金正日

























































金正日
김정일

Kim Jong il Portrait.jpg




朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
第2代最高指導者

任期

1994年7月8日 – 2011年12月17日



朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
第2代国防委員会委員長

任期

1993年4月9日 – 2011年12月17日



Flag of the Korean People's Army (1992–1993).svg 朝鮮人民軍
第3代最高司令官

任期

1991年12月24日 – 2011年12月17日



Flag of the Workers' Party of Korea.svg 朝鮮労働党
第2代中央委員会総書記

任期

1997年10月8日 – 2011年12月17日

政治局常委

金永南、崔永林、趙明禄、李英浩

出生

1941年2月16日
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 極東地方(ソ連当局のデータ)
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 咸鏡南道恵山郡 白頭山(北朝鮮の中央人民委員会の公式発表)
死去

(2011-12-17) 2011年12月17日(70歳没)
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮 平壌
政党

Flag of the Workers' Party of Korea.svg 朝鮮労働党
配偶者

洪一茜(朝鮮語版)、成蕙琳、金英淑、高英姫、金玉
署名

Kim Jong-il Signature.png






























金正日

Kim Jong il.svg
各種表記

ハングル:

김정일

漢字:

金正日
発音:
キム・ジョンイル

日本語読み:

きんしょうにち[1]
きんせいにち[2]

ローマ字:

Kim Chŏngil

英語表記:

Kim Jong-il
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金正日の公式肖像画。





朝鮮民主主義人民共和国の首都平壌の人民大学習堂に掲げられた金日成と金正日の肖像画。





日本の朝鮮学校教室内に掲げられる金日成国家主席と金正日の肖像。


金 正日(キム・ジョンイル、朝鮮語: 김정일、英語:Kim Jong-il、1941年2月16日 - 2011年12月17日[3][4])は、北朝鮮の政治家、軍人。北朝鮮を建国した金日成の長男であり父の死後、同国の事実上の最高指導者となる。以後、死去するまで朝鮮労働党中央委員会総書記、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官、朝鮮労働党中央軍事委員会委員長、朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員を務めた。


称号は朝鮮民主主義人民共和国元帥、朝鮮民主主義人民共和国英雄(三回受章しており「三重英雄」と称される[5])。死後、朝鮮民主主義人民共和国大元帥の称号を追贈された。




目次






  • 1 生涯


    • 1.1 出生


    • 1.2 幼年期


    • 1.3 青少年期


    • 1.4 権力の掌握


    • 1.5 最高指導者として


    • 1.6 死去




  • 2 人物像


    • 2.1 表記


    • 2.2 趣味




  • 3 家族・親族


  • 4 日本で出版されている主な著作


  • 5 脚注


  • 6 参考文献


    • 6.1 北朝鮮側の文献


    • 6.2 その他の文献




  • 7 関連項目


  • 8 外部リンク





生涯



出生


金正日は1941年2月16日に父親の金日成が逃亡先として滞在していたソビエト連邦(現在のロシア)の極東地方に生まれたとされる。正確な出生地についてはハバロフスク近郊のヴャツコエにある北野営、ウラジオストク近郊のオケアンスカヤにある南野営、ウラジオストク市内の病院といった諸説がある。出生名はユーリイ・イルセノヴィチ・キム(露: Юрий Ирсенович Ким, Jurij Irsenović Kim[6][7]。朝鮮式の幼名は有羅(ユーラ、김유라)。「有羅」はロシア人名「ユーリイ」に由来しており、ソビエト連邦出生説の根拠の一つともなっている。


ただし、北朝鮮側の発表では、金日成・金正日を神格化する意図から、金正日の生まれ年を金日成の生まれ年である1912年と30年周期で合わせるために1942年2月16日誕生とし、生誕地も白頭山(現在の中華人民共和国吉林省と北朝鮮両江道の国境地帯にある)としている。1982年2月15日、中央人民委員会より「白頭山密営にて誕生」という公式発表がおこなわれ[8]、白頭山密営は「革命の聖地」とされた。1987年2月には密営の建物(丸太小屋)が建設された。


また、名が「ユーラ」から「ジョンイル」に変わったのは朝鮮半島の解放後のソビエト連邦軍政期とする説、1960年夏頃とする説がある[9]。1980年の第6回党大会にて「金正日」という表記が確認された。「キム・ジョンイル」の名が公式文書に登場した当初、日本では「金正一」の字があてられていた[10](当時、朝鮮人が父母の名から字を取ることは稀であり、朝鮮の伝統的な命名ルールではあり得ないこととされている)。



幼年期


1945年11月25日、父・金日成の側近の1人である趙明禄の護衛により[11]、母・金正淑、弟・修羅(金万一)とともにソ連から海路で朝鮮に帰国。雄基港に上陸後[12]、清津を経由して平壌に移動し、先に帰国していた父のもとに落ち着いた。1946年に妹・金敬姫が生まれたが、1947年に弟を事故で、1949年には母を前置胎盤でそれぞれ亡くしている。幼年期は内向的な性格だった。


朝鮮戦争開始後の1950年9月中旬、北朝鮮軍の形勢が不利になると、曽祖父母や妹と共に平壌から平安北道(現:慈江道)長江郡に疎開するが、国連軍が北上し中朝国境付近に迫ると、満浦経由で中華人民共和国に脱出、疎開先の中国吉林市内の学校に妹の金敬姫とともに通学した[13]。1952年11月下旬、父の指示により北朝鮮に帰国した[14]



青少年期


現在ロシア在住の当時の同級生によると、仲間と一緒に様々な学校でのイベントを主催したり、家でパーティーを開くなど、幼少期に内向的だった性格は次第に社交的になっていったという。


平壌第一初級中学校、南山高級中学校(現在の平壌第1高等中学校)卒業後、1960年9月1日に金日成総合大学経済学部政治経済学科に入学[15]。在学中の1961年7月22日、朝鮮労働党に入党。1964年3月30日に大学を卒業[16] した金正日は党中央委員会に勤務し、同年6月には党組織指導部の指導員となる。その後、党中央委員会の指導員、課長、副部長、部長を歴任し、1969年9月に党組織指導部部長に就任。また、党宣伝扇動部副部長や文化芸術部部長を兼任した。この間、北朝鮮独自の立場とされているチュチェ思想の思想整備を担当した黄長燁に師事していたこともある。



権力の掌握


1972年10月、党第5期中央委員会第5回総会で中央委員に選出され、1973年9月の党第5期中央委員会第7回総会で党中央委員会書記(党組織、宣伝扇動担当)に選出された。さらに、1974年2月13日の朝鮮労働党第5期中央委員会第8回総会において、政治委員会委員(現:政治局委員)に選出され、翌2月14日には、金日成の後継者として「推戴」された[17]。同時期、北朝鮮版文化大革命[18]とも呼ばれる三大革命赤旗獲得運動を提唱して権力の確立をしていった。


ただし対外的には発表されず、金正日は「党中央」としてのみ言及された[19]。1980年には「党中央の明かり」という歌曲が作られ[20]、金正日崇拝への道ならしがおこなわれた。同年10月10日の第6回党大会および党第6期中央委員会第1回総会で党中央委員会政治局常務委員、中央委員会書記、中央軍事委員会委員に就任し、後継者としての地位を確固なものとした。このとき、金正日は初めて公式に国民の前へ姿を現した。1982年2月に最高人民会議代議員に選出される[21]。後継者内定後初の外遊だった1983年6月の訪中から帰国した際に中華人民共和国の改革開放を「社会主義や共産主義を捨てた」「修正主義」と批判した金正日に対して中国の鄧小平は「なんて馬鹿な奴だ」「世間知らずの小童」と唾棄したことに焦った父・金日成は謝罪を約束してそれを拒む金正日と口論になった[22]


後継者としての地位を確立する過程では、腹違いの弟金平一を推す義母金聖愛との間に激しい権力闘争があったと言われている[23]。同じ時期に金日成を称えるプロパガンダが高まっていったことから、父・金日成のカリスマ化と忠誠合戦を仕掛けることが権力闘争を勝ち抜く彼の方策だったと推測されている。金日成派の独裁化に貢献したと思われることも含め、党内闘争に熟達し、情報統制に長けていると推測されている。これは彼が若い頃に映画局に勤め、父・金日成をカリスマ化するプロパガンダに関係した経験が生かされたと見られることが多い。自らの肉声をほとんど流さないことでも有名で、南北首脳会談以前の肉声は1992年4月25日に行われた朝鮮人民軍創建60周年の軍事パレードで発した「英雄的朝鮮人民軍将兵諸君に栄光あれ!」というわずか5秒間の音声が唯一であった。


権力の世襲に対する批判に対しては、「金正日は金日成の息子だから後継者となったのではなく、もっとも優れた後継者がたまたま金日成の息子だった」、というのが公式の回答である。


金日成以来、国内の権力闘争により北朝鮮の政権中枢の役割を占めた満州派(国外パルチザン派)が朝鮮人民軍を権力基盤としてきた一方で、金正日は党官僚の代表や行政官僚の利益代弁者として振舞ったと思われる時期があった。そのため、金日成死亡の少し前から朝鮮人民軍を掌握しようと腐心していたことが公式プロパガンダおよび人事配置からうかがえる。一方で、外交官経験者を比較的重用し始めていることも人事配置からうかがえる。朝鮮労働党大会は1980年の第6回大会以降、金正日の死後の2016年まで実施されなかった。


金正日は1990年5月24日、第9期最高人民会議第1回会議において国防委員会第一副委員長に選出され、軍事を掌握し始めた[24]。さらに翌1991年12月24日の第6期党中央委員会第19回総会において朝鮮人民軍最高司令官に「推戴」され[25]、1992年4月20日には朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与された。1972年に制定された朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法(1972年憲法)では、軍の統帥権は国家主席にあり、朝鮮人民軍最高司令官と国防委員長は国家主席が兼務することが定められており、金正日の最高司令官就任は「超憲法的な措置」[26]であった。しかし1992年4月9日に同憲法が改正されると、最高司令官の規定は削除されるとともに、軍の統帥権は国家主席から国防委員長に委譲された。そして、1993年4月9日の第9期最高人民会議第5回会議において国防委員会委員長に「推戴」され[27]、これにより金正日は軍の統帥権を掌握した。同時期、ソ連崩壊により北朝鮮クーデター陰謀事件を知った金正日は多くのソ連留学経験者を旧KGBのスパイとして粛清した[28]



最高指導者として


1994年7月8日、金日成主席が死去。金正日は国家元首の地位を正式に継承はしなかったものの、この日より事実上の最高指導者として統治を開始した。1997年10月8日、金日成の死によって空席となっていた朝鮮労働党中央委員会総書記に「推戴」され、1998年9月の最高人民会議第10期第1回会議において改めて国防委員会委員長に選出された。同会議において、国防委員長は「国家の最高職責」とされた。経済政策の失敗で苦難の行軍が起きたため、1997年から2000年にかけて、金正日は最高指導者の地位をより確立させるべくかつて三大革命赤旗獲得運動を共に進めた義理の弟の張成沢を使って古参幹部とその側近と彼らの親族の大規模な粛清(深化組事件)を行った。





ロシアのウラジーミル・プーチン大統領と会談する金正日国防委員長(2000年7月19日)。


2000年5月に就任後の初外遊で中国を17年ぶりに訪れて初めて国際社会に姿をあらわし、中国共産党総書記の江沢民との会談で南北首脳会談に向けた事前協議を行ったとされる[29][30]。2000年6月には太陽政策を取る韓国の金大中大統領を平壌に迎えて南北首脳会談を行い、会談の結果、南北共同宣言が発表、6.15南北共同宣言が採択された。その直前に金大中大統領は現代グループが北朝鮮へ5億ドルや4億ドルとも言われる違法な巨額の送金を行ったことを黙認し、中国の北京・マカオ・香港を経由[31]して金正日と長男の金正男[32][33]や側近の張成沢[34]に渡ったとされる。2000年に南北首脳会談を行ってから、2001年にかけイタリア、イギリス、カナダ等西側諸国との国交を樹立し、徐々に開放政策へと舵を切り始めた。


翌2001年1月15日から中国を非公式訪問し、当時後継者候補と目された長男で改革派の金正男コンピュータ委員会委員長を同行[35]させて江沢民の本拠地である上海も視察し[36]、摩天楼が並び立つ上海の経済発展を「上海は天地開闢した。改革開放が中国の経済発展に重要な役割をしたことが十分に証明された」と絶賛して改革開放に意欲を見せた[30][37][29]。しかし、これは中国から援助を引き出すためのポーズとする見方もされてる[38][39][40][41]。同年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を境に、2002年にはアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領が、北朝鮮、イラン、イラクの3ヶ国を「テロ支援国家」であるとし、「悪の枢軸 (axis of evil)」と呼んで批判するなどの北朝鮮敵視政策が国際的緊張を生んだ。アメリカとの緊張関係は和らぐことなく、「先軍政治」を掲げ、要求が受け入れられないと交渉決裂や武力衝突を辞さない態度をちらつかせるいわゆる“瀬戸際外交”を展開している。


2002年9月17日、小泉純一郎首相との日朝首脳会談の席で金正日は日本人13人を拉致したことを認め、口頭で謝罪した。犯人については、「特殊機関の一部の盲動主義者らが、英雄主義に走ってかかる行為を行ってきたと考えている」とし、関係者はすべて処罰したと述べた。また、2国間の懸案の解決し、国交正常化へ努力することを記した「日朝平壌宣言」を発表した。


2003年、イラク戦争の最中には密かに中国の北京を訪問していたという(「STRATFOR」報道、2003年4月11日付=共同通信配信)。イラク戦争の開戦による衝撃から中国は仲介に乗り出し[42]、当初北朝鮮は対話を拒否するも中国が3日間原油供給を停止したことで態度を翻したともされる[43][44][45]。同年3月から米中朝三者協議、さらに同年8月からは北京で六者会合が開催され、北朝鮮も参加する。


2006年7月16日には北朝鮮のミサイル発射をきっかけに国連安保理の全会一致で非難決議がなされた。同年、アメリカの『TIME』誌に「2006年の主要人物26人」の1人に選ばれ、「金総書記は7月4日にミサイルを連射、米ホワイトハウスで開かれたブッシュ大統領の独立記念日パーティーをメチャクチャにし、10月には世界で最も排他的かつ危険な核クラブの首長になった」と紹介された。


2008年10月11日に、2007年2月13日の六者会合での合意文書に基づき、アメリカ合衆国のクリストファー・ヒル国務次官らによって朝鮮民主主義人民共和国の「テロ支援国家」指定は解除された。


2009年4月9日に開かれた最高人民会議で国防委員長に再任され、政権は3期目に突入した。なお、同月の憲法改正により、国防委員長は北朝鮮の最高指導者として位置づけられた[46]





ロシアのドミートリー・メドヴェージェフ大統領と会談する金正日国防委員長(2011年8月24日)。


2010年2月1日、金正日の「私は、人民が未だトウモロコシの飯を食べていることに最も胸が痛む。いま私が行うべきことは、この世で一番立派なわが人民に白米を食べさせ、パンやめん類を十分に食べさせること」という談話が労働新聞に掲載された。2009年末に行われたデノミが失敗し、その結果としての餓死や治安部隊との小競り合いが頻繁に発生しているという情報が日韓にも伝えられた。金正日自身の健康問題も絡み、北朝鮮はいわば「崖っぷち」の状態であると分析するメディアもあった[47]


2010年5月、中国を訪問し、金正日は六者会合の再開に前向きな姿勢を示した。これに対し中国側は、「中朝の友情を時代と共に前進、発展させる」という発言をした。これは中国共産党内では関係見直しを意味する決まり文句であり、度重なる北朝鮮の独断での強硬行為に中国側は不信感を募らせていると見られ、距離を置かれる形となった[48]。また、金正日が要望した大規模な経済支援も温家宝国務院総理(首相)に拒否され、金正日がその後の予定を切り上げて早く帰国したという事実も判明、いわば建国以来の友邦であった中国にも見捨てられた格好となった[49]。同年8月、再び訪中し、吉林省などを訪問した[50]


2010年9月28日に開催された党代表者会において、党総書記として改めて推戴される[51]。同日、党代表者会の開催を受けて招集された党中央委員会総会で、政治局常務委員・中央軍事委員会委員長に再選された[52]。また、同年10月9日には来賓の周永康中国共産党中央政治局常務委員[53][54]とともに後継者に指名した金正恩と親子で並んで朝鮮労働党創建65周年記念行事の軍事パレードなどに出席した。


2011年に入ると、金正日は友好国との外交に力を入れた。同年5月に中国を再度訪問して胡錦濤国家主席らと会談、同年8月にはロシアを訪問してドミトリー・メドベージェフ大統領と会見した。同年10月に中国の李克強国務院副総理が訪朝した際に金正恩を同席させた上で自ら応対して経済技術協力協定を結ぶ[55]など、友好国との関係維持と援助を求めた。



死去





健康状態を害していた最晩年(2011年5月)に撮影された写真。


2008年8月に脳卒中で倒れたとされている[56]。その後も数度にわたって中国やロシアを訪れるなど外交活動に臨み、国内では現地指導を重ねていた。しかし2011年12月17日8時30分、心筋梗塞のために死去した[3]とされる。享年70。2日後の12月19日正午、朝鮮中央テレビが特別放送を行い、死去が発表された。朝鮮中央通信は金正日が「地方視察及び指導に向かう列車の中で12月17日午前8時半、過労により息を引き取った」と伝えた[57][58]


朝鮮中央通信や労働新聞などが伝えた「訃告」によれば、金正日は心臓や脳血管の病気で長期にわたり治療しており、「(そうした中で現地指導を続け)積もりに積もった精神的・肉体的過労により心筋梗塞が起き、心臓性ショックを併発した」と伝えた[59]。2012年12月25日の朝鮮日報は、北朝鮮消息筋の情報として金正日の急死は北朝鮮北部に建設中の煕川水力発電所ダムで漏水事故が起きていることを聞き、現場へ向かう途中だったと伝えた。また、これ以前より強盛国家建設のための中枢として注力していた石炭を使った新技術による繊維製造業および製鉄が実際は業績が上がっていないにもかかわらず順調との虚偽報告を受けていたことを知り、強度のストレスを受けていたらしい[60]


一方、龍谷大学教授李相哲が、韓国に脱北した複数の元高官の証言や、金総書記の死亡に触れた中韓の政府文書を基に行った検証によると、実際は前日である12月16日の午後8時頃、訪れていた次女の金雪松宅の寝室で倒れ、搬送先の32号招待所内の医療施設で午後11時に死亡が確認されたという[61]


死後、後継者となった三男の金正恩によって金正日の偶像化が進められた。金正日の「生誕70周年」(実際は71周年)の誕生日直前である2012年2月14日には朝鮮民主主義人民共和国大元帥の称号を追贈され、同年4月11日に開催された第4回党代表者会において「永遠の総書記」と位置づけられた[62]。さらに4月13日に開催された第12期最高人民会議第5回会議において「永遠の国防委員長」とされた[63]



人物像


国営の朝鮮中央放送で使われる金正日の呼び名は100以上あると言われ、北朝鮮国内のメディアでは、「百戦百勝の鋼鉄の霊将」などと賛美されるが、実際には実戦で指揮を執った経験はない。この称号は金日成を賛美する決まり文句が儀礼化したまま流用されたものといわれている。国民からは「将軍様(장군님:チャングンニム)」と呼ばれ[64]、国内のあらゆる所にその肖像画が掛けられている。


代表的な呼び名として「親愛なる指導者、金正日同志」があるが、二言目からは「金正日同志」「金正日総書記」と略される。また、朝鮮人民軍内部では「最高司令官同志」ともよばれる。その他、かつて使用されたものに「党中央」がある。「党中央」の語は一般的に党中央委員会のことと解釈される語であったため、「党中央」の語が金正日個人を指すと判明するまでに長い時間がかかった。また、北朝鮮の公式文献においても「党中央」の語が機関を指す語から次第に個人を指す語としての様相をみせるまで長い時間がかかっている。


死去時の肩書は、国家においては国防委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官、共和国元帥、最高人民会議代議員、党においては朝鮮労働党総書記、朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員、朝鮮労働党中央軍事委員会委員長であり、権力を一手に集めていた。呼称については国家における最も重要な役職である国防委員長(もしくは委員長)とするのが正式だが、日本のマスメディアだけ党の最高職である総書記としている。





万寿台創作社が制作した金日成と金正日の立像。





万寿台創作社が制作した金日成と金正日の乗馬像。


東ドイツ国家人民軍の制服に倣ったとされるカシミアシルク製のスラックスとジャンパーを愛用した。メディアではサングラスを着用する姿がしばしば放映されている。外国の元首と会談する際は中華人民共和国の人民服に似た服を着用することもあった。肖像画には軍服を着用している姿もあるが、実際に軍服姿で公の場に出たことはないようである。金日成はスーツを着用することが多かったが、金正日がスーツを着用することはまずない。


テロを恐れているためか、父・金日成と同様、飛行機嫌いであり、鉄道で繋がっている中華人民共和国やロシアなどの外国を訪問する時は専用の装甲列車[65] を使う(1965年、父金日成に随行したインドネシア訪問時では飛行機の利用が確認されている)。


朝鮮総連のウェブサイトには「名言録」や「逸話集」などを掲載した金正日総書記特集があり、そのなかでは金正日を偉人と呼んでいる。


統一教会(世界基督教統一神霊協会)の文鮮明と関係があるとされる。1992年に統一教会教祖の文鮮明と会談し、35億ドル(約4400億円)もの援助を約束され、経済協力の関係を築いた。1994年7月に父金日成が死去した直後には、文鮮明の側近の朴普煕と会談した。統一教会の幹部、朴相権が社長を務める韓国の「平和自動車」との合弁会社「平和自動車総会社」を設立して自国の南浦(ナンポ)工業団地で自動車生産を行なったり、国営の「普通江ホテル」の経営を統一教会関係者に行なわせていたが、金正日・文鮮明死後の2012年に統一教会は北朝鮮での自動車事業から撤退した[66]


2002年には、文鮮明の80歳を祝って、韓国の要人に対しては極めて異例と言える祝賀メッセージとプレゼントを贈った。このような北朝鮮とのパイプを作った統一教会は系列の「ワシントンタイムズ」社の朱東文(チュ・ドンムン)社長が2006年に訪米した山崎拓と面会し、翌2007年1月10日の山崎の訪朝のルートを用意したとも言われている[誰によって?]。しかし、北朝鮮当局は統一教会の幹部をスパイ容疑で逮捕してからは監視対象にしているとされた[67]


長男の金正男に資産を任せてマカオに奢侈品の購入に使う秘密口座を持っていた他[68]、将来北朝鮮の体制が崩壊して仮に国外逃亡を余儀なくされても引き続き贅沢な暮らしを送れるよう3600億円の隠し資金をヨーロッパの銀行に保有していると言う。これらの資金は核やミサイル技術の売却などで得た資金であるとされる[69]



表記


金日成、金正日の氏名は通常、印刷物では太字で表記される。北朝鮮の文字コード、KPS 9566には普通のチョソングル(韓国でいうハングル)とは別の位置(4行72列 - 4行77列)に前指導者・金日成(김일성)、現指導者・金正日(김정일)の名前専用に使われるチョソングルが登録され、普通のチョソングルと異なり、常に太字で表記される。



趣味


インターネットに熱心であったとされ、一日数時間、情報収集などに利用していたと伝えられる。


また、平壌中心の高台に「国家映画文献庫」[70] という映画の文献庫を(事実上個人で)持ち、およそ2万巻のビデオテープを所有すると言われるほどの映画マニア。日本や欧米の映画などを多数鑑賞していると言われている[誰によって?]。映画論についての自筆の著書『映画芸術論』は主著のひとつで日本語訳も出版されている(同朋舎)。日本映画では『ゴジラ』の他、『男はつらいよ』のファンで、1985年には東宝の特撮スタッフを招いて『プルガサリ』という怪獣映画をプロデュースしたこともある。また、北朝鮮の映画産業のために韓国の映画監督申相玉とその妻で女優の崔銀姫(朝鮮語版)を拉致し、上記『プルガサリ』の制作に参加させたこともある。二人は後に再亡命した。


スポーツはバスケットボールを好む。舞踏鑑賞も多くの趣味のひとつ。WUSAのファンで、マデレーン・オルブライトからサッカーボールを贈与されたことがある。


公用車はメルセデス・ベンツ・Sクラスの防弾リムジン仕様車。加えて、2006年にフォルクスワーゲン・フェートンを購入した模様。なお、2000年代の初め頃まではアメリカ製のリンカーン・タウンカーを20年以上公用車として使用していた。オートバイはハーレーダビッドソンを所有。


1994年に、会員制の平壌ゴルフ場(パー72、7700ヤード)で、生まれて初めてゴルフをラウンドし、「18ホールで11のホールインワンを記録し、どのホールも最悪で「バーディー」、スコアは38アンダーの34をマークし、世界記録を樹立した」という内容の驚異的な記録を残したとされている[71] が、真偽のほどは不明である。


そのほか、「金正日総書記は平壌ゴルフ場に来たことがない」「平壌ゴルフ場での最高記録は地元プレイヤーが記録した1オーバーだ」「この話は北朝鮮の国営メディアが報じた情報とされるが、実際は欧米メディアのでっち上げだ」といった話も出ている[72]


また、金正日が死去した際には、Twitter上で、「ゴルフ界の大損失」、「ゴルフ界は偉大な人物を失った」、「金正日の死によって、ゴルフの世界ランキングでは全員が1ランクアップだ」、「金正日の死去は(現世界ランク1位の)ルーク・ドナルドが議論の余地のない世界ナンバーワンになったことを意味する。おめでとう、ルーク。コース上の決着じゃなかったのが、ちょっぴり残念だけど。」などといったネタ的書き込みも見られた[73]


金正日の料理人であったと自称する日本人藤本健二によれば、グルメであり、フカヒレ料理や、日本食では寿司やすき焼き、鰻丼なども好物であったという。また、日清食品のカップラーメンであるラ王も好物である。マヨネーズはキユーピー、醤油はキッコーマンにこだわった。差し歯が3本あり硬いものは食べなかった。またあまり辛い物は好まなかったが、寿司のわさびは受け入れた。食材は日本など外国から高級なものを取り寄せることも多いが、2006年10月15日に国連で決定された北朝鮮への経済制裁にある贅沢品禁輸措置により、入手の困難化が推測される。


かつてはヘビースモーカーで、特にイギリスのロスマンズを愛飲していたが、禁煙したらしい。禁煙を達成するのに20年かかった。金正日の禁煙達成後、北朝鮮国内で禁煙ブームが起きた[74]



家族・親族





2011年8月24日、ロシアにて




  • 金膺禹(キム・ウンウ、高祖父)


  • 金輔鉉(キム・ボヒョン、曾祖父)


  • 李寶益(リ・ボイク、曾祖母)


  • 金亨稷(キム・ヒョンジク、祖父)


  • 康盤石(カン・バンソク、祖母)


  • 金亨権(キム・ヒョングォン、大叔父)


  • 金亨禄(キム・ヒョンロク、大叔父)


  • 金日成(キム・イルソン、父、北朝鮮建国者)


  • 金英柱(キム・ヨンジュ、叔父)




  • 金万一(キム・マンイル、弟)


  • 金敬姫(キム・ギョンヒ、妹)


  • 張成沢(チャン・ソンテク、義理の弟)


  • 金平一(キム・ピョンイル、異母弟)


  • 金英一(キム・ヨンイル、異母弟)


  • 金慶真(キム・ギョンジン、異母妹)




  • 洪一茜(ホン・イルチョン、最初の妻)

    • 金恵敬(キム・ヘギョン、長女)



  • 成恵琳(ソン・ヘリム、二番目の妻)

    • 金正男(キム・ジョンナム、長男)

      • 金漢率(キム・ハンソル、孫)




  • 金英淑(キム・ヨンスク、三番目の妻であり正式な妻)


    • 金雪松(キム・ソルソン、次女)


    • 金春松(キム・チュンソン、三女)




  • 高英姫(コ・ヨンヒ、四番目の妻、在日朝鮮人)


    • 金正哲(キム・ジョンチョル、次男)


    • 金正恩(キム・ジョンウン、三男)


    • 金与正(キム・ヨジョン、四女)




  • 金玉(キム・オク、五番目の妻)




日本で出版されている主な著作


  • 『人間の証し』(角川書店(同朋舎)、2000年10月発行) - ISBN 4810426505


脚注





  1. ^ 金正日 きんしょうにち / キムジョンイル 日本大百科全書(ニッポニカ)


  2. ^ 金正日【きんせいにち】 百科事典マイペディア

  3. ^ ab“金正日総書記が死去、69歳 北朝鮮の混乱必至(日本経済新聞)”. (2011年12月19日). http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819587E3E3E2E09B8DE3EBE3E0E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2 


  4. ^ 産経


  5. ^ 1975年2月24日、1977年2月、1982年2月15日の3回。なお、1度目の授与は当初2月15日に予定されていたが、その時点では辞退している。


  6. ^ “Kim Jong-Il, Kim Il-Sung - In the Family Business - North Korea- Secrets and Lies - Photo Gallery”. LIFE. 2011年12月20日閲覧。


  7. ^ 「イルセノヴィチ」はロシア式の父称で「イルソン(日成)の息子」を意味する


  8. ^ 『労働新聞』1982年2月15日付「金正日同志に朝鮮民主主義人民共和国英雄称号を授与することについて」


  9. ^ 金正日の学友の一人だった人物の証言によれば、金正日は南山高級中学校(高級中学校は日本の高等学校に相当)卒業直前の1960年7月に「最近“キム・ジョンイル”の名前で公民証が発給されたので、今後は“ユーラ”でなく“ジョンイル”と呼んでほしい」と語ったといわれる(韓国・中央日報社編『金正日・衝撃の実像』徳間書店 1994年9月 ISBN 9784198601614)。


  10. ^ 日本のマスコミで金正日について初めて報道したのは毎日新聞(1974年11月19日付)。金正日は「金正一」と表記されている。


  11. ^ 『北朝鮮解体新書』p.33


  12. ^ 金正日はこの時のことを記憶しており「雄基港の灯台について深い印象が残っている」と語っている(張明秀『裏切られた楽土』 講談社 1991年8月 ISBN 4062050749)。


  13. ^ “金総書記訪問の中国・吉林省は「幼い頃の思い出の地」”. 東亜日報. (2010年9月24日). http://japanese.donga.com/List/3/all/27/312896/1 2017年10月5日閲覧。 


  14. ^ 『北朝鮮解体新書』p.142


  15. ^ 当時の北朝鮮では9月に入学・進学がおこなわれていた。


  16. ^ 卒業論文は『社会主義建設における郡の位置と役割』(実際の作成者は大学の指導教授だった黄長燁)。


  17. ^ 既に1972年12月22日の党第5期中央委員会第6回総会において金正日を「唯一後継者」とする秘密決定がおこなわれている。


  18. ^ 「金正恩氏の後見人、張成沢氏は冷血な忠臣 2万5千人粛清の総責任者!」産経ニュース 2012年1月14日


  19. ^ 金元祚『凍土の共和国』p344。「党中央」の表記が最初に登場したのは『労働新聞』1974年2月14日付社説。


  20. ^ http://www.naenara.com.kp/ko/art/artist/index.php?4


  21. ^ 以来、死去するまで最高人民会議代議員を務めた。


  22. ^ “【秘録金正日(47)】中国の改革解放を「共産主義捨てた」と一蹴 トウ小平は「なんてばかなやつだ」と激怒”. 産経新聞. (2015年10月23日). http://www.sankei.com/premium/news/151020/prm1510200004-n1.html 2016年10月18日閲覧。 


  23. ^ 李友情著『金正日入門』より。


  24. ^ 玉城素「厳しい「孤立化・経済困難」脱出作戦 - 1990年の朝鮮民主主義人民共和国」『アジア動向年報1991年』アジア経済研究所、1991年、p59。


  25. ^ 小牧輝夫・中川雅彦「対外政策転換で突破口を模索 - 1991年の朝鮮民主主義人民共和国」『アジア動向年報1992年』アジア経済研究所、1992年、p49。


  26. ^ 和田春樹『北朝鮮-遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年、p261。


  27. ^ 中川雅彦「目標未達成で終了した第3次7カ年計画 - 1993年の朝鮮民主主義人民共和国」『アジア動向年報1994年』アジア経済研究所、1994年、p40-41。


  28. ^ 李友情著「金正日入門第7章金正日を支える面々232-240ページ

  29. ^ ab“金正日総書記訪中日誌”. 中央日報. (2010年4月1日). http://japanese.joins.com/article/771/127771.html 2018年2月1日閲覧。 

  30. ^ ab“金正日の訪中の目的が以前とは正反対”. デイリーNK. (2010年4月1日). https://dailynk.jp/archives/8839 2018年2月1日閲覧。 


  31. ^ “「南北首脳会談の際、北に4億ドル送金」波紋呼ぶ疑惑”. 東亜日報 (2002年9月26日). 2018年2月4日閲覧。


  32. ^ 『激動!!北朝鮮・韓国そして日本 歴史的必然と日本の選択』第5章 実業之日本社、2013年5月。ISBN 978-4-408-10994-7


  33. ^ “【取材日記】マカオの金正男に注目する理由”. 中央日報 (2011年12月30日). 2018年2月4日閲覧。


  34. ^ “金大中政権が北へ送った秘密資金は核開発などに使われた!”. 統一日報 (2009年3月6日). 2018年2月4日閲覧。


  35. ^ 金正日の長男がIT政策の最高責任者(2006年7月14日時点のアーカイブ)North Korea Today


  36. ^ “2001年1月 江沢民・金正日会談”. 人民網. (2010年9月6日). http://j.people.com.cn/94474/100662/100663/7130441.html 2017年12月28日閲覧。 


  37. ^ “北‘新義州(シンウィジュ)特区’霧散 9年ぶりに経済協力 再始動”. ハンギョレ. (2011年6月8日). http://japan.hani.co.kr/arti/PRINT/8294.html 2018年2月1日閲覧。 


  38. ^ “金正日の第2の「天地開闢ショー」”. 統一日報. (2010年5月26日). http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=60941 2018年2月1日閲覧。 


  39. ^ “面縦腹背の金正日訪中”. 在日本大韓民国民団. https://www.mindan.org/front/jijitaronDetail.php?sisaid=88 2018年2月1日閲覧。 


  40. ^ “「 三代世襲はもの笑い、金正男氏告白 」”. 櫻井よしこオフィシャルサイト. (2012年2月2日). https://yoshiko-sakurai.jp/2012/02/02/3386 2018年2月1日閲覧。 


  41. ^ “金正日の中国の改革開放の称賛は建前?”. デイリーNK. (2011年5月25日). https://dailynk.jp/archives/13382 2018年2月1日閲覧。 


  42. ^ 参議院「北朝鮮の核開発問題と六者会合(上)」


  43. ^ 「北朝鮮向け石油 中国 3日間停止」『日本経済新聞』2003.9.12,夕刊.


  44. ^ U.S.-China relations : hearing befo e the Committee on Fo eign Relations, United States Senat , One Hundred Eighth Congress, first session, September 11, 2003. Washington : U.S.G.P.O., 2004, pp.21-22.


  45. ^ “成否占う「石油」カード 北朝鮮制裁、輸出3割減で決着”. 日本経済新聞. (2017年9月20日). https://www.nikkei.com/article/DGXKZO21303730Q7A920C1EA1000/ 2018年2月1日閲覧。 


  46. ^ 「最高指導者は国防委員長――北朝鮮、改正憲法に明記」『産経新聞』2009年9月26日付朝刊。


  47. ^ “【朝鮮半島ウォッチ】金正日総書記「崖っぷち」の68歳誕生日”. 産経新聞. (2010年2月6日). http://sankei.jp.msn.com/world/korea/100206/kor1002060702001-n1.htm 


  48. ^ “金総書記:6カ国再開に前向き「条件作りたい」”. 毎日新聞. (2010年5月7日). http://mainichi.jp/select/world/news/20100508k0000m030062000c.html 2010年5月8日閲覧。 


  49. ^ “中国、金総書記の大規模支援要請断っていた”. 読売新聞. (2010年5月17日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100517-OYT1T00830.htm 2010年5月18日閲覧。 


  50. ^ http://mainichi.jp/select/world/asia/news/20100831k0000m030068000c.html


  51. ^ “44年ぶり北朝鮮党代表者会、金総書記再び推挙” (日本語). 読売新聞. (2010年9月28日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100928-OYT1T00685.htm 2010年9月28日閲覧。 


  52. ^ “ジョンウン氏「後継」確定…党軍事委副委員長に” (日本語). 読売新聞. (2010年9月29日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100929-OYT1T00141.htm 2010年9月29日閲覧。 


  53. ^ “北朝鮮・労働党創建65周年、金正日・金正恩親子が並んで壇上に”. 中央日報. (2010年10月11日). http://japanese.joins.com/article/745/133745.html 2017年5月5日閲覧。 


  54. ^ “金正恩氏、北朝鮮の軍パレード観閲” (日本語). AFPBB News (フランス通信社). (2010年10月10日). http://www.afpbb.com/article/politics/2765317/6313661 2017年5月5日閲覧。 


  55. ^ “中国副首相と金総書記会談、友好強化を確認 正恩氏も同席”. 日本経済新聞 (2011年10月25日). 2017年5月5日閲覧。


  56. ^ “拉致再調査中止「金正日氏急病で」…福田元首相”. 読売新聞. (2012年11月22日). http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121122-OYT1T01655.htm 2012年11月23日閲覧。 


  57. ^ 【金正日総書記死去】 朝鮮中央通信の報道内容 産経新聞 2011年12月19日閲覧


  58. ^ “北朝鮮の金正日総書記が17日に死去、正恩氏が権力継承へ”. ロイター (2011年12月19日). 2011年12月19日閲覧。


  59. ^ “金総書記死去:訃告「金正恩氏後継」伝えるも各国混乱警戒”. 毎日新聞 (2011年12月20日). 2011年12月12日閲覧。


  60. ^ 産経


  61. ^ 産経


  62. ^ 「金正恩氏、『第1書記』に=正日氏は『永遠の総書記』-北朝鮮」時事通信(時事ドットコム)2012年4月11日付配信記事(2012年4月11日閲覧)。


  63. ^ 「北朝鮮:正恩氏が国防委員会第1委員長に…権力継承を完了」『毎日新聞』2012年4月13日付記事(2012年4月14日閲覧)。


  64. ^ 日本語では『将軍』に対しての敬称は『閣下』であるが、朝鮮語では上位者を呼ぶ際に社長様、先生様など肩書きの後に『様』をつける呼び方が一般的に用いられている。従って「将軍様」の厳密な訳はただの「将軍」である。同様の敬称として金日成に対する「首領様(수령님:スリョンニム)」などがある。


  65. ^ 列車はすべて爆弾に耐えられる仕様になっているという説もあるが、実際は金正日が搭乗する客車の床にだけ防弾鉄板が敷かれているともいわれる[誰によって?]。『朝鮮日報』【金正日研究】鉄道好む金総書記 飛行機利用は65年のみ


  66. ^ “統一グループ、北朝鮮と合弁の平和自動車から撤退”. 中央日報日本語版 (中央日報). (2012年11月27日). http://japanese.joins.com/article/862/163862.html 2017年12月28日閲覧。 


  67. ^ 有田芳生の『酔醒漫録』山崎拓訪朝は統一教会ルートだった


  68. ^ “「マカオ凍結口座は金正日総書記の統治資金」米”. 中央日報. (2005年12月23日). http://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=70979 2018年2月14日閲覧。 


  69. ^ “金総書記、欧州に逃亡資金 3600億円保有と英紙”. 47NEWS. (2010年3月15日). http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010031501000880.html 2010年3月15日閲覧。 


  70. ^ 「国家映画文献庫」については外部リンク 朝鮮日報Web日本語版2005年4月7日 を参照。[リンク切れ]


  71. ^ 金総書記、平壌の会員制ゴルフクラブで11ものホールインワン達成 - 北朝鮮 写真2枚 国際ニュース AFPBB News[1]、時事ドットコム:金正日総書記の死はゴルフ界の大損失?[2]などの記事より。また、2011年1月13日に、イギリスと中国の旅行会社が共同で開設した北朝鮮でのアマゴルフ大会(4月26日 - 4月30日に開催された)ツアー販売のウェブサイトにもこの話が書かれている。


  72. ^ JNNの報道や、フジテレビの土曜プレミアム(2011年7月2日放送)での渡部陽一(戦場カメラマン)の取材による情報などから


  73. ^ 時事ドットコム:金正日総書記の死はゴルフ界の大損失?[3]


  74. ^ 【萬物相】金正日総書記の「21世紀3大バカ」論[リンク切れ]




参考文献



北朝鮮側の文献




  • 李珍珪『二十一世紀と金正日書記』1995 朝鮮青年社


  • 尾上健一『金正日主義入門』1995 白峰社 ISBN 4938859033

  • 朝鮮・金正日伝編纂委員会『金正日伝 (第1巻)』2004 白峰社 ISBN 4434041657

  • 朝鮮・金正日伝編纂委員会『金正日伝 (第2巻)』2005 白峰社 ISBN 4434060910


  • 在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会『金正日略伝』1995 雄山閣出版 ISBN 4639012764


  • 朝鮮新報社朝鮮問題担当班『キム・ジョンイルプラン―21世紀をリードするリーダーの戦略』1997 朝鮮青年社 ISBN 4885220475



その他の文献




  • 伊藤輝夫『お笑い北朝鮮―金日成・金正日親子長期政権の解明』(コスモの本 1993年9月 ISBN 4906380506)


  • テリー伊藤『新お笑い北朝鮮』(ダイヤモンド社 2004年4月1日 ISBN 4478942056)


  • 河信基『金正日の後継者は在日の息子―日本のメディアが報じない北朝鮮「高度成長」論』(講談社 2004年12月)


  • 恵谷治『「金正日と朝鮮人民軍」秘密のベールをすべて剥ぐ!―北朝鮮解体新書』(小学館 1997年11月 ISBN 4091031366)


  • 重村智計『金正日の正体』(講談社、2008年8月 ISBN 9784062879538)

  • 佐藤守 『金正日は日本人だった』 講談社、東京、2009年10月28日、初版発行。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
    ISBN 4-06-215766-7。



関連項目



  • 金正日の呼称一覧


  • 金正日の歌(金正日を賛美する歌謡の一覧)


  • 金正日花(金正日のためとされ、日本の農家が品種改良して作った花)

  • 正日峰

  • 主体思想

  • 共産主義

  • 独裁者

  • 個人崇拝


  • 藤本健二(金正日の元・専属料理人)


  • 普天堡電子楽団(金正日からの指令で結成された音楽グループ)

  • 喜び組

  • 映画『プルガサリ』

  • 金正日 (映画)

  • 北朝鮮による日本人拉致問題

  • 大韓航空機爆破事件

  • 龍川駅列車爆発事故


  • プリンセス・テンコー(金正日が彼女の大ファン)



外部リンク








  • 在日本朝鮮人総聯合会>朝鮮労働党金正日総書記


  • 「金正日略伝」 朝鮮外国文出版社2001年中国語版


  • 「逸話集 偉大な人間金正日」 朝鮮外国文出版社中国語版






朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国





先代:

金日成


最高指導者


1994年 - 2011年


次代:

金正恩







先代:


金日成
(国家主席が国防委員長兼務)


国防委員長


1993年 - 2011年


次代:

廃止
(金正恩が第一委員長に就任)







先代:

金日成



朝鮮人民軍最高司令官


1991年 - 2011年


次代:

金正恩



Flag of the Workers' Party of Korea.svg 朝鮮労働党





先代:


金日成
(1994年から空席)


中央委員会総書記


1997年 - 2011年


次代:

廃止
(金正恩が第一書記に就任)









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