イングランド国教会
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イングランド国教会(イングランドこっきょうかい、英: Church of England)は、16世紀(1534年)のイングランド王国で成立したキリスト教会の名称、かつ世界に広がる聖公会(アングリカン・コミュニオン)のうち最初に成立し、その母体となった教会。イギリス国教会(イギリスこっきょうかい)、英国国教会(えいこくこっきょうかい)、また「国教会」という訳語が不正確であるとしてイングランド教会(イングランドきょうかい)[1]、英国聖公会[2]とも呼ばれる。聖公会(アングリカン・チャーチ)という名称は、アングリカン・コミュニオン全体の日本語訳であると同時に、イングランド国外におけるイングランド国教会の姉妹教会の名称の日本語訳である。
もともとはカトリック教会の一部であったが、16世紀のイングランド王ヘンリー8世からエリザベス1世の時代にかけてローマ教皇庁から離れ、独立した教会となった。プロテスタントに分類されることもあるが、他プロテスタント諸派とは異なり、教義上の問題でなく、政治的問題(ヘンリー8世の離婚問題)が原因となって、カトリック教会の教義自体は否定せずに分裂したため、典礼的にはカトリック教会との共通点が多い。イングランド(イギリス)の統治者が教会の首長(Defender of the Faith、直訳は『信仰の擁護者』)であるということが最大の特徴である。
目次
1 イングランドのキリスト教史
1.1 キリスト教の到来
1.2 ローマとの分裂
1.3 プロテスタント運動との関係
1.4 分裂反動と「中道」(Via Media)
1.5 ピューリタン革命とカトリック解放
2 教会組織
2.1 2つの管区
2.2 教区主教
2.3 代表組織
2.4 貴族院
3 教義と実践
3.1 礼拝と典礼
3.2 ハイ・チャーチとロウ・チャーチ
3.3 女性聖職者
3.4 同性婚とLGBT
4 社会奉仕活動
5 脚注
6 関連項目
イングランドのキリスト教史
キリスト教の到来
グレートブリテン島にキリスト教が初めて到来したのは、ローマ帝国時代の紀元200年頃のことであると考えられている。イングランド(ブリタンニア)はローマ帝国に征服されたため、禁教時代でも、軍人、貿易商人のなかに信者がいた。イングランド南部にセント・オールバンズという市があるが、ここで3世紀初めに聖オルバンが殉教したという伝説も生まれている。キリスト教はウェールズ、スコットランド、アイルランドへも別々に宣教されて、ローマ人の撤退後も残った。
しかし、キリスト教の歴史の中では正式なイングランドの宣教は、カンタベリーのアウグスティヌスによるものを最初であると見なしている。アウグスティヌスは教皇グレゴリウス1世の命により、ケントのエゼルベルト王の元へと派遣された宣教師であった。664年に行われたウィットビー教会会議ではノーサンブリアのオスウィの指導により、それまで用いられてきたケルト的典礼を廃し、ローマ式典礼を取り入れることを決定したことが大きな意義を持っている。
他のヨーロッパ諸国と同様に、イギリスでも中世後期以降、王権と教皇権の争いが顕著となった。論点となったのは教会の保有する資産の問題、聖職者に対する裁判権、聖職叙任権などであった。特にヘンリー2世とジョン王の時代に王と教皇が激しく争った。
ローマとの分裂
王権と教皇権の争いはあっても、イングランドの教会は中世を通じてローマとの一致を保ち続けていた。イングランド教会とローマの間に最初の決定的な分裂が生じたのは、ヘンリー8世の時代である。その原因はヘンリー8世の離婚問題がこじれたことにあった。すなわち、キャサリン・オブ・アラゴンを離婚しようとしたヘンリー8世が、教皇に婚姻の無効を宣言するよう求めたにもかかわらず、教皇クレメンス7世がこれを却下したことが引き金となった。これは単なる離婚問題というより、キャサリンの甥にあたる神聖ローマ皇帝カール5世の思惑なども絡んだ、複雑な政治問題であった。
ヘンリー8世は1527年に教皇に対して、キャサリンとの結婚の無効を認めるように願った。1529年までに繰り返し行われた教皇への働きかけが失敗に終わると、ヘンリー8世は態度を変え、さまざまな古代以来の文献を基に、霊的首位権もまた王にあり、教皇の首位権は違法であるという論文をまとめ、教皇に送付した。続いて1531年にはイングランドの聖職者たちに対し、王による裁判権を保留する代わりに10万ポンドを支払うよう求めた。これはヘンリー8世が聖職者にとっても首長であり、保護者であるということをはっきりと示すものとなった。1531年2月11日、イングランドの聖職者たちはヘンリー8世がイングランド教会の首長であると認める決議を行った。しかし、ここに至ってもヘンリー8世は教皇との和解を模索していた。
1532年5月になると、イングランドの聖職者会は自らの法的独立を放棄し、完全に王に従う旨を発表した。1533年には教皇上訴禁止法が制定され、それまで認められていた聖職者の教皇への上訴が禁じられ、カンタベリーとヨークの大司教が教会裁治の権力を保持することになった。ヘンリー8世の言いなりであったトマス・クランマーがカンタベリー大司教の座に就くと、先の裁定に従ってクランマーが王の婚姻無効を認め、王はアン・ブーリンと再婚した。教皇クレメンス7世がヘンリー8世を破門したことで両者の分裂は決定的となった。ヘンリー8世は1534年に国王至上法(首長令)を公布してイングランドの教会のトップに君臨した。イングランドの教会を自由に出来る地位に就いたことは、ヘンリー8世が離婚を自由にできるというだけでなく、教会財産を思うままにしたいという誘惑を感じさせるものとなった。やがてトマス・クロムウェルのもとで委員会が結成され、修道院が保持していた財産が国家へ移されていった。こうしてイングランドの修道院は破壊され、荒廃した。
プロテスタント運動との関係
ローマと袂を分かったとはいえ、イングランド教会は決してプロテスタントではなかった。ヘンリー8世はもともとプロテスタントを攻撃する論文を発表して教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(Defender of the Faith)という称号を与えられており、それを誇っていた。ヘンリー8世がローマと訣別したことで、大陸のプロテスタント運動が急速にイングランドに流入し、聖像破壊、巡礼地の撤廃、聖人暦の廃止などを行った。しかしヘンリー8世自身は信条としてカトリックそのものであり、1539年のイングランド教会の6箇条においてイングランド教会がカトリック教会的な性質を持ち続けることを宣言している。
変革を嫌った父ヘンリー8世と違った息子エドワード6世の下で、イングランド教会は最初の変革を行った。それは典礼・祈祷書の翻訳であり、プロテスタント的な信仰の確立が目指された。こうして国家事業として出版されたのが1549年の『イングランド国教会祈祷書』であり、1552年に最初の改訂が行われた。
分裂反動と「中道」(Via Media)
エドワード6世の死後、キャサリンの娘メアリー1世が王位に就いた。メアリーは熱心なカトリック教徒であった。彼女はヘンリー8世とエドワード6世の時代に行われた典礼の改革をすべて廃し、再びイングランドをカトリックに戻そうとした。しかし反感を買い、メアリー1世の死後、カトリックへの復帰運動は消えた。
真の意味でのイングランド国教会のスタートは、1558年に王位に就いたエリザベス1世の下で切られることになる。エリザベスは教皇の影響力がイングランドに及ぶことを阻止しようとしていたが、ローマからの完全な分離までは望んでいなかった。神聖ローマ皇帝カール5世が彼女をかばったこともあって、エリザベス1世は1570年、ピウス5世の時代まで破門されることはなかった。
イングランド国教会が正式にローマから分かれることになるのは1559年である。議会はエリザベス女王を「信仰の擁護者」(首長)として認識し、首長令を採択して反プロテスタント的法を廃止した。さらに女王は1563年の聖職者会議で「イングランド国教会の39箇条」を制定し、イングランド国内の国教会を強化した。
ピューリタン革命とカトリック解放
このころから、イングランドにおける清教徒(ピューリタン)と国教会派の対立が深刻化した。1603年に即位したジェームズ1世は強く国教会派を支持、また王権神授説を称えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で欽定訳聖書の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。チャールズ1世の治世では国教会派がスコットランドにも教化しようとしたために、反発した人々の手によって清教徒革命が勃発し、敗れたチャールズ1世は1649年に処刑された。しかしその後、王政復古や名誉革命を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。
イングランド国教会主流派と対立した人々の中には、国教会内部で改革を行おうとする非分離派もいたが、国教会から出て別の教会を立てる者も多かった。後者を分離派と呼ぶ。このような国教会から出たプロテスタント会派にバプティスト・メソジスト・会衆派教会などがある。
1829年のカトリック教解放法は、カトリック解放に待望久しかった市民的諸権利の回復を保障し、16世紀以来非合法化されてきたカトリック教会の再建を可能とした。1833年に始まったオックスフォード運動は国教会のカトリック文化遺産意識を反映している。オックスフォード大学内に始まったこの運動は、ジョン・ヘンリー・ニューマン(最終的に国教会からカトリックに改宗した)とエドワード・プュージーらによって主導されたものであった。
現代のイングランド国教会は、世界の聖公会において主導的役割を果たすと共に、ローマ・カトリックなどとの対話に積極的に乗り出し、エキュメニカル運動にも積極的な役割を果たしている。ただしカトリック側は1903年、教皇レオ13世の大勅書(Apostolicae Curae et Caritatis)で、聖職者の叙任は無効と宣言しており、東方教会とは若干差別がある。
20世紀末から21世紀初頭にかけてイングランド教会で女性の聖職者の叙任が進み、2015年には初めての主教が生まれて話題となった。
教会組織
イギリス君主がイングランド教会の最高ガバナー (Supreme Governor of the Church of England) である。
イングランド国教会の管轄する地域はグレートブリテン島、マン島、チャンネル諸島、およびジブラルタルの外地教区 (Diocese in Europe) などを含む。アイルランド聖公会、ウェールズ聖公会、スコットランド聖公会(スコットランド教会は長老派)はイングランド国教会とは別の独立した組織になっている。
2つの管区
イングランド国教会には2つの管区がある。イングランド南部を管轄する「カンタベリー管区」と北部を管轄する「ヨーク管区」で、各管区では大主教が選ばれ管区長として代表となる。こうしてカンタベリー大主教(2013年1月からイングランド生まれのジャスティン・ウェルビー)とヨーク大主教(2005年11月からウガンダ生まれのジョン・センタム)がいるが、歴史的な経緯により前者がイングランド国教会の長である。またカンタベリー大主教は全世界のアングリカン・コミュニオンの長であり、10年毎のランベス会議の議長でもある。
教区主教
各管区はいくつかの教区に分かれていて、各教区では主教が選出されて教区を代表する。各地の教会はその地域の教区に属している。教区は教会行政の最も基本的な単位で、複数の教会からなる。主教区には主教座聖堂があり、席首司祭と参事会員からなる参事会が聖堂の管理運営にあたる。
代表組織
イングランド国教会は教会会議(Synod)の総会 (General Synod) により重要な決定を行っている。総会には、カンタベリーとヨークの管区会議、主教会議、聖職者会議、信徒会議から参加があり、1月にロンドンで、7月にヨークで開催される[3]。
貴族院
イギリス議会の上院である貴族院には26人の聖職貴族がいて、国政に参加している。
カンタベリーのアウグスティヌス司教
リチャード・フッカー(エクセター大聖堂にある像)
ジャスティン・ウェルビーカンタベリー管区大主教(ソウル大聖堂で、2013年)
ジョン・センタム John Sentamu ヨーク管区大主教(ヨーク大聖堂で、2005年)
教義と実践
イングランド国教会の教会法は、聖書をその根本としている。加えて、その教義は教父の教え、公会議のエキュメニカルな信経(ニケヤ信経など)が聖書の教えと合致する限り、それらを元としている。教義内容は「39箇条」教義要綱と祈祷書に表れており、また執事、司祭、主教からなる聖職者の聖別を認める[4]。神学者では、16世紀後半に活躍したリチャード・フッカーが大きな影響を与えた。
礼拝と典礼
イングランド国教会の典礼(礼拝順序など)は『祈祷書』(Book of Common Prayer)にあると、イングランド法に規定されている。これに加えて、2000年から『新祈祷書」 (Common Worship) も使われている。
礼拝の音楽は聖書内容(特に『詩篇』)を簡単な節で歌うことから『古今聖歌集』、『英語聖歌集』(English Hymnal)などへと数世紀にわたってさまざまに変化してきたが、主教座聖堂および一部教会では「クワイアー付きの夕の祈り」 (Choral evensong) を守っている。
ハイ・チャーチとロウ・チャーチ
もともとイングランド国教会はバプテスト教会、メソジスト教会など多くのプロテスタント宗派を生み出した母体で、さまざまな考えの人々を包含していて、それを許容している。その状態を、カトリック的な要素を残す「ハイ・チャーチ」 (high church) 、福音的な「ロウ・チャーチ」 (low church) に分類して説明したり、自由神学的な「ブロード・チャーチ」 (Broad church) もあるとしているが、そうした確立した組織があるわけではなく、教区内に様々な考え方の教会が混在している[5]。
女性聖職者
1986年に女性の執事が正式に認められ、翌1987年に初めて聖別(任命)されている。1992年には女性の司祭任命が総会で決定され、1994年に初めての女性司祭が誕生し、2010年には男性司祭の任命数(273名)より女性司祭の任命数(290名)が多い状況になっている。
2013年6月、女性主教の任命が教会会議で決まっている。その後いくつかの会の審議で圧倒的賛成多数(例えば主教会では賛成37、反対2、棄権1)で決定されて、イギリス議会の宗教委員会の承認も経て、2014年11月に執行可能になった。初めての女性副主教 (suffragan bishop) はチェスター教区で誕生して2015年1月にヨーク大聖堂で聖別された[6]。女性初の教区主教はグロスター教区で誕生しカンタベリー大聖堂で2015年7月に聖別されている[7]。
同性婚とLGBT
同性婚とLGBTについては、近年イングランド国教会内で議論が続いている。公式には「教会法では同性婚を司式することは禁止されている」が、「各地の教会では同性婚のあなたをサポートする祈りを受けることもできる」ともしている[8]。実際には、各地の教会で同性婚の司式が非公式に行われている[9]。
2014年にはジャスティン・ウェルビー大主教が「同性婚は英国の法律になった以上、それを認めなければならない」と言ったと伝えられた後、「彼は基本的に同性婚は反対である」という声明をランベス宮殿(ウェルビー大主教公邸)が発表している[10]。
社会奉仕活動
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救世軍と類似した社会奉仕団体「チャーチ・アーミー」(教会軍)を組織し、運用している。
脚注
^ 下楠昌哉 編 『イギリス文化入門』 p137
^ 日本聖公会代祷表
^ General Synod (The Church of England)
^ Canon of the Church of England
^ イギリス国教会(世界史の窓)
^ After turmoil, Church of England consecrates first woman bishop (Reuters)
^ First female diocesan bishop in C of E consecrated (Anglican Communion News Service)
^ Information for same sex couples (Your Church Wedding Org, The Church of England)
^ Vicars bless hundreds of gay couples a year (The Telegraph, 2002)
^ Lambeth Palace reaffirms Justin Welby’s opposition in principle to gay marriage (The Telegraph, 2014)
関連項目
- 世界の聖公会の各組織は、アングリカン・コミュニオン参照。
- 日本聖公会
- 米国聖公会
- ベーダ・ヴェネラビリス
ジョナサン・スウィフト:イングランド国教会とローマ・カトリックとの訣別と清教徒との相克を風刺した『桶物語』を書いた。- イングランドとニューイングランドにおける政教分離の歴史
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