お雇い外国人
お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)は、幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人で、欧米人を指すことが多い。江戸幕府や諸藩、明治政府や府県によって官庁や学校に招聘された。お抱え外国人とも呼ばれることもある。
目次
1 概要
2 出身国
3 分野別
3.1 国家体制
3.2 学術・教育
3.3 法律
3.4 外交
3.5 芸術・美術
3.6 医学
3.7 建築・土木・交通
3.8 各種産業技術
3.9 軍事
4 御雇の意味
5 墓所
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
概要
「お雇い外国人」と呼ばれる人々は、日本の近代化の過程で西欧の先進技術や知識を学ぶために雇用され、産・官・学の様々な分野で後世に及ぶ影響を残した。江戸時代初期にはヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスなどの例があり、幕府の外交顧問や技術顧問を務め徳川家康の評価を得て厚遇された。幕末になり鎖国が解かれると、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが一時期幕府顧問を務め、レオンス・ヴェルニーが横須賀造兵廠の建設責任者として幕府に雇用された例などがある。
しかし、外国人の雇用が本格化するのは、明治維新以降である。例えば、法令全書[1]の文部省医学教則をみれば、外国人教師による高度な内容の医学教育がすでに1872年(天保暦明治4 - 5年)の時点でなされており、このような教育を通じて西洋の最先端の知識や技術が急速に日本に流入したことをうかがわせる。
お雇い外国人は高額な報酬で雇用されたことが知られる。1871年(明治3 - 4年)の時点で太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円であったのに対し、外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。その他グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・デュ・ブスケが600円で雇用されており、1890年(明治23年)までの平均では、月俸180円とされている[2]。身分格差が著しい当時の国内賃金水準からしても、極めて高額であった。国際的に極度の円安状況だったこともあるが、当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘することが困難だったことによる。お雇い外国人には後発国である日本を蔑む者も少なくなく、雇い入れ条件は次第に詳細になっていった[3]。
多くは任期を終えるとともに帰国したが、ラフカディオ・ハーンやジョサイア・コンドル、エドウィン・ダンのように日本文化に惹かれて滞在し続け、日本で妻帯あるいは生涯を終えた人物もいた。エドワード・B・クラークは、イギリス人の両親が日本に滞在していた時に横浜で生まれ、一時期、母国イギリスに留学した時以外は、死ぬまで日本で生活していた。
雇用された分野と異なる分野で、功績を残した人物も多い。アーネスト・フェノロサは、政治学や哲学の教授として招かれたが、日本美術の再評価においても名が知られる。ホーレス・ウィルソンは、英語教師として招かれたが、この時、教育の一環として日本人生徒たちに野球を教えた事から「日本に野球を伝えた人物」として名を残し、野球殿堂入りしている。ウィリアム・ゴーランドは大阪造幣寮の技師として雇われ、その分野でも高い評価を持つが、他に日本の古墳研究や、日本アルプスの命名者としても名が残る。
出身国
ひと口に「お雇い外国人」とはいうものの、その国籍や技能は多岐に亘り、1868年(慶応4年/明治元年)から1889年(明治22年)までに日本の公的機関・私的機関・個人が雇用した外国籍の者の資料として、『資料 御雇外国人』[4]、『近代日本産業技術の西欧化』[5]があるが、これらの資料から2,690人のお雇い外国人の国籍が確認できる。内訳は、イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人である。また期間を1900年までとすると、イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人とされている[6]。
1890年(明治23年)までの雇用先を見ると、最多数のイギリス人の場合は、政府雇用が54.8 %で、特に43.4 %が工部省に雇用されていた。明治政府が雇用したお雇い外国人の50.5 %がイギリス人であった[7]。工部省の明治3年から明治20年までのお雇い外国人総数256人中238人がイギリス人である[8]。鉄道建設に功績のあったエドモンド・モレルや建築家ジョサイア・コンドルが代表である。
アメリカ人の場合は54.6 %が民間で、教師が多かった。政府雇用は39.0 %で文部省が15.5 %、開拓使が11.4 %であるが、開拓使の外国人の61.6 %がアメリカ人であった(ホーレス・ケプロンやウィリアム・スミス・クラークなど)[2]。
フランス人の場合は48.8 %が軍の雇用で、特に陸軍雇用の87.2 %はフランス人であった[2]。幕府はフランス軍事顧問団を招いて陸軍の近代化を図ったが、明治政府もフランス式の軍制を引き継ぎ、2回の軍事顧問団を招聘している。のちに軍制をドイツ式に転換したのは1885年(明治18年)にクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル少佐を陸軍大学校教官に任じてからである。また、数は少ないが司法省に雇用され、不平等条約撤廃に功績のあったギュスターヴ・エミール・ボアソナードや、左院でフランス法の翻訳に携わったアルベール・シャルル・デュ・ブスケなど法律分野で活躍した人物もいる。
ドイツ人の場合は政府雇用が62.0 %であり、特に文部省 (31.0 %)、工部省 (9.5 %)、内務省 (9.2 %) が目立つ[2]。エルヴィン・フォン・ベルツをはじめとする医師や、地質学のハインリッヒ・エドムント・ナウマンなどが活躍した。
オランダ人の場合、民間での雇用が48.5 %であるが、海運が盛んな国であったことから船員として働くものが多かった[2]。幕府は1855年(安政2年)、長崎海軍伝習所を開設し、オランダからヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケらを招いたため海軍の黎明期にはオランダ人が指導の中心となったが、幕末にイギリスからトレーシー顧問団が招聘され(明治維新の混乱で教育は実施されず)、さらに明治新政府に代わってからは1873年(明治6年)にダグラス顧問団による教育が実施され、帝国海軍はイギリス式に変わっている。他に土木の河川技術方面でヨハニス・デ・レーケら多くの人材が雇用された(オランダの治水技術が関係者に高く評価された背景があるとされているが、ボードウィン博士兄弟との縁故による斡旋という説もある)。
イタリア人はその人数こそ多くなかったものの、工部美術学校にアントニオ・フォンタネージらが雇用された。またエドアルド・キヨッソーネが様々な分野で貢献した。
分野別
国家体制
ヘルマン・ロエスレル - 法学者・経済学者。憲法、商法、独逸学協会名誉会員(独)
アルベルト・モッセ - 内閣雇法律顧問、プロシア國裁判官、始審裁判所評定官、独逸学協会名誉会員(独)[9]
ゲオルグ・ミハエリス博士、プロシア国判事試補、独逸学協会名誉会員、のちドイツ帝国の第6代帝国宰相(独)[10]
カール・ラートゲン - 国法学、独逸学協会名誉会員(独)[11]
フランシス・テイラー・ピゴット(英語版) - 内閣顧問(英)
エドアルド・キヨッソーネ - 紙幣・切手の印刷。明治通宝を印刷したドンドルフ・ナウマン印刷会社職員。他、明治天皇・西郷隆盛などの肖像(伊)
学術・教育
フレデリック・イーストレイク - 語学教育、慶應義塾教員、国民英学会創立参加(米)
ラフカディオ・ハーン - 語学教育 『怪談』(英)
エドワード・S・モース - 生物学、 大森貝塚の発見(米)
ハインリヒ・フォン・シーボルト - 考古学、 大森貝塚の研究、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男(独→墺)
ウイリアム・スミス・クラーク - 札幌農学校(現・北海道大学)初代教頭(米)
バジル・ホール・チェンバレン - 語学教育 『古事記』の英訳、アーリアン学説の思想家であるヒューストン・ステュアート・チェンバレンは弟(英)
ラファエル・フォン・ケーベル - 哲学・音楽(露、但しドイツ系でドイツ語を母語とし、ドイツ哲学を基礎とした)
ヴィクトル・ホルツ - 第一大学区独逸学教場・東京医学校教員(独)
エミール・ハウスクネヒト - 教育学(独)
アリス・メイベル・ベーコン - 女子教育(米)
ジョージ・アダムス・リーランド - 体操伝習所教授(米)
ヘンリー・ダイアー (Henry Dyer) - 工部大学校(現・東京大学工学部)初代都検(英)
ウィリアム・エドワード・エアトン (William Edward Ayrton) - 物理学、工部大学校教授(英)
ハインリッヒ・エドムント・ナウマン - フォッサ・マグナの発見、ナウマンゾウ(独)
ダビッド・モルレー - 文部省顧問(督務官・学監)(米)
ジョン・アレキサンダー・ロウ・ワデル - 東京大学理学部(当時)にて講義(米)
ホーレス・ウィルソン - 語学教育、野球を日本に紹介(米)
マリオン・スコット - 大学南校、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)、東京大学予備門教員(米)
ルートヴィヒ・リース - 歴史教育、慶應義塾大学部、帝国大学、陸軍大学校教員(独)
エドワード・B・クラーク - 語学教育、ラグビーを日本に紹介、慶應義塾大学、京都帝国大学教員(英)
アーサー・ナップ - 語学教育、慶應義塾教員、日本ユニテリアン教会宣教師(米)
リロイ・ランジング・ジェーンズ - 語学教育、熊本藩藩校熊本洋学校英語教師、熊本バンド(米)
エドワード・ウォーレン・クラーク - 化学、語学教育、賤機舎の前身静岡学問所、東京開成学校(米)
エルヴィン・クニッピング - 気象観測事業の指導、海員養成(独)
カール・アウグスト・シェンク (Carl August Schenk) - 東京開成学校鉱物学教員(独)
ゲオルク・ヘルマン・リッター (Georg Hermann Ritter) - 大阪開成所・東京開成学校化学教員(独)
法律
グイド・フルベッキ - 法律、旧約聖書の翻訳(蘭)
ギュスターヴ・エミール・ボアソナード - 刑法、刑事訴訟法、民法、司法省法学校教員(仏)
ジョルジュ・ブスケ - 司法省法学校教員(仏)
アルベール・シャルル・デュ・ブスケ - 法律、軍事などの仏語資料を多数翻訳(仏)
オットマール・フォン・モール - 宮廷儀礼、栄典制度(独)
ヘルマン・テッヒョー - 民事訴訟法(独)
アレッサンドロ・パテルノストロ - 司法省顧問(伊)
カール・ルードルフ - 内閣顧問(独)
オットー・ルードルフ - 司法省顧問、東京大学教員(独)
ジョルジュ・アペール - 司法省法学校・東京帝国大学教員(仏)
ルイ・アドルフ・ブリデル - 東京帝国大学教員(瑞)
ウィリアム・カークウッド (William Montague Hammett Kirkwood) - 駐日英国公使館の法律顧問から司法省法律顧問(英)
パウル・マイエット (Paul Mayet) - 太政官顧問、東京医学校(現・東京大学医学部)、慶應義塾大学理財科教員(独)、独逸学協会名誉会員
プロスペール・ガンベ・グロース (Prosper Gambet Gross) - 警視庁法律顧問(仏)
ヘンリー・テイラー・テリー (Henry Taylor Terry) - 東京大学・東京帝国大学法学教員(米)
外交
シャルル・ド・モンブラン - 外国事務局顧問。駐仏日本総領事(仏)
フレデリック・マーシャル - 在仏日本公使館付情報員、顧問格(英)
ギュスターヴ・エミール・ボアソナード - 太政官法制局御用掛(仏)
ヘンリー・デニソン - 外務省顧問。下関条約・ポーツマス条約交渉(米)
アレクサンダー・フォン・シーボルト - 井上馨秘書他(独)
芸術・美術
アーネスト・フェノロサ - 哲学、日本美術を評価(米)
アントニオ・フォンタネージ - 絵画、工部美術学校(伊)
ルーサー・ホワイティング・メーソン - 西洋音楽の輸入。音楽取調掛教師(米)
フランツ・エッケルト - 現行「君が代」の編曲(一説では作曲も)(独)
ジョン・ウィリアム・フェントン - 軍楽隊の導入(英)
シャルル・ルルー - 音楽、特に軍楽の指導、陸軍分列行進曲(抜刀隊・扶桑歌)の作曲(仏)
ゴットフリード・ワグネル - 陶磁器、ガラス器などの製造指導(独)
ジョルジュ・ビゴー - 漫画家、風刺画家(仏)
医学
エルウィン・ベルツ - 医学(独)
フェルディナント・アダルベルト・ユンケル (Ferdinand Adalbert Junker von Langegg) - 医師(墺)
テオドール・ホフマン - 軍医(独)
レオポルト・ミュルレル - 軍医(独)
ウィルヘルム・デーニッツ - 東京医学校・解剖学、警視庁・裁判医学(独)
建築・土木・交通
ヘルマン・エンデ - 建築(独)- ヘンリー・シャーボー (Henry Shaubou) - 測量、気象学(仏→英)
ヴィルヘルム・ボェックマン - 建築(独)
ルドルフ・レーマン - 機械工学、語学教育(独)
ヨハニス・デ・レーケ - 河川砂防整備(蘭)
ローウェンホルスト・ムルデル - 利根運河、宇品港(広島港の前身)築港(蘭)
ジョージ・アーノルド・エッセル - 河川整備。版画家マウリッツ・エッシャーの父(蘭)
セ・イ・ファン・ドールン - 安積疏水の設計や野蒜築港計画に携わる(蘭)
トーマス・ウォートルス (Thomas James Waters) - 銀座煉瓦街、大阪造幣局、竹橋陣営(英)
ジュール・レスカス (Jules Lescasse) - 生野鉱山建設のほか、西郷従道邸宅(仏)
ジョサイア・コンドル (Josiah Conder) - 工部大学校での建築学教育、鹿鳴館の設計(英)
エドモンド・モレル (Edmund Morel) - 新橋~横浜間の鉄道建設、初代・鉄道兼電信建築師長(英)
リチャード・ボイル (Richard Boyle) - 京都~神戸間の鉄道建設、E・モレルの後任(英)
リチャード・フランシス・トレビシック - 官設鉄道神戸工場汽車監察方。国産第1号機関車を製作。機関車の父リチャード・トレビシックの孫(英)
フランシス・ヘンリー・トレビシック - 鉄道技術を伝える。官設鉄道新橋工場汽車監督。リチャード・フランシスの弟(英)
レオンス・ヴェルニー - 横須賀造兵廠、長崎造船所、城ヶ崎灯台など(仏)
ベンジャミン・スミス・ライマン - 後の夕張炭鉱など北海道の地質調査(米)
リチャード・ヘンリー・ブラントン (Richard Henry Brunton) - 各地で灯台築造・横浜の街路整備(英)
コーリン・アレクサンダー・マクヴェイン (Colin Alexander McVean) - 灯台築造、工学寮工学校校舎・教師館・生徒館、銀座煉瓦街計画、関八州大三角測量の指導(英)
ヘンリー・S・パーマー - 横浜ほか、全国各地の水道網設計(英)
ウィリアム・K・バルトン (William K. Burton) - 衛生工学、地震工学(英)
ジョン・ウィリアム・ハート[要出典] - 神戸外国人居留地計画(英)
エドモン・オーギュスト・バスチャン - 横須賀製鉄所・富岡製糸場などの設計(仏)
チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィル (Charles Alfred Chastel de Boinville) - 皇居謁見所、工部大学校校舎など(英仏)
ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペレッティ - 参謀本部や遊就館など(伊)
ジョン・スメドレー (John Dexter Smedley) - 東京大学理学部で造営学、図学講師。都市開発提案など(豪)
チャールズ・A・W・パウネル (Charles Assheton Whately Pownall) - 橋梁設計、帰国後も日本の鉄道全権顧問を委嘱(英)
チャールズ・A・ビアード - 鉄工業者、関東大震災前後における東京市復興建設顧問(米)
ヘルマン・ルムシュッテル - 九州鉄道の建設指導(独)
フランツ・バルツァー - 東京の高架鉄道計画・設計(独)
ウォルター・ページ - 鉄道運輸業務、列車ダイヤの祖(英)
各種産業技術
エドウィン・ダン - 北海道の農業指導(米)
ウィリアム・ブルックス - 北海道の農業指導(米)
ルイス・ベーマー - 北海道の農業指導(米〈独系移民〉)
ホーレス・ケプロン - 北海道の農業指導、道路など(米)
ウィルヘルム・コブリッツ - ビール醸造技師(独) [12]
ヘンドリック・ハルデス - 長崎造船所、製鉄所建設(蘭)
レオンス・ヴェルニー - 海軍工廠の建設指導など(仏)
オスカル・ケルネル - 農芸化学(独)
オスカル・レーヴ - 農芸化学(独)
クルト・ネットー - 鉱業の技術指導(独)
ジャン・フランシスク・コワニエ - 鉱山技術、生野銀山にて帝国主任鉱山技師、日本各地の鉱山調査(仏)
トーマス・ウィリアム・キンダー (Thomas William Kinder) - 大阪造幣寮首長(英)
ウィリアム・ゴーランド - 造幣寮での化学・冶金指導など、古墳研究で考古学にも貢献(英)
カール・フライク (Karl Flaig) - 帝国ホテル総支配人として西欧ホテル経営の基礎を伝える(独)
ポール・ブリューナ - 富岡製糸場の首長(責任者)、建設から近代製糸技術の導入まで(仏)
ゲオルク・フリードリヒ・ヘルマン・ハイトケンペル - 革靴製造の指導(独)
ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー (William Cogswell Whitney) - 商法講習所教員(米)
アレキサンダー・アラン・シャンド (Alexander Allan Shand) - 大蔵省紙幣寮顧問(英)
トーマス・アンチセル - 鉱山技師。大蔵省紙幣寮、紙幣用インク研究(米)
軍事
シャルル・シャノワーヌ - 江戸幕府のフランス軍事顧問団(仏)
ジュール・ブリュネ - 榎本武揚率いる幕府軍軍事顧問(仏)
シャルル・ビュラン - 横浜仏語伝習所・陸軍兵学寮教員(仏)
カール・ケッペン - 紀州藩の軍事顧問(普)
ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ - 近代海軍の教育(蘭)
アーチボルド・ルシアス・ダグラス - 海軍兵学校教官(英)
クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル - 陸軍大学校教官(独)
シャルル・アントワーヌ・マルクリー (Charles Antoine Marquerie) - 明治政府が招聘したフランス軍事顧問団団長(仏)
御雇の意味
「御雇」と御の字が付いたのは、御上(おかみ)すなわち政府が雇ったという意味である。明治政府が雇用した官雇外国人にならって、民間でも学校や会社に私雇外国人を多く採用した[13]。在外公館で雇用されていた者や外国人居留地の警備に当たった者なども含まれるが、一般的には、欧米から技術や知識を学ぶために招いた人物を指す。本項では、便宜的に、私雇外国人を含めて記述する。
なお「御雇」の原義は、(特に外国人に限らず)武家でない身分の者をその専門技芸において幕府の「御用」に徴用することを指した。江戸期後半になって諸外国の動向が伝わってくるにつけ、武士である幕臣だけでは様々な専門分野に対応できず、一般民の中から専門に秀でた特に優れた人材を募り、この需要に充てたものである。しかし幕府の側からすると身分としてはあくまでも「御雇い」であり、臨時雇用の色合いの濃い立場の低い扱いではあったが、それなりの処遇(給与・住居など)は与えられて、なかには能力と功績が認められると正規の幕臣として取り立てられ、武家として称氏(氏姓、苗字を名乗ること)・帯刀・世襲が許される場合もあった。
墓所
お雇い外国人の中には日本に墓所が残されている者もいる。ハーンの墓所は島根県松江市の重要な観光資源にも位置付けられている。アーネスト・フェノロサはロンドン滞在中に亡くなったが、園城寺(三井寺)に埋葬された。
東京都にある青山霊園の青山外国人墓地では、関係者の所在が不明となり、管理料(2005年現在、年590円)が長年にわたって未納のままのものがある。通例であれば無縁仏として集合墳墓に改葬されるところだが、青山霊園の場合、2006(平成18)年度に東京都側が78基にのぼる管理費滞納お雇い外国人墓所を文化史的に再評価し史跡として保護する方針であることが2005年(平成17年)2月18日の読売新聞で報じられた。
参考文献
^ 『近代デジタルライブラリー・法令全書・明治5年』で検索
- ^ abcde植村、同上
^ 東京外国語学校魯語科とナロードニキ精神渡辺雅司、ロシア語ロシア文学研究15号、1983-09
^ ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料 御雇外国人』(小学館、1975年)。ASIN B000J9F6J2
^ 三枝博音、野崎茂、佐々木峻著『近代日本産業技術の西欧化』(東洋経済新報社、1960年)。ASIN B000JAOW1E
^ Hazel Jones, "Live Machines: Hired Foreigners and Meiji Japan." (Univ of British Columbia Press, March 1980). ISBN 978-0774801157
^ 植村正治著『明治前期お雇い外国人の給与』 流通科学大学論集-流通・経営編-第21巻第1号、1-24 (2008)
^ ヘンリー・フォールズ『ニッポン滞在の9年間 - 日本の生活と仕来りの概観』長尾史郎・高畑美代子、明治大学教挫論集通巻529号(2017)
^ 『叙任及び辞令』(1889年1月19日官報)NDLJP:2944906/1
^ 『叙任及び辞令』(1890年11月24日官報)NDLJP:2945475/7
^ 『叙任及び辞令』(1891年2月4日官報)NDLJP:2945533/1
^ 札幌ビール『エビスビール記念館』(Web)。
^ 「御雇外国人」(梅渓昇執筆。『国史大辞典 第2巻』吉川弘文館、1980年、924頁)。
関連項目
- 幕末の人物一覧
- 明治の人物一覧
- 幕末
- 明治維新
- 文明開化
- 顧問
- 開拓使
- 日蘭関係
- 日独関係
- 日米関係
- 日英関係
- 日仏関係
- 日伊関係
- 洋務運動
- 外国人による日本論の名著
- 日本学
外部リンク
工部本省、鉄道局、電信局、灯台局、工作局、営繕課、工部大学校 - 「傭外国人各務担当表」-国名/職名/給料/雇用年月/解雇年月『工部省沿革報告』(1889年、国会図書館デジタルコレクション)
Meiji-Portraits - お雇い外国人を中心とした明治期(主に1905年まで)の人物リスト(独・英語)