江頭




江頭(えがしら)は、日本人の姓。「えがしら」のほかに「えかしら」、「えとう」と読み、佐賀県、福岡県など九州北部の各県に多い[1]。また、日本の地名にも存在する。




目次






  • 1 歴史


    • 1.1 佐賀の江頭氏




  • 2 脚注


  • 3 参考文献


  • 4 関連項目





歴史



佐賀の江頭氏




江頭安太郎


海軍軍人江頭安太郎、実業家江頭豊、文芸評論家江藤淳らを輩出し、皇太子妃雅子にもつながる家系である江頭家は、江戸時代、佐賀藩主鍋島家の家臣だったとされている。しかし、江頭家の系譜にある江頭嘉蔵の名は、1845年(弘化2年)、1864年(元治元年)の二種類の佐賀藩侍着到[2]にはない[3]。嘉蔵の曾孫江藤淳は、江頭家について「手明鑓(てあきやり)」という身分の藩士だったのだろうと推測している[3]。手明鑓は平時は無役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場に赴く者たちを指す。手明鑓は佐賀藩独特の身分で正式の武士ではくて、戦時のみに駆り出される役職だった。しかし、嘉蔵以前の系図や史料が一切存在しないため、嘉蔵が「手明鑓」であったか否かを含めて、ルーツや俸給などはまったくわからない。嘉蔵以前の系譜は、現在までのところ、明らかになっていない[4]


安太郎の父嘉蔵の生年についてはわかっていないが江藤淳によると、「おそらく1818年-1829年(文政年間)の後半に生まれたのであろう」という[3]。嘉蔵がキノと結婚したのは30歳をいくつかこえてからである[3]。嘉蔵は佐賀中学校の小使をつとめた[3]。嘉蔵は安太郎が少年時代に亡くなった[3]。キノは東京青山墓地にある江頭家の墓所で「佐賀県士族江頭嘉蔵室喜能子之墓」と書かれた墓石の下に眠っている[3]。嘉蔵の墓は青山の墓所にはない[3]。『人事興信録 第3版』によると、嘉蔵や安太郎の族籍は「佐賀県士族」である[5]


嘉蔵の子の安太郎は秀才であり、海軍軍人となり海軍中将まで昇進した。安太郎の子供の江頭豊は東京帝国大学卒業後に日本興業銀行に入り昭和39年にチッソの社長として派遣される。1963年(昭和38年)から1973年(昭和48年)までの公害病が問題化した時期に、経営者としてチッソの会社経営と水俣病の被害者対策に当たった。[6]団藤重光は「江頭は汚染排水を出したのでなくて問題発覚後の事後処理をした経営者で問題は無い」としている[7]。江頭豊は雇われ社長でありながら水俣病被害者に土下座したエピソードがある。小和田恆に嫁いだ優美子は江頭豊の1人娘で慶應義塾大学卒業後にエールフランスに勤務していた[8]。小和田家は江頭家の敷地に家を建てて小和田恆はマスオさん方式で同居していた。[9]


江頭豊の父は海軍省軍務局長や人事局長を歴任した江頭安太郎海軍中将であった。江頭中将は肥前国佐賀郡北川副村木原(現在の佐賀県佐賀市北川副町木原)の出身で、岳父の古賀喜三郎海軍少佐は北川副村古賀(現在の佐賀県佐賀市北川副町古賀)の出身であった[3]。古賀家は20石取りの下級武士であった[3]江頭家の先祖は佐賀藩士とされる[要出典]。古賀少佐は早期に海軍を退き、海軍予備校を創設してその経営に専念した。海軍予備校は現在の学校法人海城学園で、学園の運営には江頭豊の兄弟も参加している。作家・評論家の江藤淳(本名江頭淳夫)は江頭豊の弟の子供、つまり甥で江頭優美子の従兄弟に当たる。


江頭豊の妻の寿々子の父は連合艦隊司令長官などを歴任した山屋他人海軍大将である[10]。山屋家は陸奥盛岡藩(岩手県盛岡市)藩士の子孫である。皇太子妃雅子の実家の目黒区の小和田邸の近くの坂には「山屋坂」という石標が建てられている。坂の名前はかつて坂の上に山屋邸があった事にちなんでいる。山屋大将の妻の貞子の実家は丹羽家で山屋(丹羽)貞子の父の丹羽与三郎房忠は明治維新後に神奈川県鎌倉市の鎌倉宮、鶴岡八幡宮、石川県羽咋市の気多大社、[11]神奈川県寒川町の寒川神社などの神社の宮司を歴任した家柄である。丹羽房忠は19世紀の日本人として珍しく身長が180cmあり髭を蓄えていた。丹羽房忠の長男で丹羽貞子の長兄に当たる丹羽教忠は海軍少将まで昇進している。[12]


     ┏江頭範貞
     ┃
江頭嘉蔵━┫
     ┃
     ┗江頭安太郎 ┏江頭隆━江藤淳
        ┃   ┃
        ┣━━━╋古賀博
        ┃   ┃
古賀喜三郎━━米子   ┗江頭豊
             ┃
             ┣━━━優美子
             ┃    ┃
      山屋他人━━寿々子   ┣━━━皇太子妃雅子
                  ┃    ┃
                小和田恆   ┃
                     皇太子徳仁親王


脚注





  1. ^ 川口素生『小和田家の歴史-雅子妃殿下のご実家』163頁。


  2. ^ 現代の出勤簿に相当する。

  3. ^ abcdefghij『一族再会』47-193頁。


  4. ^ 川口素生『小和田家の歴史-雅子妃殿下のご実家』17-19、163-174頁。


  5. ^ 『人事興信録 第3版』ゑ之部5頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月22日閲覧。


  6. ^ 八幡和郎『妃殿下の研究』48頁。


  7. ^ 八幡和郎『妃殿下の研究』50頁


  8. ^ 八幡和郎『妃殿下の研究』52頁。


  9. ^ 八幡和郎『妃殿下の研究』51頁。


  10. ^ 『歴代皇后人物系統総覧』295頁下段。


  11. ^ 『歴代皇后人物系統総覧』296頁上段。


  12. ^ 『歴代皇后人物系統総覧』296頁中段。




参考文献



  • 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903-1911年。


  • 江藤淳『一族再会』講談社、1973年。



関連項目



  • 江頭で始まる記事の一覧

  • 小和田氏




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