的に寄与している。シェイク・モハメドの指令の下に、 UAE の副大統領兼首相、ドバイの統治者であるムハンマド・ラーシド・アール・マクトゥームチャリティおよび人道主義財団法人は、ラマダーンの月の間、UAE 内外で慈善事業に携わる。常時持続的活動として、社会の様々な区分に必要な支援届け、世界中の多数の国の困窮しているUAE 国民、居住者およびイスラム教徒に基金を提供する。当財団法人は、分かち合い助け合う真のラマダーン精神の24プロジェクトの下で25.6億AEDを超える基金を配給している。
英語版
2007年5月19日、中東の教育基金[38]のムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム 基金を設立するために100億ドルを供与する計画を発表。そのお金は、アラブ地域と先進諸国との知識の断絶の架け橋となるように意図しているものだと述べた。当発表は、ヨルダンの2007 世界経済フォーラムで行われた。
2003年9月、ドバイヒューマニタリアン・シティ[39]を設立。飢餓や貧困によって苦しむ人々を援助する人道主義的な支援機関のための世界最大のロジスティクスハブに成長し、ハブは、9つの国連の援助機関と約50のNGOメンバーなどの営利団体、商業運営、交通機関や物流の専門知識機関5が設置されて機能の集積が進み、経済の活性化に寄与している。世界最大かつ最も活気溢れる物流拠点として成長してきた。
ドバイケア
2007年にドバイケアキャンペーン英語版を開始し、貧しい国の1億人の子供たちを教育する資金を集めた。このキャンペーンは、2015年までにすべての子どもに小学校教育を提供する国際連合のミレニアム開発(ミレニアム開発目標)にドバイが貢献するものである。2007年のキャンペーン開会までに国民によって寄付された金額は、10.65 億AED(約450億ドル)を超え、この総計は、合計基本総計額の30.5億AEDを作るためにシェイク・モハメドが追加した金額を含む。この新たな取り組みは、多くの国で堅固な目標と誓約を伴う進行中の慈善事業となった。
2007年の開始以来、ドバイケアは28 か国の7億人以上の子供に及ぶ統合された小学校教育のプログラムを実施した。プログラムの活動には、1,500 以上の学校とクラスの建設および改修を含み、1,000 以上の井戸とポータブル水資源を提供し、3,000 以上の公衆トイレを学校に建設する。学校にいる490,000 以上の子供たちに毎日栄養食を提供し、寄生虫撲滅活動を通して、腸内寄生虫を1.5歳以上の子供から解放する。また地域言語で書かれた 2 億冊以上の本を寄付し、6,600 以上の父兄∸教師協会を設立し、23,000 以上の教師を訓練する。
ノアドバイ
2008年9月3日、シェイク・モハメドは、「ノアドバイ」の名の下に新しいラマダーンを開始し、「ビジョン2020」の視覚の権利で述べた目標を達成する世界保健機関(WHO)と国際失明予防機関(IAPB)VISION 2020を援助することを目的としている。ノアドバイは、地方、地域および国際的規模で発展途上国の治療または予防可能な眼疾患や視覚障害に苦しむ1億人以上の人々を治療し、ヘルスサービスを提供することを目的としていたが、2011年には5.8 億以上の人々に及び、治療した。カーターセンター(ジミー・カーター)と共に活動するエチオピアにおける3年プログラムは、9億人の子供がトラコーマの細菌感染症に罹っている7,900 以上の村を援助することを目的としている。ノアドバイは後に、全てのその任務を実行し、その目的を達成するために要求される十分な合法的能力と独立性を享受する無政府の非営利組織になった。
UAE パキスタン援助プログラム
2011年1月12日、UAE パキスタン援助プログラム英語版UAE内外政が、アラブ首長国連邦の大統領ハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーンとシェイク・モハメドの指令に従って、再開発している経済構造基盤によりパキスタンを救済し、援助を提供し、洪水の影響を緩和するために開始された。UAE PAP(パキスタン援助プログラム)は健康、教育、水および経済構造基盤の社会的な再開発の4つの主な領域に焦点を当てながら厳しい地形と地域の荒れた気候状況を考慮に入れた包括的再開発計画に沿って進められた。プログラムは、2つの橋、52 の学校と7 つの病院の建設と復旧の提供と同時に64 の水供給構想の実施の提供を行う。
パキスタンの17 億以上の子供がポリオ(急性灰白髄炎)絶滅のためにUAE-資金プログラムの第2段階の目標とされる。約 51 億の投与量が、アブダビの皇太子で軍隊の副最高司令官のシャイフ・ムハンマド・ビン・ザーイドによって運用される。
2018年までにポリオを世界から絶滅させる世界的な取り組みのプログラムの一部に、パキスタンとアフガニスタンを特に重要視する世界的な理念にシェイク・モハメドが440 億AEDを寄付しているのがある。ビル・ゲイツは毎年恒例の手紙の中で、「アブダビは病気と闘う真のパートナーとなった」と述べている。援助プログラムキャンペーンの最初の段階では、13 億以上のパキスタンの子供が予防接種を受けたとプログラムを組んだディレクターのアブダラ・アル=ガフリィが述べた。予防接種は、2014年の6月と9月の間に実施された。関連項目(2)参照
パレスチナ援助
シェイク・モハメドは、パレスチナの大義に多くの慈善寄付を行っており、それには2009年のイスラエル侵攻(ガザ侵攻 (2014年))に続き、ガザに600建の住居の助成の供与を含む。またパレスチナ人との団結を示すために新年の祝賀とドバイショッピングフェスティバルの公式の開催を中止し、同時にイスラエルの軍事措置により退去させられた難民に寄付をした。この出来事に対して広がった大衆の反応と著名な連邦の市民からの寄付の高まりを反映して、パレスチナの国民に対し、2009年1月10日にバーレーンで開催された主なエンデュランス競技で獲得した勝利と賞金を捧げた。シェイク・モハメドはしばしば2国間の紛争解決の必要性を指摘し、イスラエルとの関係の正常化前にパレスチナ問題に対する合意を交渉した。
アフガニスタン援助
公式および米国官僚との会議の両方でアフガニスタンでの米国の抑制に関して何度も電話をしている。シェイク・モハメドは、2001/2002年の米国の爆弾キャンペーンで退去させられた人々に一時的な住居を提供するために2億ドルを寄付。その運動は、新たに広がった避難退去のニュースで、富裕で著名な連邦国民からの寄付の高まりの口火を切り、また攻撃の拡大の結果、生じたアフガニスタン市民の必要性に拍車をかけ、退去させられた家族に家を供給するために、カンダハールにおける村の設置へとつながった。翌年、約15,000 人の難民が一時的に建設された宿泊設備に住むアフガニスタン/パキスタン国境へ送還された。2000年に、シェイク・モハメドは, €4 億ユーロをオランダのロッテルダムのエサラームモスクの建設に寄付した。[40]
ヨット
シェイク・モハメドは、ドバイにドイツの会社のBlohm + Voss(ブローム・ウント・フォス)社によって造船されたヨットを所有している。350億ドルかけて造られたたこの豪華なヨットは全長162メートルで、世界で3番目に大きく(2014年)、乗務員を含み115 人まで乗船できる。元々はブルネイの王子のジェフリーボルキア殿下が注文したものであったが、資金不足により建設が中止され、2001年にシェイク・モハメドがそのプロジェクトを引き継いだものである。浮かぶ都市と呼ばれ、グーグルアース(または地図)で、シャイフ・ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム ロゴアイランドの前に停泊しているヨットを見ることができる。
Youtube https://www.youtube.com/watch?v=GrkoLODxF6o
脚注
注釈
^ 1995年の京王杯スプリングカップにドゥマーニで優勝した際の馬主名義は「ハムダン殿下」の表記。[30][31]
出典
^ バニ・ヤス(英語版)
^ アル=マクトゥーム家
^ Dubai: The Making of a Megalopolis by Pranay Gupte (Author)
^ News Stories - UAE News and information - UAEinteract
^ DUBAI: DUBAI CITY GUIDE by Ediz. Inglese (Author)
^ ジュベル・アリ自由貿易区
^ UAEの石油産業構造
^ ドバイショック後中東湾経済
^ 中東情勢分析
^ TECOM インベストメンツ
^ http://www.ifinance.ne.jp/glossary/swf/swf022.html
^ [1]
^ ドバイ不動産ブーム再来
^ エミレーツの歴史
^ Emiratesの戦略
^ アラブ首長国連邦の主なフリーゾーン
^ http://www.ide.go.jp/Japanese/Data/Africa_file/Company/senegal06.html
^ ドバイ・インターネット・シティ Dubai Internet City
^ インターナショナル・メディア・プロダクション・ゾーン International Media Production Zone (IMPZ)
^ ドバイ・シリコン・オアシス Dubai Silicon Oasis
^ ドバイ・スタジオ・シティ Dubai Studio City
^ ドバイ・ヘルスケア・シティ Dubai Healthcare City
^ ナレッジ・ビレッジ Knowledge Village
^ Burj Khalifa英語版
^ Home|Burj Khalifa英語版
^ ロイヤルパレス
^ ゴドルフィン(ドバイ後編)
^ ドバイミレニアム (Dubai Millennium)
^ メイダン(Meydan)
^ 『中央競馬全重賞競走成績集 平成18年版』「古馬関東編」日本中央競馬会・刊、2006、p637-710「京王杯スプリングカップ」
^ netkeiba 1995年京王杯SC2014年11月10日閲覧。
^ H.H.シェイク・モハメド氏のコメント ラジオNIKKEI 2011年5月29日
^ ファインニードルが「ゴドルフィン」名義初のGI参戦 netkeiba.com 2018年3月20日
^ netkeiba.com
^ フリートストリートが移籍
^ ナバティ人の起源
^ http://www.rbbtoday.com/release/kyodonews_kaigai/20141209/88195.html
^ 最新中東経済
^ インターナショナル・ヒューマニタリアン・シティ International Humanitarian City
^ 対アフガニスタン・イスラム共和国 国別援助
関連項目
- (1)ジュメイラ・グループ - ムハンマドがCEOを務めるドバイ・ホールディング傘下のホテルチェーン。
- (2)経口ポリオ・ワクチンをアフガニスタンとパキスタンの約3500万の子供たちに届ける世界保健機関(WHO)およびユニセフ(UNICEF)の現場関係者支援を含む
外部リンク
الرئيسية(公式サイト)(アラビア語)
HH Sheikh Mohammed (@HHShkMohd) - Twitter
ムハンマド首長(在ドバイ日本国総領事館)
アラブ首長国連邦アラブ首長国連邦(外務省)
ドバイインターネットシティドバイインターネットシティ
ドバイ国際金融センタードバイ国際金融センター(経済産業省)
The Bell Language SchoolsThe Bell Language Schools
ドバイ原油相場東京商品取引所 TOCOM
中東ドバイビジネスガイドメラース(Meraas)
DP WORDドバイポーツワールド(英語版)
Al Arab Jumeirah, Dubaiブルジュアルアラブ ジュメイラ(英語版)
- 意味/解説/説明/定義 : IT用語辞典ハブ[hub]
ドバイ・インターネット・シティ、181の新規参入企業を歓迎 - AS ...ドバイ・インターネット・シティ
عربي(アラビア語)
IFOS国際眼科学会連合(公益財団法人日本眼科学会)- WAMアラブ通信
中東アフガニスタンの法の支配に関するローマ会議(概要)(外務省)
|
|
|
|
|
|