黒澤明







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くろさわ あきら
黒澤 明

黒澤 明
1953年(昭和28年)

生年月日
(1910-03-23) 1910年3月23日
没年月日
(1998-09-06) 1998年9月6日(88歳没)
出生地
日本の旗 日本・東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区)
死没地
日本の旗 日本・東京都世田谷区成城
職業
映画監督、脚本家
ジャンル
映画
活動期間
1943年 - 1998年
活動内容
1936年:P.C.L.映画製作所に入社
1943年:監督デビュー
1948年:映画芸術協会を結成。
1951年:『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、アカデミー名誉賞を受賞。
1959年:黒澤プロダクションを設立、『隠し砦の三悪人』でベルリン国際映画祭監督賞を受賞。
1969年:四騎の会を結成。
1975年:『デルス・ウザーラ』がアカデミー外国語映画賞を受賞。
1985年:映画界初の文化勲章を受章。
1989年:アカデミー名誉賞を受賞。
1998年:国民栄誉賞、従三位授与(没後)。
配偶者
矢口陽子(元女優)
著名な家族
兄:須田貞明(活動弁士)
長男:黒澤久雄
長女:黒澤和子
主な作品

『羅生門』
『生きる』
『七人の侍』
『隠し砦の三悪人』
『用心棒』
『椿三十郎』
『天国と地獄』
『デルス・ウザーラ』
『赤ひげ』
『乱』




























備考

国民栄誉賞(1998年)
従三位(1998年)
文化勲章(映画監督として初めての受章、1985年)
文化功労者(1976年)

黒澤 明(くろさわ あきら、新字体:黒沢、1910年(明治43年)3月23日 - 1998年(平成10年)9月6日)は、日本の映画監督、脚本家である。妻は女優の矢口陽子。


ダイナミックな映像表現とヒューマニズムに徹した作風で、『羅生門』『生きる』『七人の侍』など30本の監督作品を生み出し、アカデミー賞と世界三大映画祭(ヴェネツィア、カンヌ、ベルリン)で賞を得た。


小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男らと共に世界的にその名が知られ、映画史においてはスティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラ、北野武などの映画人に大きな影響を与えており、日本では「世界のクロサワ」と呼ばれた。


映画監督として初めて文化勲章受章、文化功労者顕彰、東京都名誉都民選出、贈従三位(没時叙位)、贈国民栄誉賞(没後追贈)。1990年に日本人初のアカデミー名誉賞[注釈 1]を受賞。1999年には米週刊誌『タイム』アジア版の「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選出されている。米国映画芸術科学アカデミー会員。




目次






  • 1 経歴


    • 1.1 生い立ち


    • 1.2 映画界入り


    • 1.3 監督デビュー


    • 1.4 世界のクロサワに


    • 1.5 ハリウッドへ進出


    • 1.6 晩年


    • 1.7 死去




  • 2 作風


    • 2.1 妥協を許さない演出


    • 2.2 撮影


    • 2.3 スタッフ


    • 2.4 俳優




  • 3 評価・影響


    • 3.1 世界的な影響




  • 4 その他


  • 5 芸能界に関係する家族


  • 6 作品


    • 6.1 監督作品


    • 6.2 著作権問題


    • 6.3 その他の映像作品


    • 6.4 作詞


    • 6.5 その他




  • 7 受賞歴


    • 7.1 国内


    • 7.2 国外


    • 7.3 その他


    • 7.4 栄典・称号




  • 8 関連文献


    • 8.1 著書


    • 8.2 回想・評伝・作品研究


    • 8.3 ムック


    • 8.4 絶版書籍・雑誌




  • 9 黒澤明記念館


  • 10 黒澤デジタルアーカイブ


  • 11 黒澤明スクールオブフィルム


  • 12 脚注


    • 12.1 注釈


    • 12.2 出典




  • 13 関連項目


  • 14 外部リンク





経歴



生い立ち


1910年(明治43年)、東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)の荏原中学校(現日体荏原高等学校)職員社宅に[1]、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれる[2][注釈 3]。父・勇の生家は秋田県中仙町(現在の大仙市中仙町豊川)の士族の家で、先祖は安倍貞任の三男・黒澤尻三郎である[3][注釈 4]。勇は陸軍戸山学校の第一期体操学生から同校の体操教官となり、その後日本体育会(現在の日本体育大学)の理事となって、併設された荏原中学校の要職も歴任した。


1916年(大正5年)、森村学園附属幼稚園に入園。この頃、映画を観ることは「教育上好ましい」と語る父に連れられて、よく映画見物に出かけていた。黒澤は、ウィリアム・S・ハート(英語版)[注釈 5]主演の西部劇や連続活劇など、洋画をよく観ていたという[1]。翌1917年(大正6年)、同学園尋常小学校に入学。


1918年(大正7年)、勇が不正経理を追及され、理事の職を解かれた。そのため、大井町から小石川区西江戸川町(現在の文京区水道一丁目)の借家に移り、黒田尋常小学校(文京区立第五中学校の前身)に転学した。


小学校低学年の頃、気の弱かった黒澤は、泣き虫でいじめられっ子だった。3年生の時、図画の時間に描いた絵が個性的であるために他の生徒に笑われる中、担任だった立川精治はこの絵を褒めるということがあった[4]。すると、それ以来絵を描くことが好きになり、同時に学校の成績も伸び、やがて級長にもなった[1]。後に黒澤は、立川を「生涯の恩師」と語っている[4]。さらに実兄の丙午(須田貞明)[注釈 6]から厳しい指導を受けたことや、終生の友となる級友の植草圭之助に出会ったこと[注釈 7]、父に言われ剣道を始めたことなどで、心身ともに逞しくなり、卒業式では総代として答辞を読んだ[1]


卒業後、東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)を受験するも失敗[5]し、京華中学校に入学。在学中に同舟舎洋画研究所に通う[1]。中学時代からドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフなどのロシア文学を読み耽ったことで、人生観、倫理観の形成に多大な影響を受けた。また、学友会誌に作文「蓮華の舞踏」と「或る手紙」を載せ、国語教師の小倉要逸に「創立以来の名文」と絶賛された。


1927年(昭和2年)、中学を卒業した黒澤は、画家になることを志し、美術学校(現・東京藝術大学美術学部)を受験するが失敗した。しかし、画家の道を諦めきれず、川端画学校に通って洋画を勉強。1928年(昭和3年)、二科展に「静物」が入選。同年、造形美術研究所(のちのプロレタリア美術研究所)に入る。1929年(昭和4年)、日本プロレタリア美術家同盟に参加し、洋画家・岡本唐貴(白土三平の実父)に絵を教わる。当時黒澤は、ミケランジェロ・ブオナローティやレオナルド・ダ・ヴィンチなど、ルネッサンス美術の絵画や彫刻に心酔していたという


同年12月、第2回プロレタリア美術大展覧会に「建築場に於ける集会」「帝国主義反対」「農民習作」「農民組合へ」「労働組合へ」の5つの政治色の強い作品を出品した。1930年(昭和5年)に徴兵検査を受けるが、父が有力な軍人であったことや、兄が騎兵時代に負傷したこともあってか免除されている。この頃から、一時期だけ非合法な政治活動に参加し、街頭連絡員として地下に潜っていた。



映画界入り


1936年(昭和11年)、画業に見切りをつけた黒澤は、新聞広告で見たP.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)の助監督募集に応募し、100倍の難関を突破して4月に入社した。


谷口千吉の推薦によって、主に山本嘉次郎監督の下で助監督を務め、『藤十郎の恋』や『綴方教室』などを担当した。また、山本の助言でシナリオを書くようになり、1941年(昭和16年)に書いた『達磨寺のドイツ人』は、映画化はされなかったものの評論家の間では話題となり、伊丹万作からも絶賛された。翌1942年(昭和17年)に書いた『雪』は情報局国民映画脚本募集で情報局賞を受賞し、『静かなり』は日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位に入賞した。





山本嘉次郎





轟夕起子、姿三四郎(1937年)


山本監督の『馬』でB班監督を務めた際、主演した高峰秀子と恋愛関係にあったが、山本嘉次郎が破談役となって、不実で終わっている[1][注釈 8]


戦中、黒澤は、初の監督作品として、自らシナリオを書いた『敵中横断三百里』が予定されていた。しかし、新人監督としてはスケールが大きすぎたため、実現しなかった。後に、この企画を見送った森田信義は、「私の一生の最大のミステーク」と語っている[1]



監督デビュー


1943年(昭和18年)、『姿三四郎』で監督デビュー。作品はヒットし、新人監督に贈られる山中貞雄賞を受賞[注釈 9]


1945年(昭和20年)5月21日、監督第2作『一番美しく』に主演した矢口陽子と結婚。媒酌人は山本嘉次郎夫妻で、明治神宮で挙式を行った。同年、『虎の尾を踏む男たち』を8月の敗戦をまたいで製作する。製作中に黒澤が敬愛するジョン・フォードが、日本を占領する連合国軍の1国であるアメリカ海軍の大佐として見学に訪れていた。黒澤はこのことを後にフォードから聞いて驚いたという。一方、作品は検閲で公開を見送られ、連合国軍による占領が終わった翌年の1952年(昭和27年)にようやく公開された。


戦後公開第1作は、民主主義啓蒙映画の『わが青春に悔なし』で、翌1947年(昭和22年)に、焼跡の市井の人にスポットをあてた『素晴らしき日曜日』を発表し、毎日映画コンクール監督賞を受賞。東宝の看板監督の一人となった。


また1946年(昭和21年)、山本嘉次郎が審査委員長を務めた東宝ニューフェイスのオーディションにおいて、撮影助手志望だったが、何かの手違いで俳優オーディションの面接を受けていた三船敏郎を目撃。本来は落選となっていた三船だが、一目ぼれした黒澤は山本に直訴までして採用。三船のデビュー作『銀嶺の果て』では既に脚本を執筆(主演は志村喬)。1948年(昭和23年)、『醉いどれ天使』で三船を自作に起用し、以来黒澤作品の常連俳優となった。


同年3月、第三次東宝争議が発生、この影響で黒澤は山本、谷口、成瀬巳喜男、本木荘二郎、松山崇、田中友幸らと映画芸術協会を設立して組合を脱退。争議終結まで他社で映画製作を行うことになる。1949年(昭和24年)、大映で『静かなる決闘』を、新東宝で黒澤初のサスペンス映画となる『野良犬』を発表。



世界のクロサワに


1950年(昭和25年)、大映で『羅生門』を撮影。人間不信をテーマに含む難解な作品であったため、国内での評価はあまり高くはなかった。一方で、海外では大きな反響を呼び、1951年(昭和26年)、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞 名誉賞[注釈 10]を受賞。その映像感覚が国際的に注目され、「世界のクロサワ」と呼ばれるきっかけとなった。


1952年(昭和27年)、東宝復帰第1作として志村喬主演で『生きる』を発表。ヒューマンドラマの傑作との呼び声が高く、ベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞した。


1954年(昭和29年)、1年以上の製作期間と大規模な製作費をかけた大型時代劇『七人の侍』を発表。作品は大ヒットし、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞。現在に至るまで映画史上の名作として国内外で高く評価されている。


さらに、原爆の恐怖を描いた『生きものの記録』、シェイクスピアの『マクベス』を日本の戦国時代を舞台に翻案した『蜘蛛巣城』、ゴーリキーの同名戯曲を江戸時代を舞台に映画化した『どん底』、娯楽時代活劇で黒澤初のシネマスコープ作品の『隠し砦の三悪人』を撮影し、黒澤の名を国際的に高めていった。


1957年(昭和32年)、第1回ロンドン国際映画祭にジョン・フォードとともに招かれ、オープニング作品として『蜘蛛巣城』が上映された。また、1958年(昭和33年)にはベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞。


1959年(昭和34年)、黒澤プロダクションを設立した。黒澤プロの設立は、黒澤の意向によるものというより、『隠し砦の三悪人』の大幅な撮影予定期間オーバーによる予算超過に業を煮やした東宝側が、黒澤にリスク負担させることにより枷をはめようとしたものであった(収益の分配も東宝側に有利な契約になっていた)。その後も時代劇の傑作『用心棒』や社会派サスペンスの傑作『天国と地獄』などを発表し、大監督の名声を確定させる。


1965年(昭和40年)、ヒューマニズムの傑作と謳われる『赤ひげ』を発表。枠をはめられることを嫌っていた黒澤がその完全主義を徹底させ本作は、撮影期間約1年を要して大幅な予算超過となり、東宝との関係は悪化。東宝との専属契約は、解除された。



ハリウッドへ進出


ハリウッドからのオファーを受けるようになった黒澤は、『赤ひげ』の撮影後にアメリカで『暴走機関車』の製作を準備。主演にピーター・フォークとヘンリー・フォンダ、撮影監督にオスカー受賞者ハスケル・ウェクスラーが決定していた。しかし用意された脚本に黒澤側が納得しなかったことや、制作方針を巡りアメリカ側プロデューサーのジョーゼフ・E・レヴィーンと深刻な対立が生じたために頓挫(黒澤は65ミリカラーを希望したが、ハリウッド側は35ミリ白黒を提示した)。この企画は、後にアンドレイ・コンチャロフスキーが、黒澤の執筆した脚本を原案として映画化している。


1968年(昭和43年)、日米合作『トラ・トラ・トラ!』の製作に参加する。20世紀フォックス側のアメリカ公式発表では黒澤は日本側部分の演出担当、黒澤プロ側の公式発表および日本での報道では総監督[注釈 11]となっていた。しかし、黒澤の映画作りの方法とアメリカの映画作りの方法とがうまく合わなかったり(黒澤は事前に十分なリハーサルを行った上で、撮影に臨むのが通例であるが、米側に、この事前リハーサルの意味が理解されず拒否されるなど)[8]、東京から来た黒澤に反感を持つ東映京都撮影所スタッフとの間で摩擦が発生しスタッフがストに突入するなどして現場が崩壊したことなどを理由にスケジュールが大幅に遅延した。ついに製作遅延を無視できなくなった米側により事実上の解任をされ、表向きには健康問題を理由に監督を降板したという発表がなされた。[注釈 12]


1969年(昭和44年)10月、木下惠介、市川崑、小林正樹らと四騎の会を結成。翌1970年(昭和45年)に山本周五郎の『季節のない街』を原作に、四騎の会で製作した初のカラー作品『どですかでん』を撮影。黒澤個人の邸宅を抵当に入れて資金を確保して製作するが、商業的には失敗となる。


1971年(昭和46年)12月22日、自殺未遂事件を起こす[8]。立ち直ることができたが、日本の映画産業の衰退の時期と重なったこともあり、この後は5年おきに撮るようになった。


1975年(昭和50年)、ソビエト連邦から招かれ[注釈 13]、ごく少数の日本人スタッフを連れてソ連に渡り『デルス・ウザーラ』を撮った。ソ連の官僚体制の中で思うように撮影が進まず、シベリアのタイガでのロケーション撮影は困難を極めた。完成した作品は、それまでの作風と異なり極めて静的なものであったために日本国内では評価が分かれたが、モスクワ映画祭金賞、アカデミー外国語映画賞を受賞。ソ連側の期待に十分に応え、日本国外では黒澤復活を印象づける作品となった[8]



晩年


1976年(昭和51年)11月、日本政府から文化功労者として顕彰される。


1980年(昭和55年)、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラを外国版プロデューサーに配して『影武者』を発表し、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。1985年(昭和60年)、フランスとの合作で『乱』を公開。1988年(昭和63年)から米ワーナー・ブラザースの製作とスティーヴン・スピルバーグの提供で『夢』の製作に取り掛かり、1990年(平成2年)に公開された。以上の3作はいずれも外国資本参加によって製作された。


1985年(昭和60年)11月、文化勲章を受章。映画業界の人物としては初の文化勲章受章者となった。


1986年(昭和61年)、第58回アカデミー賞に出席。『乱』で監督賞などにノミネート[注釈 1]されたほか、衣裳デザイン賞でワダ・エミが受賞。黒澤はビリー・ワイルダー、ジョン・ヒューストンとともに作品賞のプレゼンターを務める[注釈 1]


1990年(平成2年)、アカデミー名誉賞を受賞。ルーカスとスピルバーグが、「現役の世界最高の監督です。“映画とは何か”に答えた数少ない映画人の彼にこの賞を送ります」と紹介した[注釈 1]



死去





鎌倉市の安養院にある黒澤の墓。


遺作となった『まあだだよ』公開後、山本周五郎の二つの短編作品を脚色した『海は見ていた』のシナリオを執筆。1995年(平成7年)から『雨あがる』の脚本執筆に取り掛かるが、3月に京都の旅館で転倒骨折。療養生活に入るが、1998年(平成10年)9月6日午後0時45分、脳卒中により死去。88歳没。叙・従三位。


また、同年11月11日に友人である映画評論家・淀川長治も後を追うように死去した。淀川は黒澤の通夜に参列した際、棺の中の黒澤に向かって「僕もすぐに行くからね」と語りかけていた。死後、映画監督としては初の国民栄誉賞を10月1日に受賞。なお、『雨あがる』が2001年(平成13年)に小泉堯史監督によって、『海は見ていた』が2004年(平成16年)に熊井啓監督によってそれぞれ映画化された。



作風







妥協を許さない演出


完璧主義とも呼ばれる黒澤は、妥協を許さない厳しい演出で知られる。


俳優の演技はごく自然に見えるまでリハーサルを何度も何度も行い、徹底的に役になりきらせている(当時の映画界ではリハーサルは重視されなかったが、黒澤はデビュー作からリハーサルを入念に行った)。また、本読みの段階から衣装を着させることもある。


黒澤作品の美術は細部まで綿密に作られ、巨大であるセットが特徴的である。長年黒澤作品で美術監督を務めた村木与四郎は、「(黒澤のセットの特長は)みんな大きなロケセットを一つデーンと建てちゃう点」と語っている[9]。『野良犬』では30杯ものセットを作ったといわれ[10]、『羅生門』では高さ20メートルに及ぶ巨大な門を大映京都撮影所前に建設した。カメラに写らないところにまで大道具小道具を作り込むのも特徴で、『赤ひげ』では薬棚の引き出しの中にまで漆が塗られ、『羅生門』では「延暦十七年」と彫られた門の瓦を4000枚も焼いている。


『蜘蛛巣城』のクライマックスとなる、三船演じる鷲津武時が城兵の裏切りにより、全身に矢を浴びせられてハリネズミのようになり最期を遂げるシーンでは、本物の矢が三船に射かけられるという命がけのスタントが行われ、三船は黒澤に「俺を殺す気か!!」と怒鳴ったほどである(蜘蛛巣城#製作・撮影のエピソード参照)。


『天国と地獄』では、特急こだまからの身代金受け渡しシーンで、本物のこだま用国鉄151系電車を一編成チャーターし、実際に東海道本線上を走らせて撮影を行った(天国と地獄 (映画)#エピソード参照)。


ほかにも、スタッフと役者を待機させながら演出意図に沿った天候を何日も待ち続けたり、撮影に使う馬はレンタルせず何十頭を丸ごと買い取って長期間調教し直してから使ったり、時代物ロケの際に見切れていた画にそぐわない住宅を「あの家消して」と指示するなど、様々な逸話がある。



撮影


黒澤は複数のカメラを同時に回し撮影するというマルチカム手法を頻繁に取り入れた。これは長い芝居を複数台のカメラで同時に回し、ワンシーン・ワンカットで撮影するという手法である。これにより役者、スタッフの緊張感を高めリアルで迫力ある映像に結びついていった。この技法は元々『七人の侍』で、雨中の合戦や水車小屋が焼けるシーンなど撮り直すことが難しいシーンを、何台かのカメラで一度に写すことから始まったもので、『生きものの記録』から本格的に導入した。


独特なパンフォーカス撮影もほとんどの作品で行っており、パンフォーカスには不向きな望遠レンズをあえて使用するため、絞りを極限まで絞って撮影しなければならなかった。そのためには強い照明をあてなければならず、黒澤の撮影日は電力不足で撮影所の他の仕事ができなかったという。また、あまりにも強い照明を当て続けたせいで役者のカツラが燃えだしたこともあった。志村喬は『悪い奴ほどよく眠る』の撮影で「髪は燃えそうなほど熱く、テーブルのフォークやスプーン(小道具)は熱くて持てなかった」と語っている[11]


セリフのアフレコを嫌い、現場での録音にこだわったため、『七人の侍』、『蜘蛛巣城』などのセリフは封切りの時点で聞き取りにくくなってしまった。この点は批判の対象となった。『七人の侍』は近年になって4Kリマスターが行われ、聞き取りやすくなった。



スタッフ


監督作品は基本的にはすべて自らの企画・シナリオによる。大抵の作品では共同執筆者がいたが、自分の描きたいものを自分の言葉で語るということは譲らなかったという[11]。共同執筆する理由として黒澤は「僕一人が書いていると大変一面的になるおそれがある。二人(もしくは二人以上)でディスカッションしながらやっていく」[12]と語っている。そんな黒澤作品の主な共同執筆者として小国英雄(12本)、菊島隆三(9本)、橋本忍(8本)、久板栄二郎(4本)、井手雅人(3本)、植草圭之助(2本)がいる。


映画音楽は作曲家任せではなく、作曲家に自分の欲しいイメージを的確に伝えていた[9]。そのため注文の厳しい黒澤と作曲家との軋轢は常にあったという。『醉いどれ天使』から黒澤作品で音楽を担当した早坂文雄とは私生活でも無二の親友であった。『七人の侍』の「侍のテーマ」を作曲したのも早坂で、黒澤の黄金期の作品の音楽を作曲した。しかし、1955年に『生きものの記録』の音楽を最後に早坂が死去。代わって彼の愛弟子だった佐藤勝が『赤ひげ』までの音楽を担当した。武満徹も『どですかでん』と『乱』の2作を担当したが、黒澤と衝突して訣別している。晩年の作品では池辺晋一郎が担当した。


ほかのスタッフは、一貫して東宝で製作していたことも含め、「黒澤組」による固定スタッフで製作したことが多かった。撮影の中井朝一、斎藤孝雄、上田正治、美術の松山崇、村木与四郎、録音の矢野口文雄らが黒澤映画を支えていった。


プロデューサーは『素晴らしき日曜日』以降10本を担当した本木荘二郎が全盛期を支えて名コンビを謳われたが、使途不明金疑惑で失脚。その後黒澤プロダクションが採算に分担する体制となってからは東宝側プロデューサーとして田中友幸が6本を担当しており、この間は超大作が多い。



俳優


黒澤は、1948年の『醉いどれ天使』から、1965年の『赤ひげ』まで、『生きる』を除く計16本の作品に三船敏郎を起用し、全作で主演として扱った。基本的に役者に惚れこむ事の無い事で知られる黒澤も、三船を手放さなかった。この時期の黒澤作品は「三船無くして黒澤は無く、黒澤無くして三船は無い」とでもいうべき、スター俳優とスター監督との幸福な関係に支えられているといってよい。黒澤は「三船君は特別の才能の持主で代わる人がいないんだ」と語っている。黒澤が「世界のクロサワ」と呼ばれると同時に三船も「世界のミフネ」として海外で広く知られる存在になっていった。『赤ひげ』を最後に黒澤は三船を使わなくなり、そのため2人の関係は様々に取り沙汰されることになる。しかし「将軍」の監督ジェリー・ロンドンによれば「ミフネは『影武者』を蹴って(役は不明)我が『将軍 SHOGUN』に出る」と語られており、全くの不仲であった訳ではない。





志村喬


三船と共に志村喬も黒澤作品には不可欠な存在であり、処女作『姿三四郎』から『影武者』まで、『續姿三四郎』『素晴らしき日曜日』『どん底』『どですかでん』『デルスウザーラ』の5作を除くすべての黒澤作品に出演した。『醉いどれ天使』からは三船とW主演し(『生きる』はワンマン主演)、『蜘蛛巣城』以降は加齢を理由に脇役を演じた。


デビュー作『姿三四郎』で主演した藤田進は、『わが青春に悔なし』まで『一番美しく』を除く作品に出演。1946年に藤田は東宝を退社したため、黒澤作品への露出はないが、『隠し砦の三悪人』で復帰。最後に窮地に遭った主人公を助ける仇敵を演じたが、それ以降に出演した『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『天国と地獄』では端役を演じている。


仲代達矢は、『七人の侍』でのエキストラ出演が初の黒澤映画出演となり、『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』では三船に次ぐ二番手の役どころで出演。それ以降の作品では、勝新太郎の降板事件で勝新の代わりに出た『影武者』と『乱』に主演した。


その他黒澤映画に出演した俳優として、主要な役では森雅之(5本)、大河内傳次郎(4本)、香川京子(4本)、山崎努(3本)、寺尾聰(3本)、山田五十鈴(3本)などが挙げられる。脇役では藤原釜足(12本)、千秋実(11本)、高堂国典(10本)、本間文子(10本)、清水将夫(9本)、土屋嘉男(9本)、加藤武(8本)、三好栄子(8本)、清水元(8本)、渡辺篤(8本)、千石規子(7本)、左卜全(7本)、東野英治郎(7本)、宮口精二(5本)などが常連出演した。







評価・影響


黒澤が日本映画史を代表するとともに、世界の映画史にも名を残す映画監督であることは、疑問の余地がない。初期の作品では骨太なヒューマニズムやストーリーテリングの巧みさ、鋭い映像感覚(助監督を務めたこともある野村芳太郎は「世界的レベルを超えている」と絶賛している)は映画のお手本として多くの後進映画監督たちに影響を与えた。多くの作品を助監督として支え、監督デビュー後も黒澤ゆずりの重厚な演出で評価を受けた愛弟子に初期の堀川弘通、中期の森谷司郎、晩年の小泉堯史らがおり、東宝では他に本多猪四郎、丸林久信、小林恒夫(東映に移籍後に監督昇進)、出目昌伸、大森健次郎、橋本幸治、脚本家の廣澤榮らが巣立っている。数少ない他社作品(「羅生門」「醜聞」「白痴」など)にも上記の野村のほか、加藤泰、中平康、田中徳三らが助監督に名を連ねており、後年名を成した者の比率が非常に高い。







世界的な影響


日本国外の映画作家らへの影響は計り知れず、直接作品の中で模倣されたものだけでも枚挙に暇が無い。


ジョージ・ルーカスは代表作『スター・ウォーズ』の登場キャラクターを『隠し砦の三悪人』から着想したと述べており(そもそも『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』のストーリー自体が『隠し砦の三悪人』に酷似しており、ファーストシーン・ラストシーンともそっくりである)、C-3POとR2-D2は同作の登場人物である太平(演千秋実)と又七(演藤原釜足)がモデルとなっている。


スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』において砂嵐の中からジープが現れる場面は『蜘蛛巣城』を、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』で主人公が後ろ姿だけで顔を見せない冒頭は『用心棒』を、『シンドラーのリスト』のパートカラーは『天国と地獄』を、『プライベート・ライアン』のオマハビーチの戦闘シーンは『乱』をそれぞれ模したと言われる。


フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』のファーストシーンの結婚式の場面は、『悪い奴ほどよく眠る』の手法を模したと言われる。


マーティン・スコセッシは黒澤映画を名画座に通い続け鑑賞し、また実際にフィルムを手にしカットの構成を研究し尽くしたという。また、ジョン・ミリアス、ジョージ・ミラー、ロン・ハワードも黒澤映画の大ファンであり、自身の作品に大きく投影されている。


『七人の侍』が米映画『荒野の七人』(ジョン・スタージェス監督)、『用心棒』が米映画『ラストマン・スタンディング』(ウォルター・ヒル監督)などに翻案された。イタリア映画『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督)のように、盗作問題に発展したケースもある。


技術的には、例えばサム・ペキンパー監督が得意として他のアクション映画でも多用されるアクションシーンのスローモーション撮影は、元を辿れば黒澤明の『姿三四郎』の手法であり、アクションシーンを望遠レンズで撮る技法も同様である。また、雨や風、水といった自然描写の巧みさはアンドレイ・タルコフスキーのような芸術映画監督を感嘆させて影響を与え、『羅生門』の映像美とストーリーテリングの巧みさはフェデリコ・フェリーニが深く共感した。この映画では、どしゃぶりの雨の質感を出すために墨汁を混ぜた水を放水車で降らせる、当時の技術的タブーを破って太陽に向かってカメラを向けさせる、森の中を走るシーンを移動撮影ではなくてパニングで撮るために俳優達をカメラの周りを円を描くように走らせる、といったように視覚効果を得るため様々な工夫を凝らしている。


『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』(ピーター・ジャクソン監督)の合戦シーンでは、『七人の侍』の雨の中で弓を引く勘兵衛のショットがそのまま引用されていたり、『ラストサムライ』(エドワード・ズウィック監督)では雨や風、馬や屍の使い方など、黒澤映画から引用されたショットが多数に渡っている。黒澤を尊敬しているとコメントした映画人は数知れないほどである。


クリント・イーストウッドは「クロサワは自分の映画人生の原点だ」と語っている。北野武も黒澤映画の影響を受けた人物の一人である。また黒澤も北野映画のファンであることを公言していた。黒澤との対談動画もある宮崎駿作品に対する影響には枚挙に暇もない。一例として『ハウルの動く城』冒頭の『蜘蛛巣城』との類似など。



その他


  • 身長は182cm[13]で、明治生まれの日本人としてはずば抜けた長身[注釈 14]だった。学生時代は水泳と剣道に打ち込んだ。晩年にアカデミー賞の名誉賞を受賞した際に、プレゼンターを務めたジョージ・ルーカスやスティーヴン・スピルバーグよりも、頭一つほど大きかった。

  • 作品『海は見ていた』は、黒澤が自分で監督するつもりで脚本を執筆していたが、ラストの嵐のシーンに広大なセットを必要とされていたゆえ、コストの面で折り合いがつかず、製作が実現しなかった。黒澤の死後に、熊井啓監督によって映画化されている。全編をラブストーリーで構成するという内容は、それまで黒澤の作品には珍しく、人生最後の作品には恋愛ドラマを撮りたかったという説もある。

  • 仲代達矢は、黒澤が生前に『戦争と平和』(トルストイ)の映画化を考えていたと証している(黒澤はセルゲイ・ボンダルチュクが手掛けた映画版を「ボンダルチュクは本当に凡だな」と酷評していた「黒澤明 封印された十年」)。

  • 「平家物語」の映画化も念願であった。晩年になって「少しづつ撮っておけば良かった」と語られている。しかし「あの公達たちを演じられる役者はいない」とも語っていた。

  • 時期は不明ながら、手塚プロとの合同製作ミュージカルも企画された。そのプロジェクトが没になり、手塚プロのグループは市川崑監督の『火の鳥』へと移っている。

  • 大のヤクザ嫌いで知られ、その影響が作風にも出ており、『醉いどれ天使』、『生きる』、『用心棒』などの作品でも、ヤクザを否定するシーンやテーマがある。

  • 作風が確立した後は編集も自ら行った。多くの監督も編集現場には立ち会うが、黒澤は自らが編集機を使いフィルムを繋げた監督である。

  • 私生活の黒澤はグルメで知られ[14]、この年代の日本人には珍しく肉料理が多かったと家族が著書に記している。対談した北野武も、その旺盛な食欲に感嘆したと述べている。本人は北野に「食事はバランス」だと語ったらしいが、交友を通じてその言葉を理解したところによると、肉と野菜などをバランス良く取ることではなく、牛肉、豚肉、鶏肉などのさまざまな種類の肉を食べることだと言った趣旨であったと苦笑している。黒澤の肉料理好きについては、後期作品の製作進行を務めた熊田雅彦も、スッポン、寒鰤など脂っこい料理が好きで「育ちは山の手だけど、ルーツは秋田なんだろうなあと思いました」と述べている[15]。妻や娘が腕によりを掛けた手料理を振舞ったが、一方で食費があまりに高くつくので税務署に疑われるという冗談のような出来事もあったという[16]。撮影がトラブル続きで機嫌が悪いときも、好物のスッポン料理を口にすると機嫌が直るほどであった。

  • また、酒も煙草も嗜んだ。特にウイスキーが大好物で、当時まだ珍しかったジョニーウォーカーやホワイトホースを愛飲していた。1993年にイランのアッバス・キアロスタミ監督が来日・対談した折りは「黒澤に飲みに行こうと誘われたけど、後ろにいたスタッフの方が『断って』と合図を出すのでやむ無く断った。後で理由を聞いてみると、黒澤には酒量を減らすようドクターストップが掛かっているとのことだったそうだ。是非行きたかったのでとても残念です」と後年述懐している[17]。大酒飲みであったので、三船敏郎や千秋実は打ち上げになると逃げてどこかへ行ってしまい、代わりに宝田明が呼ばれて、幹事の如く仕切らせられたという。

  • 『七人の侍』の撮影期間中、5時にロケーションが終了し6時から広間でメインの俳優とスタッフが、黒澤を中心に車座になって食事をしていた。しかし、実態は黒澤の独演会で飲めば飲むほど話がはずみ、11時ぐらいまで話が延々と続いた。黒澤によると「みんなで一緒にご飯を食べるときが一番楽しいね。内々の話をしたりね。僕はよく、あそこで演出をしちゃってるんだよって言うんです。宴会で家族みたいになると、現場でもやりいいですよ。映画はみんなで創っているんですから」。


  • 児玉清は若手時代に黒澤に徹底的にいじめ抜かれ、厳しい指導を受けた。児玉曰く「黒澤を殴ろう」と思ったが、結局殴らずじまいで出番を終える。その後、児玉は黒澤に評価されていたことを知り、腰が砕けたという。


  • 佐原健二は、乗っていた車が黒澤のかわいがっていた俳優と同じだというだけの理由で説教をされそうになったが、佐原と関係の深かった本多猪四郎監督が黒澤と仲が良かったということで説教されずに済んだという。


  • 山田洋次監督が黒澤宅を訪問した際に、黒澤は小津安二郎監督『東京物語』をビデオで鑑賞していたという。なお、黒澤は話題になった新作を含め、自宅でよく映画をビデオ、テレビ鑑賞していたが、この話を伝聞で聞いた蓮實重彦が尾ひれを付けたように語った「晩年の黒澤は小津映画ばかり繰り返し見ていた」というような事実はない。

  • 作家の小林久三は、黒澤プロから松竹に転職した社員の話として、大学出たての彼の同プロ出勤初日に、来客中だった黒澤が立ち上がって「黒澤です。よろしくお願いします」と頭を下げたというエピソードを記し、その紳士ぶりを伝えている。

  • 俳優の藤木悠によると、『蜘蛛巣城』の撮影中、藤木が「監督も(ゴジラ映画を)撮ったらどうですか」と聞いたところ、黒澤も「面白いね」と乗り気であったという。その話をそばで聞いていた東宝製作部の人間が藤木を呼び、「黒澤さんが本気になって(ゴジラ映画を)撮ったら会社が潰れる」と注意されたという。


  • 所ジョージの出演する番組を、欠かさずチェックしていたという。そのために『まあだだよ』への出演が決まった。


  • 松田優作がまだ六月劇場の研修生だったころ、黒澤の自宅を訪問し、3日間座り込んで弟子入りを迫ったが、結局会わずに追い返してしまう。その時の経験から後に松田は、「俺は一生かかっても必ず有名になってみせる。だが有名になっても黒澤監督の映画にだけは決して出んからな」と語り、その言葉通りに、逝去するまで黒澤映画に出演することはなかった。1970年代後半に松田は世田谷区松原にあった当時の黒澤邸から通りをはさんで3軒先にある小劇場「宇宙舘」で自ら書き起こした作品を上演していた。


  • 菅井きんは、映画出演時には黒澤には優しくしてもらい、自分の演技に落ち込んでいる時には慰めてくれたと語っている。赤ん坊を背負う母親役を演じた際は、雨のシーンの撮影時には「赤ちゃんはいらない。濡れたら可哀想だから」と気遣いをしたという。

  • 上記の菅井の代表作である『必殺シリーズ』を黒澤が自宅でTVで見ていた時に小泉堯史が訪れ、「これ(必殺)面白いんだよ」「軽演劇をやってた人(主演の藤田まこと)って上手いんだよ」と小泉に語り、後に小泉は藤田主演で『明日への遺言』を監督した[18]

  • カンヌ映画祭の時、マドンナと同じホテルであったが、マドンナ側から「一緒に食事を」との申し出に対して黒澤監督は付き添いの娘に、「嫌だ、どうしてもと言うなら窓から飛び降りて逃げる」と言った。マドンナをどう思うか?という質問に黒澤監督は、「面白いね、しかしね、なかなか。他の映画も観ましたけどね、マドンナが主演してるやつね。テレビですけどね。いろんな意味でね。何て言うのかなぁ勝手なことしてるでしょ?思い切ってこだわらずに。で、キャラクターとしてとても面白いなぁと思いましたけどね」。

  • 生前、自らがもし映画館を作るとしたら?という前提で百本の映画をチョイスしたが、そのうち最も絶賛したのがサタジット・レイ『大地のうた』であった[19]

  • スタッフや俳優からは、「クロさん」と呼ばれた。演出中に俳優を罵倒する際の最大級の罵り言葉は、「このでこすけ!」であった。この「でこすけ」が出ると、もう収拾がつかなかったという[20][注釈 15]


  • 高倉健は「黒澤監督の晩年の作品には、良いものがないと思うんですよね。僕は、監督が(作品の常連だった)三船敏郎さんと別れたのが大きい気がする。志村喬さんもそうだったけれど、三船さんは(黒澤作品の)エンジンの大きな出力だったのでしょう。二人が抜けたことで、その出力がどーんと落ちた。怖いですよね。映画は絶対に一人ではできないんですよ」と評している[21]。高倉は『乱』の鉄修理(くろがね・しゅり)役で黒澤から直々にオファーされていたが、主演映画『居酒屋兆治』の準備に入っていたため、黒澤の直談判による説得も断っていた。黒澤に「あなたは難しい人」だと言われた高倉だが、その後偶然『乱』のロケ地を通ったことがあって、出演すれば良かったと後悔している[21]

  • 映画『明日を創る人々』は、山本嘉次郎・関川秀雄と共に演出として黒澤がクレジットされているが、黒澤はこの映画を自分の作品とは認めておらず[22]、後に名前の掲載も拒否しているため、一般的には黒澤の作品には含まれない。

  • 黒澤は大林宣彦監督の『さびしんぼう』という映画を大変気に入り、自分のチーム“黒澤組”のスタッフにも観るように指示したというエピソードがある[23]


芸能界に関係する家族



  • 兄:須田貞明(黒澤丙午)(活動弁士)

  • 妻:矢口陽子(女優、結婚後に引退)

    • 長男:黒澤久雄(タレント、プロデューサー、黒澤プロダクション代表取締役社長)

    • 長男の前妻:林寛子(タレント、後に離婚)

      • 孫・長男

      • 孫・長女:黒澤優(元女優、夫は松岡充)

      • 孫・次女:黒澤萌(歌手)



    • 長女:黒澤和子(デザイナー)

    • 長女の前夫:加藤晴之(加東大介の息子、後に離婚。つまり長門裕之や津川雅彦などのマキノ家とも、縁戚関係にあった)
      • 孫・長男:加藤隆之(俳優)






作品



監督作品


監督作品は全30作。























































































































































































































































公開年
作品名
制作(配給)
脚本
主な出演者
上映時間ほか

1943年

姿三四郎
東宝
黒澤明

大河内伝次郎、藤田進、轟夕起子、花井蘭子、月形龍之介、志村喬
79分/白黒/スタンダード

1944年

一番美しく
東宝
黒澤明

矢口陽子、入江たか子、志村喬、萬代峰子
85分/白黒/スタンダード

1945年

續姿三四郎
東宝
黒澤明
藤田進、轟夕起子、月形龍之介、大河内伝次郎、河野秋武、宮口精二、森雅之
82分/白黒/スタンダード

虎の尾を踏む男達
東宝
黒澤明
大河内伝次郎、榎本健一、藤田進、志村喬、小杉義男、仁科周芳(岩井半四郎)
58分/白黒/スタンダード

1946年

わが青春に悔なし
東宝

久板栄二郎

原節子、藤田進、大河内伝次郎、杉村春子、河野秋武、三好栄子、志村喬
110分/白黒/スタンダード

1947年

素晴らしき日曜日
東宝

植草圭之助

沼崎勲、中北千枝子、渡辺篤、菅井一郎
108分/白黒/スタンダード

1948年

醉いどれ天使
東宝
植草圭之助、黒澤明
志村喬、三船敏郎、木暮実千代、山本礼三郎、久我美子、中北千枝子、千石規子、笠置シズ子、飯田蝶子
98分/白黒/スタンダード

1949年

静かなる決闘
大映
黒澤明、谷口千吉
三船敏郎、三條美紀、志村喬、千石規子、中北千枝子
95分/白黒/スタンダード

野良犬

新東宝=映画芸術協会
黒澤明、菊島隆三
三船敏郎、志村喬、木村功、淡路恵子、河村黎吉、三好栄子、千秋実
122分/白黒/スタンダード

1950年

醜聞

松竹=映画芸術協会
黒澤明、菊島隆三
三船敏郎、山口淑子、志村喬、桂木洋子、日守新一、左卜全、小沢栄
105分/白黒/スタンダード

羅生門
大映
黒澤明、橋本忍
三船敏郎、京マチ子、志村喬、森雅之、千秋実、上田吉二郎、本間文子、加東大介
88分/白黒/スタンダード

1951年

白痴
松竹
久板栄二郎、黒澤明
原節子、森雅之、三船敏郎、久我美子、志村喬
166分/白黒/スタンダード

1952年

生きる
東宝
黒澤明、橋本忍、小国英雄
志村喬、小田切みき、日守新一、千秋実、田中春男、藤原釜足、左卜全、中村伸郎、金子信雄、伊藤雄之助、菅井きん
143分/白黒/スタンダード

1954年

七人の侍
東宝
黒澤明、橋本忍、小国英雄
志村喬、三船敏郎、木村功、稲葉義男、加東大介、千秋実、宮口精二、藤原釜足、津島恵子、島崎雪子、土屋嘉男、左卜全、高堂国典、東野英治郎、山形勲
207分/白黒/スタンダード

1955年

生きものの記録
東宝
橋本忍、小国英雄、黒澤明
三船敏郎、志村喬、青山京子、東郷晴子、千秋実、清水将夫、根岸明美、三好栄子
113分/白黒/スタンダード

1957年

蜘蛛巣城
東宝
小国英雄、橋本忍、菊島隆三、黒澤明
三船敏郎、山田五十鈴、志村喬、久保明、千秋実、太刀川洋一、浪花千栄子、佐々木孝丸
110分/白黒/スタンダード

どん底
東宝
小国英雄、黒澤明
三船敏郎、山田五十鈴、香川京子、中村鴈治郎、千秋実、藤原釜足、三井弘次、東野英治郎、渡辺篤、左卜全、清川虹子
125分/白黒/スタンダード

1958年

隠し砦の三悪人
東宝
菊島隆三、小国英雄、橋本忍、黒澤明
三船敏郎、上原美佐、千秋実、藤原釜足、藤田進、志村喬
139分/白黒/シネマスコープ

1960年

悪い奴ほどよく眠る
東宝=黒澤プロ
小国英雄、久板栄二郎、黒澤明、菊島隆三、橋本忍
三船敏郎、森雅之、香川京子、三橋達也、志村喬、西村晃、加藤武、藤原釜足、笠智衆
151分/白黒/シネマスコープ

1961年

用心棒
東宝=黒澤プロ
菊島隆三、黒澤明
三船敏郎、仲代達矢、司葉子、山田五十鈴、加東大介、山茶花究、河津清三郎、東野英治郎、沢村いき雄、志村喬、藤原釜足、夏木陽介
110分/白黒/シネマスコープ

1962年

椿三十郎
東宝=黒澤プロ
菊島隆三、小国英雄、黒澤明
三船敏郎、仲代達矢、加山雄三、小林桂樹、団令子、志村喬、藤原釜足、清水将夫、伊藤雄之助、入江たか子
96分/白黒/シネマスコープ

1963年

天国と地獄
東宝=黒澤プロ
小国英雄、菊島隆三、久板栄二郎、黒澤明
三船敏郎、仲代達矢、香川京子、三橋達也、石山健二郎、木村功、加藤武、志村喬、山崎努
143分/白黒・パートカラー/シネマスコープ

1965年

赤ひげ
東宝=黒澤プロ

井手雅人、小国英雄、菊島隆三、黒澤明
三船敏郎、加山雄三、山崎努、団令子、香川京子、桑野みゆき、二木てるみ、頭師佳孝、志村喬、笠智衆、田中絹代、内藤洋子、杉村春子、根岸明美
185分/白黒/シネマスコープ

1970年

どですかでん
四騎の会=東宝
黒澤明、小國英雄、橋本忍
頭師佳孝、菅井きん、三波伸介、伴淳三郎、芥川比呂志、奈良岡朋子、渡辺篤、藤原釜足、井川比佐志、田中邦衛、楠侑子、松村達雄、三谷昇、根岸明美、塩沢とき
140分/カラー/スタンダード

1975年

デルス・ウザーラ

モスフィルム
黒澤明、ユーリー・ナギービン

ユーリー・ソローミン、マキシム・ムンズーク、シュメイクル・チョクモロフ、ウラジミール・クレメナ、スベトラーナ・ダニエルチェンコ
141分/カラー/70ミリ・ワイド

1980年

影武者
東宝=黒澤プロ
黒澤明、井手雅人
仲代達矢、山崎努、隆大介、萩原健一、根津甚八、大滝秀治、油井昌由樹、桃井かおり、倍賞美津子、室田日出男、志村喬
179分/カラー/ビスタ

1985年


グリニッチ・フィルム=ヘラルド・エース
黒澤明、小国英雄、井手雅人
仲代達矢、寺尾聰、隆大介、根津甚八、原田美枝子、宮崎美子、野村武司、井川比佐志、ピーター、油井昌由樹、植木等
162分/カラー/ビスタ

1990年


黒澤プロ
黒澤明
寺尾聰、倍賞美津子、原田美枝子、井川比佐志、いかりや長介、笠智衆、頭師佳孝、根岸季衣、マーティン・スコセッシ
120分/カラー/ビスタ

1991年

八月の狂詩曲
黒澤プロ=フィーチャーフィルムエンタープライズII
黒澤明

村瀬幸子、吉岡秀隆、大寶智子、茅島成美、鈴木美恵、伊崎充則、井川比佐志、根岸季衣、リチャード・ギア
97分/カラー/ビスタ

1993年

まあだだよ
大映=電通=黒澤プロ
黒澤明
松村達雄、香川京子、井川比佐志、所ジョージ、油井昌由樹、寺尾聰、小林亜星、板東英二、岡本信人
134分/カラー/ビスタ


著作権問題


上記の作品のうち、1952年までに公開された作品は、2004年1月1日に改正法が施行される前の著作権法の規定により、公開後50年を経たことを根拠に、日本国内においては著作権の保護期間が終了したとの誤解が一部であったことから、いくつかの作品が、著作権者の許諾なしに激安DVDで発売された。これに対し、製作者(著作権継承者)の東宝と角川映画は2036年(監督没後38年)まで著作権が存続するとして発売業者を相手取り、発売差し止めと在庫の廃棄を求める訴えを東京地裁に起こした。2007年9月14日に東京地裁で原告勝訴の判決が下った。松竹作品についても2008年1月28日に東京地裁で原告勝訴の判決が下った。発売業者は控訴・上告したが、2009年10月8日に最高裁は原告勝訴の判決を下しており、2036年まで著作権が存続することが確定している[24](映画の著作物#旧法時の映画の著作物も参照のこと)。



その他の映像作品



  • 『藤十郎の恋』(1938年5月1日公開、山本嘉次郎演出) - 製作主任

  • 『綴方教室』(1938年8月21日公開、山本嘉次郎演出、東宝) - 製作主任

  • 『馬』(1941年3月11日公開、山本嘉次郎演出、東宝) - 製作主任

  • 『翼の凱歌』(1942年10月15日公開、山本薩夫監督) - 脚本

  • 『土俵祭』(1944年3月30日公開、丸根賛太郎監督、大映) - 脚本

  • 『天晴れ一心太助』(1945年1月11日公開、佐伯清監督、東宝) - 脚本

  • 『四つの恋の物語 第一話「初恋」』(1947年3月11日公開、豊田四郎演出) - 脚本

  • 『銀嶺の果て』(1947年8月5日公開、谷口千吉監督) - 脚本

  • 『肖像』(1948年7月27日公開、木下惠介監督) - 脚本

  • 『ジャコ萬と鉄』(1949年7月11日公開、谷口千吉監督) - 脚本

  • 『暁の脱走』(1950年1月8日公開、谷口千吉監督、東宝) - 脚本

  • 『殺陣師段平』(1950年8月26日公開、マキノ雅弘監督、東京映画配給) - 脚色

  • 『愛と憎しみの彼方へ』(1951年1月11日公開、谷口千吉監督、東宝) - 脚本

  • 『獣の宿』(1951年6月8日公開、大曾根辰夫監督) - 脚本

  • 『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』(1952年1月3日公開、森一生監督) - 脚本

  • 『戦国無頼』(1952年5月22日公開、稲垣浩監督) - 脚本

  • 『ソ満国境2号作戦 消えた中隊』(1955年1月14日公開、三村明監督、日活) - 脚本

  • 『あすなろ物語』(1955年10月5日公開、堀川弘通監督) - 脚本

  • 『日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里』(1957年12月28日公開、森一生監督) - 脚本

  • 『戦国群盗伝』(1959年8月9日公開、杉江敏男監督) - 潤色

  • 『荒野の七人』(1960年製作、ジョン・スタージェス監督、アメリカ映画) - 原作

  • 『殺陣師段平』(1962年9月30日公開、瑞穂春海監督、大映) - 脚本

  • 『暴行』(1963年製作、マーティン・リット監督、アメリカ映画) - 原作

  • 『荒野の用心棒』(1964年製作、ボブ・ロバートソン監督、イタリア映画) - 原作

  • 『ジャコ萬と鉄』(1964年2月8日公開、深作欣二監督) - 脚本

  • 『姿三四郎』(1965年5月29日公開、内川清一郎監督、東宝) - 製作・脚本

  • 『馬の詩』 (1971年のテレビドキュメンタリー)、日本テレビ - 監修・構成

  • 『野良犬』(1973年9月29日公開、森崎東監督) - 原作

  • 『暴走機関車』(1985年製作、アンドレイ・コンチャロフスキー監督、アメリカ映画) - 原案

  • 『ドキュメント黒澤明 A・K』(1985年製作、クリス・マルケル監督、フランス - 日本映画) - 出演

  • 『飛ぶ〜こんな夢を見た』(1999年製作、樋口真嗣監督 / 劇場未公開)- 原作 『夢』より

  • 『雨あがる』(2000年1月22日公開、小泉堯史監督、東宝/アスミック・エース) - 脚本

  • 『どら平太』(2000年5月13日公開、市川崑監督) - 脚本

  • 『海は見ていた』(2002年7月27日公開、熊井啓監督、ソニー・ピクチャーズ・エンタテイメント/日活) - 脚本

  • 『赤ひげ』(2002年12月28日放送、フジテレビ) - 脚本

  • 『旋風の用心棒』(2003年1月25日公開、川原圭敬監督、エムロックス) - 原案

  • 『SAMURAI 7』(2004年6月12日〜12月25日放送、パーフェクト・チョイス) - 原作

  • 『椿三十郎』(2007年12月1日公開、森田芳光監督、東宝) - 脚本

  • 『隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS』(2008年5月10日公開、樋口真嗣監督、東宝) - 脚本



作詞




  • ジャングル・ブギー(服部良一作曲、笠置シヅ子唄)

  • 七人の侍(早坂文雄作曲、山口淑子唄)



その他




  • 侍の一日 - 構想のみで制作されなかった時代劇映画


  • 日本エアシステム MD-90(機体の塗装デザイン。全7種。のちにすべて日本航空の通常塗装になった。2013年3月退役)



受賞歴



国内


























































































































































































































部門 作品名 結果

山中貞雄賞
1943年

『姿三四郎』
受賞

毎日映画コンクール
1947年
作品賞
『素晴らしき日曜日』
受賞
監督賞
受賞
1952年
作品賞
『生きる』
受賞
脚本賞
受賞
1963年
『天国と地獄』
受賞
1980年
作品賞
『影武者』
受賞
監督賞
受賞
1985年
作品賞
『乱』
受賞
監督賞
受賞
1998年
特別賞

受賞

キネマ旬報ベスト・テン
1948年
日本映画ベストワン
『酔いどれ天使』
受賞
1952年
『生きる』
受賞
1965年
『赤ひげ』
受賞
日本映画監督賞
受賞

ブルーリボン賞
1950年
脚本賞
『羅生門』
受賞
1958年
作品賞
『隠し砦の三悪人』
受賞
1965年
『赤ひげ』
受賞
1980年
『影武者』
受賞
1985年
『乱』
受賞
監督賞
受賞
1998年
特別賞

受賞

報知映画賞
1980年
作品賞
『影武者』
受賞

牧野省三賞
1981年


受賞

川喜多賞
1984年


受賞
「映画の日」特別功労大章[25]
1985年


受賞
1998年


受賞

日本アカデミー賞

1990年
監督賞
『夢』
ノミネート

1991年
『八月の狂詩曲』
ノミネート
脚本賞
ノミネート
1998年
協会栄誉賞

受賞
2000年
脚本賞
『雨あがる』
受賞

山路ふみ子映画賞
1991年
作品賞
『八月の狂詩曲』
受賞

ゴールデン・アロー賞
1998年
特別賞

受賞

日刊スポーツ映画大賞
1998年
特別賞

受賞

エランドール賞
1999年
特別賞

受賞


国外














































































































































































































































































































































































部門 作品名 結果

ヴェネツィア国際映画祭
1951年

金獅子賞
『羅生門』
受賞
イタリア批評家賞
受賞
1954年

銀獅子賞
『七人の侍』
受賞
1965年
国際カトリック映画事務局賞(OCIC Award)
『赤ひげ』
受賞

サン・ジョルジョ賞
受賞
1982年

栄誉金獅子賞

受賞

ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞
1951年

監督賞
『羅生門』
受賞

外国語映画賞
受賞
1985年
監督賞
『乱』
受賞
外国語映画賞
受賞

アカデミー賞(開催年)
1952年

アカデミー賞名誉賞[注釈 10]
『羅生門』
受賞
1971年

外国語映画賞
『どですかでん』
ノミネート
1976年
『デルス・ウザーラ』
受賞
1980年
『影武者』
ノミネート
1986年

監督賞[注釈 1]
『乱』
ノミネート
1990年

名誉賞[注釈 1]

受賞

英国アカデミー賞
1952年

作品賞(総合)
『羅生門』
ノミネート
1955年
『七人の侍』
ノミネート
1980年
『影武者』
ノミネート
1980年

監督賞
『影武者』
受賞
1986年

外国語作品賞
『乱』
受賞

脚色賞
ノミネート

ベルリン国際映画祭
1959年

銀熊賞 (監督賞)
『隠し砦の三悪人』
受賞
1954年
ベルリン上院特別賞
『生きる』
受賞
1958年

国際映画批評家連盟賞
『隠し砦の三悪人』
受賞

ゴールデングローブ賞
1965年

外国語映画賞
『赤ひげ』
ノミネート
1980年
『影武者』
ノミネート
1985年
『乱』
ノミネート
1990年
『夢』
ノミネート

モスクワ国際映画祭
1965年
ソ連映画人同盟賞
『赤ひげ』
受賞
1971年
映画労働組合賞[26]
『どですかでん』
受賞
1975年
金賞
『デルス・ウザーラ』
受賞
1979年
名誉賞

受賞

フランス映画批評家協会賞
1977年
外国語映画賞
『デルス・ウザーラ』
受賞

ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞
1977年

外国映画監督賞(イタリア語版)
『デルス・ウザーラ』
受賞
1981年
『影武者』
受賞
1986年
『乱』
受賞

ナストロ・ダルジェント賞
1977年
外国映画監督賞
『デルス・ウザーラ』
受賞
1981年
『影武者』
受賞
ベルギー映画批評家協会賞
1978年
作品賞
『どですかでん』
受賞
1981年
監督賞
『影武者』
受賞

カンヌ国際映画祭

1980年

パルム・ドール
『影武者』
受賞

セザール賞
1981年
外国語映画賞
『影武者』
受賞
1986年
『乱』
ノミネート

サン・セバスティアン国際映画祭
1985年
国際カトリック映画事務局賞
『乱』
受賞

全米映画批評家協会賞
1985年
作品賞
『乱』
受賞

ニューヨーク映画批評家協会賞
1985年

外国語映画賞
『乱』
受賞

ロサンゼルス映画批評家協会賞
1985年

外国語映画賞
『乱』
受賞
生涯功労賞

受賞

ボストン映画批評家協会賞
1985年
作品賞
『乱』
受賞

インディペンデント・スピリット賞
1985年
外国語映画賞
『乱』
ノミネート

ロンドン映画批評家協会賞
1986年
監督賞
『乱』
受賞
外国語映画賞
受賞

ボディル賞
1986年
外国語映画賞
『乱』
受賞

アマンダ賞(英語版)
1986年
外国語映画賞
『乱』
受賞

BFIフェローシップ賞(英語版)
1986年


受賞

サンフランシスコ国際映画祭
1986年
黒澤明賞

受賞

全米監督協会賞
1992年

D・W・グリフィス賞

受賞

全米脚本家組合賞
2013年

ジャン・ルノワール賞[注釈 16]

受賞


その他



  • 1965年:マグサイサイ賞 ジャーナリズム部門賞

  • 1966年:朝日文化賞

  • 1982年:国際交流基金賞

  • 1990年:福岡アジア文化賞 創設特別賞

  • 1992年:高松宮殿下記念世界文化賞 演劇・映像部門賞

  • 1994年:第10回京都賞思想・芸術部門 映画・演劇分野

  • 1998年:国民栄誉賞(没後)



栄典・称号



  • 1971年:ユーゴスラビア国旗勲章

  • 1976年:文化功労者

  • 1981年:イタリア共和国功労勲章 カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ


  • レジオンドヌール勲章

    • 1984年:オフィシエ

    • 1985年:コマンドール



  • 1985年:文化勲章

  • 1991年:ソ連諸民族友好勲章

  • 1996年:東京都名誉都民

  • 1998年:従三位(没後)



関連文献



著書



  • 黒澤明『蝦蟇の油 自伝のようなもの』(1984年、岩波書店)
     岩波同時代ライブラリー 1990年、岩波現代文庫 2001年・復刊2010年

  • 全集 黒澤明』全7巻 (1987-88年 / 復刊1993年、岩波書店)、※最終巻は2002年刊

  • 『黒澤明語る』(聞き手原田眞人)(1991年、福武書店 / 1995年、福武文庫)

  • 『黒澤明作品画集』(1992年、TOKYO FM出版) - 大著

  • 黒澤明 『まあだだよ』(1993年、徳間書店) - 絵コンテ集・シナリオ等
    • ※他に刊行されたのは、『夢』(1990年、岩波書店)、『乱』(1984年、集英社)、『影武者』(1979年、講談社)


  • 黒澤明・宮崎駿対談『何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』(1993年、スタジオジブリ)

  • 黒澤明述、文藝春秋編『黒澤明「夢は天才である」』(1999年、文藝春秋)

  • 黒澤プロダクション監修『黒澤明全画集』(1999年、小学館) - 大著

  • 黒澤明『海は見ていた 巨匠が遺した絵コンテ シナリオ 創作ノート』(2002年、新潮社)

  • 大系 黒澤明』全4巻+別巻 (浜野保樹編、2009年10月〜2010年11月、講談社)

  • 『黒澤明-絵画に見るクロサワの心』(2010年8月、角川文庫) - 画集・解説横尾忠則

  • 『「七人の侍」創作ノート』2巻組 (2010年8月、文藝春秋)



回想・評伝・作品研究


※基本的に没後のみ。著者・編者五十音順。


  • 川村蘭太 『黒澤明から聞いたこと』 新潮新書 2009年

  • 黒澤明研究会編 『黒澤明を語る人々』 朝日ソノラマ 2004年

  • 黒澤和子 『パパ、黒澤明』 文藝春秋 2000年、文春文庫 2004年

  • 黒澤和子 『回想黒澤明』 中公新書 2004年

  • 黒澤和子 『黒澤明が選んだ100本の映画』 文春新書 2014年。編著


  • 小林信彦 『黒澤明という時代』 文藝春秋 2009年、文春文庫 2012年


  • 佐藤忠男 『黒澤明の世界』 朝日文庫 1986年

  • 佐藤忠男[注釈 17] 『黒澤明作品解題』 岩波同時代ライブラリー 1990年、岩波現代文庫 2002年


  • 塩澤幸登編・解説 『KUROSAWA 黒澤明と黒澤組、その映画的記憶、映画創造の記録』 茉莉花社(全3巻) 2005年。※スタッフインタビュー集


  • 田草川弘 『黒澤明vsハリウッド 〈トラ・トラ・トラ!〉 その謎のすべて』
     文藝春秋 2006年、文春文庫 2010年-大佛次郎賞受賞


  • 土屋嘉男 『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』 新潮社 1999年、新潮文庫 2002年


  • 都築政昭 『黒澤明 全作品と全生涯』 東京書籍 2010年

  • 都築政昭 『黒澤明の映画入門』 ポプラ社〈ポプラ新書〉 2016年。※作品論を軸に多数刊行。リンク先参照

  • 仲代達矢・山崎努ほか 『十五人の黒澤明 出演者が語る巨匠の横顔』 ぴあ 2005年


  • 西村雄一郎 『巨匠のメチエ 黒沢明とスタッフたち インタビュー集』 フィルムアート社 1987年

  • 西村雄一郎 『黒澤明 音と映像』 立風書房 1990年、増補版1998年

  • 西村雄一郎 『黒澤明と早坂文雄 風のように侍は』 筑摩書房 2005年

  • 西村雄一郎 『黒澤明 封印された十年』 新潮社 2007年


  • 野上照代 『天気待ち 監督・黒澤明とともに』 文藝春秋 2001年、文春文庫 2004年
     増補新版 『もう一度天気待ち 監督・黒澤明とともに』 草思社 2014年、草思社文庫、2016年

  • 橋本忍 『複眼の映像 私と黒澤明』 文藝春秋 2005年、文春文庫 2010年


  • 樋口尚文 『黒澤明の映画術』 筑摩書房 1999年


  • 古山敏幸 『黒澤明の作劇術』 フィルムアート社 2008年

  • 堀川弘通 『評伝黒澤明』 毎日新聞社 2000年、ちくま文庫 2003年



ムック



  • 『KAWADE夢ムック 文藝別冊 追悼特集黒澤明』 河出書房新社 1998年
    • 増補版 『KAWADE夢ムック 黒澤明生誕100年総特集』 2010年


  • 黒澤明研究会編 『MOOK21 黒澤明〜夢のあしあと〜』 共同通信社 1999年

  • 『淀川長治、黒澤明を語る』 河出書房新社 1999年 ※遺作のひとつ


  • キネマ旬報編集部編 『黒澤明集成 (全3巻)』 キネマ旬報社 1989年〜93年

  • 西村雄一郎『キネ旬ムック 黒澤明を求めて』キネマ旬報社 2000年

  • 『キネ旬ムック 黒澤明 天才の苦悩と創造』キネマ旬報社 2001年

  • 『キネマ旬報セレクション 黒澤明』 キネマ旬報社編 2010年



絶版書籍・雑誌



  • キネマ旬報増刊号 『黒沢明〜その作品と顔』 キネマ旬報社 1963年
    • ※『「黒沢明・三船敏郎」 二人の日本人』、『黒沢明ドキュメント』(関係者60名の証言)と共に、3冊組<黒澤明コレクション>で、1997年12月に限定復刻。


  • 『黒沢明映画大系』(全6巻) キネマ旬報社 1970-71年

  • 『世界の映画作家.3 黒沢明』 キネマ旬報社 1970年、※「黒澤明集成.III」に大半を再録。

  • 植草圭之助 『わが青春の黒澤明』 文藝春秋 1978年、文春文庫 1985年


  • ドナルド・リチー、三木宮彦訳 『黒澤明の映画』 キネマ旬報社 1979年、現代教養文庫、1991年、増補版1993年
    ※原題は、Donald Richie <The Films of Akira Kurosawa> 著者は第1回の川喜多賞受賞者。

  • 島敏光 『黒澤明のいる風景』 新潮社 1991年、※著者は甥で、少年時代は黒沢家で暮らした

  • 尾形敏朗 『巨人と少年 黒沢明の女性たち』 文藝春秋 1992年

  • 文藝春秋編 『異説・黒澤明』 文春文庫ビジュアル版 1994年

  • 『黒澤明 田村彰英写真集』 NTT出版 1991年


  • 月刊PLAYBOY 『黒澤明没後10年記念企画 クロサワ 世界の映画王』 集英社 2008年3月号(No.398)



黒澤明記念館


佐賀県伊万里市黒川町大字福田字米島地内に建設が計画されていた。開館までの繋ぎの仮施設として、1999年7月2日に伊万里市市街地中心部の商業施設にサテライトスタジオが開設された[28]


2001年、黒澤明文化振興財団が寄付金を募り黒澤明記念館を建築する予定で2007年度末までに伊万里市が黒澤明記念館建設購入権を含め3億5100万円、総額で約3億8800万円もの建設資金を寄付などで集めたことが分かったが、同財団が佐賀県に提出した2007年度決算報告書ではわずか140万円しか残っていないことが判明、純資産も9000万円しか無かった。2010年2月19日、伊万里市議会全員協議会に於いて、同財団理事長で黒澤明の息子である黒澤久雄らは「資金の大半は仮施設の運営などで使い果たしてしまった」と陳謝した[29][30]。その後2010年5月には、同財団側が、多額の資金を集めて記念館を造ることが現実的でないとした上で、市内の商店街に既にオープンしているサテライトスタジオをリニューアルし本記念館としたいとの意向を示し、記念館の建設を事実上断念することを決めたと、伊万里市側が明らかにした[31]


2011年3月6日、サテライトスタジオが閉館した[32]



黒澤デジタルアーカイブ


黒澤プロダクションは龍谷大学の協力の下、黒沢監督の直筆のノートやメモ、写真など計2万7431点の資料のデジタル化をし、「黒澤デジタルアーカイブ」としてインターネット上で公開している[33]



黒澤明スクールオブフィルム


ロサンゼルス近辺のカリフォルニア州オレンジ郡アナハイムにある黒澤明スクールオブフィルムは、アナハイム大学のハリウッド映画学校。美術学修士号が取得できるオンライン教育プログラムを提供。



脚注


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注釈




  1. ^ abcdefg外部リンクに映像


  2. ^ 1989年度 第62回アカデミー賞


  3. ^ 『複眼の映像 私と黒澤明』によると著者の橋本忍は黒澤の年譜に於いて「黒澤は東京府荏原郡(東京都品川区)生まれ」と記述してあることに言及し、橋本たちシナリオライター仲間には「生まれたのは明確に秋田で、小さい時に東京へ来たと告げている」と記している


  4. ^ 『黒澤明 全作品と全生涯』によると、黒澤尻三郎の末裔は代々神職をしており、幕末から明治維新の頃までは村の重職を務めていた。戊辰の役で官軍に味方し、その功績で帯刀を許されて士族になったという


  5. ^ ウィリアム・S・ハート(1863年 - 1946年)は、サイレント期の西部劇のトップスターで、二挺拳銃をトレードマークに人気を得た


  6. ^ 実兄の丙午は、須田貞明の名で活動弁士となり、やがて浅草大勝館の主任弁士を務めるなど、若手弁士として人気を得たが、映画のトーキー化で弁士の解雇が行われ、争議委員長としてストを行ったが、1933年(昭和8年)に伊豆湯ヶ島温泉の落合楼にて愛人と心中した


  7. ^ 黒澤と植草は、『素晴らしき日曜日』と『酔いどれ天使』の二作で脚本を共作している


  8. ^ 黒澤の自伝『蝦蟇の油』にはこのことについて触れられてないが、高峰の自伝『わたしの渡世日記』では触れられている


  9. ^ 山中貞雄賞は、1941年の第一回目で春原政久が、第二回は候補者なしで第三回目で黒澤と木下恵介が受賞したが、その後は行われていない[6]

  10. ^ ab現在のアカデミー外国語映画賞に相当。(参照)


  11. ^ ハリウッドの映画制作現場には総監督という役職も該当する単語もない。20世紀フォックスの『史上最大の作戦』の例では、複数の監督が存在した場合の統括はプロデューサーが行う。アメリカにおいては『トラ・トラ・トラ!』は『史上最大の作戦』と同じフォーマットで撮影されると報道されていた。だが、これは日米間の認識のずれというよりも、黒澤プロダクションのプロデューサーが意図的に黒澤本人やマスコミに事実と異なる情報を伝えた結果である。[7]


  12. ^ 一般には、この事件は黒澤に大きな精神的打撃を与えたとされ、後の自殺未遂と関連付けられ語られることも多いが、側近の野上照代(「どですかでん」の興行的失敗のショック)や長女の黒澤和子(監督降板後は、むしろサバサバした様子だった)のように、それを否定する証言もある。


  13. ^ 日本のヘラルド映画社がロシア側に接触して、「黒澤を招いた」という形になるようお膳立てした


  14. ^ 厚生省の国民健康栄養調査によれば、1910年代生まれの日本人成人男性の平均身長は160センチであり、現代の平均身長171センチで単純換算すれば194センチ以上にも相当する。


  15. ^ 黒澤の作品に数多く出演した女優の香川京子によれば、「本当に怖かった。迫力ありますよ」とのことである。


  16. ^ 外国の優れた脚本家に贈られる賞で、黒澤のほか橋本忍、菊島隆三、小国英雄の3人も合わせて受賞した


  17. ^ 右記の「作品解題」の大半は『全集 黒澤明』の解題。佐藤は数多い黒澤本では、自伝「蝦蟇の油」、堀川弘通「評伝 黒澤明」、橋本忍「複眼の映像」の他に、田草川弘「黒澤明VSハリウッド」と野上照代「天気待ち」を推薦している[27]




出典




  1. ^ abcdefg都築政昭『黒澤明 全作品と全生涯』第一章「黒澤明・人と映画」


  2. ^ 自伝『蝦蟇の油』


  3. ^ 自伝『蝦蟇の油』

  4. ^ ab黒澤 明 - 高松宮殿下記念世界文化賞


  5. ^ 堀川弘通『評伝黒澤明』p.18


  6. ^ 千葉伸夫編『監督・山中貞雄』


  7. ^ 田草川弘著『黒澤明vsハリウッド』(文藝春秋)

  8. ^ abc『昭和55年 写真生活』p10-11(2017年、ダイアプレス)

  9. ^ ab都築政昭『黒澤明 全作品と全生涯』第八章「映画作り(二)」


  10. ^ 黒澤明 第3部 - キネマ写真館

  11. ^ ab都築政昭『黒澤明 全作品と全生涯』第五章「映画作り(一)」


  12. ^ 『黒澤明に訊く』


  13. ^ Internet Movie Database - Akira Kurosawa


  14. ^ 映画監督 小泉堯史さん


  15. ^ 『サライ』(小学館)1999年2月4日号 21頁


  16. ^ 島敏光 『黒澤明のいる風景』(新潮社)


  17. ^ 産経新聞 2004年7月1日


  18. ^ キネマ旬報2010年4月上旬号の藤田まこと追悼記事での小泉の談


  19. ^ 『黒沢明「夢は天才である」』(文藝春秋)


  20. ^ 土屋嘉男『クロサワさーん! 黒沢明との素晴らしき日々』(新潮文庫)

  21. ^ ab“「高倉健さんインタビュー」5/7ページ”. 時事ドットコム. (2012年). http://www.jiji.com/jc/v4?id=2012takakura-ken_int0005 2013年8月5日閲覧。 


  22. ^ 黒澤は「これは、どうも、僕の作品とは言えないし、といって誰の作品ともいえないものだな。要するに闘争委員会が作った写真で、そういうかたちの作品はいかにつまらなくなるかという、いい見本みたいなものだね」と述べている(平野共余子著『天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲』)


  23. ^ 大林宣彦著『ぼくの映画人生』(実業之日本社)p.203


  24. ^ 「羅生門」廉価版DVD販売差し止め確定 - 読売新聞・2009年10月8日


  25. ^ 映画の日 特別功労大章・特別功労章及び感謝状贈呈者一覧 - 映画産業団体連合会 2014年12月13日閲覧


  26. ^ 黒沢明・絵コンテの世界[リンク切れ]


  27. ^ 毎日新聞日曜読書コラム「今週の本棚・この人この3冊」、2010年1月9日付


  28. ^ 黒澤明文化振興財団 - 記念館概容」、「サテライトスタジオ」


  29. ^ 黒澤明文化振興財団:「記念館」建設計画の財団、寄付3億円不記載--07年度決算 - 毎日jp(毎日新聞)


  30. ^ 「寄付金使い果たした」黒澤財団理事長が陳謝 :社会 :YOMIURI ONLINE(読売新聞)


  31. ^ 黒澤明記念館の新設断念 財団側、佐賀・伊万里市に回答 朝日新聞 2010年5月7日


  32. ^ 黒澤明記念館スタジオ閉館 運営財団、寄付金使い果たし 朝日新聞 2011年3月7日


  33. ^ 黒澤デジタルアーカイブ




関連項目















  • 日本の映画監督一覧


  • 東京国際映画祭(第17回から『黒澤明賞』が設けられた)


  • アナハイム大学 アキラ・クロサワ スクールオブフィルム - 黒澤明の名前を冠した映画学校



外部リンク



  • 黒澤明文化振興財団

  • 黒澤デジタルアーカイブ(龍谷大学、黒澤プロダクション)

  • 黒澤明インフォ (英語)

  • 黒澤明生誕100年記念特別対談 原正人(映画プロデューサー)×浜野保樹(東大教授)


  • 黒澤明 - インターネット・ムービー・データベース(英語)


  • 黒澤明 - 日本映画データベース


  • 黒澤明 - allcinema


  • 黒澤明 - KINENOTE


  • 黒澤明 - オールムービー(英語)


  • アカデミー賞 授賞式映像


    • 「乱」監督賞ノミネート - YouTube

    • 黒澤明、ジョン・ヒューストン、ビリー・ワイルダー:作品賞プレゼンター(『愛と哀しみの果て』) - YouTube


    • 黒澤明 アカデミー名誉賞 - YouTube プレゼンター:スティーヴン・スピルバーグ/ジョージ・ルーカス




















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