エリトリア







エリトリア国


ሃገረ ኤርትራ (Hagere Ertra)(ティグリニャ語)
ادولة اإريتريا(アラビア語)











エリトリアの国旗 Emblem of Eritrea (or argent azur).svg
(国旗) (国章)


国の標語:なし


国歌:Ertra, Ertra, Ertra


エリトリアの位置









































公用語

ティグリニャ語、アラビア語

首都

アスマラ
最大の都市
アスマラ

政府















党書記長 イサイアス・アフェウェルキ

大統領

イサイアス・アフェウェルキ
首相
なし


面積











総計

12万1320km2(96位)
水面積率
0.14%


人口











総計(2016年)

5,352,000人(116位)

人口密度
52人/km2



GDP(自国通貨表示)





合計(2008年) 226億[1]ナクファ


GDP (MER)





合計(2008年) 14億[1]ドル(163位)


GDP (PPP)











合計(2008年)
37億[1]ドル(155位)
1人あたり 746[1]ドル



独立
 - 日付
 - 承認

エチオピアより
1991年5月29日
1993年5月24日

通貨

ナクファ (ERN)

時間帯

UTC (+3)(DST:なし)

ISO 3166-1
ER / ERI

ccTLD

.er

国際電話番号
291




Eritrea - Location Map (2013) - ERI - UNOCHA.svg


エリトリア国(エリトリアこく)、通称エリトリア(ティグリニャ語: ኤርትራ Ertra, アラビア語: إرترياIritriyya)は、アフリカの角と呼ばれるアフリカ大陸北東部にある国。首都はアスマラ。




目次






  • 1 概要


  • 2 国名


  • 3 歴史


    • 3.1 先史時代


    • 3.2 古代


    • 3.3 プント国


    • 3.4 オナ文化


    • 3.5 ガシュ・グループ


    • 3.6 ダモト王国 (D'mt)


    • 3.7 アクスム王国


    • 3.8 中世


    • 3.9 オスマン帝国


    • 3.10 イタリア王国


    • 3.11 イギリス軍政下


    • 3.12 エチオピア・エリトリア連邦


    • 3.13 エチオピア軍政下


      • 3.13.1 エリトリア独立戦争




    • 3.14 独立




  • 4 地理


    • 4.1 気候




  • 5 政治


    • 5.1 元首


    • 5.2 行政


    • 5.3 立法


    • 5.4 政党


    • 5.5 司法


    • 5.6 国内問題


      • 5.6.1 人権問題


      • 5.6.2 難民問題






  • 6 地方行政区分


    • 6.1 主要都市




  • 7 軍事


    • 7.1 兵力(2009年)




  • 8 国際関係


    • 8.1 対エチオピア関係


    • 8.2 対ジブチ関係


    • 8.3 対イエメン関係


    • 8.4 対アラブ首長国連邦関係


    • 8.5 日本との関係




  • 9 交通


  • 10 経済


  • 11 国民


    • 11.1 民族


    • 11.2 言語


    • 11.3 宗教


    • 11.4 教育


    • 11.5 医療


    • 11.6 婚姻




  • 12 文化


    • 12.1 コーヒー・セレモニー


    • 12.2 スポーツ




  • 13 脚注


  • 14 参考文献


  • 15 関連項目


  • 16 外部リンク





概要


アフリカにおいては東アフリカと北アフリカ諸国の一つに位置づけられる。西にスーダン、南にエチオピア、南東部にジブチと国境を接する。北は紅海に面し、1350km以上にも及ぶ長い海岸線を持ち、領海内にはダフラク諸島など約350の小島が点在する。対岸側にはサウジアラビアとイエメンがある。


元々はエチオピアの海岸部を占めていた地域で、エリトリア独立戦争を経て1991年5月29日に独立を宣言。国際連合監視下の住民投票に基づき1993年5月24日に独立が承認された。その後も両国はエチオピア・エリトリア国境紛争を戦ったが[2]、2018年7月8日に関係正常化の合意文書に調印した[3]


内政面では独立以降、中国に留学して毛沢東思想や軍事知識を学んだイサイアス・アフェウェルキ大統領が実質的に率いる民主正義人民戦線の一党独裁制が続いている。「アフリカのシンガポール」というスローガンを掲げて、同国を手本にした国作りを進めている[4] が、「アフリカの北朝鮮」と批判・揶揄されることが多い[5]。周辺諸国との紛争や兵役、抑圧的な政治体制により大量の国民が国外に脱出して国際的な難民問題になっている[6][7]



国名


正式名称は、ሃገረ ኤርትራ (Hagere Ertra)。通称、ኤርትራ (Ertra)。アラビア語では دولة إرتريا‎。通称 إريتريا‎ (Iritriyá)。


古代ギリシャ語の「赤」を意味するエリュトゥロス (ἐρυθρός) から派生したエリュトゥラー (Ἐρυθρά) は、紀元前4世紀のヘレニズム時代の作品に紅海の赤の意味で使われている記録があり、1世紀に紅海からインド洋にかけての南海貿易について記された航海案内書『エリュトゥラー海案内記』にも登場する。エリトリアの名前はイタリアが19世紀に植民地として支配するにあたり、ラテン語で「紅海」を意味する Mare Erythraeum にちなんでつけられたといわれる。


公式の英語表記は State of Eritrea(ステイト・オヴ・エリトレイア、エリトリーア)。通称 Eritrea ([ˌɛrɪˈtreɪə][8][ˌɛrɪˈtriːə][9])。


日本語の表記は、エリトリア国、通称、エリトリア。イタリア語に由来してエリトレアと書かれることもある。



歴史




先史時代


ダナキル砂漠は現生人類(ホモ・サピエンス)が進化した場所であり、近くにあるエリトリアは氷河期終わりには既に現生人類が暮らしていた。北部のカローラから南東のベイルルに至るまで51箇所の先史時代の遺跡が見つかっている。
エチオピアのブヤではイタリアの科学者によってホモ・エレクトスとホモ・サピエンスの間をリンクする100万年前の骨格が発見された。
アブドゥールで見つかった12.5万年前の石器は海岸の海洋環境にヒトが住んでいたことの最も古い証明で、エリトリアの紅海沿岸部のマッサワでは旧石器時代のアサリやカキを捕獲する漁の道具が見つかっている。
アフリカの角地域で最も多くの岩絵が見つかっている。主なモチーフは家畜化された牛であり、家畜への描写が豊かであるのと同時に、野生動物をほとんど描いていないことから、牧畜民的な性質のものと言える。



古代



プント国




エジプトの壁画に残るプント国アティ王妃の肖像


紀元前25世紀から、プント国がジブチ、エチオピア、エリトリア、北部ソマリア、スーダン紅海沿岸に形成されていた。古代エジプトはハトシェプストの統治時代からプント国と貿易をしており、エジプトにはプント王パラフとその王妃アティの肖像が葬祭殿壁画に残っている。



オナ文化


-紀元前4世紀。プント文化に続くオナ文化はアフリカの角地域において牧畜や農業といったコミュニティによって形成された都市文化。アスマラの近郊のセムベル遺跡からはアメンホテプ2世の時代のエジプトの都市テーベと貿易していた貨物が発掘された。



ガシュ・グループ


エリトリア内陸部に位置するガシュ・バルカ地方にあるアゴルダトのバルカ川渓谷沿いに、ナイル川の上流山脈系統の遊牧民文化が栄えた、同時期にスーダンのヌビアで栄えたケルマ文化と共通する特徴を持っている。ケルマ文化に属する民族はアフロ・アジア語族に属し、ベルベル語派、クシ語派に分類される言語を用いていたと言語学的な証拠から推定している。



ダモト王国 (D'mt)




紀元前400年頃のダモトの近隣王国




プレ・アクスム期のコハイトの遺跡


紀元前10世紀-紀元5世紀。ダモト王国(英語版)はエリトリアと北部エチオピアの地域にあった。エリトリア南部のタマラがダモトの都市であり、大規模な寺院の遺跡があることからかなり栄えていた可能性が高い。5世紀にダモト王国が崩壊した後、アクスム王国が現れるまでのプレ・アクスム期には後継の小さい王国によって支配が続いた。紅海対岸側にあるアラビア半島南部のサバア王国からの勢力が進出しており、影響された遺跡が見つかっている。


北方の港町アドゥリスとマタラの中間にあるコハイトは政治的に重要な中心地であり、イエメンの水利システムが使われたダムや土塁、岩絵、彫刻、円柱構造、墓所、貯水池、ネクロポリス(集団埋葬地)、時計塔、窯などの750の遺跡が発見された。




アクスム王国





アクスム王国の最盛期の範囲




エザナ王の石柱(スッテレ)。高さ23mに達する。


1世紀-940年頃。アクスム王国は、エリトリアとエチオピア北部とアラビア半島の紅海沿岸部に栄えた交易国である。アフリカで初めて独自の硬貨を持った国であり、貿易で栄えた。ダモト王国との継続性があるが、南アラビアから来たサバ人により建国されたと考えられる。


王たちは、ソロモン王とシバの女王の子であるメネリク1世の血筋を引いているとして、自らの正当性を主張し、"negusa nagast"(「王の中の王」)と公称していた。350年頃にはヌビアのクシュ王国を征服し、最盛期には現在のエリトリア、北部エチオピア、イエメン(ヒムヤル王国)、北部ソマリア、ジブチ、北部スーダンに広がっていた。首都はアクスムで現在の北部エチオピアにあった。他の主要都市にイェハ (Yeha)、ハウルティ (Hawulti) 、そして現在エリトリアにある重要な港湾都市アドゥリス (Adulis) をはじめとしてマタラ (Matara) およびコハイト (Qohaito) がある。この時アクスムの住民は、エチオピアと南アラビアにいるセム系民族とハム系民族が混ざり合って構成されていた。アクスムは国際的に且つ文化的に重要な国だった。エジプト、スーダン、アラビア、中東、インドといった様々な文化が集う場所で、アクスムの都市にはユダヤ教徒やヌビア人、キリスト教徒、仏教徒さえいた。320年代にコプト派キリスト教が伝来した教典はアクスム王国の独自の文字であるゲーズ又はゲエズ語 (Ge'ez又はGeez)で書かれており、エチオピアと共通のゲエズ文字が普及することになった。ソロモン王国の影響によりユダヤ教徒も一定数おり、時代によってはコプト教よりユダヤ教の勢力が上回った。


ナイル川周辺の王国のほとんどがキリスト教国であったが、周辺国がイスラム教に改宗すると経済的に孤立し、王国は弱体化していった。ただし、アクスムはヒジュラで預言者ムハンマドと最初の信者達を匿ったため、アクスムとムスリムは友好関係を保ち、アクスムがイスラム帝国に侵攻されたり、イスラム化されたりすることはなかった。




中世






1137年、この地域に「ミドゥリ・バリ」と呼ばれる国が勃興した。主な住民は、エチオピアのアムハラ人とは文化を異にするティグレ人である。北西エチオピアにDamot(英語版)があった。



オスマン帝国


1557年、オスマン帝国領Habesh Eyalet(英語版)となった(Ottoman conquest of Habesh(英語版))。以後、エジプト領・エチオピア領の一部となった。



イタリア王国




山岳部を走るイタリア(英語版)時代に建設されたエリトリア鉄道


1869年にエジプトでヨーロッパとオリエントを結ぶスエズ運河が開通すると、イタリアがエチオピアに介入を始め、1882年にイタリアが植民宣言をし、1885年に占領した。1889年、エチオピアはイタリア王国とウッチャリ条約を結び、この地(エリトリア)をイタリアの支配に委ねた。翌1890年、イタリアはこの地を「エリトリア(英語版)」と名づけた(イタリア領東アフリカ)。第一次エチオピア戦争(1889年 - 1896年)。第二次エチオピア戦争(1935年 - 1936年)。


首都アスマラはイタリア人移民が人口の60%を占め、イタリア首相であったベニート・ムッソリーニが「第2のローマ」(ピッコラ・ローマ)を目指し、1920年〜1930年代にイタリアの新進気鋭の建築家達により奇抜なアール・デコ建築や未来派建築が多く建設された。現在では観光資源になっており、2017年に「アスマラ :アフリカのモダニズム都市」として世界遺産(文化遺産)に登録されている[10]



イギリス軍政下




1962年までのエリトリアの旗


第二次世界大戦中の1941年にイタリア軍を駆逐し、イギリス軍が当地を占領する。その後、イギリスの保護領だった。



エチオピア・エリトリア連邦


1952年、エチオピア・エリトリア連邦を形成した。



エチオピア軍政下


1962年にエリトリア議会が連邦離脱を決議すると、エチオピアは軍で議会を包囲。併合されてエリトリア州になると、当地の住民の不満は高まった。



エリトリア独立戦争





エリトリア独立戦争



1960年代からはエリトリア独立戦争として、解放勢力は独立運動を展開するようになった。
1991年、独立勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線(英語版) (EPLF) は、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) 等と共にエチオピアの首都アディスアベバに突入。エチオピアに政変を起こし、メンギスツの社会主義政権は崩壊した。



独立


1991年5月29日、独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心としたエチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) によるエチオピア新体制(メレス・ゼナウィ政権)の確立に伴い、1993年5月24日に独立承認された。5月28日には国際連合へ加盟申請、承認された。



地理





エリトリアの地図




標高図


西にスーダン、南にエチオピア、南東部にジブチと国境を接し、北は紅海に面し、紅海対岸側にはサウジアラビアとイエメンがある。海岸線は1350km以上にも及び、領海域には、およそ350の島があるダフラク諸島があり、イエメンとの間のバブ・エル・マンデブ海峡は非常に狭くなっている。


国土を二分する中央部から北部に続く山脈のアフリカ大地溝帯と地質の特性により、東部の乾燥した半砂漠地域と、西部の肥沃な大地の2つの地域に分けることができる。エリトリアはアフリカ大地溝帯付近に位置しているため比較的地震の多い地域であり、アスマラ地震やマッサワ地震などの地震による被害もたびたび起きている。またエリトリアにはアリド山、ダビ山、ナブロ山(英語版)のような火山も点在しており、このうちナブロ山は2011年にも噴火(英語版)している[11]。なお、火山の中には、例えばダビ山やナブロ山やマラレ山のように、カルデラを伴った山々も見られる。


また気候特性の違いにより、紅海海岸平野地域、中央高原地域、西部高原平野地域の3つのエリアに分割することもできる。


海岸平野部は、アファール盆地にあり、ダナキル砂漠と高温の影響のため降水量が300ミリ以下と少なく乾燥している。乾燥地のため河川は雨期の降水で現れる季節性のものが多く、主なものは北部を流れるアンセバ川とバルカ川、エチオピア国境に沿って西に流れスーダンに至るガシュ川(上流はメレブ川)、テケゼ川などがある。河川の流入が無いことから海の透明度が高くダイビングが盛んである[12]。 その他、半砂漠植生、マングローブ沼地などの地形がみられる。砂漠から離れた北東部は湿度が高くなる。海岸平野部は最も暑い地域であり、気温は30~39℃となる上、最も暑い時期(6月~9月)にはさらに暑くなることもある。涼しい時期(10月~5月)には25~32℃になる。


南東部高原にはアフリカ大地溝帯の一部で海抜マイナス75mの低地ダナキル砂漠がエチオピアから広がり、その東は火山地帯となっている。最高峰はアスマラ南方の国境に近いソイラ山(標高3018m)。人口密度が高い地域でもある。平均気温は、約18℃(アスマラでは17℃)となる。最暖月は5月で、気温は30℃に達する。最寒月は12月から2月で、気温は夜間には氷点に到達する。雨季は6~9月で平均降水量は540mm。北東部の高原地帯は海岸平野に迫っており、紅海からの暖かく湿った卓越風により海抜700-2000mの高さに「フィルフィルの森」と呼ばれる亜熱帯林の壁が広がっている[13]。この森はアフリカ大陸で最も北に位置する熱帯雨林であり、沢山の種類の鳥が見られ、エリトリアの国鳥であるホオジロエボシドリもこの場所で見られる[14]


西部の高原平野部のアンセバ地域とガシュ・バルカ地域は牧畜と農耕が盛んな肥沃な大地が広がっている。最も住民の健康度が高い地域でもある。この地域は4月から6月は30℃から41℃にもなる最も暑い地域である。最寒月は12月で、13℃から25℃になる。アンセバ北部にはヨブ野生生物保護区(英語版)がある。




気候


北東海岸




































































































マッサワ(セメナウィ・ケイバハリ地方)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

平均最高気温 °C (°F)
29
(84)
29
(84)
31
(88)
33
(91)
36
(97)
40
(104)
40
(104)
40
(104)
38
(100)
35
(95)
33
(91)
30
(86)
34.5
(94.1)
日平均気温 °C (°F)
24.5
(76.1)
25
(77)
27
(81)
29
(84)
31
(88)
33
(91)
35
(95)
34
(93)
33
(91)
30
(86)
28
(82)
25.5
(77.9)
29.7
(85.5)
平均最低気温 °C (°F)
20
(68)
21
(70)
22
(72)
24
(75)
25
(77)
27
(81)
29
(84)
28
(82)
27
(81)
25
(77)
22
(72)
21
(70)
22.4
(72.3)

雨量 mm (inch)
33
(1.3)
25
(0.98)
8
(0.31)
8
(0.31)
4
(0.16)
0
(0)
9
(0.35)
11
(0.43)
4
(0.16)
16
(0.63)
33
(1.3)
33
(1.3)
184
(7.24)
% 湿度
79
79
78
75
69
58
57
61
65
70
74
79
70.3

出典: [15]

東海岸




































































アッサブ(デブバウィ・ケイバハリ地方)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

平均最高気温 °C (°F)
32
(89)
32
(90)
34
(94)
37
(99)
37
(99)
37
(98)
40
(104)
39
(103)
38
(100)
37
(99)
35
(95)
33
(91)
35.9
(96.8)
平均最低気温 °C (°F)
20
(68)
19
(67)
21
(69)
24
(75)
26
(78)
28
(82)
31
(87)
30
(86)
28
(82)
26
(78)
22
(72)
21
(69)
24.7
(76.1)

降水量 mm (inch)
5
(0.2)
3
(0.1)
3
(0.1)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
15
(0.6)
8
(0.3)
5
(0.2)
0
(0)
0
(0)
20
(0.8)
59
(2.3)

出典: Weatherbase [16]

中央高原




















































































アスマラ(マアカル地方)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

平均最高気温 °C (°F)
22
(72)
24
(75)
25
(77)
25
(77)
25
(77)
25
(77)
22
(72)
22
(72)
23
(73)
22
(72)
22
(72)
22
(72)
23
(73)
日平均気温 °C (°F)
14
(57)
15
(59)
16
(61)
17
(63)
18
(64)
18
(64)
16
(61)
16
(61)
16
(61)
15
(59)
14
(57)
13
(55)
16
(61)
平均最低気温 °C (°F)
4
(39)
5
(41)
8
(46)
9
(48)
10
(50)
11
(52)
11
(52)
11
(52)
9
(48)
8
(46)
7
(45)
5
(41)
8
(46)

降水量 mm (inch)
4
(0.16)
2
(0.08)
15
(0.59)
33
(1.3)
41
(1.61)
39
(1.54)
175
(6.89)
156
(6.14)
16
(0.63)
15
(0.59)
20
(0.79)
3
(0.12)
518.6
(20.417)

出典: NOAA[17]

西部高原




































































アゴルダト(ガシュ・バルカ地方)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

平均最高気温 °C (°F)
32
(89)
33
(92)
36
(96)
39
(103)
40
(104)
37
(99)
33
(91)
32
(89)
35
(95)
37
(99)
36
(96)
33
(92)
35.3
(95.4)
平均最低気温 °C (°F)
14
(58)
14
(57)
14
(58)
18
(65)
22
(72)
22
(72)
21
(69)
21
(70)
21
(69)
21
(70)
19
(67)
16
(61)
18.6
(65.7)

降水量 mm (inch)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
10
(0.39)
30
(1.18)
100
(3.94)
140
(5.51)
40
(1.57)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
320
(12.59)

出典: Weatherbase [18]


政治






アスマラの政庁




首都アスマラ中心部


エリトリアは1993年の独立以来、旧エリトリア人民解放戦線 (EPLF) が改組した民主正義人民戦線 (PFDJ) 率いる暫定政府が、書記長のイサイアス・アフェウェルキによって選出された国会議員150人による事実上の一党独裁制の下で統治している。恒久政府樹立に向けての憲法が1997年、制憲議会により制定されたが、未だに施行されていない。



元首


国家元首は大統領。独立以来、初代大統領でPFDJ書記長のイサイアス・アフェウェルキが一貫して就任している。憲法規定によれば、大統領は5年の任期を持ち、国民議会により選出されることとなっているが、憲法が未施行のため、選挙は無期延期となっている。



行政



首相職は設置されていない。内閣は大統領が任命する閣僚で構成されるが、実際の行政権は大統領が行使し、内閣はその執行機関に過ぎない。よってその権力は極めて小さく、大統領の補佐機関であるといえる。



立法


議会は一院制の国民議会。104議席で、PFDJ中央委員会の委員40名と、任命制の議員64名で構成される。だが列国議会同盟 (IPU) によれば、エリトリアの国民議会はPFDJ中央委員会の委員75名、旧制憲議会議員60名、在外エリトリア人代表15名で構成される150議席の議会とされている。いずれにせよ、国民による選挙は行なわれておらず、PFDJの政策を追認する役割しか持たない。また、憲法が未施行であるため暫定的な権能しか有しておらず、任期も定められていない。



政党



政党設立には国家による許可が必要であり、PFDJが唯一、政党としての活動を認められている。だが反政府勢力としてエリトリア解放戦線 (ELF) やエリトリア国民同盟 (ENA) などが存在している。



司法


最高司法機関は高等裁判所で、その下に地方裁判所などが存在。行政裁判などを担う特別法廷も設置されている。



国内問題



人権問題



2014年6月、国際連合人権理事会はエリトリアの人権状況の調査を決定した。500人余りの聞き取り調査で作成した報告書[19] では、同国政府による重大な人権蹂躙が指摘された。


同報告書によると、政府に対する抗議やデモ活動は、平和的でも一切許可されない。政府は国内に厳格な監視制度を設け、国民は生活のあらゆる面に干渉され、常時監視されている。エリトリア国民は男女とも全員、無期限の徴兵制度による兵役義務がある。また「ナショナルサービス」と呼ばれる、政府の計画する事業での勤労奉仕活動(事実上の強制労働)に従事させられる[20]。突然徴兵されたり、低賃金の長期間労働によって貧困層がより増える原因になっており、徴兵を忌避して国外に脱出する者が絶えない。


国外への渡航は厳しく制限され、国内での移動にも事前の許可が必要である。政府はカトリック教会やイスラム教スンニ派など4つの宗教だけを公認し、他の宗教はすべて非合法化された[7][21]。宗教的な書物は押収され、信者が姿を消したケースも少なくない。


国民は裁判所の令状なく突然拘束されたり、拷問を受けたりする。裁判手続きなしの処刑が横行しており、死者や行方不明者も後を絶たない[6]。同報告書は「この国で公正な裁判は不可能で、基本的人権を守れる状況ではない」と結論している。エリトリア外務省は、この報告書を根拠のない下劣な中傷であるとして批判している[22]


同国は外国人記者の入国を認めず[23]、独立したメディアは存在しない[24]。ジャーナリスト保護委員会は2012年、エリトリアを報道の自由が少ない「検閲国家ワースト10」の第1位に選んだと発表した[25]。また、国境なき記者団による「世界報道自由ランキング」でも最下位にランク付けされている。



難民問題


周辺諸国との国境紛争問題や、徴兵制度への不満により[26][27]、同国からは2014年半ばまでに約35万7000人余りが国外へ脱出し、現在も毎月5000人近くの国民が脱出している。国民は国境に近付いただけで厳しく処罰され、外国から帰国すれば拘束され、拷問を受ける場合もある[24]。一時は越境を図った者はその場で射殺され、一部の証言者は国際連合の調査[28] に「標的にされたことがある」と話した。


難民がヨーロッパ(特に旧宗主国のイタリア)に向かうために、地中海を渡ろうとして遭難死する事故が毎年多発している[29]。欧州連合加盟国、特に上陸地点となるイタリアやギリシャでは、同国を含むアフリカからの難民が受け入れの限度を越え、危機的な問題となっている。



地方行政区分




エリトリアの地方



エリトリアは以下の6地方で構成され、それぞれがさらに複数の地区に分けられている。



  1. マアカル(中部)地方

  2. デブブ(南部)地方

  3. ガシュ・バルカ地方

  4. アンセバ地方

  5. セメナウィ・ケイバハリ(北紅海)地方

  6. デブバウィ・ケイバハリ(南紅海)地方



主要都市



主要な都市はアスマラ(首都)、ケレンがある。



軍事


陸軍、海軍、空軍の三軍を保有しており、2005年時点の国防支出は6,500万ドルである[30]
国民全てが公務員であり国民皆兵の徴兵制度を有する。徴兵された国民は軍務の他に、ナショナル・サービスという国が運営する土木工事や鉱山作業に動員される。



兵力(2009年)



  • 陸軍:20万人[30]

  • 海軍:1,400人[30]

  • 空軍:400人[30]



国際関係



独立以来、エチオピア、ジブチ、イエメンとは国境問題を抱え、緊張状態にあった。エチオピアとは2018年に関係正常化で合意し、陸上国境での往来と航空路の再開、内陸国となったエチオピアに対する港湾の開放を取り決めた。



対エチオピア関係



1998年からはバドメの帰属をめぐるエチオピア・エリトリア国境紛争が武力衝突に発展。2000年に和平合意成立、国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)が展開した。国境案が提案されたものの、両国間の合意が進まなかった。2008年にUNMEEは撤退、エチオピア・エリトリア間の緊張状態が続いている。


2010年、エチオピア・エリトリア国境で軍事衝突。エリトリア側23名とエチオピア側3名が死亡。


2018年7月9日、エリトリアの首都アスマラにおいて、エチオピアのアビィ首相とエリトリアのイサイアス大統領が20年ぶりの首脳会談を行い、長年にわたる戦争状態を終結することで合意。戦争状態の終焉や経済・外交関係の再開、国境に係る決定の履行を内容とする共同宣言に署名した[31][32]



対ジブチ関係


国境を巡って隣国ジブチと対立しており、1990年には二度の軍事衝突が起きている。停戦が成立したが、国境線を巡る緊張は続いた。2008年6月10日から13日、ジブチ・エリトリア国境紛争(英語版)で再び両軍の間で戦闘が起きた。ジブチ政府はエリトリアが再び国境線に軍を増強しているとして非難し、国際社会の介入を求めた。



対イエメン関係


天然ガス田をめぐってハニーシュ群島紛争(1993年 - 1998年)が勃発。



対アラブ首長国連邦関係


2015年にアラブ首長国連邦(UAE)は初の海外基地[33] としてアッサブに軍事拠点を設置する契約をエリトリアと締結[34]、これによりアッサブではUAEの保有するフランス製のミラージュ2000戦闘機や中国製の無人攻撃機[35]などが展開された。



日本との関係



  • 在留日本人数 - 1人(2016年10月現在)[36]

  • 在日エリトリア人数 - 42人(2017年6月現在)[36]



交通









エリトリアの山道


エリトリアの交通には、公共および民間で提供される乗り物、海上輸送、航空輸送が様々な形態で存在する他、高速道路、空港、港湾が含まれる。


1999年時点で、エリトリアには線路幅950 mm (3 ft 1 38 in)(狭軌)の鉄道路線が317km存在した。鉄道はアゴルダト、アスマラとマッサワ港を結んでいるが、1994年にマッサワで再開された約5kmの区間を除き操業されていない。近年、残りの区間および車両の修復が行われている。2003年までに、マッサワからアスマラまでの全区間が再建された。


エリトリアの国道は道路の等級に基づいて名付けられており、一級(P)、二級(S)、三級(T)の3つの等級がある。


最下級の道路は三級国道で、地域にとって重要な区間に設けられている。通常、改良された地上道で、所々舗装されている。通常、雨季の間は通れなくなる。


次に上位となるのは二級国道で、通常は単層アスファルトで舗装されている。各地区や地方の行政府所在地間を結んでいる。
一級国道は全区間が完全にアスファルトで舗装されており、主にエリトリア国内の主要都市間を結んでいる。




経済





1ナクファ


人口の多くが農業、牧畜業などの第一次産業に従事しているが、食糧の自給率は低く、7割を輸入や援助に依存している状態にある。産業別のGDPでは運輸業が3割以上を占め、工業・その他サービス部門を含めると8割以上に達している。エチオピアとの国境紛争は、難民・避難民の大量発生、紛争地域のインフラ破壊等、エリトリア経済に深刻な影響を与えた。


独立の動きが始まった町の名「ナクファ」が現在の通貨の単位となっている。1ナクファ紙幣にはビリン人、5ナクファ紙幣にはアファール人というように、主要民族の人々がそれぞれ印刷されており、コインには国内に生息するガゼル等の野生動物が刻印されている。



国民




民族





































民族構成(エリトリア)

ティグリニャ人
  
55%
ティグレ人
  
30%
サホ人
  
4%
ビリン人
  
2%
ラシャイダ人
  
2%




民族分布図


大多数の国民は黒人とアラブ人の混血で、ティグリニャ人が最大民族であり、人口の55%を占める。次いでティグレ人 (30%)、サホ人 (4%)、ビリン人 (2%)、ラシャイダ人 (2%)(アラブ系)、アファル人(エチオピア系)、ベジャ人、クナマ人、ナラ人等主たる民族は9民族で構成されている。[30]



言語



公的に公用語としての規定はされていないが、ティグリニャ語とアラビア語が最も広く使われ、商業や業務、教育で使われているなど実質的な公用語となっている。イタリアとイギリスの占領・植民地時代の名残でイタリア語と英語は広く理解され中等・高等教育などで使われる。


2000年にはアフリカの諸言語の保護、育成、活用に重点が置かれたアスマラ宣言が採択され、エリトリアではティグリニャ語、ティグレ語、ラシャイダ語(アラビア語ヒジャーズ方言)、アファール語、サホ語、ビリン語(ビレン語)、ベジャ語、クナマ語(英語版)ナラ語(英語版)の9つの民族語が初等教育では平等に扱われている。たいていのサブサハラアフリカ諸国では小学校3•4年次から、宗主国の欧米系言語による指導がなされるが、エリトリアでは小学校6年までは各民族語で教育を受け、国会などでも通訳を介して行われている。アフリカでは珍しい国である[37]



宗教




























宗教構成(エリトリア)

キリスト教
  
60%
イスラム教
  
30%
アンナ教
  
10%




イタリア統治時代の1923年に建てられたアスマラのセントジョセフ教会




マッサワのシェイク・ハナフィ・モスク


テフワド(エリトリア正教)と呼ばれるコプト教、キリスト教のプロテスタント、イスラム教、ユダヤ教、土着信仰のアンナ教。
コプト教会のコプト暦の「ゲエズカレンダー」を採用しているため西暦は7年遅れだが、国民は一般的なグレゴリオ暦も認知している。
宗教に寛容な文化が形成されており、宗教関係のイベントがある時は、他宗教・宗派の人をゲストとして招待する伝統もある[38]


政府は信教の自由を保障するとしているが、2002年以降は政府が認定する宗教はイスラム教スンナ派、キリスト教(正教会、カトリック、プロテスタント)、アンナ教などの4つのみである。他の宗教は全て非合法化され、エホバの証人、バハーイー教、セブンスデー・アドベンチスト教会、イスラム教ワッハーブ派などの少数派の信者が政府に監視され迫害にさらされている
[39][40]



教育



小学から大学までの学費は無料である。
国民の識字率は65.3%(男性77%、女性54.5%)、若年層の識字率は90%である。
教授言語は初等教育は各民族語とアラビア語で行われ、中等・高等教育ではアラビア語、英語となる。


エリトリアの大学は以下の8校が存在する。




  • エリトリア科学技術大学(エリトリア工科大学、Institute of Science and Technology)


  • ハメルマド農業大学(ハメルマロ農業大学、College of Agriculture at Hamelmalo)


  • ハルハレ農業大学(College of Agriculture at Halhale)


  • 人文社会科学大学(人文社会大学、College of Arts and Social Sciences at Adi Keyih)


  • 経営経済大学(経済商業大学、College of Business and Economics at Massawa)


  • 海洋科学技術大学(海洋科学大学、College of Marine Sciences and Technology at Massawa)


  • 保健科学大学(College of Nursing and Health Technology at Asmara)


  • オロッタ医科大学(Orota School of Medicine)



医療



30年に及んだ隣国エチオピアとの紛争の後、エリトリアは破壊された施設の再建、保健医療従事者のトレーニング、薬剤や機器の提供改善に投資してきた。サハラ以南のアフリカでは数少ない、ミレニアム開発目標4達成への歩みが順調な国の一つである。予防接種の普及により予防可能な疾病が減少し、ポリオがなく、妊婦や新生児の破傷風は根絶され、はしかによる死者は報告されていない。マラリアの罹患率も2001年の12万5750 症例から2005年には3万4100 症例へと急激に減少しており、死者も2001年の129人から2005年には38人に減っている。
コミュニティを基盤とした治療的栄養療法や、保険サービスチームの定期巡回訪問を行うことで医療施設が整っていない地方まで保険サービスを広めた[41]
医療費は無料である。



婚姻


婚姻してもほとんどの女性は改姓しない(夫婦別姓)[42]



文化




コーヒー・セレモニー





コーヒー・セレモニー


コーヒー・セレモニーとはエリトリアの伝統的な習慣であり、コーヒーを飲むことを儀式化した作法の一つである。日本の茶道と同様、コーヒーを飲むという行為に精神的な要素や教養などが含まれる文化的な習慣であり、他者に対する感謝ともてなしの精神を表すものである。女性が執り行うものであり、エチオピアでは結婚前の女性が身につけるべき作法の一つとされている。冠婚葬祭の際や、大切な客を迎える際などに行われる。使われるポットやカップなどの茶器は女性が実母からや嫁ぎ先で代々受け継がれてきたものであることもある。客の前でコーヒーの生豆を煎るところから始め、3杯飲むことが正式であることから、1時間半から2時間以上かかる場合もある。その間は香を焚き、客はパンやポップコーン(ファンディシャ)などを食べながら待つ。



スポーツ





ロードレースのダニエル・テクレハイマノ選手


イタリア植民地時代に自転車競技が導入され、エリトリアの国技と言われるほどロードレースは人気である。持久系スポーツを得意とするエリトリア人の体格と起伏に富んだ地形が自転車競技の練習に合っており、ヨーロッパの大会で活躍する選手は国民的英雄として喝采される。アスマラ市内では試合国際大会の「ツール・ド・エリトリア」や国際交流イベントが行われる[43]。ツールドフランスで活躍したダニエル・テクレハイマノが国際的に有名になった。


陸上競技では世界陸上2015北京大会にて、ギルメイ・ゲブレスラシエが男子マラソンで優勝し、同国初の金メダリストとなった。



脚注




  1. ^ abcdIMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])


  2. ^ エリトリア/基礎データ 日本国外務省(2018年7月11日閲覧)。


  3. ^ エチオピア、エリトリアと関係正常化 戦争状態の終結で合意『日本経済新聞』朝刊2018年7月10日(国際面)2018年7月11日閲覧。


  4. ^ “アスマラ便り3”. 佐藤寛. 2015年9月20日閲覧。


  5. ^ 伏見香名子「“アフリカの北朝鮮”では全国民が奴隷だ」拷問から逃れた亡命ライターが体験したエリトリアの惨状日経ビジネスONLINE(2017年7月11日)2018年7月11日閲覧。

  6. ^ ab“Eritrea's human rights record comes under fire at United Nations”. the gurdian (25 October, 2013). 19 october, 2015閲覧。

  7. ^ abEritrea Human Rights Overview Human Rights Watch


  8. ^ Eritrea - definition of Eritrea in English from the Oxford dictionary


  9. ^ Eritrea | Definition of Eritrea by Merriam-webster


  10. ^ “Asmara: a Modernist City of Africa”. UNESCO World Heritage Centre. 2018年6月13日閲覧。


  11. ^ エリトリア南東部で火山噴火およびM5.7の地震発生 (2011年6月14日) エリトリア大使館


  12. ^ “ダイビングについて”. エリトリア大使館. 2015年10月19日閲覧。


  13. ^ “フィルフィルの森”. エリトリア大使館. 2015年10月19日閲覧。


  14. ^ “TOKYOキャラクターフォーラム地球!なかよし計画”. エリトリア大使館. 2015年10月23日閲覧。


  15. ^ Massawa-climatemp.info 2012年6月26日閲覧。


  16. ^ Weatherbase:Historical Weather for Assab, Eritrea,2012年6月26日閲覧。


  17. ^ “Asmara Climate Normals 1961–1990”. National Oceanic and Atmospheric Administration. 2015年1月13日閲覧。


  18. ^
    “Weatherbase: Historical Weather for Ak'ordat, Eritrea”. Weatherbase (2011年). 2015年5月閲覧。
    Retrieved on November 24, 2011.



  19. ^ “Report of the commission of inquiry on human rights in Eritrea”. UNHRC website (2015年6月8日). 2015年6月9日閲覧。


  20. ^ “エリトリア難民、命がけの逃亡 失う物は何もない”. スイス放送協会. (2014年9月16日). http://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E9%9B%A3%E6%B0%91-%E5%91%BD%E3%81%8C%E3%81%91%E3%81%AE%E9%80%83%E4%BA%A1-%E5%A4%B1%E3%81%86%E7%89%A9%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84/40694210 2014年9月24日閲覧。 


  21. ^ CSW-USA on Eritrea CSW


  22. ^ “Eritrea: Asmara Lashes Out at UN's 'Vile Slanders'”. AllAfrica news website (2015年6月10日). 2015年6月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月24日閲覧。


  23. ^ “Eritrea Tops List of World Press Censors”. Media Alliance (3 May, 2015). 19 October, 2015閲覧。

  24. ^ abERITREA 20 YEARS OF INDEPENDENCE, BUT STILL NO FREEDOM (PDF)”. Amnesty International Publications (2013年). 19 October, 2015閲覧。


  25. ^ “The 10 Most Censored Countries in the World”. The Cheat Sheet. 19 October, 2015閲覧。


  26. ^ “エリトリア国内事情の調査報告書”. デンマーク入国管理当局. 2015年9月20日閲覧。


  27. ^ “私の闇の奥 なぜエリトリアだけを”. 2015年9月20日閲覧。


  28. ^ 28 May 2013. UN Human Rights Council. Report of the Special Rapporteur On the Situation of Human Rights in Eritrea, para. 43


  29. ^ “地中海難民という「臭い物」にフタをしたいEUの人道主義また排外主義について”. Yahoo!ニュース. (2015年5月8日). http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakasonemasanori/20150508-00045526/ 2015年5月9日閲覧。 

  30. ^ abcdeデータブック オブ・ザ・ワールド(2010)p.259-260


  31. ^ “エチオピアとエリトリア、戦争終結を宣言 両首脳が共同文書に調印”. CNN. (2018年7月10日). https://www.cnn.co.jp/world/35122226.html 2018年9月2日閲覧。 


  32. ^ “エチオピアとエリトリア、共同宣言に署名”. Qnewニュース. (2017年7月12日). https://qnew-news.net/news/2018-7/2018071206.html 2018年9月2日閲覧。 


  33. ^ “UAE Building its First Naval Base in Eritrea?”. TesfaNews. (2016年4月15日). https://www.tesfanews.net/uae-building-naval-base-eritrea/ 2018年9月10日閲覧。 


  34. ^ “The UAE’s Military and Naval Reliance on Eritrea Makes the War in Yemen Even Riskier for the U.S.”. Just Security. (2017年5月31日). https://www.justsecurity.org/41450/uaes-military-naval-reliance-eritrea-war-yemen-riskier-u-s/ 2018年8月29日閲覧。 


  35. ^ “UAE deploys Wing Loong II UAV to Eritrea”. ジェーン・ディフェンス・ウィークリー. (2018年8月15日). https://www.janes.com/article/82382/uae-deploys-wing-loong-ii-uav-to-eritrea 2018年8月29日閲覧。 

  36. ^ ab外務省 エリトリア基礎データ


  37. ^ ―「アスマラ宣言」の意義 京都精華大学 楠瀬佳子


  38. ^ “アフリカNOW No.73(2006年発行)”. アフリカ日本協議会. 2015年9月20日閲覧。


  39. ^ “エリトリア、宗教法人への統制強化”. Christian Today. 2015年9月23日閲覧。


  40. ^ “信仰ゆえに投獄されているエホバの証人”. エホバの証人. 2015年9月23日閲覧。


  41. ^ “アフリカ子供白書2008”. 日本ユニセフ協会. 2015年10月19日閲覧。


  42. ^ Karen Pearce, Multicultural Matters: Names and Naming Systems, 2002, Building Bridges.


  43. ^ “「旅する満点バイク」”. 山田美緒. 2015年10月31日閲覧。




参考文献


  • 「エリトリア」『データブック オブ・ザ・ワールド 2010年版』 二宮書店(編)、二宮書店、2010年1月15日。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
    ISBN 978-4-8176-0340-1。


関連項目







  • エリトリア関係記事の一覧

  • エリトリア航空

  • エリトリアの国道

  • エリトリア鉄道

  • エリトリアの空港の一覧



外部リンク






政府


  • 駐日エリトリア大使館 (日本語)

日本政府


  • 日本外務省 - エリトリア (日本語)

座標: 北緯15度 東経38度 / 北緯15度 東経38度 / 15; 38









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