摂政



























摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。


多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。




目次






  • 1 日本における摂政


    • 1.1 現行法における摂政


      • 1.1.1 摂政の設置と廃止


      • 1.1.2 皇室会議




    • 1.2 歴史


      • 1.2.1 前近代


      • 1.2.2 近現代


      • 1.2.3 摂政の辞令




    • 1.3 歴代摂政一覧




  • 2 欧州諸国における摂政


    • 2.1 イギリス


    • 2.2 オランダ


    • 2.3 リヒテンシュタイン


    • 2.4 スウェーデン


    • 2.5 スペイン


    • 2.6 デンマーク


    • 2.7 ノルウェー


    • 2.8 ベルギー




  • 3 中東諸国における摂政


    • 3.1 カタール


    • 3.2 クウェート


    • 3.3 ヨルダン




  • 4 他地域における摂政


    • 4.1 ブータン


    • 4.2 スワジランド




  • 5 世界史における摂政


    • 5.1 東洋史


      • 5.1.1 中国


      • 5.1.2 チベット


      • 5.1.3 琉球




    • 5.2 西洋史


    • 5.3 他地域


      • 5.3.1 アラブ圏


      • 5.3.2 ハワイ






  • 6 脚注


  • 7 参考文献


  • 8 関連項目


  • 9 外部リンク





日本における摂政



現行法における摂政




摂政旗


1947年(昭和22年)施行の日本国憲法、新皇室典範でも摂政の制度が定められた。日本国憲法の定めるところでは、摂政は、天皇の名でその国事行為を行う職であり、国事行為に関する権限は天皇と全く同等である。天皇が成年に達しない時、重患あるいは重大な事故[1]といった故障によって国事行為を行うことができないと皇室会議で判断された時に置かれる。


摂政に似たものとして、国事行為臨時代行が挙げられる。天皇に一時的な入院や海外訪問など疾患又は事故がある場合に、内閣の助言と承認に基づいた天皇の委任(国事行為臨時代行への勅書の伝達)によって、故障の無い成年皇族による国事行為の臨時代行が行われる。


国事行為臨時代行が天皇の委任によって設置される委任代理機関であるのに対し、摂政は法律上の原因(天皇が成年に達しない時、重患あるいは重大な事故といった故障によって国事行為を行うことができないと皇室会議で判断された時)の発生により当然に設置される法定代理機関である。


日本国憲法下で、現在まで摂政が置かれた事例は無い。





日本国憲法第四条第二項

天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

同第五条


皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

皇室典範第十六条  

天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。

天皇が、精神もしくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く



摂政は、成年に達した皇族が以下の順序で就任する(皇室典範第17条)。





  1. 皇太子、皇太孫


  2. 親王及び王

  3. 皇后

  4. 皇太后

  5. 太皇太后


  6. 内親王及び女王



親王及び王あるいは内親王及び女王の就任順序はそれぞれ皇位継承の順序に準拠する(第17条第2項)


女性皇族でも就任可能な点は、皇位継承資格との違いである。
ただし、旧皇室典範では「皇族女子ノ摂政ニ任スルハ其ノ配偶アラサル者ニ限ル」(同23条)とされ、皇族女子(内親王・女王)は結婚後、死別または離婚で夫を失うまで摂政就任資格を凍結されていた。しかし、現在の皇室典範ではこのような制限は無い。


また、摂政又は摂政となる順序にあたる者が、重患あるいは重大な事故といった故障があるときは、皇室会議の議決により、上の順序に沿って摂政又は摂政となる順序を変えることができる。


さらに、先順位にあたっていた皇族が成年に達したり、あるいは故障がなくなったとしても、それが皇太子(皇太孫)に対する場合を除いては、摂政の任を譲ることがない。







































































現在の資格者[2][3]

順位
名・身位
生年
備考

皇位継承
順位
1

皇太子徳仁親王

1960年(昭和35年)

皇室典範17条1項1号
「皇太子又は皇太孫」
1
2

秋篠宮文仁親王

1965年(昭和40年)
皇室典範17条1項2号
「親王及び王」
2
3

常陸宮正仁親王

1935年(昭和10年)
4
4

皇后美智子

1934年(昭和9年)
皇室典範17条1項3号
「皇后」

5

眞子内親王

1991年(平成3年)
皇室典範17条1項6号
「内親王及び女王」

6

佳子内親王

1994年(平成6年)

7

彬子女王

1981年(昭和56年)

8

瑶子女王

1983年(昭和58年)

9

承子女王

1986年(昭和61年)


この他の皇族として悠仁親王(2006年〈平成18年〉9月6日生、現在12歳、皇位継承順位第3位)、
愛子内親王(2001年〈平成13年〉12月1日生、現在16歳)がいるが、
2018年11月20日現在ではいずれも成年に達していないため、未だ就任資格はない[4]



摂政の設置と廃止


摂政が置かれるのは次の場合である。



  1. 天皇が成年に達しないとき(皇室典範第16条第1項)

  2. 天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときで、皇室会議の議を経たとき(皇室典範第16条第2項)


1に関しては天皇が成年に達した場合、2に関しては故障が解消され皇室会議の議を経た場合(皇室典範第20条)に摂政は廃される。



皇室会議



皇室会議は、日本の皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。皇室典範28条以下に定められる。


摂政に関して皇室会議で決すべき事項は次のとおりである(出席議員の3分の2以上の多数で決する)。



  • 摂政の設置(皇室典範第16条2項)

  • 摂政の変更と摂政就任順位の変更(皇室典範第18条)

  • 摂政の廃止(皇室典範第20条)


皇室会議は以下の議員十人でこれを組織する(皇室典範第28条第1項・第2項)。









































































皇室会議議員[5]
氏名 身分
生年

文仁親王
皇族

(1965-11-30) 1965年11月30日(52歳)

正仁親王妃華子 皇族

(1940-07-19) 1940年7月19日(78歳)

大島理森
衆議院議長

(1946-09-06) 1946年9月6日(72歳)

赤松広隆
衆議院副議長

(1948-05-03) 1948年5月3日(70歳)

伊達忠一
参議院議長

(1939-01-20) 1939年1月20日(79歳)

郡司彰
参議院副議長

(1949-12-11) 1949年12月11日(68歳)

安倍晋三
内閣総理大臣

(1954-09-21) 1954年9月21日(64歳)
議長
山本信一郎
宮内庁長官

(1950-08-23) 1950年8月23日(68歳)
[6]
大谷直人
最高裁判所長官

(1952-06-23) 1952年6月23日(66歳)

岡部喜代子
最高裁判所判事

(1949-03-20) 1949年3月20日(69歳)


  • 2018年(平成30年)2月5日-現在[7]


歴史







前近代


一般には、日本史上における摂政とは天皇の勅令を受けて天皇に代わって政務を執ることまたその者の職であると定義される。『日本書紀』によると推古天皇の時の厩戸皇子(聖徳太子)が摂政となったとされており、これが日本史上における摂政の最初である。『日本書紀』の中で神功皇后が執政した時期は「神功皇后摂政紀」と呼ばれているが、これは同皇后紀を呼ぶ場合の便宜的な呼称であり、摂政という用語は神功皇后紀の本文中には登場しない。


以降何人かの皇族が摂政を行ったが、律令において摂政を執る役職は規定されなかった。しかし、866年に藤原良房が臣下として初めて摂政となって以来、天皇の外戚となった藤原氏(藤原北家)の者が摂政・関白に就く例が生まれるようになった。ただし、良房が摂政に就任したときには清和天皇は既に成人した後のことである。幼少の天皇には摂政が、成人後の天皇には関白が置かれる慣例が確立したのは61代の天皇(朱雀天皇)の在位中に摂政から関白に転じた藤原忠平が初例であるとされている。


ここにおいて、摂政は天皇に代わって政務を執る者の職である令外の官として定義されることとなった。摂政は幼い天皇に代わって政務を摂する(代理する)職であり、詔書の御画日およびその覆奏における御画可を天皇に代わって代筆するとともに、当時において天皇の主要な大権であった官奏を覧ずることと除目・叙位を行うことを執り行った。また、天皇が出御する儀式(出御儀)においては扶持・代行を行った[8]。また、伊勢神宮に奉幣使を発遣する際に天皇に代わって宸筆宣命を書き仰詞を奉幣使に伝えて代拝を行うこと、即位式に先立って天皇の代理として天皇の礼服を覧ずる(礼服御覧)ことが挙げられる[9]。また、天皇の元服の際に加冠役を太政大臣が務めることになっていたが、通常は摂政が元服に先立って太政大臣に任命されることになっていたので慣例としての摂政の職務のうちに加えられる[10]。ただし、天皇の代理ではあっても臣下である摂政が天皇の同伴無くして内裏の中心部にある紫宸殿や清涼殿を用いることは出来ず、伊勢神宮への奉幣使発遣では紫宸殿での行事は省略され、官奏・叙位・除目は清涼殿ではなく摂政の直廬にて行って奏者・執筆担当者も大臣ではなく参議や大弁が務めるなど、一定の格差は設けられていた[10]。なお、関白は成人に達した天皇の補佐をする役割であり、天皇代行としての摂政とは性格が異なっており(『西宮記』巻8 摂政・関白)、摂政の職務として掲げた項目のうち、関白に認められた職権は官奏に関するものだけである。


藤原氏の下で摂政は職事官である大臣に付随して兼務する官職と考えられてきたが、寛和2年(986年)藤原兼家の時に職事官である右大臣を辞任して摂政のみを占める散官になった。この時、摂政の待遇に関して明法勘文と明経勘文が出された。


前者においては、



一、三公(太政大臣・左右両大臣)は太政官の長官であるが、摂政は職事官ではない。

二、律令では官人の序列は官位に従うとされ、原則は一位が筆頭となるが、職事官が散官よりも優先されるため、一位の散官は中納言の次、参議の上に相当する。

三、ただし、兼家は既に三公の待遇を上回る准三宮の待遇を受けており、三公より上位の席次が認められる。そうで無いとしても摂政任命の詔に「万機の勤」を命じているため、詔勅がその待遇を定めればこれに従う。


とし、後者においては、摂政は三公とは別格で一般公卿と同列にすべきではない(従って、宮中に置いては三公より上位とすべきである)と論じた。


11世紀の藤原道長の頃からは建武の新政期を除き、摂政もしくは関白は常置の官となった。以降は外戚関係に関わりなく、常時摂政・関白のいずれかを藤原道長の子孫(御堂流)が占めるようになった。


鎌倉時代以降、藤原北家御堂流は近衛家、一条家、鷹司家、九条家、二条家の五摂家に分かれ、代々そのうち最も官位の高い者が摂政・関白に任ぜられる例となって、明治維新まで続いた。この例外は、藤原氏以外で関白となった豊臣秀次の1名である。(秀吉は近衛家猶子、藤氏長者、藤原秀吉として関白になる。)ただし、藤原氏以外で摂政となった人物は、平安時代から江戸時代までには存在しない。


明治維新以前の摂政は、詔書の代筆、叙位・任官の施行など、天皇の行う政務のほとんど全てを代行し、その権限はほとんど天皇とかわりなかった。


1868年、王政復古により摂政二条斉敬を罷免。摂政職は関白職、征夷大将軍職ともども廃止され、満15歳の明治天皇が親裁する建前となった。



近現代






1889年(明治22年)、大日本帝国憲法および旧皇室典範公布により、天皇が成年に達しないときや、久きにわたる故障により執政を行うことができないとき、摂政が置かれる皇族摂政の制度が定められた。摂政は天皇とほぼ同等の権限を有したが、大日本帝国憲法75条の規定により憲法改正と皇室典範の増補(改正)に関する権限は無かった(日本国憲法にはこのような規定はない)。旧典範下では皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)が1921年(大正10年)11月25日より、1926年(大正15年)12月25日の大正天皇崩御とそれに伴う自らの皇位践祚まで摂政を務めた。この間、摂政宮(せっしょうのみや)と称された。



摂政の辞令


藤原忠實 摂政宣命 (朝野群載 十二 宣命)

太上天皇久、關白右大臣藤原朝臣波、輔導年久之弖、爲朝重臣利、見其誠心仁、幼主寄託之都倍志、然則皇太子、天日嗣承傳賜比天、未親萬機之間、保輔幼主天、攝行政事世牟古止、一如忠仁公故事世與止詔御命衆聞食

嘉承二年七月十九日

(訓読文) 太上法皇(白河法皇 55歳)の詔(のりたまひつら)く、関白右大臣藤原朝臣(忠実 30歳)は、輔(あなな)ひ導くこと年久しくして、朝(みかど。朝廷のこと)の重臣たり、其の誠の心を見るに、幼主(鳥羽天皇 5歳)を寄託しつべし、然らば則(すなは)ち皇太子(ひつぎのみこ。宗仁親王。のちの鳥羽天皇)、天つ日嗣(ひつぎ)を承(う)け伝へ賜ひて、未だ万機を親(み)ざるの間、幼主を保(やすんじ)輔(あなな)ひて、政事(まつりごと)を摂(と)り行なひせむこと、一(もは)ら忠仁公(藤原良房)の故事の如くせよと詔御命(のりたまふおほみこと)を衆聞食(もろもろきこしめせ)と宣(の)る、嘉承二年(1107年)七月十九日



歴代摂政一覧












































































































































































































































































































































































































































































































































































































































氏名 天皇 天皇と
の続柄
補任理由 補任日 期間 解任理由

01
厩戸皇子 推古 皇太子 女性天皇 593年5月15日
28年12ヵ月
本人薨去

02
中大兄皇子 斉明 皇太子 女性天皇 655年2月14日 6年7ヵ月 天皇崩御

03
草壁皇子 天武 皇太子 681年3月19日 4年8ヵ月 天皇崩御

04
藤原良房 清和 外祖父 866年8月19日 6年2ヵ月 本人薨去

05
藤原基経 陽成 外伯父 天皇幼少 876年11月29日 7年4ヵ月 天皇譲位

06
藤原忠平 朱雀 外伯父 天皇幼少 930年9月22日
11年3ヵ月

関白就任

07
藤原実頼 円融 大伯父 天皇幼少 969年8月13日
0年十10ヵ月
本人薨去

08
藤原伊尹 外伯父 天皇幼少 970年5月20日 2年6ヵ月 疾病

09
藤原兼家 一条 外祖父 天皇幼少 986年6月23日 4年  関白就任
10 藤原道隆 外伯父・岳父
天皇幼少(1)
990年5月5日 3年 関白就任
11 藤原道長 後一条 外祖父 天皇幼少 1016年1月29日 1年3ヵ月
12 藤原頼通 外叔父 天皇幼少 1017年3月16日 2年10ヵ月 関白就任
13 藤原師実 堀河 義外祖父 天皇幼少 1086年11月26日 4年2ヵ月 関白就任
14 藤原忠実 鳥羽 天皇幼少 1107年7月19日 6年6ヵ月 関白就任
15 藤原忠通 崇徳 天皇幼少 1123年1月28日 6年7ヵ月 関白就任
16 藤原忠通 近衛 義岳父 天皇幼少 1141年12月7日 9年1ヶ月 関白就任
17 近衛基実 六条 義外伯父 天皇幼少 1165年6月25日 1年2ヶ月 本人薨去
18 松殿基房 義外叔父 天皇幼少 1166年8月24日 1年9ヶ月 天皇譲位
高倉 天皇幼少 4年11ヶ月 関白就任
19 近衛基通 安徳 天皇幼少 1180年2月21日 3年7ヶ月 天皇遷幸
後鳥羽 天皇幼少
0年5ヶ月

20 松殿師家 天皇幼少 1183年11月21日
0年3ヶ月

21 近衛基通 天皇幼少 1184年1月22日 2年3ヶ月
22 九条兼実 岳父 天皇幼少 1186年3月12日 5年10ヵ月 関白就任
23 近衛基通 土御門 天皇幼少 1198年1月11日 5年 
24 九条良経 天皇幼少 1202年12月25日 3年4ヵ月 本人薨去
25 近衛家実 天皇幼少 1206年3月10日
0年十10ヵ月
関白就任
26 九条道家 仲恭 義叔父 天皇幼少 1221年4月20日
0年4ヵ月
天皇退位
27 近衛家実 後堀河 岳父 天皇幼少 1221年7月8日 2年6ヵ月 関白就任
28 九条教実 四条 外叔父 天皇幼少 1232年10月4日 2年6ヵ月 本人薨去
29 九条道家 外祖父 天皇幼少 1235年3月28日 2年1ヶ月
30 近衛兼経 外叔父 天皇幼少 1237年3月10日 4年11ヶ月 天皇崩御
31 一条実経 後深草 天皇幼少 1246年1月28日 1年1ヶ月
32 近衛兼経 天皇幼少 1247年1月19日 5年10ヵ月
33 鷹司兼平 天皇幼少 1252年10月3日 2年3ヵ月 関白就任
34 九条忠家 後宇多 天皇幼少 1274年1月26日
0年6ヵ月

35 一条家経 天皇幼少 1274年6月20日 1年5ヵ月
36 鷹司兼平 天皇幼少 1275年10月21日 3年4ヵ月 関白就任
37 鷹司兼忠 後伏見 天皇幼少 1298年7月22日
0年6ヵ月

38 二条兼基 天皇幼少 1298年12月20日 2年1ヶ月 関白就任
39 九条師教 花園 天皇幼少 1308年8月26日
0年5ヶ月

40 鷹司冬平 天皇幼少 1308年11月10日 2年5ヶ月 関白就任
41 二条良基 後小松 天皇幼少 1382年4月11日 4年11ヶ月 辞退
42 近衛兼嗣 天皇幼少 1387年2月7日 1年2ヶ月 本人薨去
43 二条良基 天皇幼少 1388年4月8日
0年3ヶ月
関白就任
44 二条持基 後花園 天皇幼少 1428年7月28日 4年2ヶ月
45 一条兼良 天皇幼少 1432年8月13日
0年3ヶ月

46 二条持基 天皇幼少 1432年10月26日
0年6ヶ月
関白就任
47 一条兼遐 明正 叔父 天皇幼少・女性 1629年11月8日 5年11ヶ月 辞退
48 二条康道 義叔父 天皇幼少 1635年10月10日 8年1ヶ月 天皇譲位
後光明 義叔父 天皇幼少(1)
3年4ヶ月
49 九条道房 天皇幼少(1)
1647年1月5日
0年1ヶ月
疾病
50 一条昭良 天皇幼少(1)
1647年3月28日
0年5ヶ月
関白就任
51 二条光平 霊元 従兄・義兄 天皇幼少(1)
1663年1月26日 1年10ヵ月 辞退
52 鷹司房輔 天皇幼少(1)
1664年9月27日 3年7ヵ月 関白就任
53 一条冬経 東山 天皇幼少(1)
1687年3月21日 2年1ヶ月 関白就任
54 近衛家煕 中御門 義叔父 天皇幼少(1)
1709年6月21日 3年3ヶ月 辞退
55 九条輔実 天皇幼少 1712年8月28日 4年4ヶ月 関白就任
56 一条道香 桃園 義兄 天皇幼少(1)
1747年5月2日 7年10ヵ月 関白就任
57 近衛内前 後桜町 女性天皇 1762年7月27日 8年5ヵ月 天皇譲位
後桃園 岳父 天皇幼少(1)
1年10ヵ月 関白就任
58 九条尚実 光格 天皇幼少 1779年11月25日 5年4ヵ月 関白就任
59 二条斉敬 明治 天皇幼少 1867年1月9日 1年 摂関廃止
60 裕仁親王 大正 皇太子 天皇疾病 1921年11月25日 5年2ヵ月 天皇崩御

[11]


(1) 天皇の元服後に補任










































天皇幼少理由以外の摂政と天皇の年齢
摂政
補任時
年齢
天皇
摂政補任
期間年齢

厩戸皇子
19歳

推古天皇
39歳 - 68歳

中大兄皇子
29歳

斉明天皇
61歳 - 67歳

草壁皇子
19歳

天武天皇
50歳?-55歳?

近衛内前
34歳

後桜町天皇
21歳 - 29歳

皇太子裕仁親王
20歳

大正天皇
41歳 - 46歳


欧州諸国における摂政



イギリス




摂政諸法(1937年摂政法、1943年摂政法及び 1953年摂政法)[12]

1937年摂政法第1条(1)

国王が王位継承時に18歳未満である場合には、18歳に達するまでの間、摂政が国王の公務を国王の名で代行するものとする。



1937年摂政法第2条(1)

国王の妃又は夫君、大法官、下院議長、イングランド首席裁判官及び記録長官のうち3名以上の者が国王の精神的又は身体的な故障のために当分の間国王は公務を行うことができないと医師の証明書等の根拠をもって判断し、又は明らかな理由から国王は公務を遂行できないと根拠をもって判断し、その旨を文書で宣言するときは、国王の健康状態が回復してその公務復帰を担保できること又は国王の公務遂行が可能になったことが文書で宣言されるまでの間、摂政が国王の公務を国王の名で代行するものとする。



1937年摂政法第6条(1)

国王は、この法律の第2条に定める精神的又は身体的な故障には至らない疾病に罹患し、又は意図的か否かにかかわらず連合王国を不在にする場合には、公務の処理に遅滞又は困難が生じることを避けるため、その罹患又は不在中について、国璽を押印した開封勅許状をもって、指定する公務を国務顧問に委任することができる。また、同様の方法により、当該委任を撤回し、又は変更することができる。ただし、貴族に対する地位、称号又は爵位を授与する権限は委任することができない。




オランダ


○憲法(1814年制定)[13]


  • 第37条1.国王の権限は、次の各号に掲げる場合には、摂政により行使される。

    • a. 国王が18歳に達しない間

    • b. 王位がいまだ生まれていない子に継承された場合

    • c. 国王が国王の権限を行使することができる状態にない旨宣言された場合

    • d. 国王が国王の権限の行使を一時的に中止した場合

    • e. 国王の死去又は退位の後に継承者がいない間




リヒテンシュタイン





















摂政

生年

補任
君主
続柄

アロイス
Alois[14]

The Hereditary Prince of Liechtenstein.jpg

(1968-06-11) 1968年6月11日
(50歳)

リヒテンシュタインの旗リヒテンシュタイン公国
2004年8月15日-

ハンス・アダム2世
(73歳)
ハンス・アダム2世
第1子


スウェーデン


○統治法(憲法に相当)(1974年制定)[13]



  • 第5章第4条 国家元首である国王又は女王がその職務を遂行するのに障害がある場合には、障害のない王室の構成員が有効な王位継承順位に従い、臨時の摂政として国家元首の任務を遂行するためにその任に就く。 第5章第5条 王室が断絶した場合には、議会は、当面の間国家元首の任務を遂行しなければなら ない摂政を選挙する。議会は、同時に副摂政を選挙する。国家元首である国王又は女王が死亡した場合又は退位した場合で、王位継承者がまだ18歳に達していないときも同様とする。

  • 第5章第7条 4条又は第5条の規定に従えば、いかなる者も権限をもって職務を遂行することができない場合には、議会は、政府による指名の後、ある者を臨時の摂政として職務を遂行するよう、選挙することができる。権限を有する他のいかなる者も職務を遂行することができない場合は、議長又は議長に障害があるときは副議長が、政府による指名の後、臨時の摂政として職務を遂行する。



スペイン


○憲法(1978年制定)第59条[13]



  • 1.国王が未成年の場合には、国王の父又は母が、両親がいない場合には、憲法に定められた順序に従い、王位を継承するに最も親近の成年の親族が、直ちに摂政権を行使し、国王が未成年の間、 摂政を行うものとする。

  • 2.国王がその権能を行使することが不能となり、かつそれが国会により承認されたときは、王位 8 継承者たる皇太子は、成年している場合には、直ちに摂政権を行使するものとする。皇太子が未成年の場合には、成年に達するまでは、前項の定めに従うものとする。


スペイン・ブルボン朝では1885年にアルフォンソ12世が急逝し、翌年(1886年)に誕生したアルフォンソ13世が王位に就くが、成人して1902年に親政を開始するまで母親のマリア・クリスティーナが摂政を務めた[15]



デンマーク


○国王の未成年、病気及び不在時の行政に関する法律(1871年制定)[13]



  • 第1条 在任中の国王が病気又は不在により行政を行うことができない場合、王位継承者が成人しており、不在でなく、また病気により行政執行できない状態になければ、国王は行政権を同人に委譲し、さもなければ摂政を設置する。

  • 第2条 国王の死去に際して、王位継承者が未成年あるいはその他の理由により直ちに行政を開始できない恐れがある場合、国王は、摂政(Rigsforstander)による行政執行の決定を議会の同意を得て決定する。



ノルウェー


○憲法(1814年制定)[13]



  • 第13条 国王は、王国内の旅行中、王国の統括を閣議に委任することができる。閣議は、国王の名においてかつ国王のために、統治を行う。閣議は、この憲法の規定及び国王の指示するところと整合的な特別の指令を遵守するものとする。

  • 第40条 国会が会合して、国王未成年中の統治についての規定を設けるまでは、閣議は、憲法に従って、王国の統轄を行う。

  • 第41条 戦場で指揮を執る以外の理由で国王が王国に不在、あるいは病気により行政に参加できない場合、王位継承順第一位の者が、成年に達している限りにおいて、王権の代行者として行政を行う。これに当たらない場合は、閣議によって王国の運営を行う。

  • 第48条 王室の系統が絶えて、王位継承者が選挙されないときは、新たな女王又は国王は、国会でこれを選定する。その間、行政権は、第40条に従ってこれを行う。



ベルギー


○憲法(1831年制定)[13]



  • 第92条 国王が死去した際に後継者が未成年である場合、両院は、摂政及び後見を指名するために合同の会議を開催する。

  • 第93条 国王が統治することが不可能な状況になった場合、右を確認した上で、大臣は直ちに両院を招集する。両院合同会議によって摂政及び後見が決められる。

  • 第95条 王位不在の場合、両院は合同会議において暫定の摂政を決定する。その後、2カ月以内に再び開催される両院合同会議において正式な摂政を決定する。



中東諸国における摂政



カタール


○カタール恒久基本法(憲法に相当)(2004年制定)[13]


  • 第11条 首長の国外滞在中、もしくは暫定的にやむを得ない事由が生じた場合、皇太子が首長の代わりにその権限を引き受ける。


クウェート


○憲法(1962年制定)[13]


  • 第61条 首長は、自らが国外にあり、皇太子によるその代行が困難な場合、その不在の期間その権能を遂行する代理を任命する。


ヨルダン


○憲法(1952年制定)第28条[13]



  • (g)国王は太陰暦で18歳を終えた時に法的権限を獲得する。もし王位がこの年齢以下の人物に委譲された時には、国王の権力は摂政あるいは摂政会議によって行使される。摂政会議は統治している国王によって既に指名されているものとする。国王が、継承者を指名せずに崩御した場合、内閣が国王代理あるいは国王代理評議会を任命する。

  • (i)国王が国外に出る場合、国王は出発前に国王令により、不在中に国王の権限を行使する国王代理あるいは国王代理評議会を任命する。国王代理、国王代理評議会は国王令に記載されている条件を遵守する。国王の不在が4か月以上継続し、かつ国会の会期中でない場合は、同事項を検討すべく直ちに国会が招集される。


反英傾向の強いタラール1世の即位が懸念されて弟のナイーフが摂政となるが、結局タラールは廃位となった。



他地域における摂政



ブータン


○憲法(2008年制定)[13]



  • 第2条7項本条9項の規定に従い、次に掲げる場合、摂政評議会が設置される。

    • (a) 王位継承者が 21 歳に達していない時、

    • (b) 国王が勅令により国王大権の行使を一時的に放棄する時、

    • (c) 上下両院合同会議において議員総数の 4 分の 3 を下回らない数の議員により、国王が一時的な身体または精神的疾患により国王大権の行使ができないと決議された時。



  • 9項 本条7項(b)または(c)の場合において、王位継承者なるべき国王の子孫が21歳に達している時には、摂政評議会に代わりその者が当然に摂政となる。



スワジランド




世界史における摂政



東洋史



中国






中国では皇帝が執務不能である場合に皇族が監国として政務を主宰する例がある。監国には主として皇太子が就くが、清では皇帝の叔父(ドルゴン)や実父(醇親王載灃)が摂政や監国として政務を執った例がある。モンゴル帝国ではクリルタイによって皇帝(大ハーン)が選出されるため、皇帝が崩御すると、監国が新帝選出のためのクリルタイ召集・開催中までの政務を執った(第5代皇帝クビライによって建てられた大元ウルスにおいて皇太子制が定着していくと、監国が置かれるケースは少なくなっていった)。
また歴代王朝を通じて皇太后が垂簾聴政を行う場合もある。



チベット


チベットにおいては、チベット仏教の最高指導者と政治上の最高指導者を兼ねるダライ・ラマ(法王)は、死去した後も転生によってこの世に生まれ変わり続けると信じられていた。ダライ・ラマが逝去した際にはチベット仏教の高僧の中から摂政が任命され、転生者の捜索の責任を負うとともに、新ダライ・ラマが成人するまでの間の政治の全権を掌握した。現在のダライ・ラマであるテンジン・ギャツォ(ダライ・ラマ14世)の場合にも、即位の1940年から中国人民解放軍のチベット侵攻後の1950年までの間は摂政(初期はレティン・リンポチェ(en)、後半にはタクバ・リンポチェ)が置かれていた。



琉球




西洋史







古代ギリシアではマケドニア王国において時折摂政が置かれ、しばしば摂政による君主の殺害や簒奪が起こった(アエロポス2世によるオレステスの殺害、ピリッポス2世によるアミュンタス4世の廃位)。アケメネス朝ペルシアを征服して大帝国を築いたマケドニア王アレクサンドロス3世(大王)の死後(紀元前323年)、王位は生まれたばかりの遺児アレクサンドロス4世と、大王の異母兄弟で知的障害者のピリッポス3世が共同で継承することになった。当然のことながら彼らに統治能力はなく、摂政が置かれることになった。


当初は有力貴族ペルディッカスが摂政に就任したが、彼に不満を持つ諸将は彼を滅ぼして重臣アンティパトロスが摂政に就任した(紀元前321年)。しかし、アンティパトロスの死後(紀元前319年)、息子のカッサンドロスとアンティパトロスから地位を譲られた老将ポリュペルコンとが摂政の地位を争い、ポリュペルコンを懐柔したカッサンドロスによってアレクサンドロス4世は殺害され、大王の血統は断絶した(紀元前309年)。


東ローマ帝国では、聖職者の長であるコンスタンティノポリス総主教が摂政役を務めたこともある。


また、戦間期のハンガリー王国におけるホルティ・ミクローシュや20世紀中葉のスペインにおけるフランシスコ・フランコのように、君主が不在のまま摂政のみが置かれることもある。



他地域



アラブ圏


イラク王国では1939年にファイサル2世が3歳で即位したために、母方叔父のアブドゥル=イラーフが摂政を務め、1953年にファイサル2世が親政を始めると皇太叔父となる。



ハワイ


ハワイ王国では摂政にあたる要職としてクヒナ・ヌイkuhina nui)がある[16]。カメハメハ1世がカメハメハ2世へ王位継承する際、その執政能力に不安を感じたことから新設された地位で、初代クヒナ・ヌイとしてカメハメハ1世の妻カアフマヌが担当した[16]。1832年にカアフマヌが他界すると、カメハメハ1世の娘であったキナウがクヒナ・ヌイに就任し、以降、クヒナ・ヌイはカメハメハ王朝の指導的役割を果たす役割として定着した[16][17]



脚注


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  1. ^ 衆議院内閣委員会 昭和54年4月11日で「重大な事故」の例として宮内庁次長は「失踪」「生死不明」「戦時中の捕虜」などをあげている。


  2. ^ 2016年(平成28年)10月27日の三笠宮崇仁親王薨去以降から現在の対象者。


  3. ^ 宮内庁 摂政


  4. ^ 皇室典範17条1項柱書


  5. ^ 宮内庁 皇室会議


  6. ^ 宮内庁長官に山本信一郎次長が就任へ 風岡氏の後任


  7. ^ 皇室会議議員名簿


  8. ^ 橋本義彦「貴族政権の統治構造」『平安貴族』(平凡社、1986年)


  9. ^ 宮内庁書陵部 編「摂政の職掌」『皇室制度史料』摂政2(吉川弘文館、1982年)

  10. ^ ab神谷正昌「平安時代の摂政と儀式」(初出:林陸朗・鈴木靖民 編『日本古代の国家と祭儀』(雄山閣出版、1996年)/所収:神谷『平安宮廷の儀式と天皇』(同成社、2016年)ISBN 978-4-88621-727-1)


  11. ^ 摂政設置事例一覧表


  12. ^ 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議 2016年12月14日 配付資料 海外制度関連規定(PDF/ 67KB)

  13. ^ abcdefghij天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議 2016年12月14日 配付資料 海外制度関連規定(PDF/ 67KB)


  14. ^ 正確には職名はStellvertretung(代行者)


  15. ^ 「第1部 現代スペインの形成と危機―1875〜1939年」(『スペイン現代史 模索と挑戦の120年』楠貞義/〔ほか 大修館書店1996年6月

  16. ^ abc中嶋p.30


  17. ^ 中嶋p.37




参考文献


  • 中嶋弓子 『ハワイ・さまよえる楽園』 東京書籍、1993年。ISBN 4-487-75396-1。


関連項目







  • 摂政皇太子

  • 垂簾聴政

  • 称制

  • 親政

  • 院政

  • 治天の君

  • 関白

  • 摂関政治

  • 摂政・関白の一覧

  • 国事行為臨時代行

  • 執権

  • 得宗

  • 管領

  • 宰相

  • 大宰相

  • 後見人



外部リンク


  • 宮内庁 摂政



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