孫権
この記事の正確性に疑問が呈されています。問題箇所に信頼できる情報源を示して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2018年10月) |
この記事の内容の信頼性について検証が求められています。 確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記し、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。議論はノートを参照してください。(2018年10月) |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年10月) |
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2018年10月) |
大帝 孫権 | |
---|---|
呉 | |
初代皇帝 | |
呉大帝(閻立本筆、ボストン美術館蔵) | |
王朝 | 呉 |
在位期間 | 229年5月23日-252年5月21日 |
都城 | 武昌(229年)、建業(229年後) |
姓・諱 | 孫権 |
字 | 仲謀 |
諡号 | 大皇帝 |
廟号 | 太祖 |
生年 | 光和5年(182年) |
没年 | 神鳳元年4月26日 (252年5月21日)[1] |
父 | 孫堅(次男) |
母 | 呉夫人 |
后妃 | 潘皇后 |
陵墓 | 蒋陵 |
年号 | 黄武(222年 - 229年) 黄龍(229年 - 231年) 嘉禾(232年 - 238年) 赤烏(238年 - 251年) 太元(251年 - 252年) 神鳳(252年) |
孫 権[2](そん けん)は、三国時代の呉の初代皇帝。字は仲謀[3]。
目次
1 生涯
1.1 家系について
1.2 幼年・少年期
1.3 政権を担う
1.4 荊州・交州の争奪
1.5 三国鼎立
1.6 晩年
1.7 陵墓
2 人物
2.1 風貌
2.2 性格
2.3 趣味
3 評価
4 逸話
5 年譜
6 家系図
7 続柄
7.1 父母
7.2 兄弟姉妹
7.3 后妃
7.4 子
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク
生涯
家系について
清代の『四庫全書』の記載によると、先祖は春秋時代の兵法家・孫武に遡るとされ、さらに浙江省杭州の富陽区南部に龍門古鎮という村があり、現在は観光地になっている。この村では9割の人の姓が「孫」で、孫権の末裔と自称している。この村の族譜では、革命家の客家の孫文も該当するというが、実際には孫権の祖父を初めとしてどのような家柄の生まれであったのか真偽の程は不明である[4]。
幼年・少年期
182年(光和5年)、父の孫堅が下邳の県丞であった時、五男三女の第四子(次男)として生まれた。
184年(光和7年)、太平道の張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、父は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦、孫権と母の呉氏や兄弟たちを九江郡寿春に残した。189年(中平6年)、兄の孫策に連れられ廬江舒の周瑜屋敷に移住した。191年(初平2年)、父が黄祖の部下に射殺された(襄陽の戦い)。葬式が終わった後、一時的に広陵郡江都に移り住み、呉夫人はそのまま遺児を扶養した。
193年(初平4年)、孫策は袁術の旗下に入った際、呂範を遣わして家族を曲阿に住む呉景の元へ送り届けた。翌年、孫策は袁術の為に廬江を攻めていた。揚州の刺史劉繇は袁術と孫策を恐れて対立の構えを取って、呉景が丹陽郡を追われた。この時、孫策の家族はことごとく劉繇の地盤に在ったため、朱治は人を曲阿に使わして呉氏および孫権と弟たちを引き連れて脱出し、これを保護した(呉書朱治伝注『江表伝』)。母と共に歴陽や後の阜陵に移住した。
195年(興平2年)、孫策が江東で挙兵する。劉繇軍を破った後、孫策は曲阿に入って、部将の陳宝を阜陵に派遣して一族を迎えた。その後の征戦で、孫権は常に兄に随従した。この頃孫権は士人と交流をはじめるようになり、その名が知られるとそ名望は父や兄に等しくなった。孫権は計略や謀議があるたびに参画し、孫策は彼を非常な逸材として自身でも及ばないと考えた。
196年(建安元年)、これを陽羨県長とした。奉義校尉を代行した。呉郡に胡綜と朱然に学問を学んだ。周泰と潘璋がその配下になる。この年、孝廉に挙げられる。
199年(建安4年)、孫策の廬江太守劉勲の征伐に従った。劉勲を破ると、進んで沙羨(武漢市江夏区西郊)に黄祖を討った(孫策の江東平定)。徐州広陵郡を攻めたが、広陵太守の陳登に大敗した[5]。
200年(建安5年)初、孫氏は曹操と同盟を結んでいた。孫権と弟の孫翊か司空である曹操に招聘された(実際は人質として)。結局は行かなかった。
政権を担う
父の孫堅、兄の孫策を相次いで亡くし、200年春、19歳で軍閥の後継者となる。張昭に師傅の礼を執り、父や兄から引き継いだ家臣団周瑜・程普・呂範らをまとめあげると共に、積極的な人材登用を行っていた。この際に周瑜からも「主君は賢者に親しみ士人を尊重され、奇才を認め異能を取り上げておられます。先哲によって天命を承けて劉氏に代わる者は必ず東南に興るとのことでし、最終的に帝業の基を築き上げた」と予言され、そして魯粛を薦めた。魯粛は「北方の騒乱に乗じて黄祖・劉表を攻めて荊州を制圧し、長江を北岸として割拠してから、自ら帝王を名乗るべしとした」を提案した。これからも陸遜・諸葛瑾・歩騭・顧雍・是儀・厳畯・呂岱・徐盛・朱桓・駱統らが登用した。同年、廬江太守の李術が離反したり、孫権は徐琨・孫河を率いて、兵を挙げて皖城に李術を攻めた。李術が討死、その部曲三万人を得る。
203年(建安8年)、父の仇である黄祖を討伐する。黄祖軍は敗れて奔走した。しかしこの時、揚州の非漢民族である山越の反乱が活発になった。孫権は豫章に帰ってきて、呂範に命じてに鄱陽を平定させ、程普に楽安を討たせる。建安・漢興・南平の不服従民達が復た乱れ、賀斉に命じて撃破した。反乱の頭目は悉く捕虜となり、討ち取った首は6千にもなったという。のち黄祖の元部下甘寧を受け入れる。それ以外に、孫翊や孫河か媯覧に殺されたり、従兄弟の孫暠が反乱を企てたり孫輔が曹操と内通したりと問題があったが、解決した。腹心の顧徽を曹操へ使者として派遣し、朝廷の内情を調査する。
206年(建安11年)、孫権は周瑜・孫瑜・凌統を率いて、山越の麻屯・保屯を討伐する。一万人余りの捕虜を得、勝利を収めた。
207年(建安12年)、黄祖に西征し、母が重い病気になったのでその人を捕虜として帰還した。翌年(建安13年)には黄祖を討ち取った。江夏郡の南部を得た。
この年の年末、曹操が大軍を率いて南下してくると、孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。「近ごろ罪状を数えたてて罪びとを討伐せんとし、軍旗が南に向ったところ、劉琮はなんら抵抗も示さず降伏した。今度は水軍八十万の軍勢を整えて、将軍(あなた)とお会いして呉の地で狩猟[6]をいたそうと思う。」孫権はこの手紙を受け取ると群臣たちに示したが、震え上がり顔色を変えぬ者はなかった[7]。豪族の集合体である孫氏軍閥の性質から、帰順派(張昭・秦松等)が多勢を占める中、孫権は抗戦派(周瑜・魯粛等)の意見、及び孫権に救援を求めるために魯粛に随行する形で劉備から派遣された諸葛亮の説得により開戦を決断した。孫権は刀を抜くと前に置かれた上奏文を載せるための案(つくえ)を斬りつけて、「お前たちの中に、これ以上、降伏すべしと申す者がおれば、この案(つくえ)と同じ運命になると思え」と言った[8]。かくして孫権は劉備と同盟を結び、曹操と戦うこととなった。周瑜らは同年の赤壁の戦いで、黄蓋の火攻めにより曹操の水軍を大いに破る。江南の気候や地勢に不慣れな曹操軍は疫病に苦しめられていたこともあって、不利を悟って撤退した。赤壁の戦いの前後に、孫権は10万の兵を率いて、百余日、合肥を攻撃したが、落とすことができずに撤退した。
荊州・交州の争奪
戦後、劉備は劉表の長子の劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合した。また、孫権は劉備とともに南郡を攻め取り獲得し、劉備の上奏で徐州牧・行車騎将軍に就任した。その後、程なくして劉琦が死去したために劉備自ら荊州牧となった。妹を劉備の正室として嫁がせ、劉備は呉の京都である京口に赴き、孫権と面会し、個人的な友情を結ぶ。京口会談では赤壁から荊州争奪戦で獲得した領地の領有権について話し合った結果、劉備と協調して曹操に対抗すべきだという魯粛の提案により、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与えることとし、劉備は南郡・武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部の五郡を領有することとなった。
210年(建安15年)、交州刺史の歩騭を派遣して、士燮を服属させ、呉巨を謀殺した。交州の南海・鬱林・交阯・日南・珠崖・儋耳・蒼梧・九真・合浦の九郡を領有した。
212年(建安17年)から翌年にかけて、曹操と濡須で交戦し、みずから出陣してこれを撃退した(濡須口の戦い)。
214年(建安19年)5月、呂蒙・甘寧を率いて曹操領の皖城を攻撃、攻城戦は朝の内に終了した。廬江太守の朱光と数万人の男女を捕らえた。
215年(建安20年)、合肥城を攻め、孫権は合肥の戦いなどにあっては攻撃時は自ら陣頭に立ち、退却時には最後まで戦場に残って退却の指揮を執るなど勇猛果敢であったが、それが過ぎて軽率である場合もあり、命を落としかけたことも幾度かあった。
同年、劉備が益州刺史の劉璋を攻め降して益州を領有すると、孫権は劉備に荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡の返還を要求した。しかし、劉備は涼州を手に入れてから荊州の全領地を返すとして履行をさらに延期した。業を煮やした孫権は3郡を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、呂蒙ら軍隊を派遣し、長沙・桂陽・零陵を奪ってしまった。劉備も大軍を送り込み、全面戦争に発展しそうになったが、曹操が漢中に侵攻したので、劉備は孫権と和解し、長沙・桂陽を孫権に返還し、表向きの同盟友好関係が回復した。実際にはこの年、孫権は呂蒙の意見を採用して、荊州への征討戦争を準備している。
217年(建安22年)、曹操が濡須を攻撃したため、呂蒙を大将に任命して防がせた(濡須口の戦い)。山越も曹操に呼応して挙兵したが、賀斉と陸遜に命じて撃破した。曹操との戦線が膠着すると孫権は徐詳を派遣して曹操に形式的に臣従を申し入れたため曹操軍は引き揚げ、そして曹操に帝位を勧めた。この手紙を見た曹操は「この小僧が、跪いてみせながら、私をいろりの炭の上に据えようというのか」と言った。[9]
劉備が益州と荊州の半分を支配して勢力を拡大する中、219年(建安24年)、荊州の守備を任されていた関羽は軍を率いて北上した。孫権は呂蒙・陸遜を率いて関羽を討伐する、呂蒙は先鋒としてに南郡、零陵、武陵三郡を奪わせ、退路を失った関羽を捕らえて処刑した(樊城の戦い)。後、張承・闞沢・潘濬・劉基に招聘された。
三国鼎立
荊州の奪取によって劉備と敵対した孫権は、死去した曹操の後を継いだ曹丕に接近した。後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国した曹丕の皇帝位を承認し、形だけ臣下の礼をとって呉王に封ぜられた。また、陳化・馮熙・沈珩・趙咨らを使者として派遣された、魏との安定した関係を築いた。
北方の安全を確保した孫権は、222年(黄初3年)、荊州奪還のために東進してきた劉備率いる蜀漢軍を夷陵の戦いで陸遜に迎え撃たせて打ち破り、荊州の領有を確実にした。孫権は劉備が白帝に留まっていると聞き、使者の鄭泉を派遣して和睦を請うた。劉備はこれを同意し宗瑋・費禕らを何度も派遣して答礼させた。これによって、三国の領域が確定した。蜀漢を破り和睦したため、魏と同盟する必要のなくなった孫権は、形式上臣従していた魏から離反し、黄武という独自の元号を使い始めた。この年が呉の建国の年とされる。失意の劉備が死去すると、諸葛亮は孫権が劉備の死去を聞けば異心を抱くだろうと深く心配していたが、鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整えさせた。こうして翌223年(黄武2年)、蜀漢と再び同盟した。以後、呉は蜀漢と結んで魏に対抗し、諸葛亮の北伐など蜀漢の動きに呼応してたびたび魏へ侵攻した。このように、孫権は巧みな外交によって勢力を拡大・維持した。
222年から223年にかけて、呉は3方向から魏に攻められ苦戦したが、朱桓が曹仁を破り、疫病が流行したため、魏軍は退却した。
224年(黄武3年)、魏は再び攻めてきたが、徐盛が長江沿岸に偽の城壁を築いていたため、これに驚いた魏は戦わずして退却した。
226年(黄武5年)、孫権は呂岱を派遣して、士徽の反乱を鎮圧し、交州の支配を強化した。同年、孫権・孫奐・鮮于丹は江夏を攻め、諸葛瑾は襄陽を攻め、孫奐・鮮于丹は高城を落としたが、諸葛瑾は司馬懿らに敗れ、孫権らは撤退した。
228年(黄武7年)、周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出した。陸遜は朱桓・全琮を率いて曹休と戦い、大勝した(石亭の戦い)。
229年、群臣が皆な孫権に帝位に即くことを進言した。したがって、孫権が皇帝に即位した。呉の初代皇帝(太祖大皇帝)となるとともに、元号を黄龍と改めた。なお、蜀は呉との同盟関係を維持することに決め、陳震を祝賀の使者として呉に赴かせた。武昌において孫権と会盟し、天下を分配することを誓約し合った。やがて建業に遷都する。
230年(黄龍2年)、衛温・諸葛直に1万を与え、夷州と亶州の捜査を行わせた。夷州から数千人を連行するも、この捜査は失敗に終わり、孫権は、衛温・諸葛直を処刑した。
233年(嘉禾2年)3月、顧雍・陸遜・張昭ら重臣の諫止を聞かず、公孫淵の内通を真実と信じ、張弥・許晏・賀達らに九錫の礼物と策命書を携え兵1万を動員した。結果は家臣の予想通り、公孫淵は孫権が派遣した使者を斬り、恩賞を奪った上で魏に寝返ってしまった。激怒した孫権は自ら公孫淵征伐を行おうとしたが、薛綜ら側近達の諫止により思いとどまった。
234年(嘉禾3年)、蜀軍との同盟により、諸葛亮の北伐と共に荊州と合肥を攻めるが、満寵に苦戦し、曹叡の親征軍が来ると聞くと撤退した。この年から3年間、諸葛恪・陳表・顧承らを派遣して山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士として6万人徴兵した。
236年(嘉禾5年)に五銖銭500枚、238年(嘉禾7年)に五銖銭1,000枚の価値を持つ貨幣を発行した。
晩年
赤烏初年、佞臣とされる呂壱を側近として重用していたが、後に悪事が露見して処刑されている。
239年(赤烏2年)、公孫淵が魏に対して挙兵し、孫権に援軍を求める。呉の人々はみなその使者を斬ろうとしたが、ひとり羊衜だけは援軍を送り、魏を攻撃するよう提案した。孫権はこれを聞き入れ、援軍として羊衜・孫怡・鄭冑を派遣し、魏の張持・高慮を破る。公孫淵は魏に討たれたが、魏の人を捕虜として帰国した(遼隧の戦い)。
241年(赤烏4年)、朱然や諸葛瑾に命じて大軍で魏を攻めたが、結局大きな戦果は得られなかった(芍陂の役)。この年、皇太子であった長男の孫登が33歳で病没すると、翌年3男の孫和を太子に立てた。しかし、当時寵愛していた4男の孫覇を孫和と同等の処遇としたため、立太子を期待する孫覇派と、廃太子を防ごうとする孫和派との対立を招いた。後継者をめぐる家臣たちの対立は泥沼化。孫権は2人の不和を案じて人の出入りを禁止し、学問に励むよう訓戒をしたが、対立は止まなかった。
243年(赤烏6年)に諸葛恪が魏を攻め、六安で謝順を破った。
244年(赤烏7年)に歩騭・朱然らが、蜀が魏と通じて、呉を攻めようとしていると言上した。孫権は自分の名誉にかけて保証し、結果的に孫権の予測が的中した。また武将が叛亡してその妻子を連座し処刑のことが禁止された。
247年(赤烏10年)、孫権が諸葛壱に命じ魏の諸葛誕を誘き寄せようと謀り、自分でも軍を率いて出陣した。諸葛誕らは撤退した。
後継者を巡る息子たちの争いに嫌気が差した孫権は、末子の孫亮を寵愛し出す様になり、250年(赤烏13年)に結局両者を排して彼を太子に立てた。この10年に渡る対立は、家臣団の間に大きな亀裂を生んだほか、多くの家臣が処刑・自殺・追放に追い込まれ、呉という政権の求心力を大きく低下させた(二宮事件)。のちに孫権は、死の床で孫和の無実を悟り、彼の名誉を回復しようと考えたが、孫和を憎悪していた長女の全公主の讒言により思いとどまっている。
251年(太元元年)、長江が氾濫し、城門まで水に浸かる被害が出て、孫権が視察すると、呂拠は大船をつなぎとめて被害が出るのを防ぐために尽力した。孫権はこれを喜び、呂拠を盪寇将軍とした。11月、風疾で重体になると、諸葛恪に政務の処理を一任した。諸法令への意見について、孫権はそのつど聴許した。百姓は大喜びする[10]。
252年(神鳳元年)4月25日、危篤になると、諸葛恪・孫弘・孫峻・滕胤・呂拠らに後事を託し、翌日、孫権は崩御し孫亮が皇帝となった。
陵墓
同年7月、蒋陵に葬られた。陵墓は、南京(建業)東の梅花山にある。
人物
風貌
高貴な人相、あごが張って、口が大きく、瞳にはキラキラとした光があった(『江表伝』)[11]。なお、漢の劉琬が16歳の孫権に会うときは、「形貌奇偉」と語ったという。野史には、司馬懿・桓温と格好が似ていると言われる[12]。
後世の文人によって、傑出した若君として描かれている。宋の詞人辛棄疾の『南郷子・登京口北固亭有懐』という詞では「年少万兜鍪,坐断東南戦未休。天下英雄誰敵手?曹劉。生子当如孫仲謀」と歌われた。 唐の「歴代帝王図巻」では、手には麈尾を持ち、その指導力が高く評価された。
小説『三国志演義』では、「碧眼紫髯,堂堂一表」と堂々とした風采の持ち主として描写されている[13]。「碧眼児」(青瞳の童)と呼ばれる。
性格
度量が広く朗らか、優しいだけでなく決断力がある性格、侠気を好み士を養う(性度弘朗,仁而多断,好侠養士)(『江表伝』)。
言動がおどけていて、無茶苦茶な冗談を飛ばしてからかう性格(性既滑稽,嘲啁無方)。
曹丕と鍾繇は「嫵媚」[14]という形容を使い孫権の柔軟な物腰を評している。(『魏略』)
質素倹約を好んだ。即位後、建業に新たな宮殿を建てたりせず、今までの将軍府を使い続けていたが、やがて老朽化が進んだ。そこで、築28年ほどの武昌宮を解体して資材にして修繕した。また後宮の女性も、糸つむぎの仕事をする女官なども含めて百名に足らない程度しか置かなかった。
趣味
狩りが好き、暮に迨んで帰るのが常だった。呉県にいこうとして親しく乗馬し、庱亭で虎を射た。馬が虎に傷つけられたので孫権は双戟を投げたところ、虎は怯んだので、近侍の張世が戈で撃ってこれを獲えた。時には群を逸れた獣があって、そのたび復た車を犯したが、孫権は事毎に手ずから撃って楽しんだ。また張遼の言によると、武芸においては馬をよく操り、騎射が得意であったという(『献帝春秋』)。北宋の詩人である蘇軾の『江城子・密州出獵』には「親射虎,看孫郎」と歌われている。
また書を好み、隷書と草書と行書が巧みで[15]、唐の張懐瓘の『書估』では、「奇材見拔,絶世難求」と評されている。
評価
呉への使者を務めた趙咨が魏の曹丕に尋ねられた際、「聡明、仁智、雄略」と評している。
賈詡は、「孫権は虚実を識り、陸遜が兵勢を見ており、険阻に拠って要衝を守り、江湖に舟をうかべ、皆にわかに謀るのは困難です。用兵の常道は、先ず勝った後に戦い、敵を量って将を論じるもので、それゆえ事を挙げても遺策は無いのです。臣がひそかに群臣を料るに、劉備や孫権に対応できるものはおりません」と評している。
正史『三国志』撰者の陳寿は、「孫権は、身を低くし辱を忍び、才能ある者に仕事を任せ綿密に計略を練るなど、 越王勾践と同様の非凡さを備えた、万人に優れ傑出した人物であった。さればこそ江南の地を自らの物とし、三国鼎立をなす呉国の基礎を作り上げる事が出来たのである」と功績を称えるも「その性格は疑り深く、容赦なく殺戮を行い、晩年に至ってそれが愈々募った」と評し、「その結果、讒言が正しい人々の行いを断ち切り、跡嗣ぎ(孫和・孫覇)も廃され殺される事になった(至于讒説殄行,胤嗣廢斃)。子孫達に平安の策を遺して、慎み深く子孫の安全を図った者とは謂い難い(豈所謂貽厥孫謀以燕翼子者哉)。その後は代が衰微し遂には国が滅びる事になるのだが(其後葉陵遲,遂致覆國)、その遠因が彼のそうした行いに無かったとは言い切れない(未必不由此也)」と、彼の晩年の振る舞いを批判している。
『異同雑語』の著者の孫盛は、「孫権が士を養うさまを見ると、心を傾けて思いをつくすことで、その死力を求めたのである(觀孫權之養士也,傾心竭思,以求其死力)」と評した。
陸遜の孫陸機は『弁亡論』で、「太祖(孫権)は徳を以て成し、聡明睿達にして、懿度深遠であった。賢者を求めるに果てしもなく、民を幼子のように哀れみ慈しみ、人に接するに優れた徳を盡し、仁者に親しむ際は心の底から愛を尽くした。呂蒙を軍隊より抜擢し、潘濬を捕虜の中に見出した。誠信なる人物を推挙し、人が自分を欺くことなど憂えず、才能を量って適所に用い、それらの権力が自分を冒すなども憂うことは無かった。馬に乗り鞭を取っても身をかがめて敬いつつしむことで、陸公(陸遜)の威厳を重くし、近衛兵まで悉く委ねることによって、周瑜の軍を救った。宮殿は質素にし、食事も粗末にして、功臣への恩賞を豊かにし、心を開き人の話によく耳を傾けて、国家の大計を唱える者の意見を容れた。それだから魯粛は一度会っただけで自らを託し、士燮は險を冒して臣下となることを望んだのである。張公(張昭)の德を尊び、そうして狩の楽しみを減らし、諸葛瑾の言うことを尊んで、情欲の楽しみを割き、陸公の規(いましめ)に感じ入って刑罰に関する政治の煩しさを取り除き、劉基の議論を優れているとして「三爵之誓」を作り、身の置き所のないほど、おそれ慎んでいる子明(呂蒙)の病を見舞い、滋養のある物を分け与え、甘い物を減らして凌統の孤児を育て、天子の位に就き、意気上がり感激するにも、それを魯粛の功績に帰し、悪言など見向きもせずに子瑜(諸葛瑾)の忠節を信じた。こういう訳で忠臣達は競って其の謀を尽くし、志士は皆尽力することができたし、大計は遠略にして、固より区々たるに飽きぬものであった。だから百官は幾らかまとまってはいたが、庶務については未だ手が回らなかった」と評した。また誄文を著しその死を悼んでいる[16]。
逸話
濡須口の戦いの際、孫権は自ら軽船に乗って曹操の軍営に入った。諸将らが迎撃しようとしたところ、曹操が「これはきっと孫権が自ら我が部隊を見ようとしたものだ」とし、軍中は厳戒し、弓をみだりに撃たせなかった。孫権は行くこと五・六里で回頭し、鼓吹して帰還した。曹操は孫権の布陣に少しの乱れも無いことに感嘆し、「息子を持つならまさに孫仲謀のようなのがいい」(生子當如孫仲謀)と周囲に語ったという。孫権が曹操への札簡で説くには 「春はまさに水が生ず。君は宜しく速やかに去るべし。」別の紙で言うには、「足下が死なねば私は安んずる事が出来ぬ。」曹操が諸将に語るには「孫権は私を欺かぬ」かくして軍を徹収して帰還した (『呉録』)。
孫権は呉王に封建されると酒宴を開いて自ら酒を注いで回ったが、虞翻は酔い潰れた演技でやり過ごし、孫権が去るとすぐに居住まいを元の如く正した。孫権は大いに怒り、かつて曹操が孔融を処刑した例を引き合いに虞翻を斬ろうとしたが、大臣の劉基が理を尽くして諭した為に遂に虞翻を許した。後に酔いが醒めた孫権は自分の行いを大いに悔い、「以後は酒宴の場で自分が下した命は無効とする」と触れを下した(『虞翻伝』)。
孫権は鄭泉を郎中に任じ、かつて言うには「卿は衆人の中で面と諫める事を好むが、礼と敬意を失する事がある。逆鱗を畏れることがあるのか?」「臣は君が明であれば臣は直だと聞きます。今、朝廷は上下とも無諱の時に遭っております。まことに洪恩を恃んでおり、龍鱗などは畏れておりません」鄭泉に宴会に侍り、孫権は怖れさせようと連れ出させて有司に付し、治罪を促した。鄭泉はこのときしばしば顧みた。孫権は呼び還して笑って曰った「あら、卿は龍鱗を畏れぬと言ったが、どうして出される時に顧みたのだ?」「まことに恩寵が篤く、死の憂いが無いと知っていたのですが、出閤の際に威霊に感応して顧みずにはおられなかったのです」。
武昌で「長安」なる巨大戦艦の進水式を行った際、孫権も船に乗っていたのだが、羅州まで向かう途中で風が激しく吹き、長江が大いに荒れた。万一を危惧した側近達は船長に樊口に向かうように命じたが、大いにはしゃいでいた孫権はそのまま羅州まで向かえと命令を出した。 見かねた側近の谷利が船長に刃を突きつけ「樊口へ向かえ。さもなくば斬る」と脅したため、結局樊口に停泊した。君命を無視された孫権は谷利に「利ちゃん、何故そんなに水を怖がるのだね」とぼやいたところ、谷利に「もし船が転覆したならば、国家の事業をどうされるのでございますか。ですので谷利は、あえて死をかけてお止めしたのでございます」と諭されている。
陸遜が曹休を破った際、孫権は大宴を開いた。酒に酔った孫権は陸遜に命じ、二人で共に舞を踊った。その時着ていた白いモモンガの毛皮で作った衣服を脱いで下賜した(『呉書』『太平要覧』)。
晋の『古今注』によると、六振りの宝剣と三振りの宝刀を所持していたという。剣は「白虹」「紫電」「辟邪」「流星」「青冥」「百里」、刀は「百錬」「青犢」「漏影」という。それに彼が持つ神鋒弩、射程は三里(1.5キロ)、三頭の馬を貫くことができる [17]。
孫権が呉王になると、方士の介象に隠形の術を学び、姿を隠したまま殿門を出入りして見たところ、誰も孫権に気がつかなかったという(『神仙伝』)。
年譜
196年(建安元年) - 15歳のとき、朱治によって孝廉に推挙される。厳象によって茂才に推挙される。
200年(建安5年) - 急死した兄孫策から後継者に指名され、19歳で家督を継ぎ、江東一帯の主となる。曹操の上表により会稽太守・討虜将軍に任じられる。任地には赴かず、呉(現在の蘇州)に本拠を構える。
208年(建安13年) - 父の仇である黄祖を討ち取る。本拠地を京口に移し、曹操に大軍で攻められ家臣には降伏を奨められるも劉備と同盟し、赤壁の戦いに勝利する。
209年(建安14年) - 妹を劉備に嫁がせる。
210年(建安15年) - 歩騭を交州刺史とし、士燮を服属させた。
212年(建安17年) - 本拠地を秣陵に移し、建業と改名。石頭城を改装。妹は呉に帰ってきた。
215年(建安20年) - 劉備から長沙・桂陽を割譲(返還)される。曹操領の最前線合肥を攻めるが、逆に曹操軍の張遼に捕捉寸前にまで追い詰められる(合肥の戦い)。
216年(建安21年) - 濡須口の戦い 前年の合肥の戦いの勝利に乗じて曹操が侵攻してくるも、これを食い止める。
219年(建安24年) - 劉備と手を切って曹操と同盟を組み、関羽を討ち取って悲願であった荊州の奪取に成功。曹操の上表により驃騎将軍・荊州刺史に任じられ、南昌侯に封じられる。
220年(建安25年/延康元年/黄初元年) - 春正月、曹操が逝去。曹丕が代わって丞相・魏王となり、三月に延康と改元する。冬、曹丕が皇帝を名乗り、年号を黄初と改める。
221年(黄初2年) - 四月、劉備が蜀において帝を称する。 本拠地を鄂に移し、武昌と改称する。十一月、魏の朝廷から策命を下され呉王に封じられる。劉備が軍を率いて攻め寄せ、武陵の異民族たちを蜀につくよう誘いかける。孫権は陸遜を総指揮官に命じ、朱然や潘璋らを指揮して進出を防ぎ止めさせる。孫登を王太子に立てる。
222年(黄武元年) - 正月から閏六月の間に劉備を夷陵の戦いで破る。九月、呉は3方向から魏の侵攻を受ける。改元を行い「黄武」の元号を立てて、魏から独立する(実質的な呉の建国年)。十一月、大風により溺死する者が数千名にのぼる。曹休が臧覇に命じ徐陵を襲撃させる。全琮と徐盛はこれを追撃して魏の部将尹礼を斬る。 十二月、鄭泉を使者に立てて白帝にいる劉備を聘問(へいもん)し、友好関係を回復するも依然として魏の文帝とも往来があり、次の歳になってからその交わりは絶たれる。
223年(黄武2年) - 三月、魏の軍がすべて撤退する。四月、群臣たちが孫権に帝位に即くようにと勧進する。劉備が白帝で逝去し、馮熙を公式の使者として弔問を行わせる。十一月、蜀の使者鄧芝と面会し、呉蜀同盟を結び魏との同盟を破棄する。
224年(黄武3年) - 夏、張温を公式の使者として蜀に送る。
228年(黄武7年) - 呉の周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出し、呉の陸遜らは曹休と戦い勝利する(石亭の戦い)。
229年(黄龍元年) - 皇帝に即位。建業に遷都する。
230年(黄龍2年) - 将軍の衛温・諸葛直らに兵1万を率いさせ、夷州および亶州(台湾、沖縄、もしくは日本という説が存在)の探索を行わせる亶州には辿り着けず、夷州の数千人を得るだけで、派遣した兵の大部分を失う。翌年、探索失敗により衛温・諸葛直らを処刑する。
233年(嘉禾2年) - 公孫淵に九錫を賜り、燕王に封じる。しかし使者の張弥と許晏を殺され、その首は魏に送られた。
237年(嘉禾6年) - 諸葛恪らを派遣して揚州の非漢民族である山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士として6万人徴兵した。
247年 (赤烏10年) 武昌宮からの建材を用いて太初宮を改修した。
250年(赤烏13年) - 二宮事件(孫和派と孫覇派の家督争い)を決着させる。
252年(神鳳元年) - 71歳で崩御。蒋陵(現在の紫金山南麓。孫陵崗・梅花山とも呼ばれ、墓標や石像が残る)に葬られる。
家系図
孫鍾? | 孫羌 | 孫賁 | 孫鄰 | 孫震 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫輔 | 孫歆 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫堅 | 孫策 | 孫紹 | 孫奉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1孫権 | 孫登 | 孫英 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫慮 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫和 | 4孫皓 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫謙 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫覇 | 孫壱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫奮 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3孫休 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2孫亮 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫翊 | 孫松 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫匡 | 孫泰 | 孫秀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫朗 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫静 | 孫暠 | 孫綽 | 孫綝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫恭 | 孫峻 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫瑜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫皎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫奐 | 孫壱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫謙 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
● | ● | 孫韶 | 孫楷 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孫河 | 孫桓 | 孫異 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
続柄
父母
- 父
- 孫堅
- 母
- 呉夫人
兄弟姉妹
- 孫策
- 姉(弘咨妻)
- 姉(陳某妻、娘が潘濬の次子の潘祕に嫁ぐ)
- 孫翊
- 孫匡
- 孫朗
- 孫夫人
后妃
謝妃、徐妃(即位前の正室)- 皇后 潘淑
- 夫人歩練師、琅邪王夫人、南陽王夫人、袁夫人、趙夫人
- 謝姫、仲姫
子
- 男子
- 宣太子 孫登(子高)
- 建昌侯 孫慮(子智)
- 文帝 孫和(子孝)母は王夫人
- 魯王 孫覇(子威)母は謝姫
- 斉王 孫奮(子揚)母は仲姫
- 景帝 孫休(子烈)母は王夫人
- 廃帝 孫亮(子明)母は潘皇后
- 女子
- 全公主 孫魯班(大虎)母は歩夫人
- 次女(劉纂に降嫁し、早世)
- 朱公主 孫魯育(小虎)母は歩夫人
そのほか、滕胤に嫁いだ娘がいる、養女と思われている[18]。
- 養子
- 凌烈
- 凌封
脚注
^ 『三国志』諸葛恪伝
^ 繁体字の表記:孫權、簡体字の表記:孙权、ピン音:Sūn Quán。
^ ピン音:Zhòngmóu。
^ 『呉書』孫破慮討逆伝による。また、南朝の宋代に記された『異苑』によると、孫権の祖父は「瓜売り」をしていた孫鍾という人物だという。同じく南朝宋の文献される『幽明録』(現在は散逸)にも孫鍾の名が記載されている。さらに、東晋の裴啓の『裴子語林』にも孫鍾の事項が記されている。
^ 『三国志』陳矯伝
^ いっしょに狩猟をするというのは、戦って雌雄を決するという裏の意味。
^ 江表伝
^ 江表伝
^ 『晋書』
^ 『三国志』諸葛恪伝引『呉書』
^ 中華民国の學者黎東方『細説三国』では、「あごが張って、口が大きく」は四方を安定させ、「瞳にはキラキラとした光があった」は活気を体現している。象徴を意味すると言われている
^ 『世説新語容止』
^ 『三国志演義』四十三回
^ 嫵媚とは、(女性・草花などが)美しくかわいい,なまめかしい,あでやかであるの意。
^ 『書史会要』に「大帝孫氏,諱權,字仲謀,堅之子,善行草隸」という。
^ 『宋書·卷十九·志第九』より
^ 『藝文類聚』に引く『會稽典録』
^ 滕胤に嫁ぐ際に公主と呼ばれている、後文には孫奐の娘である孫壱の妹が確認されている(『三国志』滕胤伝)
参考文献
陳寿、裴松之注『正史 三国志』、井波律子・今鷹真・小南一郎 訳・解説(ちくま学芸文庫全8巻、1992 - 93年)、※呉書は6・7・8巻、小南一郎訳。- 王敏 編『中国歴代王朝秘史事典』、河出書房新社、1999年、ISBN 4-309-22339-7。
金文京『中国の歴史04 三国志の世界』、講談社、2005年、ISBN 4-06-274054-0。
関連項目
玄武湖 - 南京市の北東にある湖。孫権が水軍の訓練を行った場所として有名。
明孝陵 - 孫権墓の近くにある明の太祖洪武帝朱元璋の陵墓。孫権墓を避けるため参道が曲がったと言われる。
石頭城 - 212年(建安16年)に孫権により築城され、南京では数少ない三国志関連の遺跡である。別称を鬼顔城とも称す。
黄鶴楼- 223年、孫権によって軍事目的の物見櫓として建築されたが。中国の『江南三大名楼』のひとつである。
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、孫権(カテゴリ)に関するメディアがあります。
|
|
|
|
|