京都
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京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、英: Kyōto[1][2][3])は、日本の都市の1つである。
都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。
目次
1 名称
1.1 「京都」の由来
1.2 京都と洛陽 ・長安
2 歴史
2.1 平安遷都
2.2 鎌倉幕府の設置
2.3 室町幕府の設置
2.4 戦国時代・安土桃山時代
2.5 江戸幕府の設置
2.6 東京への首都移転から現在まで
3 市街路の変遷
4 都市災害と文化財
5 小学校
6 観光名所
7 脚注
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
名称
「京都」の由来
東アジアでは古来、歴史的に「天子様の住む都」「首都」を意味する普通名詞として京(きょう)、京師(けいし)が多く使用されていた。西晋時代に世宗(司馬師)の諱である「師」の文字を避けて京都(けいと)というようになり、以後は京、京師、京都などの呼び名が用いられた。
日本でも飛鳥京や恭仁京などが京都とも呼ばれた。平安京において「京都」[4]が、定着したのは平安後期からで、京や京師という呼び名も併用されていた。その後、次第に「京の都」(きょうのみやこ)、「京」(きょう)、「京都」(きょうと)が平安京の固有名詞[5]のようになり、定着していった。造都当時は「北京」とも呼ばれた。対して奈良のことを「南京」と呼んでおり、以後長らく奈良の代名詞「南都」として多用された。
京都と洛陽 ・長安
京都は、古く詩文において中国王朝の都に因み、洛陽、長安などと呼ばれた。一説に、平安京を東西に分割し、西側(右京)を「長安」、東側(左京)を「洛陽」と呼んだという[6]。ところが、右京すなわち「長安」側は湿地帯が多かったことなどから程なく廃れ、市街地は実質的に左京すなわち「洛陽」だけとなった。このため、「洛陽」とはすなわち京都を指す言葉になり、その一字を採って「洛」だけでも京都を意味することになったとされる[7]。また一説に、平安初期の文学に現れる洛陽、長安はそれぞれ左京、右京を指しているとは考えられず、ともに都全体を指していると考えられるところから、長安とも洛陽とも呼んでいたものが、のちに洛陽のみが使われるようになったと考えられるという(「平安時代史事典」『洛中』)。現在でも「洛陽工業高校」など固有名詞に残るほか、洛南・洛北・洛西・洛東といった呼称が使われている[8]。また、東京を含めた京都以外の地方から京都へ行くことを「上洛する」「入洛する」ということがある。特殊な例として「下洛」という語が平家物語に見られる。山法師が京中を侵すことを指した。また京域内を「洛中」と呼び、京域縁辺を「洛外」と呼んだ。
歴史
平安遷都
京都は、桓武天皇が784年の長岡京に続いて、794年平安京に遷都したことに始まる千年の都である。京都に都が移された理由は諸説ある。例えば、長岡京の建設責任者であった藤原種継が暗殺されたことや、長岡京が桂川や小畑川氾濫によりしばしば水害に遭ったからとする説、長岡京での早良親王怨霊説などである。
平安京は中国の風水[9]に適う地(「四神相応の地」)として撰地されたとの伝えがあり、南に開け、他の三方を山に囲まれ、東に鴨川が、西に桂川が蛇行しながら南へと流れている。
京域は、中国の都城(長安)を模倣した東西約4.5km、南北約5.2kmの長方形で、内部は正方形の街区をもっていた。これら街区は、平城京では街路の中心線を基準としていたため街路の幅の違いによって宅地面積の広狭差が生まれたが、平安京では街路の幅を除いて形成されたため場所による宅地の広狭が生まれることはなかった。本来なら羅城を巡らすべきであったが、羅城門の両側のみ羅城風の塀を設けた。南北は北辺の一条大路から九条大路まで、東西は東京極大路から西京極大路まで、皇居と官庁街を含む大内裏は一条大路と二条大路の間、(東)大宮大路と西大宮大路の間に設けられた。現在の千本通が当時の南北の中心街路である朱雀大路にあたり、真北には造都の基準となったとされる船岡山が位置していた。また大内裏のすぐ南には禁苑である「神泉苑」が設けられ貴顕の遊びの場となるとともに干ばつに際しては雨乞いの場となった。この池は太古に京都盆地に広がっていた「古京都湖(古山城湖)」の名残とされる。平城京で寺院の政治介入が甚だしく悪弊をもたらせたため、京域内の新設寺院は官寺である東寺と西寺に限られた。造都に際して河川の付け替えが行われたとされ、堀川は鴨川の旧河道との説があるが、異論もある。
建設開始から12年後の805年に、民苦を理由として新京造営を司る造宮職(ぞうぐうしき)が廃止され、計画された右京区の約半分が未完成のまま、平安京の建設は終了した[10]。近年の研究では、平安京は歴史の教科書の図面のように整然とした都市ではなく、左京に偏った都市になっていたと考えられている[10]。
平安時代の律令制の形骸化にともなって次第に本来の領域にとらわれない、鴨川と大内裏・御所を中心とする都市になり、経済的に発展していった。平安中末期には東山山麓に法性寺、鴨川左岸に六勝寺、鳥羽に貴族の別荘が建てられた。特に六波羅には当時隆盛を極めていた平氏一門の屋敷が軒を連ねた。
鎌倉幕府の設置
鎌倉時代にも京都の朝廷は政治機能を発揮していたが、東国支配を強めていた鎌倉殿に1185年守護・地頭の設置を認め、鎌倉幕府が全国支配を強めたため、京都は相対的に経済都市としての性格を強めた。承久の乱を契機に鎌倉幕府は平家の本拠地跡の六波羅に六波羅探題を設置して、公家勢力の監視を行う。鎌倉時代末期に足利尊氏が六波羅探題を滅ぼし、幕府滅亡後には京で後醍醐天皇による建武の新政が行われた。その後新政から離反した尊氏が北朝を立て、南北朝時代となると、京都争奪戦が何度も行われる(南北朝分裂以後、南朝による京都占領は4度行われたが、いずれも短期間で足利軍に撃退されている)。
室町幕府の設置
南朝が衰微して室町時代になると京には室町幕府が置かれたために政治都市として復活する一方で経済発展を遂げ、町衆と呼ばれる有力市民による自治の伝統が生まれた。京内には武家の屋敷は建てないとするそれまでの慣習に反して足利尊氏が御池高倉辺に屋敷を構えると、以後次々と武家は市中に進出した。足利義満は北小路室町(上京区)に花の御所と呼ばれる邸宅を建造し、応仁の乱で焼失するまで将軍家の在所となり、足利将軍は在所から「室町殿」と呼ばれた。
戦国時代・安土桃山時代
戦国時代の端緒となる応仁の乱で市街、特に北側の大半が焼失し、荒廃。その後もたびたび戦乱に巻き込まれた。この頃、京都は上京と下京に分かれ、それぞれ「構」によって囲まれていた。その間は畑になっていたといわれ、室町通でかろうじてつながっていた。
中世史家の瀬田勝哉は、応仁の乱以前の京都は激しい人口の増加によって絶えず膨張し輪郭と構造が掴みにくいが、応仁の乱を境として都市の枠組みが明確になり、内と外がはっきりとした都市となったと述べている[10]。
この後、織田信長、豊臣秀吉の保護と町衆の力により復興した。特に、秀吉の都市改造は大規模なもので、巨大な環状の御土居(おどい)の築造による、戦乱によって領域が曖昧になっていた京都の内側と外側(洛中、洛外)の確定(線引き)[11]、聚楽第と武家町の建設、内裏の修理と公家町の建設、御土居の構築、洛中に散在していた寺をあつめた寺町や寺之内の建設などを行い、現在でもしばしばその都市構造を確認することができる(→天正の地割)。天正19年秀吉は伏見に隠居したが、文禄4年関白位を引き継いだ豊臣秀次が切腹すると、政治の中心は完全に伏見に移った。秀吉の没後も徳川家康が伏見城に入り伏見は引き続き政治の中心地であった。
江戸幕府の設置
関ヶ原合戦後、1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が伏見城にて征夷大将軍に任官される。以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行っている。江戸幕府が誕生すると政治の中枢は徐々に伏見から江戸に移ったものの、こうした政都の移動にもかかわらず京都は国都であることに変わりはなく、徳川政権は、幕府の京都の拠点として二条城を築き、京都所司代・京都町奉行を設置して直轄下に置いた。以後京都は文・工芸の中心地として人口が50万人を超え、最大都市の江戸や、天下の台所大坂に次ぐ都市として繁栄した。各藩も京都に藩邸を構え対朝廷及び各藩間の外交を行ったため、京都は独特の地位を有したが、幕府はこのことを好まず例えば西国大名が参勤交代の際、京都に入ることを禁じた。政情が不安定になった幕末には京都守護職が置かれ、その下で新撰組や見廻組が倒幕派の摘発を担った。
東京への首都移転から現在まで
1867年11月9日(慶応3年10月14日)の大政奉還により、統治権が幕府から京都の朝廷に返上されて新政府が誕生した。京都には京都府が置かれた(府藩県三治制・廃藩置県参照)。しかし、天皇が江戸で直接政治をみるため、江戸を東京として行幸・滞在(東京行幸)することになり、太政官(政府)も移動された(東京奠都参照)。その後京都への還幸は延期され、明治天皇は1877年(明治10年)に京都御所の保存を命じた。これ以降から現在まで日本の首都は東京と認識されている。また、東京に対抗して京都を「西京(さいきょう)」と呼ぶ風潮も広まり、例えば第2次大戦後に新制大学として発足した京都府立大学は、最初「西京大学」と称した。
1879年([明治]12年)には郡区町村編制法により、京都に上京区と下京区の2区が置かれた。1889年(明治22年)には市制のうち三都に対して実施された市制特例により、上京区・下京区を存置したまま府管轄下に置かれる「京都市」となった。1898年(明治31年)に市制が改正[12]されたことにより、一般市と同等の市制が施行された。1956年(昭和31年)9月1日からは政令指定都市に移行した。
現在の京都市は市町村合併により、旧山城国にあたる地域(例:伏見市)のみならず、畿内の外に位置する旧丹波国(例:京北地域)にまで市域を広げた。
市街路の変遷
793年(延暦12年)平安京が新しい都に選ばれ、その翌年の794年に長岡京から遷都されたときは、東西約4.5 kmのあいだに33本の通り、南北5.2 kmのあいだに39本の通りが通されて、碁盤の目状に整然と区画された[13]。平安京の町並みは、室町時代に勃発した南北朝の戦い(1336年 - 1392年ごろ)や応仁の乱(1467年 - 1477年)で幾度も焼失して荒廃した[13]。その復興の際に市街路を狭くして、それまで市街路があったところに家屋が建てられたりしたもしたが、市街路のどこの場所を狭くするかは京都市街の場所によってまちまちであったため、道幅の広い所や狭い所があったり、まっすぐになっていない道が出来たりもした[14]。しだいに市街路に面したところに商店が軒を連ねるようになって土地が不足するようになっていったが、市街路で区画された土地の中央部分は空き地になっていた[14]。京都の土地不足は、桃山時代の豊臣秀吉によって、各区画の中央部で空き地になっている土地を有効利用して土地不足を解消するために、南北方向に道路が5本増やされた[14]。これが功を奏し、さらに京都の人々の手によって南北方向の道路が増やし続けられた[14]。このため、現在の京都市街地の通りは碁盤の目状ではなくなっており、東西方向の通りと比較して、南北方向の通りの方が数が多く、間隔は狭く並んでおり、街路に囲われた土地区画も長方形になっているところが多い[13]。
都市災害と文化財
京都市内には活断層の存在が確認され、歴史的にも大きな被害をもたらしている。
ところで、現在京都市内には、多くの木造建築物や仏像などの文化財が数多く現存しているが、その理由として、これらの文化財は昭和初期までほとんどが住宅地の外にあり、幾たびかの市街地からの延焼をまぬがれてきたから存在するとの研究結果が認知されつつある。
ところが、近時住宅地にのみこまれた文化財は、地震などによる大火で失われる確率が過去に無いほど高くなり「非常に危険な状態にある」と危惧する声が有識者の中から上がっている[15]。また、それら文化財自体の地震などへの耐震性についても、現在の基準で判断すると問題のある建物も相当数あるが、解体修理は世紀単位で一度しかできず、莫大な費用を要することから簡単には行なえず、万一耐震不足と認定されれば建物への入場制限を強いられることへの恐れから、診断さえ行われない場合が多い。
小学校
日本における最初の学区制小学校は、国の学校制度創設(1872年)に先立ち、1869年に創設された64校の京都の番組小学校である。これらの小学校のうち多くは統廃合されたが、22校は現在も残っている。教育機関としての機能だけでなく、役所・警察・消防・保健所などの機能も併せ持っていた。現在でも、番組小学校の学区は元学区と呼ばれ、自治会組織の単位となっている。
観光名所
脚注
^ Kyōto (Japan), ブリタニカ百科事典, (2009), http://www.britannica.com/EBchecked/topic/326030/Kyoto
^ Kyōto (prefecture, Japan), ブリタニカ百科事典, (2009), http://www.britannica.com/EBchecked/topic/326029/Kyoto
^ エンカルタ:Kyōto, マイクロソフト, (2009), http://encarta.msn.com/encyclopedia_761566962/Ky%C5%8Dto.html
^ 平安京に関する「京都」の名は文献上『中右記』承徳2年(1098年)3月21日条が初出。この「京都」が普通名詞なのか固有名詞なのかは判断が難しい。
^ 「京都」が平安時代以降明治維新に至るまで、固有名詞として認知されていたかは難しい問題である。それは東京奠都後の京都において、施政者・知識人の間で「東京」に対抗して「西京(さいきょう)」の呼び名が意識的に使用されたことが窺える。彼らは「東京へ遷都したわけではない」と強弁しつつも「京都とは皇居のある都市」との認識があり「京都」を名乗り続けることへの逡巡もあったのであろう。「京都」が固有名詞として確認されるのは、東京奠都後の明治4年、廃藩置県により「京都府」が設置された時である。
^ 実際これらの呼び名が定着した時期は明らかになっていない。命名の記録もなく、これら「長安」「洛陽」が正式名称であったとは考えられず、文学上の雅称であったと考えられる。「長安城」の語は平安中期で一旦姿を消し、再び現れるのは鎌倉末期以降、拾芥抄において洞院公賢が「東京号洛陽城、西京号長安城」と付記して以降のことである。
^ 「本朝文粋」に収められた源順(911~983)が書いた漢詩に平安京を指して「洛城」と呼ぶ例が見られるから、「洛」の一字をもって京都を表す慣習は早くから成立していたと考えられる。
^ これら「洛南」以下はいずれも「洛外の」南・北・西・東であることに留意する必要がある。
^ いわゆる「北に玄武、東に青龍、南に朱雀、西に白虎」を備えた「四神相応の霊地」のことをいうが、このことは遷都を記した「日本後紀」が断簡しか残らないために事実であったかは不明。四神相応の話は平家物語が今のところ初出。 四神を具体的に船岡山、鴨川などに充てる説の初出は1984年刊行の「京都大事典」。
- ^ abc横井清、網野善彦(編)、2003、「都の相貌、人間模様」、『都市と職能民の活動』、中央公論新社〈日本の中世〉 ISBN 4124902158 p.196-205.
^ NHK「ぶらタモリ」2015年1月6日放送
^ 市制#1898年(明治31年)の三大都市特例廃止(「市制中追加法律」(明治31年法律第20号))
- ^ abcロム・インターナショナル(編) 2005, p. 132.
- ^ abcdロム・インターナショナル(編) 2005, p. 134.
^ 重要文化財建造物の総合防災対策検討会 「重要文化財建造物及びその周辺地域の総合防災対策のあり方」 (1-2 重要文化財建造物の周辺地域の防災対策の現状と課題) 平成21年4月
参考文献
- ロム・インターナショナル(編) 『道路地図 びっくり!博学知識』 河出書房新社〈KAWADE夢文庫〉、2005年2月1日。ISBN 4-309-49566-4。
関連項目
- 京言葉
- 京の花街
- 京町家
- 京料理
- 京都市内の通り
- 京都の元学区
- 京都の難読地名
- 小京都
- そうだ 京都、行こう。
- 京都・東山花灯路
- 京都・嵐山花灯路
- 京阪神
- 京阪
外部リンク
『 日本文化構造学のすゝめ 』 by KYOTODOTCOMPRO『京都教授研究会』 歴史文化信仰研究部会 歴史的山岳寺院 文化財被災復興部会