西崎義展
にしざき よしのぶ 西崎義展 | |
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本名 | 西崎弘文 |
生年月日 | (1934-12-18) 1934年12月18日 |
没年月日 | (2010-11-07) 2010年11月7日(75歳没) |
出生地 | 東京府東京市小石川区原町 |
死没地 | 東京都小笠原村父島 |
国籍 | 日本 |
職業 | プロデューサー アニメ監督 |
ジャンル | テレビアニメ アニメ映画 |
活動期間 | 1962年 - 2010年 |
主な作品 | |
『海のトリトン』 『ワンサくん』 『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』 『宇宙空母ブルーノア』 『メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行』 『オーディーン 光子帆船スターライト』 『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』 『超神伝説うろつき童子シリーズ』 | |
西崎 義展(にしざき よしのぶ、正式には「西﨑義展」、1934年(昭和9年)12月18日 - 2010年(平成22年)11月7日)は、プロデューサー、アニメーション監督。本名:西崎 弘文(にしざき ひろふみ[1])。
アニメ作品『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーであり『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙空母ブルーノア』『オーディーン 光子帆船スターライト』『超神伝説うろつき童子シリーズ』などを企画製作した。
目次
1 経歴
1.1 『宇宙戦艦ヤマト』関連年表
2 作品リスト
3 関連企業
4 不祥事
5 出典
6 参考文献
経歴
東京府東京市小石川区原町(現・東京都文京区白山)に生まれる[2]。父親は東京大学法学部卒で[2]日本興業銀行勤務[3]、父方の祖父は薬学者で東京女子薬専(現・明治薬科大学)校長を務めた西崎弘太郎[4]、母方の祖父は海軍大将[5]、父の妹は日舞の西崎流家元の初代西崎緑[6][7]。
1947年、父の命令で開成中学校を受験したが失敗し、家出して4日後に帰宅[8]。私立武蔵高等学校に入学し、1953年卒業。文学座の舞台『欲望という名の電車』の杉村春子の演技に感動し、1955年に文学座の研究生となり、端役で舞台を踏んだものの、2年後に自動車事故で怪我をして俳優は断念した[9]。また2度の東京大学受験に失敗して父親から一度は勘当される[7][10]。4年間の浪人生活を経て、1957年、日本大学芸術学部演劇学科に入学[9]。1959年8月に大学を中退したとする資料もあれば[11]、1957年に日本大学を卒業したと伝える資料もある[12]。
1958年頃より食べることに困って、六本木のジャズ喫茶の司会をやり、ジャズ解説などで生計を立てるようになる。当時の愛称はザーキ[3][13]。その後は、マネージャーとして、ダン池田とアフロキューバン、東京マンボ、ミュージカル・アカデミーの全国巡業に帯同した[14]。
1962年、音楽制作プロデューサーとして企画制作の道に入る[12]。
1963年10月、オフィス・アカデミーを設立[15]。しかし金銭的には厳しく、創価学会系の民主音楽協会(民音)のイベントを中心に糊口を凌ぎ、創価学会の顧問弁護士だった山崎正友と水産品を扱うシーホースという会社に出資して共同経営した[7][3]。ショー製作の本数は約200本[12]。
1968年に西ヨーロッパへ渡航し、フランス人プロモーターの進行助手となる。共産圏の舞踊団やバレエ団を招いて舞台制作をして、約1年半ヨーロッパ全土を巡業してまわり、最終的にはロードマネージャー兼マネージャーを務めた[14][13]。
帰国後の1970年には手塚治虫の知人からの紹介で、手塚と個人契約を交わしてマネージャーを務めるようになり、手塚作品のテレビへのプロモートを行った[14][13][16][17]。1971年2月頃より、手塚が社長の虫プロ商事に企画制作部長として就任。多忙な手塚に代わり事実上の社長代理として経営改革を図ったが、急進的な改革は専横状態となって人心を掌握できず、虫プロ商事は混乱状態に陥る[18][19]。
1972年、手塚治虫原作のテレビアニメ『海のトリトン』でアニメを初プロデュース。同年にオフィス・アカデミーの社長に就任し、同社を商標及びその二次使用会社とする[12][15]。
続いて手塚治虫の『ワンサくん』の映像化権を取得。仕事のない虫プロダクションは自社での『ワンサくん』の制作を希望し、西崎は虫プロの役員に招聘される[20]。
個人プロデューサーとして、1973年1月より瑞鷹エンタープライズのテレビアニメ『山ねずみロッキーチャック』を製作[12]。同年4月より虫プロ制作で『ワンサくん』を放送した。放送終了後の11月に役員を務めた虫プロが倒産。
虫プロの再建運動を進めていた労働組合と交渉して、1974年6月に和解。第2スタジオの建材と西崎の虫プロへの債権を組合に譲渡するとともに200万円を組合へカンパするというのがその内容[21]。一方、この虫プロ倒産時に、退職金代わりとして何本かのアニメの権利を得たという山崎正友の証言がある。この頃、手塚治虫とはトラブルから絶縁状態になる。
1974年10月、前年より企画を進めていたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』をオフィス・アカデミーで製作し放送開始。なお、西崎とSF設定等を担当した豊田有恒、主題歌を歌唱したささきいさおの三名は武蔵高等学校の同窓であり、「宇宙戦艦ムサシ」にしておけばよかったのでは、とのジョークすら生まれたとのこと(年次は西崎、豊田、ささきの順)[22]。
1977年に『宇宙戦艦ヤマト』を再編集した劇場版アニメ映画がヒット。翌1978年には新作映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は配給収入21億円の大ヒットとなりブームを巻き起こし、『宇宙戦艦ヤマト』をシリーズとして展開。財産を築いて、銀座で毎晩飲み歩き、ハーレーダビッドソンのオートバイは25台を所有。高級マンションや大型クルーザーを購入して豪遊した[3][23]。
劇場版『宇宙戦艦ヤマト』一作目が版権、劇場販売物などを加え、手取りで17億円が転がり込み[24]、二作目の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は20億円が懐に入ったといわれる[25]。1978年の「映画の日」に映団連から特別功労章の贈呈が決まり[25]、同年11月15日に帝国ホテルで西崎の謝恩パーティが開かれ、西崎は「二十五年間の夢が叶って...」と大感激であったが、会場の話題はメインテーブルに西崎自らが釣ったカジキや鯛が並び、銀座の美女たちがズラリと顔を揃えた派手さと豪華さで[25]、スピーチに立った岡田茂東映社長は、自身も銀座5丁目のカリオカビルにクラブを出していたが[26]、「近来まれな豪華なパーティで驚いております。私なんかが足を踏み入れたことのないような高級クラブの美女ばかりお見えです...」などと祝辞を述べた[25]。
1979年、徳間康快と角川春樹と組んで「大藪春彦スーパー・ジョイント」と称し、大藪春彦の『汚れた英雄』を徳間書店と共同製作してプロデュース。同じく大藪春彦の『傭兵たちの挽歌』は角川春樹事務所製作で西崎義展がプロデューサーを務めると発表され、実写劇映画の初プロデュースとなるはずだったがいずれも頓挫[27][28]。
同時期には吉田喜重監督による実写映画『望郷の時』(『侍イン・メキシコ』)をプロデュースして、メキシコへのロケハンまで実施されたが、これも流れている[28][29]。
1979年に公開された実写劇映画『わが青春のイレブン』[30]、実写ドキュメンタリーの『北壁に舞う』[31]では音楽プロデューサーを担当してその活躍はアニメのみにとどまらず、1970年代末から1980年代前半にかけて、角川春樹や山本又一朗などとともに従来の映画会社に属さない新時代の独立プロデューサーとしてもてはやされた[32][33]。角川とともに「日本映画界の革命児」とも言われて脚光を浴びた[34]。
しかし出資していた山崎正友経営のシーホースが経営悪化に陥り、オフィス・アカデミーから約20億円が注ぎ込まれて振り出した手形の回収など、資金繰りに追われるようになり、1982年夏、オフィス・アカデミーと関連会社を整理し、手形の処理も行った[7]。前述の『汚れた英雄』の映画化では、20台のオートバイと10時間以上撮影したヨーロッパロケフィルムで既に3億円を投じていたが、この影響で断念して、映画化権を角川春樹に返上した[7]。
活動の拠点をオフィス・アカデミーから、1977年12月に設立していた赤坂のウエスト・ケープ・コーポレーションへと変更として再出発し[7][35]、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズも1983年公開の『宇宙戦艦ヤマト 完結編』でいったん終焉。『DESLAR'S WAR I 戦艦スターシャ』『宇宙戦艦ヤマト誕生篇』へ続く「ヤマト復活3ヵ年計画」の第一弾『オーディーン 光子帆船スターライト』が1985年に劇場公開されるが[36]、
配給収入の推定は2億円[37]と大失敗となり、借金を抱える結果に終わった[38]。
初の実写映画プロデュースとなる本田美奈子主演のバイク映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』が1987年に公開。製作総指揮を務め、劇中にはヤマト号というクルーザーが登場した[39]。
経営破綻したレンタルビデオの童夢の事業を1987年から引き継いだが営業不振によって1990年代になって資金難に陥る。1991年にジャパン・オーディオ・ビジュアル・ネットワークが倒産。さらに1997年にウエスト・ケープ・コーポレーションとともに西崎個人も破産。この過程で資金調達のため『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを含む作品の著作権を失う結果を迎える[15]。1997年末と1999年にはそれぞれ覚せい剤取締法違反と銃刀法違反で逮捕された[3]。
1999年に下肢麻痺となり、車椅子を使うようになる[15]。
服役中、自身が『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの原作者と主張する漫画家の松本零士と『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者は誰かをめぐって裁判となり、2002年3月に勝訴[40]。翌年7月に控訴審で裁判外の和解が成立[41]。
一連の事件では、2003年2月に懲役5年6か月の実刑判決が確定[42]。刑務所で服役した後、2007年12月に釈放。2009年公開のアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を製作・監督[10][3]。
2010年11月7日午後0時35分ごろ、東京都小笠原村父島の海で、遊泳目的で停泊中のウエスト・ケープ・コーポレーション所有の船『YAMATO』から転落、午後2時58分に医師により死亡が確認された[43][44]。75歳没。
2010年12月10日午後2時より、東京青山斎場にて「お別れ会」が開催され、歌手のささきいさおら約400人が参列した[45]。
没後に公開された『SPACE BATTLESHIP ヤマト』『宇宙戦艦ヤマト2199』では、両作の原作である『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者である西崎が「原作者」としてクレジットされている。今後の新作も原作者とされている。
『宇宙戦艦ヤマト』関連年表
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年譜形式の経歴は推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2013年12月) |
1973年(昭和48年) - テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』を企画。
1974年(昭和49年) - オフィス・アカデミーで『宇宙戦艦ヤマト』を製作。
1977年(昭和52年) - オフィス・アカデミーで『宇宙戦艦ヤマト』(劇場版)を製作。
1978年(昭和53年) - オフィス・アカデミーで『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』、アカデミー製作で『宇宙戦艦ヤマト2』を製作。
1979年(昭和54年) - アカデミー製作で『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』、『宇宙戦艦ヤマトII総集編 ヤマトよ永遠なれ!』を製作。
1980年(昭和55年) - オフィス・アカデミーで『ヤマトよ永遠に』、東京動画で『宇宙戦艦ヤマトIII』を製作。
1983年(昭和58年) - ウエスト・ケープ・コーポレーションで『宇宙戦艦ヤマト完結編』、東京動画で『宇宙戦艦ヤマトIII総集編 太陽系の破滅』を製作。
1984年(昭和59年) - 10月12日付『報知新聞』で「ヤマト復活3ヵ年計画」を発表。その内容は、1985年『宇宙帆船スターシップ』(後の『オーディーン 光子帆船スターライト』)、1986年『DESLAR'S WAR I 戦艦スターシャ』、1987年『宇宙戦艦ヤマト誕生篇』を公開するというもの。
1994年(平成6年) - 2月、バンダイビジュアルよりビデオ『宇宙戦艦ヤマト胎動篇 -ヤマト!!わが心の不滅の艦』発売。映画『宇宙戦艦ヤマト 復活編』とOVA『YAMATO2520』のメイキングプロモーション。
1995年(平成7年) - 2月『YAMATO2520』のVol.1を発売開始。1996年8月発売のVol.3を最後に未完に終わる。
1996年(平成8年) - 『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙戦艦ヤマト』『宇宙空母ブルーノア』『オーディーン 光子帆船スターライト』などの映像の著作権などを対象とする譲渡契約を東北新社と締結。
1997年(平成9年) - 『宇宙戦艦ヤマト』などの商標権を長男に移転登録。
1998年(平成10年) - 『宇宙戦艦ヤマト』などの著作権などにつき東北新社と西崎・ウエスト・ケープ・コーポレーションの破産管財人が譲渡契約の履行を選択する。
1999年(平成11年)
- 『宇宙戦艦ヤマト』などの商標権移転につき、破産管財人が抹消を求めて提訴。東北新社の許諾によりバンダイおよびバンダイビジュアルが製作したプレイステーション用ソフト『宇宙戦艦ヤマト 遙かなる星イスカンダル』および『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の複製・譲渡・貸与の禁止および損害賠償を求めて、西崎が東北新社、バンダイ、バンダイビジュアルを提訴。
- 『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者が、松本零士であることの確認を求めて、松本が西崎を提訴。
2000年(平成12年)
- 『宇宙戦艦ヤマト』の著作権などにつき東北新社と西崎・ウエスト・ケープ・コーポレーションの破産管財人の間で譲渡代金の支払の司法和解が成立。著作権者は東北新社であることが確定。
- 『宇宙戦艦ヤマト』などの商標権移転取消請求事件に東北新社が参加。
- 『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者が、西崎であることの確認を求めて、西崎が松本零士に反訴。
2001年(平成13年)
- 『宇宙戦艦ヤマト』などの商標権移転登録抹消の判決。
- プレイステーション用ソフト『宇宙戦艦ヤマト 遙かなる星イスカンダル』および『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の複製・譲渡・貸与の禁止および損害賠償の請求を棄却する判決。西崎はこれを不服として控訴。
2002年(平成14年)
- 『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者人格権は西崎である旨の判決。松本零士は控訴。西崎も反控訴。
2003年(平成15年)
- 『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者人格権確認訴訟のそれぞれの控訴審は、法廷外で和解。
- 西崎が著作者、著作者人格権者であることが確定。
2004年(平成16年)
- 西崎と東北新社、バンダイ、バンダイビジュアルの間の控訴審で和解が成立。裁判所により和解調書が作成され、3社は「西崎義展が『宇宙戦艦ヤマト』の著作者である旨を公表しても反意を唱えない」ことを確認して了承した[46]。
- 『新宇宙戦艦ヤマト 復活編』の製作が養子である株式会社エナジオ社長の西崎彰司より発表される。
2007年(平成19年)12月20日、総監修した「宇宙戦艦ヤマト デスラー総統ワインセット」と「宇宙戦艦ヤマト バイクヘルメット」の販売を発表して活動を再開する[47][48]。
2008年(平成20年)
- 2月22日に発売される『宇宙戦艦ヤマト』DVD-BOXに特典の監修を担当。これに伴う形で、2月発売の『週刊プレイボーイ』(2月25日号NO.8)と『オトナファミ』の「2008 Apri」で庵野秀明との対談記事により出所後初めてマスメディアに登場した。7月31日に東京都練馬区にアニメスタジオ「ヤマト・スタジオ」を開き、2009年公開のアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』の製作を発表[49]。
2009年(平成21年)12月12日、劇場用アニメーション映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を公開。- 2010年(平成22年)11月7日、会社所有の船から転落死。
作品リスト
海のトリトン(1972年、プロデューサー)
ワンサくん(1973年、プロデューサー)
山ねずみロッキーチャック(1973年)
宇宙戦艦ヤマトシリーズ(1974年〜)- わが青春のイレブン(1979年、音楽プロデューサー)
- 北壁に舞う(1979年、音楽プロデューサー)
宇宙空母ブルーノア(1979年、企画・原案・製作)
メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行(1980年、企画製作)
オーディーン 光子帆船スターライト(1985年、企画、原案、製作総指揮)
超神伝説うろつき童子 (1987年、企画)
パッセンジャー 過ぎ去りし日々(1987年、製作総指揮)
YAMATO2520(1995年、企画・原作・製作総指揮、監督、脚本)
関連企業
- アニメーション・スタッフ・ルーム
- 1972年、虫プロ商事に在籍したメンバーを中心に設立。同年『海のトリトン』を製作。
- オフィス・アカデミー
- 1963年10月に設立。1972年に社長就任。『宇宙戦艦ヤマト』『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』『ヤマトよ永遠に』等を製作。1979年、2億7000万円の申告漏れが発覚[50]。1982年夏に整理[7]。
- ウエスト・ケープ・コーポレーション
- 1977年12月9日に設立し[51]、1982年以降はオフィス・アカデミーに代わって西崎の活動の拠点となり、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの音楽などの著作権管理や出版物販売、アニメ映画の企画・制作などを行った[7][35]。
- 『宇宙戦艦ヤマト 完結編』『オーディーン 光子帆船スターライト』『YAMATO2520』等のSFアニメ制作に加えて洋画の輸入と配給を行った他[52]、1989年3月、アニメ映画化した『超神伝説うろつき童子』を松竹富士とともに配給。
- 1997年9月16日、会社および西崎個人に東京地方裁判所より破産が宣告される。負債額は48億3133万円。原因は不動産購入による借入金負担と新作の売上不振と報じられた[35][53]。
- アカデミー製作→東京動画
- 『宇宙戦艦ヤマト2』『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』『宇宙空母ブルーノア』『メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行』を製作。途中で「東京動画」に名を変えて、『宇宙戦艦ヤマトIII』を製作したほか、東映本社の下請けとして『宇宙大帝ゴッドシグマ』『百獣王ゴライオン』の実制作も行った。1983年解散[54]。
- ジャパン・オーディオ・ビジュアル・ネットワーク
- 1984年11月設立。ウエスト・ケープ・コーポレーション、日本コロムビアを筆頭株主に、バンダイ、松竹、徳間書店社長徳間康快が出資。代表取締役を務める。
- 映画の製作、ビデオの製作・販売を行う。1987年、オリジナルビデオアニメ『超神伝説うろつき童子』を製作。1988年、倒産した大手ビデオレンタルチェーン童夢の営業を引き継ぐ。
- 1991年6月27日、東京地方裁判所に特別清算を申し立て、倒産。負債総額は約77億円。日本コロムビアが資金を引き上げたことが原因。レンタルビデオショップとカラオケボックスへの投資で資金繰りが悪化していた[55]。
不祥事
1997年12月2日、東京都渋谷区の宮下公園前の路上で運転していた乗用車から、覚醒剤50グラム、ヘロイン6グラム、大麻8グラムが発見され、覚せい剤取締法などの違反容疑で警視庁渋谷署に逮捕された[56]。
覚せい剤取締法等違反で起訴されて、1998年6月に一審で懲役2年8月の実刑判決を受ける[57]。西崎側は判決を不服として控訴。
1999年2月1日、警視庁銃器対策課と静岡県警により、銃砲刀剣類所持等取締法、火薬類取締法、覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕される。容疑は、自宅のワゴン車に擲弾発射器付き自動小銃、小銃用実弾を約1800発、擲弾を約30発、覚せい剤20グラムを所持していたというもの[58][59]。続けて5月12日には自動小銃の密輸容疑で再逮捕[60][61]。西崎が所有するイギリス船籍の外洋クルーザーオーシャンナイン号へこれらを隠していたが、清水港のドックに入れる際に隠すため、自宅に移し替えていたとみられる。健康上の理由での保釈中の犯行だった。取り調べに対して、海賊対策のために10年前に香港で購入したと供述したが、警察は武器の密輸と転売で利益を得ようとしたのではないかとみていた[62]。この事件の公判でフィリピン海域に出没する海賊対策のためと、同船で尖閣諸島へ上陸した石原慎太郎を警護する必要から、フィリピン沿岸警備隊の司令官から購入したと主張する[63]。
1999年6月9日、覚せい剤取締法等違反事件は最高裁で上告棄却、懲役2年8月が確定[64]。
2000年10月25日、銃砲刀剣類所持等取締法・覚せい剤取締法・火薬類取締法・関税法違反事件の一審で懲役5年6月の実刑判決を受ける[65]。西崎は不服として控訴。西崎は不服として上告。2003年2月20日、上告棄却。懲役5年6月が確定し、収監[42]。
2007年12月19日、刑期を終えて出所[49]。
出典
^ 波乱万丈、覚醒剤逮捕も…宇宙戦艦ヤマトプロデューサー転落死の謎 - ZAKZAK、2010年11月8日。
- ^ ab牧村・山田(2015)、p.64
- ^ abcdef週刊新潮(2010)
^ 西崎弘太郎 コトバンク(講談社『日本人名大辞典』)
^ 牧村・山田(2015)、p.151によれば、母方の祖父が海軍大将だったという記述は『キネマ旬報』の記事内にのみ登場し、母の旧姓と同じ苗字の海軍大将も実在せず、事実か否か断定できないとのこと。
^ 西崎緑(初代) コトバンク(講談社『日本人名大辞典』)
- ^ abcdefgh西沢(1983)
^ 牧村・山田(2015)、pp.67-68
- ^ ab牧村・山田(2015)、pp.73-74
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^ 牧村・山田(2015)、p.75
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- ^ abcオフィス・アカデミー(1978)
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^ 「僕は『ヤマト』に命を取られても本望ですよ インタビュー 西崎義展」 『キネマ旬報』1994年8月下旬号、pp.241-243
^ 手塚治虫「あとがき」『手塚治虫漫画全集192 海のトリトン4』講談社、1980年、p.231
^ 「[17]損害賠償請求事件 東京地裁昭49(ワ)3093号」『下級裁判所民事判例集』第32巻5-8号、最高裁判所事務総局編集、財団法人法曹界、1984年、pp.729(319)-733(323)
^ 「マンガ界の神話は不滅か」『朝日新聞』1980年3月11日号
^ 山本暎一『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』新潮社、1989年、pp.329-331
^ 「1527日―虫プロ再建への歩み」『ぱふ』1979年8月号、p.50。『虫プロ斗争ニュース 特集号 第20号』昭和53年7月10日号の転載。
^ 豊田有恒『「宇宙戦艦ヤマト」の真実――いかに誕生し、進化したか』(祥伝社新書、2017年10月)p.55, p.162
^ 小池正春「宇宙戦艦ヤマトの著作権は誰のものか」『財界展望』1999年5月号、pp.58-61
^ 「『宇宙戦艦ヤマト』は沈まず...」、『週刊新潮』1979年3月8日号 p.17、新潮社。
- ^ abcd「豪華絢爛さが最大の話題だった西崎義展氏のパーティ」、『週刊現代』1978年11月30日号 p.50、講談社。
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^ 高橋英一、西沢正史、脇田巧彦、黒井和男「映画・トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』1979年6月上旬号、pp.170-171
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^ 『わが青春のイレブン』 allcinema
^ 『北壁に舞う』作品情報 MovieWalker
^ 文化通信社編著『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、p.142
^ 斉藤守彦『宮崎アニメは、なぜ当たる スピルバーグを超えた理由』朝日新書、2008年、p.10
^ 「さらばブームよ…負債48億 ヤマト沈没 制作の西崎氏らに破産宣告」『読売新聞』1997年9月18日付
- ^ abc「『戦艦ヤマト』で人気 アニメ制作会社破産」『中日新聞』1999年9月18日付
^ アライ=ヒロユキ『宇宙戦艦ヤマトと70年代ニッポン』社会評論社、2010年、p.307
^ 『アニメージュ』1986年2月号、p.24
^ 笠原和夫、すが秀実、荒井晴彦『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』太田出版、2002年、p.511
^ モリタタダシ「本田美奈子 最初で最後の劇場主演映画はヤマト号とともに轟沈!!」『別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史』洋泉社、2003年、p.172
^ ヤマト裁判、松本零士はなぜ負けた? 泥沼法廷闘争は終わらず… ZAKZAK 2002年3月29日
^ 「ヤマト」著作権訴訟で和解成立 松本零士氏と西崎氏 asahi.com(朝日新聞)2003年7月29日 (インターネットアーカイブ)
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^ 「宇宙戦艦ヤマト・復活篇」発進 エナジオ公式サイト内 2004年7月12日
^ 「劇場公開30年記念特別企画『宇宙戦艦ヤマト』の西崎義展プロデューサー総監修「デスラー総統ワインセット」LaLaBit Marketで受注開始!」バンダイネットワークス・プレスリリース 2007年12月20日(2007年12月25日時点のアーカイブ)
^ 「劇場公開30周年記念特別企画『宇宙戦艦ヤマト』の西崎義展プロデューサー総監修「バイクヘルメット Type Cosmo-Zero」LaLaBit Marketで受注開始!」バンダイネットワークス・プレスリリース 2007年12月20日(2007年12月24日時点のアーカイブ)
- ^ ab「ポニョ超えだ!ヤマト25年ぶり復活へ」 - スポーツニッポン、2008年8月1日。(2008年8月5日時点のアーカイブ)
^ 「『宇宙戦艦ヤマト』のアカデミー 2億7千万円の申告漏れ 3年間で」『中日新聞』1979年2月25日付
^ 第二東京弁護士会知的財産権法研究会編『著作権法の新論点』商事法務、2008年、p.380。設立日は閉鎖謄本の記録に基づく。
^ キネマ旬報社編『映画プロデューサーが面白い』キネマ旬報社、1998年、p.171
^ 「『宇宙戦艦ヤマト』制作ウエスト・ケープ地裁から破産宣告」『日本経済新聞』 1997年9月18日付
^ 笹川ひろし「第25章 ここで会ったがこんにちは! イタダキマン現る!!」『ぶたもおだてりゃ木にのぼる』ワニブックス、2000年9月25日、ISBN 4-8470-1358-1、273頁。
^ 「特別清算申し立て ジャパン・オーディオビジュアル」『日本経済新聞』1991年6月29日付
^ 「宇宙戦艦ヤマトプロデューサー 覚せい剤所持容疑で逮捕」『朝日新聞』1998年1月17日付
^ 「宇宙戦艦ヤマト」元プロデューサの西崎被告に実刑判決『産経新聞』1998年6月2日付
^ 「宇宙戦艦ヤマト 製作者が銃所持 覚せい剤も」『日本経済新聞』1999年2月2日付
^ 「『宇宙戦艦ヤマト』プロデューサー 短銃など所持容疑、逮捕」『朝日新聞』1992年2月2日付
^ 「『宇宙戦艦ヤマト』製作の西崎容疑者を再逮捕 銃刀法違反容疑」『読売新聞』1999年5月12日付夕刊
^ 「自動小銃密輸容疑 西崎被告を再逮捕」『産経新聞』1999年5月12日付夕刊
^ 「『宇宙戦艦ヤマト』の西崎義展容疑者が「覚醒剤と機関銃」でまた逮捕」『フライデー』1999年2月26日号、pp.68-69
^ 「スクープ 宇宙戦艦ヤマトのプロデューサーがマニラで積み込む 自動小銃2丁、砲弾30発、銃弾1800発--石原都知事尖閣諸島突入(97年)船に重火器搭載」『週刊朝日』1999年8月20日号、pp.28-31
^ 「覚せい剤所持違反の西崎被告の上告棄却 最高裁」『読売新聞』1999年6月10日付
^ 「銃刀法・覚せい剤取締法違反の西崎被告に実刑判決 東京地裁」『読売新聞』2000年10月25日付夕刊
参考文献
- 小池正春:「『宇宙戦艦ヤマト』製作者が獄中で聞いた判決」、『創』、2002年6月号、 pp.64-65。
- 西沢正史:「天国と地獄をみた男・西崎義展」、『キネマ旬報』、1983年3月下旬号、pp.96-99。
- 牧村康正・山田哲久:『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』、講談社、2015年。
- 「最後はマグロ船『ヤマト』から転落死!『西崎プロデューサー』の破天荒な生涯」、『週刊新潮』、2010年11月18日号、pp.136-137。
- 「西崎義展プロフィール」『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』映画パンフレット、オフィス・アカデミー、1978年。
- 「西崎義展プロフィール」『ヤマトよ永遠に』映画パンフレット、オフィス・アカデミー、1980年。
- 「Producer Special Interview 『ヤマト』の10年は、またひとついい思い出と財産をもたらしてくれた…… 西崎義展」、『ロマンアルバムエクセレント53 宇宙戦艦ヤマト PERFECT MANUAL 1』、徳間書店、1983年、pp.205-209。
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