永代橋



永代橋 | |
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東京都中央区から(2008年3月) | |
基本情報 | |
国 | ![]() |
所在地 | 東京都中央区 - 江東区間 |
交差物件 | 隅田川 |
建設 | 1923 - 1926年 |
座標 | 北緯35度40分35秒 東経139度47分15秒 / 北緯35.67639度 東経139.78750度 / 35.67639; 139.78750座標: 北緯35度40分35秒 東経139度47分15秒 / 北緯35.67639度 東経139.78750度 / 35.67639; 139.78750 |
構造諸元 | |
形式 | スチールアーチ橋(中央径間)、鋼桁橋(両側) |
全長 | 184.7 m |
幅 | 25.0 m |
関連項目 | |
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式 |

ライトアップされた永代橋(2008年11月)。
永代橋(えいたいばし)は、隅田川にかかる橋。東京都道・千葉県道10号東京浦安線(永代通り)を通す。西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区佐賀一丁目及び同区永代一丁目。地下に東京メトロ東西線が通る。日の入りから21時まで青白くライトアップされる[1]。国の指定重要文化財(建造物、2007年~)[2]。
目次
1 橋の概要
2 歴史
2.1 江戸期の創架
2.2 文化年間の落橋事故
2.3 日本初の鉄橋
2.4 文化遺産として
3 隣の橋
4 文学
5 参考文献
6 脚注
6.1 注釈
6.2 出典
7 関連項目
8 外部リンク
橋の概要
- 構造形式
- 中央径間: 下路式スチールアーチ橋
- 両側: 鋼桁橋
- 中央径間: 下路式スチールアーチ橋
- 工法 ニューマチックケーソン工法
- 橋長 184.7 m
- 幅員 25.0 m
- 着工 1923年(大正13年)12月
- 竣工 1926年(大正15年)12月20日
- 施工主体 東京市復興局
- 設計 田中豊原案、竹中喜忠設計(意匠面では建築家の山田守や山口文象(岡村蚊象)の関与があった)
- 橋桁製作 神戸川崎造船所
- 施工 太丸組/間組
歴史

歌川広重
江戸期の創架
創架は元禄11年(1698年)8月で、江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち、4番目[注釈 1]となる。架橋は江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生から50歳を祝う[注釈 2]記念事業として、関東郡代の伊奈忠順の指導で行われた。
架橋には上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされる。場所はもともと大渡し(深川の渡し)があったところで、現在の橋がある位置よりも100 m程上流(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)にあった。当時の隅田川の最下流河口、ほぼ江戸湊の外港だったところで、多数の廻船が通過し付近には船手番所も置かれていた。したがって船の通行を阻害しないように完成した橋は、当時としては最大規模の大橋として造られた。橋脚は満潮時でも水面から3 m以上あり、長さ110間(約200 m)、幅3間余(約6 m)、橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残っている。
「永代橋」という名称は、架橋された江戸対岸に元あった中洲「永代島」(現在の江東区富岡。ここには既に永代寺が創建されている)に因む。江戸幕府が末永く代々続くようにという後から附けられた慶賀名という俗説もある。
元禄15年(1702年)12月の赤穂浪士の吉良上野介屋敷(所在地は現墨田区両国)への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという[3]。
文化年間の落橋事故
架橋から20年ほど経った頃、財政が窮乏した江戸幕府は享保4年(1719年)に永代橋の維持管理をあきらめて廃橋を決定する。しかし町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続を許された。町方は、橋の通行料を取り、また橋詰にて市場を開いて収益を上げるなど費用を工面して維持に務めていた。
文化4年8月19日 (旧暦)(1807年9月20日)、深川富岡八幡宮で12年ぶりの祭礼日(深川祭)が行われた。久しぶりの祭礼に江戸市中から多くの群衆が橋を渡って深川に押し寄せた。ところが、詰め掛けた群衆の重みに橋が耐え切れず、橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ちた。だが後ろからの群衆は崩落に気が付かず続々と押し寄せ、崩落部分から雪崩をうつように転落、死傷者・行方不明者を合わせると実に1400人を超える大惨事となった。これは史上最悪の落橋事故と言われている。この事故について大田南畝が下記の狂歌や「夢の憂橋」を著している。
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼
なお古典落語の「永代橋」という噺もこの落橋事故を元にしている。南町奉行組同心の渡辺小佐衛門が、刀を振るって群集を制止させたという逸話も残っている。曲亭馬琴は「兎園小説」に「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」と書いている。
落橋事故後、交通の要衝としての橋の維持に幕府も理解を示し、再び架橋された。
日本初の鉄橋

1897年完成の旧永代橋。
しかし、維新を迎えるころには老朽化していたため、代替となる橋を下流に新たに作る計画が立案された。
1897年(明治30年)、道路橋としては日本初の鉄橋として鋼鉄製のトラス橋が、東京市側は日本橋川を挟んで対岸の現在の場所に再架橋され、それまでの旧い永代橋は廃止された。頑丈な構造から、1904年(明治37年)には東京市街鉄道(後の東京都電)による路面電車も敷設された(1972年(昭和47年)11月に廃止)。
大正期までに隅田川には5つの鉄橋が架橋されていたが、その多くが橋底の基部や橋板に木材を使用していた。このため、大正12年の関東大震災では永代橋、厩橋、吾妻橋が炎上し、巻き込まれた避難民は多数が焼死、あるいは溺死した。両国橋、新大橋も木材を使用した構造だったが、焼失を免れ避難路として機能した。
1926年(大正15年)に震災復興事業により隅田川の9橋の再架橋が決まり[注釈 3]、現在の橋梁が再架橋された。「震災復興事業の華」と謳われた清洲橋に対して、「帝都東京の門」と言われたこの橋はドイツの ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにし、現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100 mを超えた橋でもある。この橋は現在、東京大学工学部1号館に架橋当時の永代橋のレプリカモデルが存在する。
文化遺産として
2000年(平成12年)に清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定された。
2007年(平成19年)6月18日、永代橋は都道府県の道路橋として初めて同じ隅田川に架かる勝鬨橋・清洲橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定された。
隣の橋
- 隅田川
- (上流) - 清洲橋 - 隅田川大橋 - 永代橋 - 中央大橋 / 相生橋 - 佃大橋 - (下流)
文学
- 杉本苑子 『永代橋崩落』〈中公文庫〉、1992年(原著1988年)。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
ISBN 978-4-12-201900-3。
参考文献
林溪清[4]「けいしんめがね」〔赤穂浪士と泉鏡花 永代橋物語〕『大江戸かわら版』創刊号、2009年11月3日(火)、A&Aインタラクティブ株式会社 発行
脚注
注釈
^ 千住大橋(文禄3年)、両国橋(万治2年)、新大橋(元禄6年)に次ぐ。最後は吾妻橋(安栄3年)。
^ 1655年にあたる。
^ 江戸期からの5橋のうち鉄筋コンクリート製で消失を免れた新大橋を除く4橋と、相生橋、厩橋の再架橋、言問橋、駒形橋、蔵前橋が新設が行われた。
出典
^ “夜景が一変 白鬚橋から築地大橋までライトアップ”. 毎日新聞 (2017年7月22日). 2018年4月23日閲覧。
^ “永代橋”. コトバンク - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2018年4月23日閲覧。
^ 「けいしんめがね」〔赤穂浪士と泉鏡花 永代橋物語〕『大江戸かわら版』(創刊号 2009年11月3日(火)、p3)より。
^ はやし けいしん。文筆家。渓流釣り、自動車、旅行記を中心に活動。—「Profile」『大江戸かわら版』(創刊号、2009年11月3日(火)、p3)より。
関連項目
- 中央線変移
- 田中豊
もう半分(永代橋近くの居酒屋を舞台とした落語)
外部リンク
永代橋全架橋写真(土木学会付属土木図書館デジタルアーカイブスより)- ちくま味噌(永代橋横にて300年の歴史を持つ老舗による現在の永代橋架橋時の写真)
- 『新永代橋の型式選定に就て』 土木建築工事画報、第3巻第3号、1927年
- “文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑 東京都指定有形文化財(歴史資料)”. 目黒区. 2014年4月3日閲覧。
- “文化四年八月富岡八幡宮祭礼永代橋崩壊の図”. 江戸東京博物館. 2014年4月3日閲覧。
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