ポルトープランス
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ポルトープランス Vil Pòtoprens Ville de Port-au-Prince | |
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ポルトープランス | |
位置 | |
ハイチ内のポルトープランスの位置 | |
座標 : 北緯18度32分 西経72度20分 / 北緯18.533度 西経72.333度 / 18.533; -72.333 | |
歴史 | |
建設 | 1749年 |
行政 | |
国 | ハイチ |
県 | 西県 |
郡 | ポトプランス郡 |
市 | ポルトープランス |
市長 | Jean Yves Jason |
地理 | |
面積 | |
市域 | ? km2 |
標高 | 98 m |
人口 | |
人口 | (2007年現在) |
市域 | 1,082,800人 |
都市圏 | 1,728,100人 |
その他 | |
等時帯 | EST (UTC-5) |
夏時間 | EDT (UTC-4) |
ポルトープランス(ハイチ語:Pòtoprens、標準フランス語:Port-au-Prince)は、ハイチ共和国の首都。フランス語で「王子の港」を意味する。
ゴナーヴ湾に面し、湾岸が商業地区、丘陵が高級住宅地となっている。北緯18°32'西経72°20'に位置する。首都への人口集中が起きてスラム化が進んでおり、首都圏に250万-300万人の人口がある。
熱帯気候で1年を通じ高温 (平均27~30度C) で、4~6月と8~10月は比較的雨が多い。
目次
1 歴史
1.1 ポルトープランスの建設まで
1.2 革命期
1.3 現在
1.4 2010年のハイチ大地震
2 人口推移
3 政治
4 経済
5 交通
6 文化
7 姉妹都市
8 脚注
9 外部リンク
歴史
ポルトープランスの建設まで
クリストファー・コロンブスの到着以前は、永住者はいなかった。15世紀末、この地域はハラグア (Xaragua) 地方のタイノ族首長のボヘチョ (Bohechio) の支配下にあった。祖先たちと同様、周辺の島に住んでいるカリブ族の標的になることを畏れ、彼も海岸近くに居住することを避けた。海に近いこの地域は狩猟の場とされていた。
スペイン人の到着により、先住民は、保護領となることを強いられ、ボヘチョは子孫を残さず亡くなり、カシケ(首長)のカオナボ(Caonabo)の妻であり、彼の妹であるアナカオーナ (Anacaona) が後継となった。アナカオーナはスペイン人との間に友好関係を維持しようと試みたが、スペイン人がより多くの貢物を要求するようになり、困難となった。1503年、スペイン人統治者は直接支配することを決定し、統治者となったニコラス・デ・オバンドー (Nicolás de Ovando) が、アナカオーナを首長とする体制を崩壊させようと企てた。オバンドーはアナカオーナや他の部族のリーダーを宴会に招き、彼女たちに大量のワインをふるまって酔わせ、スペイン人の部下たちに殺害を命じた。アナカオーナは助命されたが、しばらく後に公開絞首刑となった。武力や疫病も合わせ、スペイン人は原住民の多くを殺した。この地域のスペイン人による統治が確立し、オバンドーらは、サンタ・マリア・デ・ラパス・ベルダデラ (Santa Maria de la Paz Verdadera) と名づけられた、海岸からそれほど離れていない場所に入植した。その場所は数年後に放棄された。ほどなくしてオバンドーはサンタ・マリア・デル・プエルト (Santa Maria del Puerto) を創設した。そこは1535年にフランス人探検家に焼き討ちにされ、1592年に再度イギリス人に焼き討ちにされた。これらの襲撃はスペイン人植民者にとって大きな負担となり、1606年にスペイン人はこの地域を放棄することを決定した。
その後50年以上に渡って、今日のポルトープランスのあるこの地域の人口は飛躍的に増えた。最終的に海賊であるバッカニア達が、この地域を基地として使用し始めた。またオランダ人商人達は、この地域が狩猟対象の動物が豊富であったため、革を求めて頻繁に往来し始めた。1650年頃、フランス人の海賊あるいはフィリバスター達が、トルトゥーガ島で入植場所が無くなり、海岸に押し寄せるようになり、トルゥー=ボルデ (Trou-Borded) に入植した。植民の規模が大きくなるにつれて、彼らは海岸からそれほど遠くない場所であるテュルゴー・ハイツ (Turgeau heights) に病院を設置した。このことにより、その場所はロピタル (l'Hôpital, 病院) 地域として知られるようになった。
スペイン人はこの場所に50年以上も不在だったが、領土に対する公的な権利を保持しており、見かけ上はスペインの領土である土地にフランス人フィリバスターの存在が増していたことで、スペイン王はロピタル地域を奪還するためにカスティリア軍を派遣した。しかし派遣軍は数や武器の量で凌駕されて敗れ、スペイン政府は1697年に、レイスウェイク条約に署名し、ロピタル地域の権利を放棄し、ハイチはフランス領サン=ドマングとなった。以後、黒人奴隷を使った砂糖などの生産とその取引の中心地として機能した。同じ頃、フランス人はプティト・リヴィエール (Petite-Rivière) 地区のエステル (Ester) やゴナイーヴにも拠点を置いた。
商人達が入植したエステルは、裕福な村であり、直線道路が整備されていた。そして地域の統治者が住んでいた。一方、その周辺のプチ・リビエールは貧しかった。1711年の大火の後に、エステルは放棄された。この時点でエステル地区のフランス人の規模はまだ拡大していたが、ほどなくして南側に新しい街レオガヌ (Léogane) が設立された。
後にポルトープランスとなるロピタル地区に、最初に居住していたフランス人はフィリバスター達であった。この地区が本当の意味でのフランス植民地となったため、植民者達はフィリバスター達が引き続き存在することを懸念した。フィリバスターの存在が、フランス人領土への英国人の侵入を駆逐するために便利である一方、植民地統治者からの命令とは無関係に振舞ったり、命令に無反応であり、植民統治への脅威となる可能性があった。そのため、1707年冬、地域の統治者であったショワズール・ボプレ (Choiseul-Beaupré) は、その脅威を取り除こうとし、ロピタル地区の支配権を主張したが、フィリバスター達は自分達への侮辱とみなし、これを拒絶した。続けてフィリバスター達はロピタル地区を統治者に割譲せずに、これを閉鎖し、この地区の定住者(農民)となった。彼らはこの地区で最初の長期的な居住者となった。
ロピタル地区のグループであるフィリバスター達の排除により、植民統治の権威は強化されたが、英国人にとってもこの地域が魅力的なターゲットとなった。地域を守るために、1706年にド・サン・タンドレ (de Saint-André)と名乗る船長が、ル・プランス号 Le Prince で、ロピタル地区のすぐ前の湾に現れた。このド・サン・タンドレが、この地区をポルトープランス(王子、プリンス号の港)と名付けたと言われている。しかしこの港とその周辺エリアは、引き続きロピタル地区として知られていた。
英国人がこの地区を荒らすことは無かったが、多くの貴族はロピタル地区のフランス王に認められた土地を捜し求めた。最初にロピタル地区を統治した貴族はジョゼフ・ランド (Joseph Randot) 卿であった。1737年に彼が死ぬまで、ピエール・モレル (Pierre Morel) 卿とガティアン・ブレットン・デ・シャペル (Gatien Bretton des Chapelles) が一部の地域の支配権を得た。
この時までに植民統治者は、フランス領サン=ドマングを上手く支配するために、首都を選定する必要があると考えた。プティゴアーヴ (Petit-Goâve) とレオガヌは、首都となることを競ったが、双方とも様々な理由で除外された。第一に双方とも中心に位置していなかった。プティ・ゴナイーヴの気候は、マラリアが発生しやすく、レオガヌの地形は防衛がしにくかった。その結果1749年に新しい都市ポルトープランスが建設された。
革命期
1770年、サン=ドマング植民地の首都はポルトープランスからカパイシャンに移された。ハイチ独立前の1794年6月4日に、英国軍によって占領された。1803年にハイチは英国の支援を受けて、フランス軍をサン=ドマング領内から駆逐し、1804年1月1日に独立宣言をし(ハイチ革命)、ポルトープランスは新独立国のハイチの首都となった。
フランス革命やハイチ革命の期間、ハイチ皇帝のジャン=ジャック・デサリーヌによって改名されるまで、この場所はポール=レピュブリカン (Port-Républicain) として知られていた。ハイチが北部の王国と南部の共和国に分断されている間、ポルトープランスは共和国ハイチの首都であり、アレクサンドル・ペションの支配下にあった。ジャン=ジャック・デサリーヌがラルナージュ橋 (Pont Larnage) で暗殺された後に、アンリ・クリストフが街の名前をポルトークリム (Port-aux-Crimes) に改名した。
現在
その後のアメリカ占領時代を経て、1950年代には経済の活況を受けインフラストラクチャーの整備が進んだ。しかし、フランソワ・デュヴァリエの独裁下で経済が停滞し、その後繰り返し起きたクーデターと反政府勢力との内戦状態の中で、インフラストラクチャーの老朽化が進むようになった。
2010年のハイチ大地震
2010年1月12日午後4時53分(日本時間13日午前6時53分)にポルトープランス南西16kmを震源とするマグニチュード7.0の強い地震があり、大統領宮殿等の政府機関を含む多くの建物が崩壊、多くの死者が出るなど壊滅的被害を受けた。
人口推移
- 1995年 - 846,200人(推計値)
- 1997年 - 917,000人
- 1999年 - 990,558人
- 2003年 - 1,900,000人(国勢調査)
- 2005年 - 1,234,742人(推計値)
政治
現在の市長はJean Yves Jasonである。市内中心部には国会議事堂や大統領官邸などがある。国際連合ハイチ安定化ミッションが拠点を置いている。
経済
ハイチにおける経済の中心地で、コーヒー豆や砂糖の主要な積出港であり、石鹸、繊維、セメントも輸出している。かつては靴、野球用品などを輸出していた。
交通
市内には公共交通機関といえるものはなく、庶民の足はもっぱら民営の乗り合いバスやピックアップトラックを改造した小型乗り合いバス、タクシーなどである。
国内外の航空便はポルトープランス国際空港を利用しており、カリブ海諸国や中央アメリカ、北アメリカやヨーロッパ諸国への定期便が就航している。
文化
国立大学をはじめとする高等教育機関がある。また、ハイチの新聞社やテレビ局、ラジオ局のほとんどがポルトープランスに拠点を置いている。
姉妹都市
バトンルージュ(アメリカ)
脚注
外部リンク
- 在ハイチ日本大使館のページ
外務省のハイチに関するページ (日本語)
駐ハイチのアメリカ大使館 (英語)
Weather Underground Port-au-Prince (ポルトープランスの気象情報、英語)
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