堺
堺(さかい)は、大阪湾に面し、大阪市(大坂)の南に位置する都市。また、その市街地を中心とする地域。
地名は、方違神社付近がかつて摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)[1]」であったことに由来する。市街地はその西方に形成され、大小路通を境に摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた[2]。
目次
1 概要
1.1 堺市街地
1.2 堺区
1.3 堺市
2 脚注
3 関連項目
4 外部リンク
概要

アブラハム・オルテリウスが描いた日本地図

豊臣期大阪図屏風。右上隅に堺が描かれている。
中世に貿易港として発展し、「東洋のベニス」として栄華を極めた。三津七湊。戦国時代には環濠都市となり、自治的な都市運営が行われた。ガスパル・ ビレラは永禄5年(1562年)の報告書の中で「他の諸国において動乱あるも、この町にはかつてなく敗者も勝者もこの町に在住すれば、皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加えるものなし。町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、また他の側は深き堀を以て囲まれ、常に水充満せり」と書き、1598年のオルテリウスの日本地図の中にも、Sacay(堺)という名前が記され、Meaco(都=京都)とともに知られる主要都市だった[3]。1586年に秀吉によって堀が埋められ港に砂が流れ込み船が停泊できなくなり、港としての機能は失われた。その後大坂夏の陣において全焼。現在見られる町割は江戸時代、元和年間の復興によるものである。
中世の堺の町が描かれたものとして、「住吉祭礼図屛風」(堺を描いた最古の屏風。17世紀前半)、「厳島・住吉祭礼図屛風」、「摂津国名所港津図屛風」、「天橋立・住吉社図屛風」、「豊臣期大阪図屏風」などがある。
堺市街地
古くは中世の自治都市で、堺市堺区の市街地。環濠の名残りである内川・土居川に囲まれて広がる。現在は大阪市街地まで連続的に市街地が形成されている。
町割は南北に細長い短冊型。南北幅は基本的に60間だが、南北両端は半端になっており、南半町が38.5間、北半町が18.5間となっている。南北方向の道路は、4.5間幅の大道筋を基幹に、東西ともに2間幅の裏筋と3間幅の表筋が交互に配され、表筋は大浜筋・中浜筋・山口筋・大工町筋など、裏筋は五貫屋筋・浜六間筋・西六間筋・東六間筋・十間筋などにあたる。東西幅は16 - 23間とばらつきがある。東西方向の道路は、5間幅の大小路通を基幹に、3間幅の通が配されている。町組については大小路通を境に北組と南組に分かれ、それぞれ浜筋・中浜筋・大道筋・山口筋・東筋・農人町筋の計12の組合が形成されていた。
堺区
堺市にある行政区。現在の「堺区」は、堺市の政令指定都市への移行により設置された。堺市の市役所も商業の中心も、中区ではなく堺区に存在する。
堺市
大阪府中部に位置する市。政令指定都市。大阪市に隣接し、圏域総生産が世界第3位の京阪神大都市圏はもちろん、人口1000万超の大阪都市圏に含まれる。
脚注
^ 「堺」は、境界を表す「界」の異体字。日本の古文書ではしばしば同義の「境」とも混用されていた(境相論を「堺相論」と表記するなど)。
^ 明治4年(1871年)9月30日に摂津・和泉の境界線が大和川に変更され、大小路以北も和泉国に編入された。
^ 「豊臣期大坂図屛風」に描かれた堺長谷洋一、シンポジウム講演録「新発見 豊臣期大坂図屛風の魅力」日本関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター、2009年3月31日
関連項目
堺県 - かつて存在した県
堺公方 - 室町時代に存在した政権で、「堺幕府」ともいう
外部リンク
16世紀における堺商人速水佐恵子、東京女子大学『史論』 12, 48-64, 1964