嘉手納弾薬庫地区
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嘉手納弾薬庫のゲート

嘉手納弾薬庫の施設
嘉手納弾薬庫地区(かでなだんやくこちく、Kadena Ammunition Storage Area)は、沖縄島中部にある在日米軍の基地である。総面積は約27.2平方キロメートルに及び、沖縄県読谷村(10.7平方キロメートル)、沖縄市(8.7平方キロメートル)、嘉手納町(3.4平方キロメートル)、恩納村(2.5平方キロメートル)、うるま市(1.8平方キロメートル)にまたがる[1]。
目次
1 概要
2 歴史
3 参考文献
4 脚注
5 外部リンク
概要
太平洋方面に展開するアメリカ軍が使用する弾薬の貯蔵と整備を行う。太平洋空軍第18航空団第18任務支援群第18弾薬中隊と在沖縄アメリカ海兵隊基地司令部が管理する。しばしば爆発音を伴う防災訓練が行われており、周辺住民から苦情が寄せられている。地区内にある上水道の導水管や調整タンク、沖縄電力の施設、畜産施設、一般廃棄物最終処分場、自衛隊の火薬類貯蔵施設などは日米の共同利用施設とされている。基地の敷地内に私有地があり、地主は3356名、賃貸料は年間100億円にのぼる。
地区内にはリュウキュウマツやスダジイの群落を含む山林が広がっている。ほぼ全域が比謝川の流域であり、沖縄島中部における重要な水源涵養地域となっている。
歴史
1945年(昭和20年)にアメリカ軍が沖縄を占領するとともに使用を開始した。当初は嘉手納弾薬庫、比謝川サイト、波平弾薬庫などがあり、後に読谷合同弾薬処理場、陸軍サービス弾薬庫、知花弾薬庫、嘉手納タカン弾薬庫、嘉手納ボルタック弾薬庫、東恩納弾薬庫などが追加された。1969年に知花弾薬庫で毒ガスの事故が発生したことから問題となり、毒ガスは1971年9月10日にジョンストン島へ移されている。
- 多数の施設は1972年(昭和47年)5月15日の沖縄返還を機に統合され嘉手納弾薬庫地区となった。陸軍弾薬は1978年(昭和53年)7月に大韓民国や中近東へ移された。1983年(昭和58年)以降、倉敷ダム、沖縄自動車道、嘉手納バイパス、石川バイパスなどの用地として部分的な返還が行われている。
2006年(平成18年)10月には旧東恩納弾薬庫地域が返還され、陸上自衛隊の沖縄訓練場として供用されるようになる。2008年(平成20年)12月、同地域内に屋内射撃場が完成したことにより小銃射撃訓練等のための転地訓練が不要となった[2]。
参考文献
- 沖縄県総務部知事公室基地対策室編 『沖縄の米軍基地 平成15年版』2003年
- 沖縄市企画部企画室基地渉外担当編 『基地と沖縄市』 沖縄市役所、2001年
脚注
^ “2 空軍”. 沖縄の米軍基地. 沖縄県基地対策室. p. 293 (2003年3月). 2012年11月4日閲覧。
^ 2009年1月22日の朝雲新聞ニュース
外部リンク
FAC 6022 嘉手納弾薬庫地区 - 沖縄県知事公室 基地対策課
跡地カルテ - 嘉手納弾薬庫(旧東恩納弾薬庫地区) - 内閣府 沖縄総合事務局
座標: 北緯26度23分40.2秒 東経127度47分3.8秒